Walk With God Ministries
Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
20 12月
すべての考えを虜にする
テリー・ソマーヴィル
IIコリント10:5、6 「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごと(考え)をとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」
多くのクリスチャンは、自分の思いの中に次ぎ次ぎに浮かぶ考えに振り回されて、毎日の生活を滅茶苦茶にされています。サタンは、私たちの中におられるイエス様の働きを止めることができないことを知っています。 ですからその代わりに、私たちの人生の中に吹き込まれたうそや、過去の苦い経験、偽りの教え、習慣などを使って、サタンは私たちの考えや行動をコントロールしようとするのです。しかし私たちが、キリストの内なる自分の思いという真理をしっかりと掴むならば、自由と勝利を得ることができるます!
受動的にすべてを受け入れてしまう思い
「私が持っている否定的な考えからイエス様が解放してくださるように祈ってください。」と他のクリスチャンから私は時々頼まれます。彼らはいつも落ちこんでいて、助けを求めているのです。 そして否定的な考えを一切持たないときにだけ自分は自由なのだと思っているのです。 しかし、これは真理ではありません。勝利というのは、否定的な悪い考えが来たときに、それをどのように処理すればよいかを知っていることです。私たちは自分の思いに浮かぶ考えを受動的にすべて受け入れてはならないのです! 私たちは、すべての考えを虜にしてキリストに服従させねばなりません。
思いはどのように働くか
この世は、「あなたが考えることが、即ち、あなたです。」といいます。しかしそれは真理ではありません。「あなたの考えにどう対処するかが、あなたです。」というのが真理なのです。 私たちは自分の思いに浮かぶ考えをコントロールできますか。 「はい。」でもあり、「いいえ。」でもありますね。 少しご説明しましょう。
1.私たちの思いは黒板のようなものです。
私たちは自分の考えを思いに書きつけます。計算をしたり手紙を書いたり、その他なんでも黒板に書くことができます。黒板はあなたではありません。それは、あなたが何をどのように考えるかを表すものですが、本当のあなたという存在は黒板よりもっと深いものです。
2.神もまた、私たちの思いの黒板に書かれます。
神は私たちの思いが考えと共に働くようにと造られました。私たちが救いを受けた後もそれは変わっていません。思い(mind)は考え(thoughts)を持ち、意志(will)は願望(desires)を持ち、感情(emotion)は気持ち(feelings)を持っています。しかし、神もまた、神の考えを私たちの思いに入れてくださるのです。それは神が私たちの思いに語ることができる唯一の方法です。なぜならば私たちの思いは考えによって動くからです。自分の黒板に書かれた一つの考えを見て、それが自分が考えたことでないならば、神からのものかもしれないのです。Iコリント2:16で「私たちには、キリストの心(mind)があるのです。」といっているのはこのことです。
3.サタンや悪霊も私たちの思いに考えを書くことが出来る
悪魔とかもろもろの霊もまた、この方法で人間に語りかけるのです。悪霊が人に語ることがある、ということは、多くのクリスチャンにとって受け入れ難いことのようです。しかし実際、サタンの言葉はそこら中に満ちています。自然な形で皆さんの思いに入りこんできます。皆さんはそれを読んだり、テレビで聞いたりしているのです。サタンはイエス様にさえ話しかけたではありませんか。ですからサタンがあなたの黒板に何かを書くこと自体が特別問題ではありません。あなたがそれに気がついてすぐに黒板ふきを使うことが大切なのです! アナニヤとサッピラは、サタンの声を聞いた例の一つですが、彼らは自分たちの欲のためにサタンの偽りを受け入れてしまいました。
誰が書いたかを知る
Iヨハネ4:1「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」
自分では思いもつかなかったような考えが浮かんだときは、その考えがどこから来たのかを見極めねばなりません。自分の思考をチェックする3つのテスト方法を使うことができます。
1.み言葉によるテスト
この考えは聖書の言葉と合っているか? 主からのものは神の言葉と常に合っていることを私たちは知っています。
