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Walk With God Ministries


04 04月

神との関係を深めるには  ジョン・ポール ジャクソン  4月4日


神との関係を深めるには          
                    ジョン・ポール・ジャクソン

 聖霊様と深い交わりを持ちつつ生きるようになるのは一朝一夕にできるものではありません。それは恋におちいるのに似ています。…
 ある人と恋におちいるときもそうですが、神の霊と真の恋におちいるのには、時間と、集中する努力と、コミットメントが必要です。神の臨在を経験し、神とのより深い愛の関係を持てるようになるにはいくつかの方法があります。可能性は無限ですが、一つのシンプルな方法は、神がどれ程あなたを愛しておられるかを、真に理解してそれを信じることです。 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:19) そのために下記のことをお勧めします。

一時間、静かに神の前で祈る

 あなた自身について、今主が何をあなたに知ってもらいたいかを主に聞いてください。そして主があなたの心に静かに語ってくださることを書きとめるのです。どんなに奇異に思われることでも構いません。そうすることが自己中心的だと思う必要もありません。あなたは、あなたに関する主のご計画、主の思いをお聞きしているのですから。
 この簡単なエキサーサイズがあなたの人生を変えてくれます。主のお心の深いところへあなたの目が開かれると、主がどれほどあなたのことを思っておられるかが分かります。 あなたは神にとってとても大切で大きな関心事なのです。ほとんどの人はそのことを理解しておりません。又、実際にそれを信じて生きている人は少ないのです。

私は神が私のことをどう思っているか訊ねました

 数年前のことですが、私はラスベガスからダラス・フォートワースに向かって飛んでいる、ある会社の専用機の後ろの方の座席に座っておりました。そこで私は神にうかがったのですが、そのとき神が答えてくださったことを書きとめた8ページのノートを今でも持っております。
その飛行の途中、神の私に対するあまりにも大きな愛に圧倒されて、私はむせび泣いておりました。私は他の人と離れて飛行機の一番後ろに座っていましたが、誰も振り返って私の方を見ないように願いつつ、神の語られることを精一杯早くノートに書きとめました。

 今はそのときから25年たちましたが、8ページのノートに書き記したすべてのことが実現しております。そのとき神が語ってくださったことが実現するとはどうしても思えませんでしたので、そのノートを誰にも見せる気になりませんでした。しかし、考えられないようなことであったすべてのことが私の25年の人生の中で実現したのです。

あなたは神に恋をし、神もあなたと恋におちいるように

 主とあなたの関係を深めるための、最初で、又非常に重要な方法の一つは、神のみことばをそのまま信じて神に恋をし、神もあなたに恋をして、あなたに言い寄るような関係になることです。 「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。」(ホセア2:14)神があなたについて、驚くような、あまりにも大きくて偉大すぎると思われるようなことを語ってくださるようにしてください。そして神が語られたすべてのことを信じてください。なぜなら、神の語られるすべてのことは事実だからです。その通り実現します。

 神があなたのことをどう思っているかを語ってくださるように神にお願いしてください。エレミヤ29:11「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」 (終わり)


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25 03月

神と人とに愛される  ポール・キース、ボブ・ジョーンズ 3月25日


神と人とに愛される               

    ポール・キース & ワンダ デイビス, ボブ・ジョーンズ                       

私たちは今、非常に重要な時代に生かされています。聖書の中に書かれている「終末に起こる重大な出来事」が、今まさに、私たちの周りで毎日のように起こっています。私たちは人間の歴史の中で「時が満ちた」といわれる分岐点にさしかかっているのです。

確かに、私たちが、祈りによって神の憐れみを乞わねばならない悲惨な事件も多く起こっていますが、それと同時に、神の偉大な訪れを予期させるような、励まされる「しるし」も起こっています。多くのクリスチャンや教会は、今や、神の王国を大きく押し広げ、前進させていく事ができる場所に、霊的に配置されています。私たちの一番の目標は、暗やみに住む失われた現代の人々にイエス・キリストを示し、主の王国の勝利の力を表わして行くことです。

初代教会の弟子たちに与えられたのと同じ任務の遂行が、私たちにも課せられています。即ち、私たち神の民は「天の御国は近づいた。」とこの世に布告しなければいけないのです。このメッセージを伝えて行く時に、私たちは、病人を癒し、死人を蘇らせ、らい病人を癒し、悪霊を追い出す(マタイ10:7,8)ことをもして行くのです。私たちの基本的な目標がそれ以下であってはならないのです。

