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Walk With God Ministries


30 09月

戦士の民(2)    リック・ジョイナー    9月30日




戦士の民——–新しい教会のリーダーシップ(2)
  
リック・ジョイナー 渡橋喜代佳訳



新しい音

現在教会リーダーのほぼ90%が男性であるにもかかわらず、教会が女性的になったため
に、大半の男性が教会内で居心地の悪い思いをしたり、退屈に感じたり、教会にはあまり
関係したくないと思ったりしている。男性が教会に参加しているのは、義務感からしぶしぶそうしている場合が多い。自分の居場所を教会内に見いだせないと感じているからだ。そのため、教会出席者の圧倒的多数が女性なのである。男性は、主を愛し神に用いられたいと思っている者でさえ、多くの場合教会が好きではないし、教会に行かなくてすむならどんな事でもしようとする。一般に、今日の教会は、男性のもっとも基本的な必要の多くにきちんと答えていないのだ。これが教会の外で起こった男性たちの運動が非常な人気を博した一因である。

私たちが本来召されているような教会になるためには、現在の定義や組織を根本から変え
ていく信仰をもたなければならない。女性的でもあり男性的でもある教会となって、男女
両方の必要に答え、その必要を満たすためである。男女両方ともが、教会内で居心地よさ
を感じるべきだし、自分たちがどのように教会に組み込まれるのかがすぐにわかるべきで
ある。教会とは、本来もっとも刺激があって、喜びと活気を与える魅力的な集まりである
べきであり、近いうちに再びそうなっていくだろう。

これからの新しいメガチャーチ

教会がその真の召しに喜んで応じ、その真の性質を示し始めるなら、この地上でもっとも
尊敬される、望ましい共同体となるだろう。現在とは著しく異なった姿になり、教会
は国々の中に打ちたてられる一つの国とみなされるまでになり、実際、そうなっていくであろう。そのような変革を成し遂げた教会は、人数が急増していくので、何十人の上に立つリーダー、あるいは何百人、何千人の上に立つリーダー達が必要となってくるであろう。

自分たちがどのような者として召されているのかという本質を妥協せずに保ちつつ、今ま
で経験したことのない膨大な数の人々に仕え、彼らを受け入れる備えをしなければならない。
これは非常に難しいことであるから、聖霊によってのみ実行可能となる。人間的な
どんな組織によっても、また、どんなリーダーによっても不可能なことである。主が
教会のかしらとなられるため、かしらである主の主権に無知であったり、その主権
に服従しようとしない人々は、これからの時代には長続きしないだろう。

教会はまもなく主が計画された本来の姿に変わっていく。そうなると、この地上でもっと
も魅力的で注目される社会、すなわち、来たるべき神の国を示すものとなる。家庭崩壊がこの
時代の最大の問題の一つであるが、教会は、本来召されているような家族になっていくだ
ろう。そのとき、クリスチャンの家庭も本来のあるべき姿に変わり始める。これから訓練
やしつけが大いに強調されてくるとともに、人間関係もまた大いに強調されるようになる
だろう。それは、とくに、家庭を強固なものにし、家庭に対するあらゆる攻撃に抵抗する
ためである。

学校や他の領域での戦い

キリスト教主義の学校も、教会のもっとも重要な働きの場の一つとなり、教会や家庭を
むしばんでいる根本的な問題に対する主要な解決になっていく。しかしながら教会と同様に
キリスト教主義の学校もこの時代にあってその目的を達成するためには、数多くの根本的な
変革がなされていかなければならない。

心の形成のために子どもたちをこの世にまかせておいて、彼らの心が一新されることを期
待するのは無理な話だ。調査によれば、実に75%近くのクリスチャンの子どもたちが、大
学に入学して30日もしたら信仰を失っている。ほとんどの短大や大学において、オリエン
テーションの時からすべてのクリスチャン新入生の信仰は、まともに攻撃されることにな
る。大学教育の基本や体系そのものが信仰に反するからだ。ほとんどの者は霊的武具を身に
つけていないため、この猛攻撃にもちこたえることができないでいる。しかし、こうした事態も
容易に変えていくことができるし、また、変えていかなければならない。

大学新入生の信仰をむしばむために用いられる議論は、聖書に対する攻撃から始まる。こ
れがエデンの園で蛇が用いた戦略であり、それによって、彼はエバが神の語られたことば
に疑問を持つように仕向けたのである。そして、それ以来、悪魔はこの戦術を変えてはい
ない。非常に効果的だからだ。ひとたび学生たちに聖書が本当に神のことばであるかどう
かという疑問をもたせたなら、次に悪魔たちは、現在彼らがきわめて優勢な戦いを進めて
いる領域にその学生たちを連れて来る。科学や論証の領域がそれであり、ここでは何世紀
もの間、信仰を弱めることが具体的に計画されてきたのだ。

聖書の信憑性を否定し、クリスチャンの信仰を攻撃するために用いられる論拠は、事実の
歪曲や誇張、完全な偽りであって、容易に否定できるものだが、子どもたちもまた、はっ
きりそれを否定できるように武装していなければならない。護教論がキリスト教教育の真
の土台の一部になる時がきた。「護教論」(apolo-getics)というのは、真理を弁護する
という意味のギリシャ語の単語からとられている。私たちは、敵の投げ矢が貫くことので
きない堅固な信仰の盾を、子どもたちが自分で築くのを手助けしなければならない。私た
ちにはこのための道具があり、今それを用いなければならないのだ。