私は妻を癌で亡くした一人の牧師を知っております。その牧師とは違う町に住む一人のクリスチャンの女性が、神が夫を捨ててその牧師と結婚するようにと言っていると思いました。彼女は牧師にその旨の手紙を書きましたが、内容があまりにも変なので、牧師の秘書が手紙を保管しました。ついにはその女性は、神が夫を殺せといったと言い始めました。それでこの事態が明るみに出て、その女性の牧師に報告されることになりました。
この女性は、自分の思いに浮かぶすべての考えは神からのものである、と受け取っていたのです。このようにしてサタンは人々の人生を破壊していくのです。このような場合、私たちは姦淫や殺人は罪であるという聖書の言葉でチェックしなければならないのです! それでは、聖書の中には書かれていない事柄についてはどうすればよいのでしょうか? あと2つのテスト方法があります。
2.イエスの性格に合っているかを調べるテスト
このテストは非常に簡単です。あなたの思いに浮かんだ考えはイエスの性格に合っていますか? 主に栄光を帰していますか、それとも自分を高く上げようとしていますか? 強引にどうしても今やりたい、といっていますか、それともテストを受けるのを待つ忍耐がありますか? 正しくて聖いですか? もしその考えの中にイエス様の御姿を見ることが出来るならば、主からの考えだというしるしということができるでしょう。聖霊は聖い方なのですから。
3.実によるテスト
最後のテストは、「その考えは最終的にどんな実を実らせるか。」というものです。 御霊の実を実らせていますか? サタンは肉が働くようにと誘惑しますが、聖霊は御霊の実が生るようにと励ましてくださるのです。
ガラテヤ5:19-23 「肉の行ないは明白で
あって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
すべてのはかりごと(考え)を虜にせよ
自分の思いに浮かんだ考えが、神からのものでないことがわかったならば、次にすることは、その考えを虜にすることです。 私たちは自分の思いをコントロールできる力を持っているのですから、その考えを拒否することができるのです。文字通り黒板消しを取り出してそれを消すのです。そして、それを書いたサタンを叱責します。こうすることによってその考えに打ち勝ちます。クリスチャンはこの真理を学ぶことによって偉大な勝利を得ることができるのです。しかしながら今までの人生経験や自分に対する、又は他人に対する、考えの故に、古い考えを捨てきることが出来ない事柄、領域が誰しもあるものです。
ある時私はナイアガラの滝に行きました。崖っぷちに近づいたときにある一つの強烈な考えが私を襲いました。「上まで登って飛び込んでしまえ。それできれいさっぱり片がつくぞ。」というものだったのです。私は後ずさりしました。そしてすぐに2つのことがはっきりわかりました。
1.この考えは私のものではない。なぜならば私は生きていたいから。
2.これはサタンからの考えである。なぜならばサタンは私を殺したいから。
一体何が起こったのでしょうか。それは明瞭でした。自殺の悪霊どもが奈落の淵の入り口で待ち構えているのです。悪霊どもはそこに来る人ごとに死への誘いをかけて、一人でも落ち込んでいる人を見つけて自殺させようとしているのです。私に声をかけたのは彼らの大きな間違いでした。私はサタンを激しく叱責して、事は終わりました。
この出来事から一つの重要なポイントを学ぶことができます。サタンは私たちの人生と共鳴することを話そうとしているのです。 彼は私たち自身の中にある願望をたくみに使って誘惑してきます。私たちの中に深く根をおろしている領域を探り出して、それを餌に使い、私たちがサタンの考えを受け入れて従っていくようにしむけるのです。
ヤコブ1:14 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」
音と共鳴
私は長年いろんなバンドでエレキ・ギターを弾いていましたが、そこで共鳴という現象を学びました。たとえば、「E」のコードが空中で大きく響いていると、私の持っているギターの「E」の弦が、私が全く触れていないのに振動し始めるのです。それが共鳴作用です。ギタリストはそれを利用して演奏することを学びます。
これは私たちのたましいの中で起こることを説明するのに、とても役にたちます。私たちのたましいの中に「E」 があると、周りで「E」 の音が起こる度にそれと共鳴したいとたましいは願うのです。もし私の心に鬱が根づいていると、まわりでなにか憂鬱になるようなことが起こると、私のたましいの中の欝が共鳴をはじめます。クリスチャンであっても欝になってしまうのです。それが起こったときには、私は共鳴する自分のたましいを取り扱い、その考えを虜にしなければなりません。ギターの、そしてたましいの、共鳴を止める方法は3つあります。3つとも効果がありますが、最後のものが一番よい方法です。