1940年から1950年代にかけて「後の雨、ラター・レイン」という癒しのムーブメントが起りましたが、その時に与えられた霊的な油そそぎを主がもう一度解き放ってくださるタイミングは、ヨハネ・パウロ二世の死がその一つのサインになるであろうと、主は数年前に私に語られました。私たちはこのメッセージを様々な機会に語り、また書きあらわして来ました。

私たちが今果たすべき責任は、破れ口に立って主が恵みをもって回復のミニストリーを解き放ってくださるようにと嘆願し、叫ぶことです。私たちは、前の時代の人々に主が与えられた約束と任務をもう一度取り戻し、それに新しいフレッシュな主の息吹を吹き込むのです。

預言者イザヤは、イスラエルの歴史の中で、現代とちょうど同じような時について語っています。それは、契約の民イスラエルが長子の権利を略奪され、敵に相続財産を奪われてしまった時のことでした。

「これは、かすめ奪われ、
略奪された民のことであって、
若い男たちはみな、わなにかかり、
獄屋に閉じ込められた。
彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、
奪い取られても、それを返せと言う者もいない。
あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、
だれが、後々のために注意して聞くだろうか。」 (イザヤ42:22,23)


天に向かって嘆願し、敵の陣地を襲撃して相続財産を奪い返すことのできる権威の油注ぎを受けた人々を、主は今、求めておられると信じます。敵に渡してしまった賜物、油注ぎ、任務、約束をすべて取り戻さねばならないのです。この任務を遂行するために主は恵みを与えてくださいました。主よ、どうかこの事が出来るように私たちを助けてください!


神と人から愛される                
      ポール・キース・デイビス

私たちや又、他の人々が主にお訊ねしてきた質問がいくつかあります。それらはとてもシンプルですが、非常に深い意味を持つ重要な質問です。

1. 神は私たちに何を望んでおられるのか。
2. 私たちは今の時代に何を望んでいるのか。
3. 天国の通貨は何か。
4. 神に目を留めていただくにはどうすればいいのか。

これらは聖書的で正当な質問であり、それに対する聖書的な油注がれた答えがキチンとあるのです。

ソロモン王はこの地上で生きた人の中で、(イエス様は別にして)最も知恵ある最も油注がれたリーダーでした。彼は、リーダーとして成功するために鍵となるものを、聖霊によって次のように書いています。

「恵みとまこととは王を守る。
 彼は、恵みによって王位をささえる。」 (箴言20:28)


今の時代の人々を神の方法で霊的に目覚めさせるには、恵みとまことが必要不可欠なのです。
聖霊様は最近、何度もこの事実を強調されています。もし、私たちが主の柔和さを自らの生き方であらわし人に示して行くならば、私たちはその時に主の力をも受けることが出来るのです。もし、私たちが主の従順さを持つならば、主の復活の力をも受け取ることが出来るのです。

モーセの模範

 聖書に、地上のすべての人にまさって柔和であった(民数記12:3 口語訳)、と書かれているモーセは、イスラエルのリーダーとして、長く待ち望んだ約束の地をあと一歩で相続するというところまで来ていました。しかしながら、これが彼のすばらしいところですが、彼は神の約束を手に入れる事だけでは満足せず、神の臨在をも切に求めたのです。この事は私たちが、神の臨在を求めることなしに、預言で約束されたものを手に入れようとする、という愚かな行動をとることも可能である、という事実を示しています。

モーセの心は主の約束と主の臨在を求めただけでは満たされず、そればかりか、彼は主の栄光を見ることを望みました。ですから、私たちも同じようにこれらのことを期待し、求めるべきなのです。

主がモーセの前を通り過ぎるときにこう宣言されました。

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」(出エジプト34:6,7)

恵みとまことに満ちている、とは、神のご性格そのものなのです。


神に目を留めていただく

 1995年4月28日に、私はあることを示唆する夢を見ました。夢の中で私は、ラター・レイン(後の雨)リバイバルの著名なリーダーの一人をよく観察することが出来ました。実際、彼はラター・レインのムーブメントを起こしたと言われている人でした。

