WWGM

Walk With God Ministries


08 06月

新しい種類のクリスチャンの誕生  ジェフ・ジェンセン  6月8日


はじめに                  
          坂  達 也

私たちが今回日本への旅行を終えてハワイに帰国した直後に、私は下記の記事に接しました。この記事の筆者、ジェフ・ジェンセン師の書いたものは今回初めて読んだのですが、驚いたことにこの記事は、私が今回主から与えられ日本でとりつがせていただいたメッセージの趣旨を、まさに確認するコンファーメーションであることに気がついた次第です。その意味でもぜひご高読ください。




超自然の力を発揮できる新しい種類のクリスチャンの誕生

          ジェフ ・ ジェンセン


勝利者が誕生するしるし 

モーセが出エジプトに際してパロにして見せた、数々の前代未聞の神の大奇跡を目の辺りにしたイスラエルの子達の仰天振りは、さぞ見ものであったと思います。同じことがイエス様が現れたときにも起こりました。マタイ4:16で「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」とあるように、イエス様ご自身が現れて、神の偉大な力を見せてくれたのでした。それは、これからの時代に現れる超自然の力がどんなものであるかを示してくださったものでした。

イスラエルの民が彼らの約束の地に入る地点に達するまでに、一世代、40年もかかったのは、彼らが約束の地を取るために必要な霊的な資質、あるいは信仰を築き上げていなかったからでした。荒野では食料や水、又、40年間履いてもすり減らない靴にいたるまで、必要なものをすべて神があてがわれました。そして再びチャンスが到来しました。ヨシュアと共に新しい世代の民は、彼ら自身の相続すべきものを、自ら戦って勝ち取らなければなりませんでした。しかし目の前に横たわる障害物は、全く克服不可能に見えました。

制限の無い新しいリアリテイー

ヨシュアとカレブは「ほかの者と違った心(霊)」を持っており、それは主に完全に「従い通した」ものであったがゆえに、彼らは約束の地に入ることを許されたのでした。(民数記14:24、30)その霊とは「勝利者(オーバー・カマー)の霊」でした。

今日、ヨシュアとカレブのように、天からの声を聞いて完全に主に従う一つの軍団が現れようとしています。これらの人たちを歓迎し受け入れることは難しいと多くの人は感じるかもしれませんが、私たちはこの軍団を必要としているのです。なぜなら、彼らは「無制限の新しいリアリテイー(現実)」を見せてくれる人たちであるからです。

数世代前ですが、A.W.トーザーは「事実、我々は真の聖徒を生み出していない。新約聖書には全くふさわしくない無能力なクリスチャンのタイプの信者ばかりを作り出している。今の時代の『聖書的クリスチャン』と呼ばれる人たちは、真の聖徒のほんの浅い見本でしかない。しかし現実はこのような宗教の低い形を永続的に作り出すムーブメントに何百万ドルも費やしており、そのような浅はかな知恵に反対しチャレンジしようとする人を攻撃している。」と言っております。

出現しようとしているエゼキエル・カンパニー(軍団)

 最近、リック・ジョイナーは「消極的クリスチャニティーと消極的クリスチャンが存在できなくなる時代が今来ようとしている。」と書いています。成熟し、訓練を受けた神聖な軍隊が今、神の民の中に現れようとしているのです。人間的で理想ばかり追う神学に屈服してしまった人たちにとって、これは受け入れがたいことでしょう。しかし、私たちの神とは軍隊的な戦う神であることを認識しなければなりません。聖書の中では神を「万軍の主」と呼ぶ回数が他のどの呼び方より10倍も多いことを知らねばなりません。この神の戦われるご性質を私たちが取り入れなければならない時がやって来ることを、理解する必要があります。

神には制限というものがないことをよく認識したクリスチャン(教会)が、今出現しようとしている強いしるしがあります。これが、神の息といのちの力が彼らを通して吹き出す、「エゼキエル・カンパニー」です。彼らの唯一のアイデンティティーと目的とは、イエス・キリストの力と臨在と人格そのものです。彼らは過激的な信仰を持ち、その信仰を果敢に実行することによって人々はバランスを失うほど驚いて見ているでしょう。彼らは必要に迫られれば、人間的には不可能なことをする神の無限の力を発揮できる人たちです。私たちはもはや御国の外に立って中を眺めている傍観者ではありません。私たち自身が御国の真っ只中に入り、ヨハネ14:12にあるように「わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを」行う世代なのです。

