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Walk With God Ministries


20 07月

戦争に入った国     ルーベン・ドロン      7月20日


戦争に入った国                                                               ルーベン・ドロン


 中東の紛争が日ごとに激しくなり、イスラエルにいる私の元には多くの友人やとりなし手から電話がかかってきて、「どのように祈ればよいのでしょうか?聖書で『栄光に輝く地』と呼ばれているイスラエスで今、何が起こっているのですか? ご家族はどうされていますか?」と尋ねられます。皆様が心にかけてくださり、神のイスラエルに対するご計画を信じて祈っていてくださることを心から感謝いたします。

 私は今年の2月に「戦争に備えよ」という記事を書きましたが、そのときに皆様の中には、私が中東での戦争は避けられないと言ったことに対して、言い過ぎではないかと思われた方もあったようです。 「私達はみな結局は平和を望んでいて、お互い仲良く暮らしたいと思はない人はいない。」と思われたのでしょう。 確かに私たちは平和を愛する者ですが、もし、あなたがイスラエルのように乱暴者にかこまれて住んでいるとしたら、どうしますか?

 地上では様々な事態が起こりはじめ、霊的にも嵐がくることが予知されたので、戦争が勃発することが明らかになった2月の時点で、それをとりなし手たちに知らせたのですが、 悲しいことに、私たちイスラエスと世界が困惑している目の前で、預言の言葉が考えていたよりも早く、現実のものになってしまいました。

ガザ地区と最近起こった誘拐事件

 これまでの15日間、イスラエル軍はガザ地方に攻め込んでいますが、そこはほんの数ヶ月前に一万人くらいのイスラエス市民が強制的に立ち退いたところです。なお安全の面で問題を残していますが、このガザ地方は、パレスチナの人たちが「イスラエルからの妨害」なしに生活ができるようにと、イスラエル側が一か八かの賭けを覚悟で、パレスチナに引き渡したところです。 このイスラエルの譲歩は、過去にそこを統治していたオットーマン帝国、英国、エジプト、そして一番最後のヨルダン人もしなかったことであり、前代未聞の行動でした。

 しかし、この試みは、パレスチナがハマスというテロ組織を政府として選んだことにより、たちまち崩壊してしまいました。パレスチナの建国に対する考えは、イスラエスが撤退してからわずか数日のうちに、カサム短距離ロケットを国境の向こうのイスラエルの町に発射するということでよくあらわされています。 一年足らずのうちに、合計1000以上のロケットがイスラエル市民にむけて発射されていて、それに対してイスラエルは軍事的な報復は何もしませんでした。 イスラエルの軍隊は、政治家が必死になって軍事的解決以外の出来る限りの和平交渉をまず試みていた間、実力行使に入るのを引き止められていたのです。
 しかし、2週間前にイスラエルの国境警備員がガザのテロ・グループによって誘拐されるという事件をもって、その抑制期間は終わりをつげ、イスラエルの激しい軍事行動がはじまりました。この局面は今や、レバノンのイスラエルの北部にまで広がり、イスラエル兵士が2人、へズボラのテロリストによって誘拐されました。へズボラというのは、アルカイダの中東の「いとこ」のようなグループで、イスラムのテロ組織であり、レバノン政府から何の束縛も受けずに南レバノンを事実上支配し、シリヤとイランから資金援助を受けています。
この記事を書いている今も、広い範囲へのイスラエル軍による空爆が、ガザとレバノンの重要な施設やテロ組織にむけて行われています。また、同時に陸軍も誘拐された兵士たちを助け出すために敵地に入り込んでいます。 シリヤとイランの黒い影がこの事態の背後にあることは誰の目にも明らかであり、耳があるならば、戦争を告げるドラムの響きが激しくなってきているのを誰でも聞くことができると思います

戦争になる

 私たちはイスラエルに、家族や友人、又、多くのかかわりがあります。 そして、この不可避な戦争をどうにかして避けられないだろうか、抑制できないだろうか、最小限にとどめられないだろうか、と祈ります。私たちも皆さんと同じで戦争を好む者では決してありません。しかしながら、戦争はそこまで来ているのですから、それに対処し備えをしないのは愚か者だけです。遅かれ早かれ、サタンが大胆になるときに、敵からの攻撃がはじまるのです。その時には、たとえ平和を愛する国家であっても、武器をとって国を脅かす悪に打ち勝つために断固として戦わねばならなくなるでしょう。 人類の歴史を通じて、それが自由を愛する人々に課せられてきたことなのです。