科学や教育、メディアはすべて、教会が戦って取り戻さなければならない領域である。そ
れらはみな、実際は信仰から生まれた「子どもたち」である。今は反抗的な「子どもた
ち」かもしれないが、やがて家族のもとに戻って来るようになるだろう。科学や教育、メ
ディアは真理を大いに愛するものとなり、信仰の真の味方になっていく—-このことはよ
く注意して、覚えておかなければならない。

「現代教育の父」と称されるジョン・アモス・コメニウスが「すべての真の科学は創造主
にいたる」と言っているが、この預言は、私たちのこの時代に劇的に成就している。もっ
とも優秀な頭脳の持ち主の多くが、また、真に知的に正直な科学者たちのすべてが、科学
的な根拠によって知的デザインによる創造に疑問の余地がないことを認めつつある。今後
この傾向はますます強まり、雪崩のような勢力をもつまでにな るだろう。

ウィルソン天文台の所長であり、かつては宗教的不可知論者だと公言していたロバート・
ジャストロウは、「いわゆる超自然的な力が働いているということは、今や科学的に証明
された事実だと思います。」と語っている。これは、1982年8月号の “Christianity Today”
のインタビュー記事に掲載された言葉であるが、他の多くのすぐれた科学者たちも同じ事
を語っている。ジャストロウは彼の著書『神と天文学者』(P116)で、次のような結論を
出している。

「理性の力を信じて生きてきた科学者にとっては、この話の結末は悪夢のようだ。彼は無知とい
う山を登りつめ、一番高い峰をまさに征服しようとしていた。最後の岩をよじ登ると、なんと
そこには、すでに何世紀もの間そこに座していた神学者たちの一団がおり、彼は彼らから歓迎を受けることになるのだ。」

科学や教育、メディア界にはずっと一つの見解(訳者注:信仰に対する反感)があって、そ
れがこれからも拡大していくことは予想していなければならない。彼らとある地点で一致するために妥協して半分歩み寄ることを私は薦めるわけでは決してない。しかし、理性に反するだけでなく、聖書そのものにも反する教義の誤りが私たちのほうにあるならば、それらを検討して告白する必要は確かにある。このことは、テーマとしてあまりに範囲が広すぎて、ここで取り上げる
わけにはいかないが、真理を愛するというなら、自分たちが真理を歪曲したところはどこ
でも、また、歪曲したときはいつでも、はっきりとそのことを認めなければならないのだ。

科学者は自分の新しい考えを隠さずに正直に公表するようになってきているが、大学はまだそれほどではない。なぜなら、
ほとんどの大学は、自分の専門分野においてさえも、時代の先端を行く知識の蓄積や基礎
的な流れから、現実には何十年も遅れをとっているからだ。顕著な例外はあるに
しても、大学が先端を行く学術研究や制度の革新の主役でありえた時代は、遠い昔のこと
になってしまった。

「実行できる者には実行させよ、実行できない者は教師にせよ。」という言葉がある。教える
ことそれ自体は崇高な召しなのだが、「実行するもの」と立証された者が教えるべきであ
る。今日の大学教授は、概して、何十年も前に自分たちが学んだことを今もそのまま繰り
返しており、真の時代の先端を行く思考からはますます遅れをとっている。今そうした思
考が見いだせるのは、ほとんどの場合、企業においてである。大学や教育者たちからは抗
議の声が上がるだろうが、今やこれは事実であり、日々ますますそうなってきている。最
近大学から生まれた重要な開発か、科学技術か、制度の革新が何かあっただろうか。

私はこうあるべきであると言っているのではなく、一般的な現状を話しているのである。今の教育の場において、真の創造的思考を助長し、奨励するかわりに、むしろそれを損なう力が作
してきた。一般の教育はますます時代と歩調が合わなくなってしまっている。もし、教育が、本来召されているように文明の光り輝く照明のようなものになるとしたら、根本から変わらなければならない。それには、大学や現代教育を生み出してきた教会が、あらゆるレベ
ルの教育に対する権限をもう一度取り戻さなければならないのである。

教会がこの目的のために一致するならば、はるかにうまくやることができる。私たちは、
本来召されているように「世界の光」(マタイ5:14)、すなわち、知識や真理の主要な
源にならなければならない—–しかも、あらゆる分野においてだ!1ヨハネ2:27では、
このように言われている。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまって
います。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことにつ
いてあなたがたを教えるように、—–その教えは真理であって偽りではありません。
—–また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとど
まるのです。」

すべてのことが油注ぎのもとで教えられるべきである。科学や数学、歴史も含めて、まさ
にすべてのことが!そもそも、この世界を創造された方以上に、この世界についてうまく
教えられる者などいるだろうか。教会がこの基本的な真理を回復するなら、私たちは、あ
らゆる知識においてあっという間にこの世を追い越すだろうし、この世は、助けを求めて
私たちのもとに道を急ぐことになるだろう。まず、大学を取り戻すことから始めなければ
ならない。大学は、教会によって始められたにもかかわらず、この世の霊に屈してしまっ
たのだ。私たちは、真理に基礎を置き、油注ぎによって教えていくような、時代の先端を
行く新しい学校を建て上げなければならない。