主の栄光にもどる

私たちは新しいドアのしきいをまたぎ、神の栄光がもどってくるのを見ながら、新しい部屋に入ったのです。それは新しいシーズンであり、新しいサイクルに入り、主と共にいる新しい場所に入ることであり、そこでは「キリストのからだ」が今までのような自分が招いた制限にぶつかるという経験を過去のものとし、神の栄光あるご臨在の新しい流れの中へと入って行くのです。人々は神の黄金の栄光の川に自由に浸りながら、全く新しい場所で、新しい川辺で果実を実らせる自分たちを発見します。
この黄金の川から、この新しい種類の信者が天のすべてのDNAを持って現れて来つつあるのです。彼らは町に、地域に、そして国に、栄光をつくり出すものとして出て行き、驚くべきしるしと不思議なわざ、奇跡を行い、力強く超自然の力を発揮します。そして神は彼らの上に、ご自身の御国の「承認」というスタンプを押します。それは、聖霊により約束された「キリストのからだ」の種として合格という新たなる認証のスタンプです。彼らがまだ現されていない栄光の領域を将来現すのです。

新しい種類の聖徒

彼らは、愛とあわれみの心を持つことによって「油注ぎ」が解き放たれることを知っています。彼らが理解する唯一の言葉は、聖霊のご臨在の中で主を待つことによってのみ彼らに語られるものです。柔和さとへりくだりが彼らのトレード・マークです。彼らには常に豊かな油が注がれていて、彼らは神の寵愛で包み込まれています。彼らこそが恋煩い(lovesick)に陥ったキリストの恋人たちです。彼らは、偉大な収穫の時が教会にやって来るとき、彼らが 刈入れの機械として用いられることを知っています。しかし、その刈入れは今までのやり方でなされるのではなく、彼らが行くすべての場所において、神の御国の領域の力が解き放たれ、全く超自然の形でなされることを知っています。

超自然の力と神の御国の栄光が流れ出すのを私たちが見るためには、私たち自身が過激的にトランスフォーム(変革)され、神とはどう言う方であり、どのように事を運ばれる方であるかをよく理解する人になる必要があります。主は、その人の心が完全に主のものとなって、常に主を待ち、主に仕え、天がその人を満たすことを許す人を探しておられます。そのような人は、主がこの世に侵入して来られる時がどのようであるか、主がどのように現れ、どうしてそれを察知できるかを経験からよく理解している人です。

この新しいタイプの弟子とは、へりくだってよく教えを聞く人であり、完全に聖霊の導きに依存している人です。彼らの内なる人は常に天の父の心の動きに敏感に呼応し、聖霊によって変えられてゆく人です。彼らは主にとどまることによって得られる秘密の力を知るようになり、又、神を待ち望むことによって上からの力を得、神のご臨在の中で親しい主の導きによってもたらされる打ち破りを経験している人です。

祈り

主よ、私たちは今、新しい打ち破りによって、あなたのご臨在の秘密の場所へと入ることができるようにお願い申し上げます。私たちがどのようにすれば、あなたの御国の息子、娘となれるかを改めて理解できるようにお教えください。そして、その秘密の場所でのあなたとの深いお交わりの経験をもたらすための啓示をお与えください。
聖霊様、私たちの内に深い飢え渇きを起こし始めてください。私たちはこれから現れる天の息に満たされたエゼキエル軍団に加えられることを切に望みます。私たちの恥を拭い取ってくださることによって、私たちが再びあなたのご臨在から来る新たな愛と信頼で輝くことができるようにしてください。あなたの恵みの中で建て上げてください。そして、私たちが今までやってきた従来の考えとかやり方から完全に踏み出て、あなたによる新しいいのちの中へと入ることができるような力をお与えくださるようお願い申し上げます。(終り)


トップページへ戻る
02 06月

神との深い交わりの鍵     ジェイムス・ゴール    6月2日


神との深い交わりの鍵―静まること
                                      ジェイムス・ゴール 

      マーク・バークラーはニューヨーク州バッファローの牧師ですが、彼は聖書の学びや霊的交わり、成長に関するマニュアルを30冊ほど出版しています。以下は「Communion with God 神との交わり」という師のパワフルな本からの抜粋です。