 最近、一つの力強い預言の言葉が発表されて、多くの人に知らされましたが、それは主イエスの教会は戦う民であるということを言っています。 その言葉は真実です。なぜならばそれは、私たちの霊的遺産と現在のますます暗くなっていく世界の状況を踏まえて語っているからです。

 イスラエルの国家は常に「霊的なイスラエル」―教会―と平行して動いており、教会と同じ真理を、肉の形で証言するものであることを、私たちは認識せねばなりません。 ですから、イスラエルが紛争に巻き込まれている今、時を同じくして、信頼できる預言者たちが、主の名で呼ばれる人々の中に勇気、訓練、犠牲を語っていることは、少しも驚くべきことではないのです。
今夜、私は、子供たちや、イスラエルにいる家族と電話で話しました。「日の下には新しいものは一つもない。」と私は彼らに言いました。

 イスラエルは、今までも常に紛争の中にありました。私たちが約束の地にいることは、まわりから常に憎まれ妨害されました。国境ではいつも小ぜり合い、衝突、軍事的紛争がありました。 イスラエルは神の契約の民であるための(まだ目に覆いがかけられてはいますが)高い代価を払いつづけているのです。

 実際、最近の比較的穏やかな数年は、人々に思い違いをさせてしまったかもしれません。和平交渉は茶番劇であり、合意は不誠実であり、交渉相手は偽りを言い、イスラムの大部分の人の心は変わっていないのですから。 「平和の君」が統治される終わりのときまで中東に平和は来ないでしょうし、従って、世界にも平和は来ないでしょう。
ですから、善良な国家は、時には戦いに備え、悪が押し寄せてくるのを防御し、地上での主の救いの業が続いていくための時間とスペースを勝ち取ってゆかねばなりません。 イスラエルの軍隊で戦ってきた家族の中に生まれ、自分も 兵士であった私は、子供たちにこういうのです。「我々はいつも戦わねばならなかった、そしていつも勝利してきた。」と。

 平静でいなさい。神はすべてのことを起こる前からご存知であり、今回の危機で気をもんでおられるということもありません。 今の艱難や、いのちを失う人が多数いること、また暗雲が立ち込めるような状況を見ると、たしかに気が重くなりますが、神は戦いに長けた方です。 神は主の名を呼び求める者のそば近くに常にいてくださいます。

主の御心がなされますように、御国がきますようにと祈ってください。 主の導かれるままに祈ってください。(終わり)


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10 07月

タイム・カプセル      チャック・ピヤース   7月10日


タイムカプセル
                                          チャック・ピアス 


祝福と喜びをあなたに解き放ちます。 キリストの光があなたの人生に輝き、あなたが主の恵みのうちを歩まれますように!
私たちは今、収穫の時、前進の時に来ていますが、私たちが成功するのを邪魔したり、止めようとして働く霊があります。 私たちの中の「ミデアン人の霊」にどのように勝利するかを、ほとんどのクリスチャンは知りません。 今、私たちは、ミデアンの呪いを打ち破って進んでいく油注ぎのあるトンネルを与えられ、好機の窓へと私たちは進んでいくことができるのです!

私は天のタイムカプセルを見た

今や成功の窓は開いた、敵の一歩前を進み続けよ

このことばが私の心に繰り返しひびいてきます。先週、マイクとシンディ・ジェコブス夫妻と共に集会を持つためにワシントンDCにむかっていましたが、その飛行機の中で、神の御霊が私に臨まれ、タイムカプセルを見せてくれました。 そして、このカプセルは主のとりなし手たちが、今これを食べなければならない、と幻で教えてくださいました。時間がくると溶け始めるカプセルのように、このカプセルは私たちの中に入って序々に働き始め、アメリカの未来の方向を定めていきます。カプセルの中には情報が刻まれている螺旋形のものがあるのが見えました。その情報は今私たちがいる「7年間の戦争のシーズン」と関連していました。

木曜日の集会で私がメッセージを終えたとき、主は私に次のように主の命令を布告する(decree)ことを命じられました。「しるしとして、天から洪水を解き放ち、ワシントンDCを満たし、語られた神のご計画とみ言葉が真実であることを証明せよ。さあ、洪水よ、起これ!」 主はまた、「木が根こそぎ倒れる」ことも語られました。 ご存知のようにワシントンDCは現にこの数日、洪水に見舞われています。【それによりホワイトハウスの玄関のまん前にある古い大木が倒れました。訳者注】今のシーズンのしるしを見逃してはならないのです!