学校は、教会のもっとも重要なミッションである。宣教師として教師や教
授、理事たちを学校に派遣する必要がある。主の軍隊がその目的を果たし、確実な勝利を
勝ち取っていくためには、長期のビジョンをもつとともに、日々の戦いをしていくことを
学ばなければならない。実際のところ、私たちには千年のビジョンを持つ必要があるの
だ。私たちは、主とその御国の到来のために道を備えるよう、召されている。そして、そ
の備えは、今私たちが御国で生き、この全地にその御国が来るための基礎を築いていくこ
とによってなされる。 

きわめて基本的な形で、学校や政府、産業までもが、この地上におけるキリストの千年王
国の原則にしたがって建てられたり、再建されたりすることができるのだ。これが私たち
にゆだねられたことであり、召しでもある。多くの人々がこのことを悟り始めたし、御国
の福音を宣べ伝えるという、この大目的のために献身する人々も出てきている。

私たちの時代に信仰の戦いを立派に戦うには、明確な焦点と訓練、真の戦士の信仰を要す
るが、今や、ラッパの音が鳴り響き、終末の時代の軍隊が召集されつつある。教会は、真
理の敵を前にしてもう退却することはしないで、本来の召しである真理の擁護者、真の自
由の戦士になるのだ。(終わり)

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10 09月

戦士の民(1)      リック・ジョイナー      9月10日


戦士の民—–新しい教会のリーダーシップ

リック・ジョイナー 
渡橋 喜代佳 訳



戦士がこれからの教会リーダーである

「兵士は多いが、戦士の数は多くはない。」かつて特殊部隊の将校が私にこう言ったことがある。自分の職務をとても真剣にとらえ、非常にうまくやりこなせるプロの兵士は多いが、戦士に会ってみると、その両者の違いははっきりしている。

まもなく、十字架の兵士全員が真の戦士になっていくだろう。今まさに、教会のリーダーシップが、プロの手からその真の戦士たちの手に移されようとしている。
 
戦士とは、戦いの音のする方に駆け寄って行く者であり、そこから逃げることはない。戦士は、争いや危険な状況の厳しさの中でうまく事をやりとげる。また、反対や困難に直面したからといって失望することなく、かえってそこで本領を発揮する。そして、これこそが、これからの新しいクリスチャンの気質となるのだ。これから登場するクリスチャン世代が穏やかで優しい世代だと予想するなら、まもなく明らかにされようとする戦士の民を見て、衝撃を受けるだろう。

神は戦士である

神は戦士である。神は「万軍の主」、「軍の将」という呼び名を、他のすべての呼び名の10倍も多く用いておられる。神は戦いの神なのだ。今のこの時代に神を啓示しようとする人々は、戦士としての態度や訓練を身につけていくようになる。今起こされつつあるクリスチャンが、この世の知るかぎり最悪の困難な時代に仕えるために整えられているからだ。たとえ時代が最悪でも、彼らは信仰と確信をもってその困難に立ち向かっていき、「勝利者」の呼び名を獲得するだろう。なぜなら、けっして反対や困難、戦いに屈することなく、完全な勝利を得るまで戦ったあのヨシュアのように、彼らも勝利を得るまで戦うからである。

これから出てくる戦士クリスチャンには、ヨシュアと同じこの固い決意が見られる。自分たちが何者で、どなたから遣わされたのかを知っており、自分たちが代表する御国の力を知っているからだ。ダビデ王の屈強な家臣たちのように、彼らの功績も国外にまで響き渡り、王の敵の心に恐怖心を叩き込んでいく。
 
この戦士世代が表舞台に出て来るにつれて、彼らはキリストのからだにインパクトを与え、変革をもたらせるようになる。そして、その変革は深みにまで及び、教会は、人の集まり(コングリゲーション)というよりも、軍事基地と考えられるようになる。真剣な軍事訓練や、かつて例をみない、戦略として先手を打っての霊的軍隊の派遣というのが、上官命令になっていくのだ。

戦いの時がきた

 伝道者の書3:8に、「戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」と記されているように、今は戦いの時である。聖書に出てくる最高の礼拝者の一人、ダビデ王が最高の戦士の一人でもあったというのは、けっして偶然ではない。真の礼拝と戦いは、完全に両立するのである。いったいどうやって、神を真に礼拝する者でありながら、この時代の悪に憤ることなく、真理の側に立って捕われ人を解放するために悪に立ち向かうこともしない、ということがあり得るだろうか。

 今まさに起こされようとしている戦士たちは、人々をとりこにしているあらゆる悪の要塞に憤り、神の強力な武器を用いてその要塞を打ち破っていくようになる。

 この徹底的な変化が教会にもたらされて、真のクリスチャンはことごとく、福音の真理のためには何をも恐れぬ戦士になっていく。その際起きてくる性格上の大きな変化は、彼らがこの世の知りうる最高の戦士の最高の規律に従って生きることにより、その基礎が築かれ始める。その最高の規律とは、日毎に死ぬ、自分のために生きるのではなく王のために生きる、福音のために一切のことをする、というものだ。