1.音の源を止める、即ち、サタンを縛る
もし空中のEの音を止めることができれば、私のギターのEの弦の振動は止まります。音の源がなくなるからからです。霊的に言えば、これはサタンを叱責するということです。サタンは去っていくので私は平安をとりもどしますが、でもそれはサタンがもどってくるまでの間だけです。問題は空中に音がする度に私は共鳴してしまうということです。多くのクリスチャンはこのレベルで生きていて、自分の感情の起伏を回りの状況の所為にするのです。彼らは自分のたましいの中にある「E」をそのままにしておくのです。すべての問題は埋もれたままにおかれ、都合の悪いときに出てきてしまいます。
現在の教会はこのレベルにとどまっていて、それは非常に残念なことです。クリスチャンの多くは、環境が整えられた教会の中(温室キリスト教とでもいいましょうか)だけが勝利を得られる場所だと感じています。彼らは教会やワーシップがどれだけ素晴らしいか、ということに拠り所を求め、自分により快適な環境をいつも捜し求めています。彼らはこの世の雑草や悪天候にさらされると生きていけないのです。本当はサタンを縛ることは防衛の手段ではなく、サタンの分捕り品を取り返すためなのです。ですから私たちはサタンを縛るだけではなく、私たちがサタンの言葉に共鳴してしまう原因を見つけて対処しなければなりません。
2.反応しないように自制する
これがもう一つの解決手段です。もし私のギターが空中の「E」 の音に共鳴し始めたら、指で弦を押さえて音を止めることができます。これは自制心を働かせることと言っていいでしょう。多くのクリスチャンはサタンを縛ることと、この自制心を働かせることの二つのレベルで生きています。自分の肉が共鳴して振動し始めると自分が誘惑されていことを感じます。そのとき、それを掴んで振動が止まるまでコントロールするのです。 誘惑が来ると自制をして、また次の誘惑が来ると自制する、という非常に惨めな生き方です。確かに私たちは自制をしなければなりませんが、このような生き方は聖霊による生き方ではありません。私たちは「聖霊により肉の働きに死ぬ」ようにと召されています。古い自分をコントロールするだけではいけないのです。キリストによる新しい命が古いものにとって代わらねばなりません。
3.新しい音―新しい命
三番目の、そしてもっとも効果的に共鳴を止める方法は、弦の調律を変えることです。私のギターの弦を「E」 ではなく「C」 にするならば、空中で「E」 の音が鳴っていても、ギターの弦は少しも振動しません。霊的に当てはめれば、私たちが新しい命に入るということです。新しい命に入ったクリスチャンは、周りに何が起こっても、それに影響を受けることなく生きることができるのです。
私が始めてインドに行ったときのことを思い出します。行く前に、インドには悪霊の力が非常
06 12月
ただ一つのこと ― 主の御顔を見上げる
ライアン・ワイアット
かなり前のことですが、私はカンサス市で行われたあるカンファレンスの最中に、初めて本当のトランス(夢見心地)状態を経験しました。その経験は私にとって非常に衝撃的であり、その後の私のミニストリーの方向性を多くの点において決めてしまったほどのものでした。今、神と親密な関係を毎日持つ重要性を書くにあたり、この経験はそれと深い関係があると思いますので、それをまずお話ししたいと思います。
園に住み、園を世に持ち出す
私はそのときワーシップをしていたのですが、突然、私の霊が全く違う場所に移されるのを感じました。そのような経験は初めてだったのですが、それがトランスと呼ばれるものであることが後になってわかりました。カンファレンスには4千人以上が集まっていましたが、まわりにいた人たちはもう私の意識からは消えていました。私はただワーシップ・ティームが歌う預言的な歌だけに耳を傾けていました。
私は今まで見たことがないような美しい園に入っていきました。地面にはバラの花びらが一面に散っていました。丁度そのときにワーシップ・チームは「主よ、あなたの園に連れて行ってください…」と預言的な歌を歌っているのが聞こえました。実に、私が経験することがすべて、すぐそのあとでチームによって歌われるのでした。
私はバラの花びらが敷きつめられた地面にそっと横たわりました。すると突然風が吹いてきて花びらを舞い上げたので、私の身体は花びらで取り囲まれました。それは聖霊が私の上に臨まれたのだ、と私にはわかりました。私は頭の向きを変えて園の外を見ました。そこに見えたものすべては、死と悪とに満ちていました。恐ろしい旱魃と飢饉もありました。爆弾が炸裂し、ありとあらゆる犯罪が行われていました。人々の顔は恐れと絶望の色を濃く表していました。園の外部の世界とはまったく異質な場所に自分だけがいるようでした。