7年間の戦争のシーズン

下記でタイムカプセルの説明をしますが、その前にまず、今私たちが経験している「7年間の戦争のシーズン」についてもう一度お話することが重要だと思います。2001年の9月に私たちは「戦争の始まりー古いサイクルを打ち破る7年間」 というシーズンに入りました。これは地上で神の約束にある争いが起こるシーズンです。覚えておられると思いますが、これは、ニューヨーク市でワールド・トレイド・センターがテロリストの攻撃で倒されたときです。その後目に見える世界ではテロリズムとの戦いやその他様々な抗争へと突入していきましたが、本当の戦いは宗教色の強い霊的なものでした。

それ以来今も、その戦いのシーズンの中にいる私たちは主の「安息日の安息」を経験させられながら、その中で私たちの信仰が深まりました。それは2002年の9月に始まりましたが、それはヘブルの年の5763年にあたっていました。その時からアップ・ダウンの激しい情勢にじっと耐えることを私たちは学ばねばなりませんでした。主はそれを「神のロディオ」(野生の牛の背に乗り激しく上下に揺り動かされながら乗り続けること)と喩えられました。2003年の9月に私たちは、「秘密、奥義、驚きの年」に入りました。この年はまた、「馬と共に走る年」でもありました。つまり、あなたは徒歩の人を追い抜かねばならず、周りの状況が厳しくなって混乱に陥り、あなたが争っているものより早く走らねばならないときが来たのでした。(エレミヤ12)

今は激しいワーシップのときである

私たちが生かされている今のシーズンはヘブル語ではSamekhと呼ばれ、敵の陣営を囲む、取り巻く、分捕るというシーズンです。 今は静かにしている時ではなく、激しくワーシップすべき時であり、敵を叫びながら追い抜いていくシーズンです。 今は天と地とが非常に近づきつつある時です。 それがハリケーンや津波というような激しい変化の波を引き起こしています。 地は震えています。 今私たちはこの7年間のシーズンのうちの5年目を迎えていますが 「5」という数は恵みを表しています。私たちのこれからの戦いのために超自然的な豊かな恵みが用意されているのです。 将来のための私たちの当然の権利を要求して確保する時です。私達は今、(過去に起こったことが私たちの将来に影響するという古いサイクルを打ち壊し)過去をむしろ将来に従わせ、主が私たちにベストなものを用意しておられるということを布告・宣言(decree)しなければなりません。私たちをとりこにして神の祝福を将来においても受けられないようにしている「古いサイクル」を打破する戦いを、あと2年間、私たちは激しく戦って勝ち取らなければならないのです。

ヘブルの次の年は2006年の10月から始まりますが、それはSWORD(剣)という年です。 激しいワーシップがもっと激しくならねばならないのです。神の民である私たちは、この地を霊的な力で勝ち取るのです。激しい(過激的・バイオレントな)ワーシップは自然界の暴力(バイオレンス)を打ち負かすことができます。 それはワーシップが私たちの周りの空気を変えるからです。これからの数ヶ月間、善と悪とが新しい方法で、よりはっきりしたものへと二分されていくでしょう。天と地とは緊密に提携して動いていきます。地上では新しい統治者(御国の)による評議会が町々に形成され、それによって魂の収穫をもたらすための戦略が考えだされるでしょう。 これらの組織はどのように天からの命令を宣言・布告(decree)すれば、それが実現するかを知っており、実際に物事が新しい支配下で着々と実現していきます。富を新しい権威者に移すための宣告をしていくことがどれほど重要であるかという理由がここにあります。


好機の窓が私たちの上に開いている

タイミングが重要です。- 天におられる「主をどのように求めるか」が、今の世代に地上で起こることを決めていきます。私たちは「主からのみことばを食べる」ことが必要であることを忘れないでください。 主が見せてくださったタイムカプセルの中身をここに書きます。

今から8月10まで:「砂漠が反撃してくる」 この期間は敵の攻撃に抵抗することを学ばねばなりません。あなたは前進して敵に立ち向かっていくのです。荒野、砂漠の霊にやられてはいけません。

8月9日から9月5日まで:神に
06 07月

リバイバルのための悔い改め   フランシス・フランジペイン  7月6日


リバイバルのための悔い改め

フランシス・フランジペィン


真のリバイバルはひとりでに起こるものではありません。主が訪れる(リバイバルが起こる)ためには、その前に人の心の中に必要な条件が整えられなければなりません。

一時的な慰めではなく、解放を求めなければならない

往々にして今日、主の働き手たちは、自分の罪を悔い改めようともせず、又、神の助けを心から叫び求めてもいない人々を、一生懸命解放しようとしています。その結果、祈られた人たちは少しばかりの慰めは受けるかもしれませんが、すぐに又、罪を犯して落ち込んでしまいます。人々に真の解放を与えるための鍵は、その人が心から解放されたいという気持を持っているか、解放される用意ができているかを、祈る前にしっかり見分けることです。彼らは本当に悔い改めているでしょうか?自分の偶像を除いた人たちでしょうか? 心が本当に神に向いているでしょうか?