 ルカ9:23~24で、主はこう言われている。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」

 これが真の弟子、すなわち、真の戦士の規律である。今にこの世は、真の弟子がどのようなものであるかを目の当たりにするだろう。すなわち、真の地の塩、世界の光としての姿である。

 私たちがすでにこの世に対して死んでいるなら、この世が私たちに対してできることは何もないし、私たちがこの地上で恐れるものも何もない。何も恐れず生きる人々こそ、この地上でもっとも強力で自由な民である。この地上に再び姿を現す、そうした民以上に敵の陣営を震撼させるものは、他にはない。その民はすでに私たちの中に存在しており、今姿を現そうとしている。かつてこの地上で生きたどの世代とも違う、新しい世代なのだ。主は、本当に、最後に最高のものを取っておかれたのだ。

 戦わなければ勝利はない。戦いが大きければ大きいほど、勝利もまた大きい。「クリスチャンに苦難などはない。もし苦難があるとしたら、それは信仰によって歩んでいないからだ」という、非常に巧妙な考えが教会の多くに蔓延している。けれども、これは、聖書が語っていることとは正反対である。主イエスも、使徒たちも、クリスチャンが召されている試練や苦難について説明しておられるのだ。試練には目的があるし、ゆるがない信仰で試練に立ち向かうなら、勝利がある。大使徒パウロの働きについても、こう記されている。「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』と言った。」(使徒14:22)
 クリスチャン生活には問題や困難が伴うということを認めようともしない、そんな偽りの教えに従った世代は、あるいは、歴史上もっとも弱々しいクリスチャン世代になったと言える かもしれない。最近の世代には、倫理道徳や誠実な生き方、基本にあるはずの勇気といったものが見られなくなった。それは、聖書的な信仰というよりは、ドラッグによる意識朦朧の状態に似ていると言わなければならない。けれども、こうした状況にも変化が出てきた。変革が完了するまでずっと、その変化は継続していくだろう。

衝撃隊


 この世が1世紀からこのかた見たこともないほど闘争的な、新しい種類のクリスチャンが世に出ようとしている。彼らは、1エーカーの土地さえも十字架の敵に明け渡すことはしないとの固い決意をもっ て生きている戦士であり、闘士である。今起こされつつある世代は、この世の勢力が脅しをかけてくると、クリスチャンというのは臆病で、こわがっておどおどするものだという印象を、この先永久に変えていくだろう。現在はこうしたクリスチャンの弱々しい印象があるため、その第一波は、現勢力の中に恐れと驚異の念という衝撃波をつくり出す。ちょうど、ギデオンの敵陣突破が残りのイスラエルの民を立ち上がら
せ、分捕り物を取らせたように、このことが他の全クリスチャンを、その本来の性質やあるべき姿に目覚めさせていくこととなる。

自分の武器を手入れせよ

 兵士たちは、肝心な時に武器が機能しなければ、自分や多くの者たちが命を落としかねないということを知っている。それで、彼らは自分の武器の手入れや管理に多くの時間をかけている。使徒パウロは私たちに与えられている神の強力な武器について語っているが、その武器のことを理解しているクリスチャンはわずかであり、それをうまく使えるクリスチャンとなると、さらにその数は減る。けれども、それにも変化が見られようとしている。私たちは、もっとも優秀で信頼できる主の兵士として、ゆだねられているものに対して、普通の兵士がしているのと同様の管理を日々していくようになるのだ。

 私たちの戦いの武器は肉の武器ではなく、それよりはるかに強力だということを理解しなければならない。神の強力な武器は、愛、真実、真理に対する妥協のない愛といった、霊的なものである。油注ぎのもとで語られた真理こそ、この地上で最強の力となる。すぐれた兵士のように、私たちにゆだねられた尊い真理を絶え間なく手入れし、管理している必要がある。私たちは、何のためらいもなく、つねに標的の中心に命中させることのできる、もっとも熟練した狙撃兵にならなければならない。私たちの武器は、いざという時に動かないという事があってはならないのだ。

 国々はやがて、圧倒的な軍隊によって宣言される真理の、圧倒的な力に膝をかがめるだろう。そして、その軍隊は、この時代の最大の闇に立ち向かい、それを押し戻すのである。あらゆることにおいて、彼らが何の妥協もせずに決然と立つため、すべての悪はその前で退却するようになる。

 この世の軍隊は殺したり、破戒したり、略奪したり、荒らしたり、強姦したりして、領土を進軍して行くが、来たるべき軍隊は、そうではない。破戒行為の代わりに、その軍隊に征服された人々には、いやしや回復、解放がもたらされる。彼らがやって来るのは、取るためではなく、与えるためなのだ。そのような軍隊がやがてこの地上に解き放たれようとしている。それは、いまだかつてこの地が見たことのない軍隊である。そして、今まさにこの地上全体で、その一員となるべきすべての人に軍隊の召集がかけられているところだ。

 この軍隊は、その一員ではないすべての者に恐れを抱かせるだろう。その中には、多くの眠っている、あるいは、惑わされているクリスチャンも含まれる。この世は、いまだかつてこのようなものを見たことがない。エリヤの霊は、主の初臨の時、主のために道を備えるようにと、バプテスマのヨハネに与えられていたが、今や、主の再臨の備えをするために、何万人もの人々に下っている。ちょうど、ヨハネを見るために、ユダヤのすべての民が彼のもとに来たように、今起こされつつある人々の声を聞き、彼らからバプテスマを受けるために、すべての国々が彼らのもとに来るようになる。