私は地面から立ち上がりました。そして園の中央にむかって歩いていきますと、そこには小さな流れが注ぎこんでいる池がありました。水の中に入ると、私の身体のすべての病が一瞬にして癒されるのを感じました。私は水の中にじっと身を横たえていました。 すると、園の外部から人々が大混乱の世の中を逃れて入ってくるのが見えました。彼らの顔からは恐れや死の影は消えて、晴れやかな表情になっていました。(詩篇34:5)
彼らも、池の中に足をいれましたが、その瞬間に彼らの身体から腫瘍や癌が落ちていくのが見えました。 また、骨が正常な位置に戻される音がし、盲人が見えるようになり、聾者の耳が開きました。たちまちのうちにすべての病が癒されていったのです。
私が水の中にじっと浸っていると、水が私という存在そのものの中へと浸み込みはじめるのを感じました。その水の性質と私の性質とがあたかも一つに溶け合うように感じました。 そして神の御性質をいただいて私の性質は少しづつ変えられていきました。(IIペテロ1:4)私はすっかり元気ずけられリフレッシュされました。それがあまりにも満たされた状態なので外に放出しなければなりませんでした。
私は池から出ました。そしてこの素晴らしい神様の臨在を分け与えるために園の外に出て行きました。私が歩くところはどこも水溜りになりました。私が建物の中に足を入れると、壁からありとあらゆる草花や木が生え出てきました。私が入ると建物はみんなきれいな庭園に変わっていくのでした。私自身が庭園であり、私が行くところはみんな庭園になるのでした。しかも私に触れる人は瞬間的に元気になり、彼らを縛っていたこの世の足かせから自由にされていきました。
万物の頂点
現在私たちは大いなる揺さぶりと混迷の世界の中に置かれています。歴史上今までになかったような悪と混乱の極みの世界が展開しています。これまでの悪が頂点に達して、今という終末の時代に現れています。 今までの悪のすべてが今の時代に集められて最高潮に達しているようです。
しかし、それと同時に主からの油注ぎも最高潮となり、今までの時代の神の業がすべて集められて、この終わりの時代にそそぎ出されるのです。上では天の不思議、地ではしるしが起こり、勝利者たちの上には身体の癒し、奇跡やしるしが大いに与えられるのです。今私たちは歴史的に画期的な時代に生かされています!
II歴代誌16:9「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」
今私たちに不可欠のものは、主に捧げきった忠実な心です。愛と忠誠をもって私たちが100%主に心を向けることを妨げるために、敵はあらゆる策略を駆使します。もし二心があるならば、私たちの魂は敵の捕虜になってしまうのです。(ヤコブ1:8) 悪魔はほえたける獅子のように獲物を探して歩きまわっています。私たちは、悪魔につけ入らせる隙を見せてはいけないのです。(Iペテロ5:8、エペソ4:27)
しかし、私たちが主の御顔を仰ぎ見て、主との親密な交わりを楽しむという、ただこの一つのことに励むならば、敵に隙を与えたり惑わされたりすることから自分を守ることができます。
詩篇27:4「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」
私たちの毎日のすべての時において、私たちの存在のありとあらゆる細胞はこの一つのことのために捧げられねばなりません。この邪悪な時代の中では、それだけが私たちの心と思いを清く保ってくれるものです。そのような生き方をするならば、天の父が私たちに目を留めてくださり、神の力が私たちの人生の中に流れてくるのです。エデンの園で人に与えられた元々の命令とは、神との親密な交わりを持て、というものでした。ですから、私たちは今、そこに戻らなければ、天国を地上にもたらして毎日勝利しながら生きることは決してできないのです。
初めに…
初めに、神はアダムとエバのために園を造られました。彼らがそこで生活し、管理するためでした。神はこの園をエデンに造られ、人をその中に置かれました。
創世記2:8 「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」
「エデン」という言葉は、「喜びと楽しみ」、
28 11月
たましいの闇夜―神の光の軍隊を準備するために
ポール・キース・デイビス