聖霊様はこのへりくだった一人の人を使って大きな業をされました。多くの著しい奇跡が起こったので、多くの歴史家たちは、彼を通してこのような神の霊の降り注ぎは、初代教会以来のものあった、と評価しています。このムーブメントの中で、彼や、彼を通して主に触れられた人たちのミニストリーによって、実に何百万という人たちが、救われ、癒され,開放された のです。

この人の何が主の目にとまったのでしょうか。このように重要な任務を与えられ、天の恵みを買うことのできる天国の貨幣を手に入れることが出来たのは、彼のどのような資質によるのでしょうか。私はこの問いを、夢を見る前からずっと心に持っていたのでした。

夢の中で彼が語るのを聞いていた時、私は彼の首に何かがぶら下がっているのに気がつきました。それは革の紐にさげられた馬蹄形の飾りで、胸のあたりにぶら下がっていました。時々彼はその馬蹄形の飾りを自分の口の中に入れるのです。するとそれは彼の身体の一部のようにぴったりと彼の口にはまり、それと同時に、彼の口からはすばらし霊的真理が語られるのでした。

つまり、この飾りが何を意味するにせよ、それを口に入れると彼は地上での神の代弁者、スポークスマンになることが出来るのでした。確かにいつの時代でも、神の御心をはっきり語ることが出来る人たちがたくさんおります。教会は天国を顕すものになるという召しを受けていて、私たちは神の王国を代表する油注ぎと権威を授けられた大使なのです。

私たちが神の力をこの世にあらわしていくときに、その力を大きくするために私たちに求められる非常に大切な資質があります。夢の中の馬蹄形の飾りを見た時、私は直観的に、それは彼が神とよい関係をもっている秘訣の一つであることがわかりました。

それから、私はこの夢の霊的意味に確証を与える聖書の箇所として箴言3:3,4を示されました。

「恵みとまことを捨ててはならない。
 それをあなたの首に結び、
 あなたの心の板に書きしるせ。
 神と人との前に
 好意と聡明を得よ。」


恵みとまこと(Kindness and Truth)

知恵の霊は、決して恵みとまことを忘れることのないように、と私たちを訓戒されています。それを首飾りのように首につけ、心の板に書き記されねばなりません。そうする時に私たちは、神と人との前で好意を得ながら歩むことが出来るのです。

多くの者たちは人との関係においては信頼を得ていますが、神との間では得ていません。又、ある人たちは神との縦の関係は築いていますが、人とはあまり深くかかわっていません。変わることのない「恵みとまこと」という資質は、神との関係と人との関係のどちらをも私たちに与えてくれます。この二つの徳を養い育てることによって、私たちは神と人との両方の確かな信頼関係を結んで生きることが出来ます。

私たちが首にかけるものは、とても重大な価値のあるものを表わしています。例えば、偉大な富のしるしを人にあらわすために私たちは高価な宝石を首飾りにします。恵みとまことの資質は霊的富の大きさを表わすために私たちの首にかけられるべきものなのです。

古代に人々は、自分にとって最も神聖な言葉を羊皮紙に書いて、それにひもをつけて首にかけ、自分にとって何が一番大切かと言うことをいつも忘れないようにしました。

それに加えて、「恵みとまこと」は私たちの心の板に書き記されねばなりません。人の心とはその人の存在の核心です。心に何かを刻むならば、私たちのすべての行動の上にそれが書き写されます。

それは単に言葉を知的に理解するとか、意味もなく言葉を機械的に反復することではありません。それらは私たちの存在そのものに影響を与えることの出来る心の内から湧き出る資質です。それによって私たちの口から出るすべての言葉、すべての行いは「恵みとまこと」を着せられて出てくるのです。

恵みとまことを理解する

この箴言の中の「恵みkindness」という言葉は、ヘブル語で「checed」です。旧約では240回使われていて、神のご性格を理解するうえで最も大切な言葉の一つでり、「あわれみ mercy」と訳されていることも多い言葉です。 それは又、恵みとあわれみという概念だけではなく、同情 (compassion)、誠実 (royalty) という意味も含んでいます。

「恵み(kindness 親切)はただである。」といった人がありました。又、ウイリアム・ペンは「私は人生は一度きりだと思う。だから、もし何か恵みを施す機会があるならば、また、何か善を施すことが出来るならば、後に延ばしたり、怠ってしないことがないように、今それをさせてもらいたい。ここを通ることはもうないだろうから。」と言ったといわれています。