新しいラッパの音

 前述したように、教会がこの決意を自分のものにするにつれて、教会は軍事基地として考えられるようになり、効果的な霊的軍隊を訓練したり、装備したり、配置したりするための軍事基地の特徴を呈するようになる。やがて、教会は、陸・海・空軍等を有する一軍隊として、実際に編成されていくだろう。これら軍隊はすべて、相互援護を行ない、機会を活用できるよう互いに助け合って、一致と調和の中で共に機能していけるようにもなる。
 今は教理上の強調点が教会内での運動やグループの特徴になっている場合がよくあるが、このように、教理上の強調点よりも、機能や目的の方を中心にした組織化が始められていくだろう。

 苦難の時代が進んで行くにつれて、十字架の兵士たちは、これからなされる軍事訓練や軍事行為とともに、危機のただ中における彼らの愛や揺るぎない平安によっても、知られるようになる。彼らの行く先々で、愛や平安、揺るぎない安定感がもたらされるからだ。彼らは、真の自由の戦士であり、被抑圧者の真の擁護者であって、罪とそれがもたらすすべての結果という、あらゆる束縛の中でも最悪のくびきから、人々を自由にするために戦うのである。

変化

 実際には、どのようにしてこのことが起こるのだろうか。言葉では明確に意識していなかったにしても、すでにこの変化を経験し始めている運動や宣教団体が多くあり、なかには教会もある。リーダーたちは、ただ教理上の強調点というよりも、共通の目的や働きを中心にして集まり始めている。これが起こると、かつては互いの対立点にみえた教理が、互いに補足するものとして見られるようになるだろう。心や動機の中に、御国の拡大という高次元の目的を維持している人々には、この変化は容易である。

 他の人々にとっては、この変化は必ずしも容易ではないかもしれないが、それでも、変化は起こってくる。ちょうど、世界大戦のために国民が動員され、一般市民だった人々が、世界を支配しようとしている悪の存在を知って、すぐれた戦士になっていったように、やがてクリスチャンも、前世紀に世界が直面したのよりもはるかにまさる悪や脅威に気づくようになる。多くの者は、今世界を脅かしている悪の圧制に屈するよりは、たとえそれが死であっても、どんな代価でも払う方がよいと考えるようになる。偽りの下で生きるよりは、真実のために死ぬ方がいいのだ。

 来たるべき時代には、十字架の兵士として生きる目的の重大さが、すべての真のクリスチャンとともにますます宣言されるようになる。仕事や物質的な快適さの追求が、信者の一番の目的になるのではなく、真理のために戦うことが、私たちの人生の主要な焦点、目的になっていく。キリストに似ていることや、私たちが召されている働きをすることが、人生の成功を測る真の基準になるだろう。ちょうど、兵士が日常の雑事にかまけることがないように、十字架の真の兵士も、もっとも簡素な生活をして、一時的でなく永遠にかかわる事に身をささげるのである。

 女性
24 08月

いと高き神の聖なる山に登れ  トッド・ベントリー  8月24日


いと高き神の聖なる山に登れ  

                                               トッド・ベントリー




栄光の王を求め仰ぎ見よ

 「これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。」詩篇24:6

 ここで神は何を言っておられるのでしょうか。 主は、「わたしはヤコブという名で呼ばれる一族、一世代を立てあげたい。 彼らは、即ち、わたしの手のわざではなくわたしの御顔を慕い求める者、わたしをしっかりと捉えたいと願う者、わたしの栄光にふれ、変えられ、変革されてわたしと共に君主になることを熱望する者、闇の王国を制覇してわたしのちからを表わす者だ。」といわれているのです。

 神のちからは、神のちからを求める者を通してではなく、神ご自身を求める者を通してあらわされます。 神が私たちのエゴや名誉のために私達にちからを注がれることは決してありません。復活のちからは、神を知り、また知りたいと願うもののためにあります。イエスの足元にすわる者、主の御そばにいることだけを願う者のためにあるのです。

主の臨在なしには一インチも動くな

 出エジプト記33章で、モーセはシナイ山から出発してイスラエル人を約束の地へ導くようにと命じられました。神はご自分の顕現の臨在を彼らのうちから取り除くので、主の臨在はモーセの前を進まないであろう、とモーセに告げられました。しかし主は、主の約束や祝福、守り、油注ぎ、御手の業はすべて成就するであろう、と言われました。さらに道案内として御使いを遣わすとまで言われました。しかし、モーセはそれでは満足しませんでした。彼は主の臨在を望んだのです。彼は幕屋の外にテントを張り、嘆願しました。「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。」

 ある人たちは、キリスト教にちからや祝福、守り、油注ぎがあればそれで満足します。 つまり彼らは、「はい、主よ、どうか私の負債をなくしてください。打ち破りをお願いします。お言葉で約束してくださっていることをしてください。 あなたがご存知の私の必要をどうか満たしてください。」という気持ちを持っているのです。 彼らは、「どうかもっとよい説教ができ、サタンを追い出し、病人をいやし、御国の業ができるように、油注ぎをください。」というのです。しかし、神は言われます。「よかろう。しかし、あなたが求めるのがそれだけならば、わたしの臨在はあなたがたのうちにはないであろう。わたしの御顔を求めないならば、私の御手の業も期待してはいけない。」