アメリカ国内だけではなく世界中で最近よく耳にするのが、「今はたましいが闇夜を通っている!」という言葉です。 確かに一見、多くのクリスチャンが、険しく苦しい道を通らされているように見えます。 しかし、これは実は、よい結果をもたらすためなのです。
私は数年前にある啓示的なヴィジョンを見たのですが、そのヴィジョンは私が苦しいところを通らねばならなかったときに大きな励ましとなりました。このヴィジョンは特にリーダーの立場にある人たちに対して語られていると思いますが、すべてのクリスチャンに適応することが出来ると思います。
自分のミニストリーはかなり成功している、と思っていたリーダーが、突然「神から取り扱いを受けている」自分を発見する、ということが最近よく起こっています。しかしその試練を通ったあとには、主と更に親しく交わるようになり、もっと大きな霊的権威を持つようになるという素晴らしい結果が期待できるのです。
光の軍隊のヴィジョン
私に与えられたヴィジョンの中で、光の軍隊が広い戦場で整列していました。私たちは戦闘態勢をとっており、暗やみの勢力と戦おうとしていました。光の戦士たちは、どの地位の者もすべて称賛に値するほど立派で、昔風の武具で身を固め、手には剣を持っていました。
やがて激烈な戦闘がはじまり、それはあたかも「世の終わりの戦い」のように見えました。 光の軍隊は剣の一振りごとに戦果をあげて敵を撃退し、勝利は間違いなし、と感じていました。
戦いは凄絶を極めましたが、私たちは前進し続け、敵は次第に後退していくように見えました。私たちは「我々は世の終わりの戦いに勝利している、自分たちの力はこのように偉大なのだ。」と心の中で感じていました。
聖霊によってとどめられる
しかし突然、聖霊が私たちを捉え、私たちはそれ以上前進することを許されませんでした。勝ち進んでいた戦いを、敵にではなく聖霊によって阻止されて、私たちは狼狽しました。私も敵からわずか数メートルしか離れていなかったのですが、身体が麻痺して一歩も前に進めなくなりました。
私は非常に落胆し、混乱してしまいました。 そして主にどうして光の軍隊が前進するのをとどめられたのかをお聞きしました。すぐに主は私たちの頭上の雲を吹き払われました。すると、私たちの目は開かれて、今までは隠れて見えなかった敵のいくつもの巨大な大砲が、私たちに向けられて並んでいるのが見えたのです。
敵は後退していると見せかけていたのですが、それは彼らの策略であり、実際には私たちが自分たちの力を過信するようにしむけていたのです。確かに私たちは戦場で戦うことにより主と共に歩み、主の力をいくらかは受けていました。しかし、預言にある「世の終わりの戦い」を長期に亘って戦うのに不可欠な主の力を、まだ十分には受け取っていなかったのです。
教会の上に神の霊が完全に注がれることを、敵は断固として阻もうとしています。神の民は主の完全な啓示と力の油注ぎを受けることが、み言葉で約束されていますが、そのときには、私たちは主のもとに帰り、完全に癒されることを、敵はよく知っていますから、それを阻止しようと必死なのです。主による完全な癒しとは、単に身体や心の癒しだけではなく、エデンの園以来できてしまった神と人との間の裂け目を完全に修復するものです。
これが成就されれば、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み(コロサイ1:27)」 が現実のものとなり、私たちクリスチャンは聖書に預言されている通りに生きることが出来るようになります。敵が、「預言的世代」が生まれ出るのを何故これほどまでに阻止しようとしているのか、という理由がここにあります。
敵は、私たちの準備が完全に整う前に戦いに引きずり込むことしか、自分には勝ち目がないことを知っています。教会がキリストの花嫁として、キリストにあって受け取ることのできるすべての啓示を受け取り、その花嫁の住まいとして用意された場所に入るならば、敵の勝ち目は全くなくなるのです。その真理に立てば、私たちは地獄の勢力にも対抗して戦うことができます。なぜならば、そのとき私たちは自分の力ではなく、天からの見えざる力の源から力を得て、神の勝利を勝ち取ることができるようになるからです。
私たちがあれ以上敵を攻撃するのを許されなかったのは、神の憐みと恵みの故でした。あのまま進んでいたら私たちは滅んでいたことでしょう。私たちが、完全にキリストを着ることをせずに、また主の武器で武装する用意もないままで戦いを続けることを許されなかったのは、父なる神の偉大な愛の故でした。 もし私たちがあと少し攻撃を続けていたならば、敵の巨大な兵器が終末の大戦争のために使用され、私たちは簡単に滅ぼされていたでしょう。
手術室