個人の解放のための神のパターンは、教会や町のためのパターンでもあります。主は私たちが心から助けを求めて叫ぶまで救ってくださらなかったように、多数のものが祈り求めて主に叫ばなければ、多くの教会や町を勝ち取ることはできません。町中の教会が一つとなって祈るようにと、キリストが今私たちを召しておられるのは、全能の主が答えてくださるような正しい心の態度を私たちが持つようになるためです。


神の御前で祈り叫ぶという土台がなければ、解放の業や、「つないだり解いたり」、その他の様々な霊的戦いの業は大幅に制限されてしますます。聖書によれば、人がまず、自分の今の状態を心の底から嘆き、そこからの助けを求めて神に叫びはじめるときに、解放という最終的段階にまでたどりつくことができるのです。

解放者たち

旧約聖書の中には、解放とリバイバルを神が起こされるときのパターンが書かれています。民が苦しみの中で祈り叫ぶのに応えて、主は解放者たちを立てられます。彼らは、苦しめるものからイスラエルを救うために神に選ばれた油そそがれた力ある者たちです。

彼らがイスラエルを解放するのに成功したのは、彼ら自身の素質とか資格によったのでは全くないことに、目を留めることが重要です。彼らは確かに神によって送られたのですが、そのタイミングはイスラエルが悔い改めたときと同時だったのです。悔い改めがなければ解放もありません。イスラエスが神に叫んだとき、解放者が立てられ、聖霊の力の油注ぎを受けました。
この旧約時代のリニューアルのパターンのポイントは、今の私たちにも当てはめることができます。実際に「解放者」が現れるのが見えないかもしれませんが、深い祈りと悔い改めが広がっている町では、リバイバルが起こってくるでしょう。

イスラエルを見てみますと、国家的な罪が敗北をもたらし、他国による支配が起こりました。それにより、悪魔礼拝がもたらされ、イスラエルの心は敵によって完全に惑わされてしまいました。イスラエルが神の律法を公然と無視したので、国の経済的、文化的、物質的崩壊がやってきました。神の祝福を民が受けていた国の上に、今や絶望と悲惨が訪れたのです。

このような状態におかれて苦しんだ国民が、心から神に泣き叫んだとき、神が解放者たちを起こされたのです。解放者たちは、悔い改めたイスラエルを圧制者から救い出し、勝利へと導きました。真の礼拝が回復されたとき、国家の平和と繁栄が始まりました。

リバイバルへの道のりは、決められた予定表に沿って進むのではないことに注意してください。はっきりとスケジュールが決められているのではありません。神の裁きがどのくらい続くのか、人が罪を悔い改める深さがどのくらいになったら神が満足されるのか、それは誰にも予測できません。しかし、次のことだけは確かです。
リバイバルが起こるまでに要する時間は、私たちが予想するよりいつも長いということです。 それの決定要因は、人々が罪を認め、神に顔を向けるということです。国家の中心的人々がしっかりと神に顔を向けたとき、その国の癒しが始まります。

ネヘミヤは国が解放されるまえに起こる悔い改めの型について語っています。彼はこのように祈っています。

ネヘミヤ9:27
「そこで、あなたは彼らを敵の手に渡され、敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたの大いなるあわれみによって、彼らに救う者たちを与え、彼らを敵の手から救ってくださいました。」


私たちはこのプロセスの途中であせったり、また祈りに主がすぐに応えてくださらないからといって、いらいらしてはなりません。 主は国家が反逆の罪に押しつぶされるまで待っておられるのです。けれども私たちは次のことにおいて、勇気をあたえられます。

私たちのとりなしそのものが、全能の神に国家が悔い改めをするようになるための初穂であり、間違いなく国家の悔い改めは起こるということです。

時々は少しばかりの聖霊の働きがところどころで見られるかもしれませんが、国家のリバイバルが起こる前には、必ず神への叫びが国中で起こらねばなりません。この時は「苦難のとき」とよばれ、これは数年の間主に叫び求めることなしには成就されません。

人の嘆き、神のこころ

士師記には、このパターンが何度も繰り返されています。イスラエルが罪の深みに陥っていくとき、その罪の重荷とその報いの結末によってイスラエルがへりくだるのを神はじっと待たれました。彼らをご自分のところに呼び戻すために待たれたのです。