 出エジプト記33章に現されているモーセのような心を持つ者たちを主は求めておられます。「主よ、はっきり申しあげます。私は行きません。私は行きません。絶対に動きません!あなたの臨在が伴わなければ、私のミニストリーを進めることはしません。 あなたが私を救ってくださったり、私の敵を追い出したりしてくださっても、それはどうでもいいのです。また、私に油注ぎを下さることもどうでもいいのです。 あなたのちからで約束されたものを全部くださることもどうでもいいです。あなたの祝福が私たちにとどまり、約束の地へと導いてくださるとしても、それは私が欲しいものではありません。あなたの顕現の臨在が私と共にないのならば、私は動きません。絶対に! あなたの臨在がなければ、すべて何の意味もありません。」

主を知ることができるように

 出エジプト記33:13で、モーセは「あなたを知ることができるように」といっています。ところが11節では、「主は人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」とあります。モーセは神とすでに親しく語りあう関係を持っていたのに、なぜ「主を知ることができる」ことを願ったのでしょうか。 モーセは私たちよりずっと主の栄光を経験していたように思えます。私たちにとっては夢のようなことですが、彼は神の領域のことを実際に体験し、その中を歩んでいました。しかし、彼は主の臨在の中に座してもっと主を知りたいと願い、主の臨在なしで出発することを堅く拒みました。モーセは神と語るだけでは満足できなかったのです。もっと主を求めました。彼は真に神を知りたかったのです。
 
 モーセが「あなたの栄光を見せてください。」といった意味は、「どうか、あなたのもっとも内なるもの、あなたという方そのもののリアリティーを見せてください。あなたの栄光が降り注ぐ中であなたを知りたいのです。あなたの御性質をあらわして(啓示)ください。」といったのです。 そして神はモーセに栄光をお見せになり、主の御性質をあらわされはじめました。「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく …… 」 しかし、これは決して主の御性格に関する集中講義ではありませんでした。モーセが受けたのは、頭の知識ではありませんでした。神は「私はこういうものである。」といわれたのではありませんでした。神の栄光が下った途端にモーセは新しいレベルへと引き上げられ、以前は全く知らなかった神を神の啓示により知ることができたのです。

啓示は栄光の中に 

 私が教えることはすべて、私の上に神の栄光が下ったときに啓示で受け取ったものです。 啓示ですから、私は一瞬にしてある事柄を知ることができます。ある集会の中で、ある日主の栄光が下り、私は突然このような言葉を口に出していました。「ここにいる人の中に心臓の疾患を持つ人がいます。」そしてすぐにそれが誰であるかがわかり、会衆の中からその人を見つけました。 主の栄光の中では物事を知る力がはたらくのです。私たちが栄光の領域に入り、天国と同じ環境のなかで動くとき、啓示を受けます。

 主の栄光が下ったところ(領域)では、信じられないようなことが起こります。キャサリン・クーマンはこの栄光の中でミニストりーをしました。彼女は神がしておられることを見て、それを宣言するとそれが起こりました。これと同じことが私のミニストリーでも起こりました。私がつんぼの人の耳が聞こえるようになるのを霊で見ると、ある人の耳が開くのです。そういうときには、人々は前に出てきて手を置いて祈られなくても、座席についたままでいやされます。(終わり)



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03 08月

天の御国は今地上に侵入してきている  リック・ジョイナー  8月3日



天の御国は今地上に侵入してきている

リック・ジョイナー  

真理の回復

一世紀に教会が始まって以来今日に至るまで、人々に受け入れ易くするためと称して、キリストの福音を水で薄め妥協の産物に変えてしまう人たちが常に現れてきました。 これは一見、福音を受け入れ易いものにして敵を作らないので教会の発展を助けるように思えますが、かえって教会や真のクリスチャンに様々な問題を与える結果を生みました。 水で薄めた福音の最終的な実は、真の改心者を生み出すというよりも、それ以上に多くの偽善者を生み出す結果になり、究極的には教会史の中で最も暗い時代をもたらしてしまいました。今教会はその暗やみから少しづつ這い上がり、光と真理を回復しつつあります。

光と真理が回復されてきたのは、リーダーとなった真の弟子たちの働きによるのであり、彼らが人々よりも神を喜ばせことを決意したからです。彼らは福音を水で薄めるという誘惑を退け、人々に何と思われようとも神の御前で真理に立って歩むことを決意したのです。 真理を回復させている者たちは、論争や争いの渦中にいつも置かれることになるのですが、それは自分は神を喜ばせている、という内なる平安を受けるための代価としては、ほんのわずかなものと言えましょう。

栄光と光が放たれている

今真理を追い求めている者たちの中に栄光と光が解き放たれています。一方真理の回復が進んでいる中で、神ではなく人を喜ばせようとしている者たちの間には暗やみと混乱が広がっています。 パウロはガラテヤ1:10で、「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」と言っています。 人の歓心を買おうとすればするほど、主への真の奉仕からは遠ざかってしまうのです。

主のご計画の一部を担う者となり、神の王国の道備えをしたいと願うならば、私たちは人を恐れることから全く解放され、ただ神だけを畏れつつ生きねばなりません。 イエスはヨハネ5:44で「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたはどうして信じることができますか。」と言っておられます。