神と親しく話しを交わそうとするならば、まず私たちは静まらねばなりません。ハバククは祈るときは見張り所に行きました。(ハバクク2:1) イエスは朝早くまだ暗いうちに寂しい所へ出て行き祈られました。(マルコ1:35) そして、一日の終わりには山にいって祈られました。

神と交わるための基本原則
私たちのうちなる人が神と交わるためには、まず私たちの気を散らす周りの状況を取り除かねばなりません。 誰にも邪魔されない一人になれる場所を探し、外の環境に左右されずに心を集中できるようにしなければなりません。

次に、自分の中から聞こえてくる様々な声や思いに気をとられないために、内なる人を静めることを学ばねばなりません。自分の中の声や思いが静まらなければ、多分神の声を聞くことはできないでしょう。
静まろうとあせったり無理やり静まろうとしてはいけません。そうではなく、静けさが自然に起こるまで待たねばならないのです。あなたが静まってくると、神の訪れがあり、神の息吹があなたのうちに流れ込むのを感じるでしょう。神の本質が命をもってあなたのうちに流れ込んできます。神の声が語り、あなたに知恵と力を与えてくれます。あなたは自分は「霊にみたされている in Spirit」と感じるでしょう。(黙示録1:10)

思いという名の戦場  ジェイムス・ゴル

攻めの姿勢をとる

IIコリント10:2-6をお読みください。聖書のこの箇所を読むとき、私はこの「思いという戦場」をこんな風に思い浮かべます。この要塞(4節)は私たちの思いを取り巻く年を経た城壁です。それは私たちの心の頑なな態度です。つぎにさまざまな思弁(5節)は城壁の上で見張る人間的な論理の番兵です。あらゆる高ぶり(5節)は城壁の上にそびえるプライドという名の塔です。最後に、すべてのはかりごと(5節)は提案という強い武器をもって持ち場を守る兵士たちです。

先攻する私たちの武器は肉の物ではなく、神にあって要塞をも破るほどに力のあるものであり、思弁やキリストの知識にさからうあらゆる高ぶりをうち砕くことができます。イエスの御名と血潮(黙示録12:11)と神の書かれた言葉と話された言葉(マタイ4:3-10)とによって、私たちはあらゆる思いをキリストに服従させることができるのです。

実行の手順
私たちは、「すべての真実なこと、誉あること、正しいこと、清いこと、愛すべきこと(ピリピ4:7,8)」に心を向ける前に、まず私たちの思いを清めなければなりません。これは一朝一夕にできるものではありませんが、クリスチャンは必ずだんだんに清められていくのです。

キリストの思いも持つだめのステップ

•告白すること Iヨハネ1:7-9
•赦すこと 箴言14:10忘れること ピリピ3:13
•捨てること ヘブル12:1 IIコリント6:17

忍耐して戦うこと IIコリント10:2-6
•築きあげること  Iペテロ1:13、ヤコブ1:21、イザヤ28:10、ユダ20
•身に着けること Iテサロニケ5:8、箴言16:3、エペソ4:17-24

ゆったりと神の臨在を楽しむ

メリー・スオープ師は、「Listening Prayer聞く祈り」 という本のなかで、神の声を聞き分ける方法について次ぎのように書いています。

初めにすること

聞く祈りをするときは、いつもまず自分を神に委ね、聖霊に支配していただくようにお願いします。「自分の思いを棚に上げる」ことを学んでください。自分の考えが入り込むと、聖霊があなたの思いの中に語ろうとされるのを妨害することになります。

サタンの攻撃

サタンはあなたの気を散らそうとします。敵からのあらゆる邪魔な思いを捨てなさい。この世の喧騒や考えは内なる聖霊の静かなささやきを押しつぶしてしまいます。

主に安息する

ゆったりと神の臨在を楽しみなさい。神の力、知恵、慈しみ、柔和さ、寛大さを瞑想しなさい。主の平安があなたのうちに流れこみ、穏やかで静かな気持ちになり、あなたの心と思いが明るく照らされ活力を与えられるのを感じてください。主の霊はどのような仕事でも成し遂げる力をあなたにくださいます。