人に恵み、親切を示すのにはお金はかかりません。神の性格を持ちたいと願う人の個人的な選択で出来るのです。それに加えて、神の御性質にあずかることが終末の神の軍隊には必要不可欠であると御言葉にもあります。(第二ペテロ1:4参照)

次に、「まことtruth」という言葉は「emeth」という語根からきていて、「真実な証言」という意味を持っています。また、忠実、不変、信頼出来る言葉、などの意味も含みます。

「まこと・真理」は神の証印です。真理の御霊は私たちをすべての真理に導かれ、よって
すべての偽りや偽善の企てを取り除いて下さいます。

聖なる飾り物をつける

「恵みとまこと」は、神と人から好意をもたれるための不可欠な徳であると言われています。この二つの性質を私たちがしっかりと心に抱きしめ育てていく時に、この世に神の救いと力の衣を運んで行くために必要な完全は霊的な力を、私たちは持つことが出来るのです。

使徒パウロを通して、聖霊は「神が喜ばれる心」を次のように表わしています。

「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なもので 
 なく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人
 がらを飾りなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(第一ペテロ3:3,4)


  この箇所は、直接的にはパウロの時代の婦人たちに対して語られたものですが、神が外面的な美しさに重点をおくのではなく、内面の美しさをもっとも喜ばれるということを私たちに教えています。私たちは外面だけではなく、「朽ちることのない柔和で穏やかな霊と言う心の中の隠れた人がら」を飾らねばならないのです。これが神にとって価値のあるもの、即ち、天の貨幣である、とパウロは言っているのです。 (終り)

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06 03月

天国への門   ジョン・ポール・ジャクソン  3月6日


天国の門

ジョン・ポール・ジャクソン

神の現われを愛し心からそれを待ち望んでいる者たちに、主はご自分を喜んであらわしてくださいます。

神のすばらしい奥義の一つは天の門の存在です。 そのドアや通路を通って私たちは天に出入りすることが出来ます。天の門の入り口に立つと、天が開いているような感じがします。
天の門というのは、天からの光の通路で、天使や天にいるものたちが、悪霊に邪魔されずに自由に出入りできようにと神に守られている場所です。神はその門を、第三の天からはじまり、第二の天を通って地上で開いているようにつくられました。

聖書の中には何箇所もこの天の門、通路のことが書かれています。

詩篇24:7 「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」
詩篇78:23 「しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、」

箴言8:34 「幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」

ヨハネ1:51「そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

黙示録4:1-2 「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」 たちまち私は御霊に感じた。…」

黙示録に書かれている「門」は、神が私たちを天の領域へと招きいれてくださっていることを示しています。主は私たちを友と呼んでくださり、天の門を開いて多くの天の軍勢がかつてなかったほど頻繁に地上に訪れることを望んでおられるのです。

ヤコブは天の門を発見した

ヤコブは父祖アブラハムが「主の御名によって祈った(創世記12:8)」場所で一夜を過ごしました。彼が契約の石を枕にしたとき、天の門が開いたのです。ヤコブは天の使いがはしごを上り下りする幻を見ました。彼は目を覚ましたときに次のようにいいました。

創世記28:16-17 「ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

ヤコブは天のはしごの正確な位置を印すために、枕にした石を記念の柱として立て、この場所を「べテル、神の家」と呼びました。この後数度、主はヤコブに「べテルに戻れ」と指示され、そこでヤコブに語られたのでした。

主はどこででも語ることができるお方なのに、どうして「これこれの場所で私はおまえに語るから、そこに行け」といわれるのかと、不思議に思ったことはありませんか。

神がエリヤに語られたとき、主はホレブ山(シナイ山とも呼ばれる)に行くようにと彼に告げました。そこで主はエリヤにもっと詳細に語られたのです。(I列王記19:11-18)

天へと続いている門は、現在も地球上に存在しています。エルサレムの町は天の門です。 実にエルサレムは地上で一番主要な天の門なのです。ダビデやイザヤが、エルサレムは地の中心であると言った理由はそこにあります。 何故敵が躍起になってエルサレムを占領しようとしていると思いますか? それはこの天の門を塞いでしまおうとサタンがしているからなのです。