栄誉(glory)と訳されているギリシャ語はdoxaで、「認められること recognition」とか「名誉honor」とかに訳すこともできる言葉です。神からではなく人からの栄誉や承認を求めて生きているとすれば、主がここで疑問を投げかけておられるように彼らが主を信じることは不可能でしょう。人に対する恐れが真の信仰を打ち壊す最たるものなのです。

真の弟子は人を恐れることから全く解放されている

この時代の終わりに近づいている今、人を恐れることなく神に喜ばれ神に仕えることだけに生きる真の弟子、真のリーダーが起こされてくるでしょう。彼らは地上でもっとも危険な者たちであると言われるでしょう。 妥協して生きる人たちや、神のためではなく人のために作られたすべてにとって、彼らは危険な存在となるのです。

この世の王国、即ち人間の王国と神の王国とがいずれ衝突することは必至であり、両者の間の軋轢はだんだん大きくなっていくでしょう。 しかしながら、もし自分は神に従っていて神に喜ばれていると確信できるならば、たとえ全世界を敵にまわしてもあなたは完全な平安のうちにとどまることができます。

 確かに真の弟子やリーダーはまだわずかですが、今すでに私たちの中に現れています。 彼らは神のみこころによってのみ生きる者たちであり、神の王国のパン種であり、パンにする粉全体、すなわち教会全体をふくらますことができます。ダニエル2:44-45に、ダニエルがネブカデネザル王の像―それは歴史上の数々の王国を表していましたが―の夢を解き明かしたことが書かれています。

  ダニエル2:44-45 「 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」

天の王国は今地上に侵入している

  ダニエル2:35にあるように、「その像を打った石は大きな山となって全土に満ちた」のです。この地上の数多くの王国のただ中にもう一つの王国があるのです。それは一つの石だったのですが、それが大きな山、即ち一つの統治制度にまで成長し、ついには地上全体に広がっていくのです。この王国は、王に従いたいと心から願う者たちによって構成されています。すべての地方教会の中でこのような者たちがこれから立ち上がってくるでしょう。

  王なる主ご自身や主の道を備えたメッセンジャーと同じように、妥協に対して断固として戦う者たちがいます。この世と妥協した生き方をしている人たちの人生には、様々な問題がこれから起こってくるでしょう。

  私たちは「統治」というと政治的組織だけを考えがちですが、霊的な統治とは勢力と影響力の領域で行われるのです。その中には、メディア、産業、経済機構、教育機関なども含まれます。

  一つの石がこの世のシステムを打ち砕くために現れ、王の王にひざをかがめない者は風に吹かれる籾殻のようになるでしょう。誰が石の一部となるか、誰が籾殻になるかが、今決められつつあります。主がマタイ16:24-26で言っておられるとおりです。

 マタイ16:24-26「 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」

  使徒パウロは、自分は毎日死んでいる、といっています。(Iコリント15:31) 彼は真の弟子でした。同じことがすべての真の弟子についていえます。彼らは主のみこころを行うために自分の命を毎日捨てるのです。自分のためではなく主のために生きるからです。

誰に仕えるのか、今日選びなさい


  私たちには毎日誰のために生きるのか、即ち、自分のために生きるのか主のために生きるのかという選択肢が与えられています。私たちは、自分の十字架を負う機会を少なくとも一日一回は与えられることは間違いないでしょう。 それは自分の思いや野心に死んで、主の真理に堅く立ち、人の歓心を求めるのではなく主に仕えていくことを選びとる機会です。 私たちは今どのような選択を日々しているでしょうか。それこそが私たちがどちらの王国に属する者になるか、終わりのときにどこに立っているか、を決定していく一番の要因なのです。

  主への信仰と真理を守るためにはいのちをも惜しまない、と言いながら日々の生活の中でそれを実践していかないならば、自分自身をだましているのです。 真理を知っているにもかかわらず自分に妥協を許すことは、本人の基本的人格、尊厳を損なうものであり、やがては癌のようにその人の全身を侵していきます。

  小さなことにまず従わないならば、大きなことにも従えないのです。 「証人witness」と新約の中でしばしば訳される言葉のギリシャ語は、実際に「殉教者 martyr」 とも訳すことができます。私たちは毎日殉教者になるようにと召されているのです。自分の命を捨て自分勝手な思いを捨てることによってこそ、私たちは福音の真理を証する証人となることができるのです。

  これからは神の王国とこの世の王国とがますますはっきりと切り離されていくことは確かなことでしょう。 王なる主のしもべたちと他の人たちとの相違が、誰の目にもはっきりしてくるでしょう。 イエス・キリストが人間のすべての問題に対する答えです。 ですから、神に服従せず従わないことが、人間のすべての問題の究極的な原因なのです。この事実はこの時代の終わりに近づいていくに従ってますます明らかになっていくでしょう。今日どのような選択をしていくかが、私たちが人間の王国の足を打ち砕く石の一部分になるのか、あるいは籾殻になってしまうのかを決めるのです。

  他の人々からの―たとえ彼らがクリスチャンであっても―歓心や称賛を求めて自分の信念を捨て妥協することがないように、私たちは知恵ある選択をしていくことを今、堅く決意すべきです。
神の王国の一員になるのだとすれば、私たちがいのちをもってお仕えするのは人ではなく、主なる神でなければなりません。(終わり)