しかし、主はイスラエルの悲しみを遠くから眺めておられる方ではありませんでした。民が反逆しているときにさえ、神は彼らの苦しみを感じておられました。主がこれ以上「イスラエルの苦しみを見るのに忍びなくなった(士師記10:16)」時、主は解放者を送られました。イスラエルの悲惨、絶望が彼らを神に立ち返らせたのです。


これと同じパターンは出エジプト記にある主とモーセとの出会いの中にも明らかです。

出エジプト記3:7-8
「 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上ら せるためだ。」


主が民の苦しみを見られたことに注目してください。主は彼らの叫びを聞かれたのです。主は彼らの苦しみをご存知でした。神は人類の窮状から遠くはなれたところには決してないのです。事実、主は私たちの社会の悲惨さを負ってくださっているのです。

私たちの悩みは主の悩みであり、私たちの苦しみは主の悲しみなのです。

出エジプトの中で、神が聞かれたのは祈りだけではないことに注意してください。主は彼らの泣き叫びも聞かれました。私たちの必要を祈ることも大切ですが、涙を流すことは、もっと深いことです。神は悲しむ者をこそ慰めてくださるからです。
主は彼らの苦悩、苦しみを知っておられました。神が応えてくださる祈りとは、絶えざる叫びであり、それは多くの場合、苦痛と苦しみの中から
生まれてきます。今日においてはアフリカやアジアの地域でそれは起こっています。

主がまだ私たちの祈りに答えてくださらないのは、私たちの祈りがまだ「祈り会の予定時間の範囲内で終わるような」祈りをしているからです。私は1970年のカリズマティック・リニューアル・ムーブメントのときにキリストを信じました。
このムーブメントは、何百万という母親たちの昼夜絶えることのない叫びから始まりました。単に一時間祈ったから起こったのではないのです。自分の子供たちがドラッグをしたり反抗的になっているのを深く嘆いた母親(父親も)たちの絶え間ない叫びの中から生まれたものでした。それは宗教的に整った祈りではなく、彼らの存在の心臓の鼓動そのものでした。「霊的戦いはこうあるべきである」というような高尚な方法ではなく、彼らの途絶えることのない涙と嘆きが神の御前に届き、神は彼らの子供たちを救ってくださったのです。

現在リバイバルが遅れているのは、私たちは確かに問題を感じてはいますが、今の社会の状況に本当に苦しんではいないからではないでしょうか。悲しんではいますが、まだ涙を流してはいないのです。

しかしながら、しだいに多くの神の民がキリストの憐みの心を受け取りはじめています。彼らのとりなしの祈りの中では、人々の必要だけではなく、人々の痛みをも負っています。彼らは自分の評判を捨て、仕事も捨て、そうです、彼らの命さえも捨てて、私たちの社会の罪が清められるのを見たいと願っているのです。

まだまだ少数ではありますが、これらのとりなし手たちは、自分の住む町の苦悩を心の中に抱いているのです。 圧迫されている人たちの叫びを彼らは聞くのです。母親のお腹の中にいる子や生まれてきた子の苦しみを知っています。神は彼らの祈りに応えようとしておられます。彼らの苦悩というお腹の中から解放が生まれでてくるのです。

祈りをする教会はとりなしの祈りのための時間を制限するべきではありません。神は祈りで貫かれた人生を求めておられるのであって、ただ一時の祈りのシーズンでは不十分なのです。もし時間が来たからといって私たちがとりなしの祈りをやめるようならば、私たちのこころは神が介入されるほどには、まだ十分な準備はされていないということが明らかです。

これらのことがリバイバルとどう関係があるのでしょうか。霊的リニューアルだけが私たちの町や国を救うものであり、神に助けを求めて絶えず叫ぶすべての者たちに対する神の答えなのです。

祈り
主よ、私たちが真の解放ではなくて、ただの慰めを求めていることをお許しください。 あなたの完全な御心ではなく、近道をもとめていることも。 主よ、あなたの心は苦しむ者の心からの叫びを拒むことは出来ないことを知っています。あなたのは民の悲惨さを見るのに長くは耐えられないで、必ず手をさしのべてくださることを知っています。ですから、主よ、今日私たちはあなたに叫びます!あなたの臨在の雨をもう一度降らせてください。私たちが安逸をむさぼり、無関心になっていることから、どうか私たちを聖めてください。リバイバルをもたらしてください。あなたの栄光のために祈ります。アーメン (終わり)