リック・ジョイナー師が証していることですが、ノース・キャロライナ州のモラビアン・フォールにある彼らの地所で、彼や彼のスタッフは天使の訪問を幾度となく受けているそうです。そこはかつてジンゼンドルフ伯爵とモラヴィア兄弟団によって所有されていた地所で、モラヴィアン兄弟団が100年以上祈り続けてきたゆえに、そこには数個の天の門が存在しているのです。


ニューハンプシャーのサトンという所に私たちのストリーム・ミニストリーズに与えられた90エイカーの土地があり、そこには一つの天の門があります。明らかに敵もそのことを知っていて、この門を私たちに使わせないように妨害し、その門が第二の天までしかとどかないようにしているのです。私が地所の中で一番高台になっている所に行くたびに、必ず魔女たちによって作られた悪魔の祭壇を発見するので、いつもそれを打ち壊してきました。魔女たちはこの地所に無断で入ってきては、神がかつてご自分をあらわされたことのある場所を汚していくのです。神はこの悪魔の「高きところ」を私たちが取りもどし、神の天使が邪魔されずに行き来することができるようにせよ、と今私たちに命じておられます。

ニュー・エイジに入っている人たちの多くが、この門の存在を知っているのですが、悲しいことに彼らは第二の天までの門しか知りません。彼らの多くは、自分は神から聞いていると思っていますが、実はにせものにだまされているのです。


バビロンで預言者ダニエルは主権と戦った天使に出会いました。しかしながら、ペルシャの君が国を支配していたので、第三の天の門は閉ざされていて(キッチンの流しがごみでつまってしまったように)天からの力の流れが止められていたのです。しかし、主はそれらの天の門をこれから大いに用いようとしておられ、私たちの間に天使が自由に出入りできるようになるように、その場所を敵の手から奪いかえすようにと私たちを召しておられるのです。

天の門を開く鍵は私たちの心の働きの中にある

ペンテコステの日に天の門を開いた鍵は、信徒たちの一致でした。彼らは共に集まって「一つになって(in one accord)」いたと聖書は言っています。 その時、突然、天の門が開いたのです。激しい風のような天からの音が家全体に響きわたりました。超自然的な炎が彼らの上にあらわれ、彼らは聖霊で満たされました。(使徒行伝2:1-4)
聖霊の力ある油注ぎと、かつてなかったような天の軍勢の訪れを、神が与えようとしておられる時代に私たちは今、突入しているのです。(ヨエル2:28-29) この神の霊の新しい波は、大いなる力をもってやってきて、いやしと命を与えるでしょう。それはエゼキエルが幻で見た命の川のようです。(エゼキエル47)

これから来ようとしている神の霊の流れは非常に力強く、大規模な世界的リバイバルを解き放つでしょう。クリスチャ ンは油注ぎを受け、イエスがしたよりも大いなる業をするための力を受けるでしょう。病人をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせ、神の御国が地上に来たことを宣言するのです。(ヨハネ14:12) これから神は、多くのクリスチャンに彼らが住む地域のどこに天の門があるかを示し始められ、それによって彼らは今までより深い霊的洞察力と神からの啓示を受けることができるようになるでしょう。〔終わり〕



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28 02月

超越した命     フランシス・フランジペイン   2月28日


超越した命        
         フランシス・フラジペイン


霊の賜物を伸ばしていく方法とか、人生の目的を発見するための本が、現在、大量に出版されています。そして確かにその大部分のものは注目に値するものです。自分の賜物を知り、神に仕えるためにそれぞれが召された分野において訓練されることは、神の御心です。しかし、その事よりもっと深く基本的で重要な究極的なクリスチャンのゴールがあることを忘れてはいけません。それは「キリストに似た者となる」ために生涯をかけることです。

私たちはパウロの生涯を見るときに驚嘆せざるをえません。彼は多くの書簡をあらわし、何千人もの人をキリストに導き、多くの教会を立て上げ、すべての霊的賜物を受けていました。しかし、彼が一番追い求めたものは伝道という召命ではなく、キリストのようになるという事であり、そのゴールにむかって彼は死ぬまで情熱をもって突き進んでいたのです。ピリピ3:10、11において、パウロは次のようにその気持ちを表しています。

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、
 キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」

自分の賜物やミニストリーを開発し完成させることに力を尽くすあまり、キリストに似る者となることへの追求をおろそかにしてしまった人たちを、私たちは余りにも多く見てきました。 それが私の危惧なのです。自分のミニストリーや賜物から霊的な充足を望むことは、
かえって私たちを霊的飢餓に陥れるのです。