リラックスして緊張を解きほぐすことを学びなさい。心配や緊張があるときには、神は何も語られません。すべてを解き放ち、神が自由にあなたに語られるようにしなさい。心や思い、霊の静けさの中に退くことができる者だけが、神の声を聞くことができ、神から直接インスピレーションを受けることができるのです。

イエスはマタイ6:5,6で次のように言っておられます。
「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

終わりの祈り
父なる神よ、このあなたの声を聞くいにしえからの方法を、フレッシュなものとしてください。 「神の臨在を経験する」すべは長い間見捨てられていましたが、今それを教えてください。 私の魂を静め、父とあなたの尊い一人子イエス様をもっと知れるようにしてください。 聖霊様、私のうちに荒れ狂う嵐をしずめてください。あなたの言葉、御心、方法に私がぴったりと合うように、私を調整してください。主イエスの御名によって啓示の霊を求めます。主よ、あなたを知りたいです。あなたの御国のためにどうか教えてください。アーメン

この静まることについてのメッセージがあなたの魂が愛する方との交わりをもっとすばらしいものにするために役に立つと信じます。私自身もこれによって本当に助けられてきました。 静まることこそ啓示という卵を生み出す暖いベッドなのです!(終わり)

トップページへ戻る

25 05月

百聞は一見にしかず      JP ジャクソン  5月25日


百聞は一見にしかず

<                                b>ジョン・ポール・ジャクソン 

アガサ・クリスティのミステリー小説よりも、神のほうがもっとミステリーに満ちておられます。どこでもいいですから聖書を開いてみてください。すぐにそれは小学一年生用の単純な読み物ではないことが分かるでしょう。神のミステリーは深く完璧に隠されているので、時にはアインシュタインの相対性原理のほうがまだ分かりやすいと思えるほどです。 神はどうしてそのようなお方なのでしょうか。

聖書は神のご性質を、言葉でそのまま言い表すことはしないので、聖書を読むときは、その行間を読まねば神はどうようなお方なのか、本当に何がそこで起こっているのかを把握することはできません。神からのメッセージは非常に深く、私たちがそれを理解するためには、十分に時間をかけて神との親密な関係を培っていかねばならないようにされているのです。ですから神はたとえ話で話されます。又、隠喩を使ったり、夢やヴィジョンやその他色々と変わった出来事の中で、私たちに語ってくださいます。それはちょっと見ただけでは何のことが分からないことがしばしばです。

クリスチャンにとっては、神との親密な関係なしには、何事にもひとかけらの価値もありません。聖書が「主は闇を隠れ家として、回りに置かれた。(詩篇18:11)」と言っている理由の一つはここにあります。主がご自分を隠されるのは、私たちが神を探し求めて見つけるためであり、それにはずいぶん時間を要し、主と親密になることに絶えず心を集中させていなければならないからです。

私たちが小説を書くときの大きな原則の一つは、「直接的に書かないで、描写する」ということです。もしあなたの小説の主人公が神経質な男であったとしたら、「彼は神経質であった。」とは書いてはいけないのです。もしそんな風に書いたら、あなたの小説は退屈で面白くなくなります。ですから、もっと詳細に描写しなければなりません。その主人公がどういう行動をとっているのかを描写して、主人公の姿が読者の心に浮かぶようにするのです。「絵」を使うのです。 千の言葉を使うよりも一つの絵を見せたほうが効果的であり、その絵を理解するには時間がかかり、そこに隠されている意味を真に悟るには、神と親密な関係を持ち続けなければならないからです。

聖書は神を示しています。神の姿を描き出しています。聖書に描かれている神の姿を理解するには、非常に長い時間主の御前で静まって瞑想することが要求されます。神の隠喩のいくつかは比較的単純でわかりやすいかもしれませんが、それが単純であれ複雑であれ、聖書の言葉が描き出す「絵」を理解するには、聖霊の助けがなければできません。

同じように、神の創造そのものが神を描きだしています

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざをつげ知らせます。石は叫び地は主の栄華をたたえています。これらはすべて神の姿であり、神の性格と特徴を示し、神のあなたに対する御思いを表す「絵」なのです。行間を読んでください。あなたの周りの世界が今までとは違って見えてくるに違いありません。