【日本は今トランスフォーメーションへの関心が高まりつつありますが、私たちは常にリバイバルの基本と原点に返らなければならないというフランジペイン師の今回の指摘は非常に的を得たものであるという気がします。 現状の理性的でなまぬるい自分には満足できない、どうしても先ずそのような自分が変えられなければならない、主よ変えてください、という心からの悔い改めの願いから始まり、主の心の内にある熱い愛を知って、地域、町の人たちへの救霊の情熱がほとばしるような泣き叫びのとりなしへと変えられていきたいと願ってやみません。坂 達也】

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22 06月

語られる神       チャック・ピヤース      6月22日


神が語られるとき

          チャック・ピアス著 
               「When God Speaks」の第一章 からの抜粋

神は声を持っておられ、実際に人に語りかけられる、ということを初めて知ったのは、私が8才のときでした。私のおばあさんは大変信仰深い人でしたが、テキサス州にあった私たちの家からすぐ近くの小さなバプテスト教会へ私をいつも連れていってくれました。教会にはグリムス夫人という人がいて、彼女は非常に変わったことをいつもするのでした。説教の最中に立ち上がって手を振り出すのです。バプテスト教会ですから、これは本当に変わった行動だったにもかかわらず、牧師は話すのをやめて、「グリムス夫人、何でしょうか?」と聞くのでした。するとグリムス夫人は「主が私に語られました!」といい、牧師は「主が語られていることを教えてください。」と頼むのでした。彼女は主の御霊が語られていることを会衆に告げ、それが教会にとってどのような意味があるのかを話すのでした。

神が実際に人々に語りかけることができることを知った私は、本当にそのことに魅了されました。牧師が神について話すと、退屈で無味乾燥な感じがしましたが、グリムス夫人が語ると、いのちと躍動に満ち溢れているようでした。
私はおばあさんを見上げて、「神様があの婦人に語ってくださるなら、僕にも話してほしいなぁ。」というと、おばあさんは、「神様に何か言って欲しかったら、先ず、静かにじっと座っていなくちゃだめよ。」 というのでした。私は普通の8才の男の子でしたから、教会でじっと座っているのは苦手だったのです。

私が救われた日

その時から、神は声を持っておられる方だということを疑う気持ちは私の心から消え去りました。グリムス夫人を通して聞きましたし、日曜学校で聞く聖書の話の中でも神が語られることを知りました。でも神が直接私に語られることはそれからもずっと無かったのですが、ついに、私が11才のときにそれが起こったのです。
ある日曜日に礼拝の中で、主の御霊が私に臨まれて、はっきりと「今日はあなたの日です。」と語られたのです。そして、あたかも主の御霊に導かれるようにして私は祭壇の前まで行き、11才の子供として出来る限りのやり方で、主に私の人生を明け渡しました。

後になって聖書を調べて明確にわかったのですが、神は私たち一人一人に救いの日を定めておられます。(IIコリント6:2参照)
私たちはみな、自分の救いの日に神の声が私たちの霊に語られるのを聞いて救われるのです。それまで私たちの霊は罪の中で死んでいましたが、私たちが神の語りかけに応答し、自分の暗い霊の中に真理を照らしだしてくださるようにお願いするときに、それが私たちの救いの日になるのです。
事実、神の声が私たちに働きかけることなしに救われる人は一人もいません。耳に聞こえるような声を聞かなかったかもしれませんが、救いの真理を明らかに示すことができるのは神だけです。 ですから、イエスを主とし、救い主として受け入れた経験のある人は、そのときにはそれとわからなくても必ず神の声を聞いたのです! 又、神の言葉を、読む人に生きたものとするのも神の声です。ですから、聖書の言葉から私たちが真理を汲み取るときはいつも神の声を聞いているのです。

「わたしは回復させる」

私は11才で救われましたが、私の子供時代は問題だらけで暴力やトラウマの多い環境で過ごしました。私の家庭は多くのものを失い、苦悩に満ちていました。父がサタンからの攻撃に負けてしまったのが原因で、私がティーン・エイジャーになる頃には、家族のほとんどはばらばらになっていました。父が悲劇的な最期を遂げたのは、私が16才の時でした。18才になったころには、働きながら大学に行っていたことや夜遊びなどで、私は身体をすっかり悪くしてしまいました。

ついに私は疲労と肺炎で入院しなければならなくなりました。その入院中に主が耳に聞こえる声ではっきりと、「わたしはあなたがこれまでに失ったものをすべて回復する。」と言われたのです。その言葉と共に、主は私の身体のすべての部分に浸透してこられました。そうではないかと思っていたのですが、そのとき私ははっきりと、主が私の過去の傷をいやされるばかりではなく、私の将来をも回復してくださることを知ったのです。 