私たちが神から受けている仕事、即ち召命の性質について、ここでもう一度はっきり説明させてください。召命は人生の最終目標の中核をなすものではないのです。確かに召命は私たちにとって大変重要です。しかし、私たちの人生目標の中心点は、私たちが神のために何をするか(召命)に根ざしているのではなく、私たちの心がキリストの心と同じになるということにあるのです。「キリストに似る者となる」というのが、私たちの人生の目標なのです。
霊的賜物やミニストリーは、キリストの身丈にまで成長する道のりを運転している私の車に便乗している道ずれに過ぎないのです。

キリストに似た者になるように私たちは定められている

人生のゴールについてパウロは「なぜなら、神はあらかじめ知っている人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:29)」といっています。私たちは、神の御子のかたちと「同じ姿にあらかじめ定められている」のです。新約聖書で私たちの人生のゴールに触れている箇所は、いつも「キリストに似た者になる」ことを述べている箇所と同じ文脈のなかにあります。神から与えられた仕事、即ち、召命は、例えば牧師や教師、主婦やビジネスマンといったものですが、そのような外面的な務めが何であったとしても、中核となるゴール、つまり自分の外面的な状況がどうあろうと変わらずに追求していくべき定められたゴールは、「神の御子の姿と同じにされていく」ことなのです。

私たちの目指すべきゴールは、神のために何かをなすことではなくて、自分と神との関係をどのように築いていくか、神にとって自分は何になるのか、と言うことなのです。キリストに似る者となることを願いながら生きて行くとき、私たちの神に対する愛はどんどん豊かになり、罪人への伝道は力強くなり、内なる自分は清くされていきます。イエスと同じ姿になりたいという思いで生活して行くときに、そがすべての事に関する霊的な動機、願望となり、そこから力が沸いてくることにあなたは気がつくことでしょう。

私たちは、自分は神のために大切で偉大な仕事をしている、と思うかもしれませんが、キリストから離れていては、「わたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられ、枯れます。(ヨハネ15:6)」とイエス様が言われたとおりになってしまいます。しかし、もしキリストと共にあるならば、どんな葛藤、試練、誘惑の中にあろうとも、「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される(IIコリント4:10)」のです。これこそ、まさに、超越した神からの命ということができるのです。

賜物と召命

多くの西洋の神学校では、神学や聖書の解釈にばかりを熱心に教えて、「キリストに似る者となる」ことに焦点を当てていないのは非常に残念なことです。 確かに、聖書に関する正しい知識を得ることは必要ですが、それよりもキリストに似る者になることの方がもっと大切です。また、教会においても、みんなの賜物を開発するための多くの努力をしています。それは勿論続けていくべきですが、私たちは更に根本的で大切な仕事、即ち、キリストの姿となることが人生のゴールであるという考えを、教会員のなかに培っていくことをおろそかにしてはならないのです。

パウロは神の賜物と召命は「取り消されない、変わることがない。(ロマ11:28)」と教えています。 ここでパウロは、イスラエルに対する神の御計画は決して変わることがないことを言っているわけですが、パウロの語っているこの真理は、私たちにも当てはまることです。ですから、私たちが受ける神の召命と賜物は、私たちの心の状態がどうあろうともそれとは関係なく続いていくのです。

牧師は、たとえ彼が重大な罪を犯している時でも、毎週説教をして会衆を感動させることができます。彼の「召命」は、彼の義が今どのような状態であるかということに依存していません。土曜の夜に姦淫を犯したワーッシップ・リーダーは、日曜には会衆を感動的なワーッシップへと導くことができるのです。彼の「賜物」は彼の罪によって取り消されるということはなく、働き続けているからです。前夜飲んだくれていた伝道者は、自分の説教で多くの魂が悔い改めるの見て感激の涙を流し、きっと神は自分の罪を赦してくださったのだ、と勘違いをしてしまいます。しかし、このように聖霊様が教職者の賜物を通して働いておられるときでさえ、罪の中にあるその人自身は非常に危険なところにいるのです。彼は他人には宣べ伝えたにもかかわらず、自分自身は失格者になってしまう可能性があるのです。(Iコリント9:27)多くの教職者たちが罪に捕らわれて二重生活をおくりながらも、彼らの召命、賜物が働き続けていたのを私たちは今までに
20 02月