日常の生活の中に神を見出してください。試してみてください。そして神が何をあなたに言っておられるか見てください。ぜひ今週、一つの物―それは全く何でもいいのですーをよく観察し、それを通して神が何をあなたに語っておられるのかを聞いてみてください。きっと驚かれることと思います。あなたの前に全く新しい世界が開かれ、そこであなたは神と、今までは不可能と思っていた非常に深いレベルで、交わることができます。

神は日常生活の中で語られます。神はご自分の栄光を星の中に書かれますが、それと同時に、あなたの机の上のノートにも書かれる方です。神はびっくりするようにすごい預言的邂逅の中で栄光を表わされますが、一方で、あなたの近所の人の一言の挨拶の中にも表わされます。
ですから、これからは目をしっかりと開いて、神を見つけてください。全世界は神の栄光を語り続けています。そして、神がどれほど驚くべき方であるかを真に理解するには、時間をかけて神との親密な関係を求め続けていくことが不可欠なのです。(終わり)

トップページへ戻る

19 05月

癒しの御使い



癒しの御使い
                                       ビル・ヨント 

癒しのために働く天使たちが、神の癒しが地上にもたらされるのを祝って祝杯を交わそうとしているのを私は見ました。彼らは「癒しの入っている鉢」を手にしていましたが、それがぐらぐらと今にも傾きそうになっていました。
天使たちはヨハネの手紙第三の1:2の「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」という御言葉をもって乾杯していました。

私は多くの者が、癒しを信じて信仰の戦いを勇敢に戦っているゆえに魂に幸いを得ているのを見ました! 父なる神の御心は、癒しだけではなく、全き健康を人々に与えることでした!

誰かの癒しのために祈ったけれども、その人が死んでしまったという経験をお持ちでしょうか? 私たちはみんなそういう経験がありますね。でもその人の癒しのためにあなたが祈った祈りは無駄ではく、神はその祈りを今も大切にしていてくださることをご存知ですか? 又、その人の死も無駄ではなかったのです。

あなたが愛する者のために癒しを信じて祈り、それでも癒されなかったときにあなたが流した涙は無駄ではなかったことを、私は見ました。天でその涙がある目的で瓶に集められているのを見ました。一見「聞かれなかった」と思える癒しのための祈りも、天の巨大な鉢の中に集められていました。

地上で私たちが流した涙や聞かれなかった祈りは、私たちにとってすばらしい栄光となるのです。天の鉢が縁まで一杯になり、今にも傾き、地上に今なでなかったような偉大な癒しを降り注ぐばかりになっているのを私は見ました。

癒しの賜物をいただいている多くの人たちが、敵の攻撃をうけて癒しの祈りしなくなっているのを知っています。彼らは信仰の祈りの成果を見ることができないでいるからです。「ビルさん、私は病人に手をおいて祈りなさい、という預言を受けました。それで10人のために祈りましたが、誰も癒されませんでした!」とあなたは言うかもしれません。 よく聞いてください。あなたは11人目の病人を探して、手を置き、信仰の祈りをし、神をもう一度信じなければいけません。神が癒し主であられます。私たちが癒すのではないのです。 私たちは息のあるうちは神の言葉を信じ続けるようにと、召されているものです!

私たちは疑う者ではなく信じる者であることを忘れないでください!たとえあなたが次にする癒しの祈りが答えられなくても、天にある癒しの鉢をひっくり返すその最後の祈りになりかも知れないのです。決して祈ること、信じることをやめてはいけません。あなたの祈りは決して無駄ではないからです。

「ビルさん、私は自分の癒しのために15年も神を信じてきましたが、まだ勝利がありません!」とあなたは言われるかもしれません。よく聞いてください。今祈りをやめるのは愚かなことです。あなたは癒しのためにすでに15年間の信仰を投資しているのです。最初信じたときよりもあなたは癒しにずっと近づいているのです。
ジョン・G・レイクは16人の大家族の中で育ちました。愛する家族のうち7人が伝染病で死にました。しかし、この愛する者たちの死こそが、彼の内に神の力の癒しを受けとる鍵を見つけたい、という強い願いを起こさせたのであり、その結果彼が見出したものは、今も世界中に影響を与えているのです。彼はまわりで多くの死を見たとき、神の癒しを信じることをやめてしまうこともできました。しかし、火の上にかけられるガソリンのように、愛する者の死は、世界の癒しのための鍵を探し続けるようにと彼を燃えさせたのです。