それまで私は「回復」という概念を聖書の中に見つけることはできなかったのですが、もっと深く読むうちに、神の声には回復させる力があることを学びました。(ヨエル2:25参照)
神の声を聞いた瞬間から、私の人生は変わりました。神は奇跡的な方法で私を癒され、解放し、回復させてくださいました。
神の声は私たちを過去の廃墟から助け出し、私たちのために主が定められた人生のコースに立たせてくださるのです。そのことを私はずっと昔、あの入院中に知ったのです。

あなたの証には力がある

みなさん今、この本を読むのを中断して、あなたの人生の中でどのように神の声を聞いてきたかを考えてみてはいかがでしょうか。どのようにしてあなたは救われたか、どのように神はあなたの人生や状況に超自然的に介入してくださったか等を考えてみてください。その証を書いてみるといいかもしれません。あなたの証の言葉には偉大な力があるからです。他の何よりも信仰を立てあげてくれます。

私たちの証は人間の霊の重要なはたらきの一つです。契約の箱のことを考えてみてください。いくつかの物がそこに入れられていましたが、その一つは神がモーセに与えたテスタメント(二枚の証しの石の板)でした。御言葉を通して神と交わるとき、私たちは心の奥深くに神の命令や規則を蓄え、そこで神との契約を結びます。これらの命令や規則に私たちが従い、神の真実・誠実を経験すると、私たちは敵と戦うときに偉大な力を発揮する証という武器を沢山持つようになります。
私たちがしっかりした証を持つと、敵がうそで惑わそうとするときにも、「神が私にこう語られた。今までにも神の御手が働くのを見てきた。今も神は同じようにしてくださること私は知っている。神には不可能なことはないからだ!」といって敵を論破することができるのです。

黙示録12:10には次のように書かれています。

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威があらわれた 。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」  
             

神の声と私たちの証とが共にはたらくとき、敵はそれに耐えることができないのです。……


人生の中で神の声を聞く

父、子、御霊なる三位一体の神はそれぞれが私たちに「語ってくださり」、力強く働かれます。神の声は大いなる権威をもって命令を下し、それは無から有を創造する力を今も持っています。神の声は私たちの人生に起こってくるすべてのことに対してもそれと同じ力を発揮します。私たちの人生が混沌としているとき、それは天地が創造されたときの状態と同じなのですが、神の声がその混沌に向かって発せられると、それは闇と光をわけ、そこに秩序をもたらします。

さらに、神は私たちが気がつかないときでも、私たちの想像以上に、しばしば語られているのです。旧約と新約の聖書全体を通じて、神は人々に頻繁に語られています。王や裁き司、預言者や羊飼い、そしてイエスの弟子たちにも神は語られました。年寄りにも若者にも同じように語られました。権力のある者にも社会的には全く認められていないような者にも語られました。正しい者にも罪人にも語られました。創世記から黙示録にいたるまで、神はあらゆる種類の人たちに語られたのです。

聖書が完成したときに神が語るのをやめられたとは、聖書のどこを探しても書いてありません。人類の歴史を通して、神は人々に語り続けられているのです。もしあなたが、キリストをあなたの救い主であり主であると受けいれているならば、あなたもそのうちの一人なのです。神は人々に、指示、なぐさめ、深い洞察、矯正、励まし、約束等を今日も語ってくださいます。
黙示録2:7には「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」とある通りです。

今は主イエスの血潮が私たちを贖ってくださった故に、聖霊が私たちと父の心とをしっかりと結びつけて下さっています。しかし、聖霊は私たちに語られるだけではなく、私たちを通しても語られるのです。
神が私たちを無から有を創造する御声をもって形造られたとき、私たちを神の形に似せて造られました。そして地を支配せよといわれました。(創世記1:26参照)
私たちは神の似姿に造られ、キリストによって贖われましたから、私たちは聖霊の力によりこの地上で神の声になる力を持っているのです。私たちを通して聖霊はキリストの教会に、また、罪の中で瀕死の状態にあるこの世に対しても語られます。これこそがまさにキリストの使節になる事であり、預言するということなのです。(終わり)


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15 06月

不都合なときの主の招き  フランシス・フランジペイン  6月15日


不都合なときの主の招き

フランシス・フランジペィン

神を信じる人は数多くおりますが、真に神を礼拝するものはわずかです。真の礼拝者たちは、神をあがめることを一番の喜びとします。彼らの礼拝はかぐわしい香りとして立ち上り、それは日曜の教会での礼拝の時間だけではなく、彼らにとって不都合なときにさえ、彼らは主を礼拝するのです。