神の御国のメンタリティー  ブラッド・マックレンドン  2月20日


神の御国のメンタリティー
                                ブラッド・マックレンドン

私たちは神から永遠の命をいただいているにもかかわらず、そのことを忘れがちで、自分の人生をこの時間と空間の中でだけ考えてしまっています。しかし、私たちは、キリストを自分の人生にお迎えしたときに朽ちるものは取り去られ、朽ちないものを着たのです。(Iコリント15:53-54)死ぬものは取り去られ、不死を着たのです。

それには私たちがもはや、堕落した罪の性質から出てくる肉的な思いを持つ代わりに、神の考えやキリストの思いが持てることを含んでいます。キリストの思いに限界はありません。なぜなら神は境界線や規格に縛られる方ではなく、時間や空間に制限されることもないからです。キリストは全知全能の神であられます。主の思いは天国の思いであり、主の心に浮かんだ思いを実行に移すことを妨げる疑いとか不信仰は、主の心には全くありません。神はご自分が語られたことや、又、ただ心で思われただけのことでも、それは必ず成就することをご存知です。私たちもキリストの思いを持つことによって、神の御国の限りない世界を歩き始められます。それは物理的な時間や空間にもはや制限されない世界です。

死はすでに主の足の下に置かれました。(Iコリント15:53-58参照)それによって「死のメンタリティー」も滅んだのです。「死のメンタリティー」は主が決定されたことを阻止する力は全く持っていませんし、私たちも決してそれによって影響を受けてはならないのです。感謝すべきことに、神のこのご性質を我々も受け継いでいるのです。

私たちはもはや、心配で仕方がないとか、人に対して不親切である、というような間違った思いに支配される必要はないのです。神は天から地上の問題を見て、ただ手をもみながら心配しておられるのではありません。ですから、私たちもそうであってはならないのです。神はご自分で対処できない問題は何一つないことをよくご存知です。私たちが主のうちにとどまり主の思いを持つ時に、私たちも天のメンタリティーをもって歩み始めることができるのです。

キリストの身体なる教会は今まさに、この事実に目覚めようとしています。神は私たちの思いが、自分のことや自分自身の必要だけを考えることから解放されて、神の立場に立って神の目的が何かを考えることができるように、私たちの心を覆っているベールを取り去り、心を変革され始めました。目覚めた者は、王座に座しすべてのことを治めておられる主を、まるで自分も主と共に王座に着いているかのようにはっきりと見えるようになります。なぜならば、私たちは実際、主と共に王座に着いているのですから。私たちがもし自分自身を見ているのであれば、このことは達成されません。ただ主にだけ目を向けねばなりません。

主は、すべての人が自分の肉的な思いの中で恐れや疑いや限界を感じながら生きるのではなく、神の思いの中に入って生きるというご計画を持っておられます。私たちが自分の頭を使って自分で何とかしようと悪戦苦闘することをやめ、自分の思いの中に永遠の命を持つことを、主は望んでおられます。神が人間を最初創造されたときに意図されたように私たちが再び歩み始めることが、主の今の御計画です。それは、神に似せて造られた人間が考えや思いも神に似るということです。私たちは神の民であり、主の先ぶれとして神の御国は現実のものであることをこの世に示すように遣わされているのです。それには、まず私たちが神の御国に住まねばなりません。私たちが考えたり行動したりすることのすべてにおいて神に似たものとして歩むならば、私たちが主をあらわす力強い証し人となることができます。次の聖書の箇所はそのことをよく表しています。

マタイ14:22-31「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」


ここでは、弟子たちがイエスに命じられて船に乗ったことが分かりますが、やがて嵐がやってきました。イエスが水の上を歩いてきて、弟子たちはそれが自分たちの救い主だということが分からないほどに度肝を抜かれ、怯えてしまいました。しかし、イエスは彼らを憐れみ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられました。これは非常に力のある言葉です。ここでイエスが示しておられることを私たちがはっきりと理解したならば、私たちに変革が起こることでしょう。私たちが試練の中にいるときもイエスが共におられることを知るならば、どんなに波や風が激しくても、「しっかりする(be of good cheer、元気を出す)」ことができるのです。すべてのことにおいて私たちは主を認め、主が「勇敢でありなさい。(Be of good cheer)わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われたのは真実であることを知ることができるのです。