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27 07月

天と地の間で新しい音が交わされる  ジョアン・マクファッター 7月27日



天と地の間で新しい音が交わされる
                                    ジョアン・マクファッター 

絶えることのない交流

  天から地上にむかって音が絶えず放たれているのですが、それと同じように、地上から天に向かってもも常に音が放たれています。 それは神による交流とも言うべきでしょうか。その交流は目には見えない世界で、エネルギーのパターン、波動、粒子などを通して行われています。 その大部分は人間の耳で聞くことはできませんが、私たちも宇宙の一部として存在していますから、それを感じとることはできるのです。

 地上の私たちから発信されるものは、神によって「聞かれ」、そして神はそれに対する応答を絶えず私たちに送ってくださっているのだと私は信じています。神からの応答が来ていることを知って、内なる霊の耳をその波長に合わせれば、私たちは神との絶えざる交わりを持つことができるのです。それを聖書の中では「霊が霊を、淵が淵を」という表現で表しています。
 ヨハネ17章でイエスは、私たちが主と一つになることを次にように言っています。「…わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにいるように…」
 私たちがそれに気がついていてもいなくても、天と地の間のこの交流がなければ、この世界は存在することはできません。「万物は御子にあって成り立っている」のです。

初めにことばがあった

 神が天地を創造されたとき、神はその音、即ち、「光よ。あれ。」ということばを発することにより、すべてを始められました。

 ヨハネ1:1-5 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」

 今、み言葉の真理に、科学がやっと追いつきはじめています。 最近科学者たちが、特に量子物理学の分野で発見していることが、いかに聖書が語って言っていることに合致しているかは、まったく驚嘆に値します。
 神の音(神のことば)は永遠の中から放たれました。 私たちがいままでに経験したこと、今経験していること、これから経験することは、すべて、神のことばによって保たれています。科学はそれをゼロ・エネルギー・ポイントとよんでいて、それは最小の粒子の真ん中に位置しています。私たちの周りにあるものすべてを崩壊しないように支えているのは、そこなのです。イエスはそのことばが人となられた方であり、彼がことばなのです。

万物は御子によって成り立っている

 コロサイ1:15-17 「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」
 
 すべてのものは御子によって保たれています。また、万物は御子にあって成り立っている(consist)のです。私は「成り立っている consist」という言葉を辞書で調べてみました。 それは「共に存在すること、共に存在することが可能であること」という意味でした。 すべてのものが御子にあるときにのみ、ともに存在することができるということです。

打ち破りの音

 今というこの時は、天から「打ち破り」の音が解き放たれていて、地上でのワーシップの音が信仰の音と一つにされるときに、 「打ち破り」が活性化し働き始めるのだと私は信じています。 天がしようとしていることに私たちが合意するときに、真に素晴らしい結果を生みます。
 「信仰の音」とか「よい行いの音」とかいうと奇異に聞こえるかもしれませんが、信仰やよい行いから発せられるエネルギーは、本当に音を持っているのです。ワーシップは、人間の耳に聞こえても聞こえなくても、私たちから父なる神へと流れていく音です。心や思いを主にむけるとき、たとえそれを口に出さなくても、それは波やバイブレーションとなって、主が見たり、匂いを嗅いだり、聞いたり、味わうことのできる空間に解き放たれていき、主ご自身によって受け取られるのです。

 「主のよきことを見て味わえ」というようにです。 又、「私たちの祈りはよき香りであり主はそれで鼻を満たされる」とも書かれています。その他たくさんの例があります。もし目に見えない原子未満のレベルで何が起こっているのかを調べてみるならば、私たちの発する言葉や音は、まわりの空間にエネルギーを放っていて、すべてのものに影響を与えているのです。明らかに聖書は神と被創造物との間の交流を隠喩で表しています。

霊的領域を見たり嗅いだりせよ

 私は霊的な分野では教会の父的存在であるネビル・ジョンソン師が語ってくれたことを思いだしました。 彼はあるとき数ヶ月間にわたって、霊的領域―特に感情の領域だったそうですが―で起こっていることを見たり、嗅いだりできるように主がしてくれたそうです。彼はある感情を抱いている人から発せられる色や臭いを嗅ぐことができました。
 たとえば、ある人が怒っていると、ジョンソン師には赤い色が見え、それと共に悪臭がするのが分かりました。嫉妬を抱いている人からは緑灰色が見え、それ特有の悪臭がしました。中でも一番悪臭を放つのは自己憐憫に陥っている人からでした。悪霊どもはそれらの色を見、臭いを嗅いで、それを発している人に集まってきてそのマイナスの感情をもっと煽るのです。 

 好ましい感情もまたそれ特有の色を持ち、よい香りを放ち、天使たちがそれに集まってきます。ですから、私の言わんとするポイントは、本当に私たちは見えない世界で起こっていることのほんの一部分しかわかってはいないと言うことです。
 事実、ジョンソン師は、感情を見たり嗅いだりできるこの能力を取り去ってください、と神様に嘆願しました。というのは、絶えず人々の感情が分かると気が狂いそうになったからです。神様にはすべての人の感情が絶えずわかっているばかりでなく、
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