彼の伝記を読んだのですが、彼が疫病が流行っているある国にいたときのことですが、彼を除いて周りにいた人たちはみんな死んでいきました。あまりにも不思議なので、人々は彼の手を顕微鏡の下において、疫病の病原菌をその手に一滴たらしました。それがジョンの皮膚に触れるやいなや、その病原菌が彼らの目の前で死んでいったのです!私たちの周りで死が起こるときに、イエスがご自分の死をもって与えてくださった癒しを得る努力に拍車がかかりますように。なぜならば「彼のうち傷のよって、私たちはいやされた」のですから。

どうして癒されずに死ぬ人がいるのでしょうか、それは神だけがご存知です。 彼らがイエスを知っていたか、又は、小さな子供だったならば、もう今は永遠に癒されて主とともにいることは確かです。そして私たちはまた彼らと会うことができるのです。

今にも傾きそうなこの鉢の中には復活の命が入っていました。人に噛み付いた死の顎をこじ開けお葬式をキャンセルさせる鍵が、この鉢から転がり出るのが見えました。天の力強い天使が「人々は見つけた!奇跡をおこす鍵を見つけた!死の病、病気、疾患の逆境の中でもあきらめずに信仰の祈りを続けて忍耐し続けたからだ!」と叫ぶのを私は聞きました。

私は病人のために何度も祈ってきました。そして、祈っていて何も感じないときの方が、もっと頻繁に癒しが起こるのを経験してきました。癒しのための真の信仰の祈りとは、自分では祈る気持ちが起こらないときに、イエスに祈りなさいといわれるから祈る、という祈りだと私は思います。病人を癒すのは感情的な祈りではなく信仰の祈りなのです!私たちが同情で動かされ、神の臨在を強く感じながら祈るときもあります。また、感情ではなく信仰で祈るようにと主から言われるときもあります。「祈るのが難しいと感じるときこそ、一番激しく祈りなさい!When it’s hard to pray, pray the hardest!」という言葉を聞いたことがあるでしょう。

あなたの手中に癒しがあることを忘れないでください。なぜならば癒し主があなたの中におられるのですから。
さあ、一緒に癒しの鉢を傾けましょう!(終わり)

11 05月

真の神の家族       デイビッド・デミアン   5月11日



真の神の家族が召しだされるとき

ディビッド・デミアンWatchmen For The Nations (カナダ)

2005年のクリスマスに、私と妻のルース、そして私たち7人の子供のうちの6人を連れて、人生最高のファミィー・バケーションになるはずの旅行に出かけました。祝福を受けて、ハワイ、オーストラリヤ、ニュージーランドへの5週間の旅行をすることができたのです。本当に私たちはわくわくしていました。2005年は私は多忙をきわめ、家族を家に残してひとりで旅行をすることも多かったのです。このバケーション中はもう仕事のことをすっかり忘れて、家族でゆっくりとリラックスして楽しめる、と期待しました。
ところが、次に起こったことは全く私たちが予期しなかったことでした。ハワイで滞在する家に到着してから48時間後に、その家に泥棒がはいったのです。全員のパスポート、飛行機の切符、現金、コンピューター、DVDプレイヤー等が盗まれてしまいました。まったく悪夢のようでした。
又、ハワイはアメリカ中でカナダの領事館がない唯一の州だとわかり、私たちはロス・アンジェルスの領事館にパスポートの再発行をしてもらう申請をしなければなりませんでしたが、ハワイからオーストラリヤに発つ日まで数日しかなく、本当にはらはらしました。私の人生の中でこれほどすべてが上手くいかなったことはありません。

パスポート用の写真をハワイで撮って申請書と一緒に送りましたが、サイズが間違っていました。それはアメリカのパスポート用のサイズで、カナダのサイズではなかったからなのです。次は、それには公証人の認証も必要なこともわかりました。ビーチで楽しく遊びまわる代わりに、私は6人のブーブー文句をいう子供たちを車にのせて、コスコにパスポート用の写真を撮りに2日間に3回も行かねばなりませでした。その他に私は領事館に行ったり、空港に行ってチケットを再発行してもらったり(何百ドルもかかりました)しなければなりませんでした。ローラーコースターのような期待と失望の3日間をすごし、やっと新しいパスポートを手に入れることができました。それは、シドニー行きの飛行機に乗らねばならないほんの数時間前だったのです。