私たちは今、「キリストの思いを持つ」という目標に向かって歩んでいるわけですが、時には弟子たちと同じように、「神は自分を見捨てられたのではないか」と思ってしまうことがあります。私たちが周りの状況にだけ目を奪われると、恐れの念が生じ、主がまさにその状況の上を歩いてこちらに来られるときに、それが主だと分からないのです。水の上を歩くことはイエスにとっては何でもないことで、弟子が乗 っている船まで行く交通の手段にすぎませんでした。私たちは自分の思いを時間と空間の中に制限してしまいますが、イエスはそうはされません。主は私たちが自分の考えに勝利して、どのような状況においても主と共にその上を歩くことができるというメンタリティーをもってほしいと願っておられます。主は山の上で私たちのために常にとりなしておられ(マタイ14:23)弟子たちに教えられた(主の)祈りを祈っておられるのです。

マタイ6:9-13 「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」

この祈りの中で、主は私たちが主と同じ考え方、物の見方をするようにと祈っておられます。この祈りが成就したとき、神の御国は弟子たちに風と波という形で現れました。それは弟子たちが考える「神の御国」とは全く違うものでした。この嵐という状況を使って神は人間に語ろうとされています。神はご自分を現そうとするとき、私たちは、往々にして「私は苦しくて死んでしまいそうだ。」と感じるのです。私たちは神の御心の真ん中にいても(弟子たちはイエスの御心に従って舟に乗っていました)そのときに困難や障害が起こると、それは神からのものではないと思ってしまいます。イエスが弟子たちに舟で先に出かけるようにと命じられたときに、イエスはやがて嵐が起こることもご存知であり、その時も彼らを決して離れないおつもりでした。私たちもこのことをいつも理解していなければなりません。どのような状況の中においても主は私たちと共におられ、それゆえに私たちは安全であり、主が私たちを遣わされた御用を果たすことができるのです。嵐が起こったとき、私たちは主がどのようなお姿で来られるかをしっかりと見なければなりません。それは、今まで見たことのないようなユニークなお姿かもしれませんが、驚いてはいけません。嵐の中で私たちも「しっかりする be of good cheer」ことができるのです。

この話の中で、イエスは弟子たちに「主はいつも共におられる」 ということを知ってほしかったのです。イエスも弟子たちも周りの状況に左右されないでその上を歩くことができたのです。主は私たちにも同じことを教えようとしておられます。私たちがどのような状況や試練の中にあっても、主と主の業を私たちが見ることができることを望んでおられます。ペテロはイエスが波と風を治める方であると知って奮起させられました。彼はイエスが来いといわれたら、彼も自然やどんな状況も主と共に治めることが出来ることがわかったのです。ペテロは水の上を確かに歩き始めました。しかし、彼は自分の思いを信仰という高い見地から人間的理性へとひき下げてしまったとたんに、水の中に沈み始めました。しかしながら、彼は確かに、ほんの一時ではあっても、水の上を歩いたのです。イエスはこのようにどんな状況の中にあっても、私たちがイエスと共に歩くことを望んでおられます。まことに主の道は私たちの道より高く、主は天におられるだけでなく、この地上でも私たちの内に生きていたいと願われているのです。

イエスは恵みをもってペテロを引き上げ、疑いが信仰に及ぼす影響を一言注意されました。そして、イエスはペテロを舟に引き入れ、その時風が凪いだのです。イエスはここで疑いや不信仰の危険性を教え、私たちが主と常に一つになるという密接な関係になることを望んでおられます。主と一つになるとき、人間的な理性という風は止み、人は神の安息に入ることができます。

私たちが「御国のメンタリティー」を持つとき、どんな状況や試練の中でも主が働いていてくださることを理解することができます。それはまさにイエスが十字架に向かうときに理解されたことでした。私たちがすべての物事を自分の理解ではなく神の理解を通して見るようになるとき、私たちは神の口から出る(神の御心から出る)一つ一つの言葉によってのみ生きたいと思うようになります。他のすべての言葉は、私たちに何の影響も及ぼさなくなります。イエスはすべての状況で真理であられます。これこそが私たちが持つべき「御国のメンタリティー」です。イエスは真の王であられます。(終わり)

[この記事はThe Morning Star Journal 誌より取りました。マックレンドン師はMorning Star Fellowship 教会の牧師です。]

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