真の礼拝者は、朝、仕事や学校に行く前に早く起きます。主と静かな時間を過ごすために、家族よりも早く起きるのです。 何かで待たされるときにも、イライラしないで、かえってその困難な事態や待たねばならない時こそ神を讃える機会として用います。
例えば道路が渋滞しているとき、あなたの隣の車の中に真の礼拝者が座っていて、プレイズ・ソングに合わせて賛美しているかもしれません。

真の礼拝者は不都合なときにも神を礼拝する奥義を習得した

私も、自分にとって不都合なときに神を礼拝するようにと、主に導かれることがあります。一人で書き物をしていたり、重要な仕事をしているときに、急に私の霊の中で何かを感じ、主が近くにおられることに気がつきます。けれども、主は私に礼拝することを命令されるのではなく、静かに招いてくださるのです。礼拝する時間は10分か15分くらいのときもありますし、もっと長いこともありますが、とにかく私は自分がそれまでしていたことをやめて、ギターを手にとって主を礼拝し始めます。

正直なところ、私はギターが上手なわけではなく、コードをいくつか知っているだけなのです。でも私が賛美するとき、天におられる王がそれを喜んでくださることが私にはわかります。主は私が御前に出ることを許され、不思議なことですが、私が歌うとき主は私の歌だけを聞いていてくださるという思いを、私に与えてくださるのです。

主からの招き

礼拝するときは自分のすべてをささげ切りたい、と私も思います。しかしながら、私が克服しなければならない最大の障害は、主が礼拝するようにと招いてくださるときは、私にとって都合が悪いことが多いことです。まるで主は私が大切な仕事に集中するのを待っておられるかのようです。しかもその仕事は主が完成せよ、と言われたことなのです。又あるときは、夜遅く、私がまさに眠りに落ちようとするときに主を賛美する機会が訪れることがあります。
しかし、私が不都合な時間にもかかわらず主の招きに応じることそれ自体が、事実、私の賛美をもっと純粋で甘美なものにするのです。
日曜礼拝の賛美は楽器の音や周りの人に助けられることがあることは確かでしょう。そこには礼拝できる雰囲気がありますから、私の賛美は純粋に私のものではなく、他の人たちから受けたものという可能性があります。それと違って、主が不都合なときに来られ、私がそれに応じるならば、私の礼拝が真実であり、私の人生で神が一番大切なお方であることを証することになります。

主が前触れもなく訪れてくださるときのもう一つの大きな喜びは、主は大掛かりな礼拝を期待されてはいないということです。日曜の礼拝は確かに素晴らしいものです。しかし、主はプロの歌ではなく、私の心からの賛美だけを求めておられるのです。

もう一つの祝福は、私が主を礼拝し始めると、多くの場合、妻もそれに気づいて一緒に賛美してくれることです。私が礼拝していると、後から妻の声が聞こえてくるのです。彼女も私とおなじように主の臨在の中に浸っています。彼女はその時何をしていようともそれを止めて、主の前にひざまずくことを愛しています。そして、二人での礼拝は真に甘美なものとなります。

祈りと賛美

祈りと賛美には違いがあります。祈りは、私たちや私たちの回りの世界の必要を神に嘆願するものです。この世は切実で急を要する必要を持つ人々で満ちていて、彼らの願いは天の父が喜んで受け取ってくださり、光に満ちた王座の前で一つ一つ聞いてくださいます。しかし、賛美は私たちの必要を話すことではありません。それは私たちの愛の表現の極致なのです。自分の必要いかんにかかわらず、私たちが神にささげるのが賛美です。

福音書にはイエスに癒しを求めた10人のらい病を患っている人たちのことが書かれています。主が彼らの願いを聞きいれ、癒されたとき、彼らは御前を去っていきました。 しかし、一人だけは引き返してきました。「そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。(ルカ17:16)」と書かれています。感謝にあふれて彼は神を礼拝しひれ伏したのです。 皆さん、多くの人は祈り、そして答えを得ます。しかし、引き返してきて主を礼拝するものは少ないのです。

愛する皆さん、私たちの心から純粋な賛美が流れ出すならば、主は私たちを主の臨在の中に度々招いてくださるでしょう。私たちの心の戸口に主の招きは静かに近づいてくるのです。主からの招待は、あなたが「主を愛したい」というシンプルな願いを心に抱く、という形をとって来るでしょう。あなたがその心の思いに素直に従うならば、あなたは主の臨在へと導かれていくことでしょう。
私たちが主を礼拝すると、主は私たちに内なる力と平安を与えてくださいます。感謝をもって主に近づけば、主は私たちを愛と喜びとで満たしてくださいます。 主を真に礼拝する者となる特権をいただいていることを喜びましょう。たとえそのチャンスがあなたに不都合なときにやってきたとしても。(終わり)


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