でも問題はそれで終わりませんでした。ホノルル滞在の最後の夜、当時10ヶ月だったジョエルの身体の具合が非常に悪くなったのです。彼は嘔吐と下痢がひどく、私とルースは一時間に6回もオムツを替えねばならないほどでした。この症状は12時間のシドニーへの飛行中も、その後も数日間続きました。どうしても下痢を止めることができず、彼はぐったりと生気を失っていくので、とうとう救急病院に連れて行かねばなりませんでした。

私たちの夢のバケーションは悪夢に変わってしまいました!私たちを苦しめたのは周りの状況ばかりではありませんでした。泥棒に入られたとき、私はすぐに主を求めましたが、主が先ず言われた言葉は、「ディビッド、私が慈しみ深い神であることを疑ってはいけない。私の教会は今、新しい権威を持つ次の段階に入ろうとしている。あなたはこの困難を家族みんなでがんばりぬかねばならない。そうでないと、将来起こることを切り抜けてはいけないだろう。」でした。又、主はルースに、子供たちも一人ひとりが自分で親と共にヴィジョンを持つことを主は望まれていること、彼らはもう親の恵みに安直にぶら下がっていることはできない、とはっきりと告げられました。

主のみ言葉通り、それから私たち家族は、強烈に自分たちの心の奥をさらけ出し見せ合うことになったのです。お互いの関係、リレーションシップにおいて、今までは覆われていたもの、隠されていたものがすべてあらわにされました。子供たちは絶えず喧嘩をし、そこから逃げ出すことも不可能でした。なぜならば、私たちは一緒に車に乗り、一緒に飛行機に乗り、一緒にモテルの一室で泊まり、一緒に食事をし、一緒に遊んだからです。もう限界だ、もう無理だ、              と感じたときもありました。しかし、私たちが弱り果てた時にも、主は絶対に最後までやりとおされる決意だということが私には分かりました。
私たちが今から入ろうとしている新しいシーズンは、今まで経験しなかったような激しい戦いの試練のときであり、それに勝利するためには、家族としても新しい関係、リレーションシップを築いておかねばならないことを、主は私に示してくださっていると感じました。

数週間にわたって私は自分の本当の姿をさらけ出し、砕かれました。すると、ある朝突然主が「終わったよ。」と言われたのです。これは、自分が暴露されるシーズンの終了を告げるものではなく、この旅行時における苦難の期間がたまたま終わり、主の恵みによってテストに合格したことを主は言われたのです。 
その日、家族は心の底から話あうパワフルな時をもつことができました。子供たちもルースも私も心を開き、正直に自分の痛みやフラストレーションを話すことができたのです。幼い子どもたちさえ、自分の気持ちを隠さずに率直にはっきり話すので、私は驚嘆し、神が私の家族に何か素晴らしいことをしてくださっていることがわかりました。まずみんなが砕かれ、そこに癒しが起こりはじめ、これからは一緒に何でも話し合い、愛と尊敬をもって歩きはじめよう、という新たな家族のコミットメントが生まれました。

家族がカギ

カナダに戻ってすぐに、ハワイのある人からEメールが届き、私が盗まれたラップ・トップ・コンピューターとPDAを見つけたといってきました。「電子製品はすぐに質屋に持っていかれるので出てくることは先ずない。」とハワイの警察で言われたので、私はびっくりしました。彼はコンピューターに強い人で、ある男からラップトップのふたが開かないから助けてほしいといわれたそうです。彼が開けてみると、最初のデスクトップのページに出てきたのが去年のクリスマス・カードに使った家族の写真だったのです。彼の心の中で何かが「これは善良な男の善良な家族のものだ。これは持ち主に返さねばならない。」とささやきました。彼はコンピューターをしらべて、私のミニストリーであるWatchmen For the Nationsを見つけてメールをしてくれたのです。

これが起こったとき、主が「これはこれまで長い間わたしが教会に教えようとしていたことを象徴する預言的な絵である」と私に語られました。このハワイの人は家族の写真を見たときに心が変えられました。7月のOne Heart カンファレンス以来、私の心には主からの重荷が与えられていたのですが、この世がキリストを信じるため
 Page 126 of 131  « First  ... « 124  125  126  127  128 » ...  Last »