次に私たちは、天の手術室と訓練センターのようなところに移されました。 この特別な部屋の中で、私は手術台に横たわっていましたが、面白いことに、手術台を取り巻いている天使たちのうしろで私も一緒に手術台の自分を見ていました。天使たちは「手術」の準備をしていました。
背丈2メートル半くらいの6人から8人の天使が手術台の周りで、それぞれ分担された作業に取り掛かっていました。彼らは私たちに霊的手術をほどこして、来るべき戦闘のために整えているのでした。
彼らは、一枚ずつ私の肉を私の身体から剥ぎとっていきました。それは私の中の肉的なもの、この世的なものを取り去る作業でした。自分の身体から自分のアイデンティティーや計画、野心、欲望が除去され捨てられるのを私は見ていました。 そして、来るべき戦いには何一つ不純なものを持ち込むことは許されないのだ、という理解が与えられました。自分の考えとかアイディアとかというパン種を、主の純粋な真理の中に混ぜることは絶対に許されません。人間的なものが混じってはいけないのです。
天使たちによるこの作業が続けられ、おしまいには手術台の上の私はなくなってしまいました。私は一人の天使に「私はどこにいるのですか?いなくなってしまったようですが。」 と尋ねました。声がして、手術台の上の小さな、しかし命にあふれている種を指差しました。 丁寧な手術を受けて私に残されるのを許されたものは、神から与えられたいのちの種だけだったのです。
肉的なも
23 11月
非難の中を主と歩む
ビクトリヤ・ボイソン
詩篇84:10「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」
幻の中で、私は長く続く道をイエスと共に歩いていました。 主の片方の腕は一緒に歩いている私の身体を抱かれ、もう一方の手で大きな十字架のついている黄金の大盾を持っておられました。主はその盾で私たちを覆い、多くの火矢を防いでおられました。
主と共に歩いていくと、両側に人々が立っていて私たちにむかって告発糾弾、不当な判決という火矢を投げつけました。彼らは偽りを信じ込んでいて、私を激しく非難し、告発の矢を投げつけていたのです。
ほとんどの矢はイエスがその盾で防いでくださいましたが、時々防ぎきれなかった矢が私を突き刺しました。その矢は私の霊に刺さり、私は大きな痛みを感じました。
激しい痛みでしばらくの間、私の身体は麻痺し、動くこともできず、矢を投げつけた相手に対抗することもできませんでした。 しかし感覚がもどると、私の心は彼らに対する怒りで一杯になりました。そして彼らにむかって、自分はそんなものではない、言葉を発しました。すると彼らはもっと激しく私を糾弾したので、私の痛みはひどくなるばかりでした。
すると、イエスが御腕で私をぐっと御自分の方に引き寄せられたので、私の顔は主の胸の中に埋まってしまうほどでした。しばらくの間そうしていると、私の痛みは主によって吸い取られてしまい、私の心と霊は主の中でいやされ回復していきました。
長い間その道を歩きました。両側に立つ敵からは容赦なく非難の言葉が投げつけられていました。 攻撃は何回も繰り返されました。 私はこの戦いが何であるのか、また、どこに向かって歩いているのかも分かりませんでした。ただ、私はイエスのそばにいなければならない、ということだけははっきり分かりました。 戦いは非常に激しかったので、イエスの中だけが安全な場所だったのです。
御座からの輝く光
前方を見ると、遠くにぼんやりと光が見えました。なおも歩いていくと、その光は明るさを増していきました。歩けば歩くほど光は輝きを増し、それと同時に敵からの攻撃は弱まっていきました。やがてイエスと私は神の御座までたどりついたのです。
御座からは光が輝き出ていて、その光が触れるすべての物の中に光は浸透していくように見えました。光には神の慈しみと厳しさがあるのが感じられました。神は義であられ、また慈しみ深い方でした。私は畏敬の念に打たれましたが、自分が全く安全であることも感じていました。
イエスはまだ私の身体に腕を回しておられましたが、私にもっと御座の近くに進むようにと促されました。 そして、父なる神にむかって「お父様、この者は非難と告発の道を忠実に歩いてきましたから、あなたからの栄誉を受けるのにふさわしい者です。どうか祝福してください。」といわれました。
白い滴る炎
父なる神は御目をイエスから私のほうに移され、私をご覧になりました。そして御手を私のほうに愛をこめて差し出されると、その御手から白い液体の炎が滴り落ちました。 父なる神は全体の御姿がその炎そのもののようでした。
炎の滴りが私に振りかかると、それは私の身体を貫き、私の身体は力が失せて立っていることができませんでした。床にくずおれた私の上に、なおも父の御手から炎のしずくが滴り続けました。やがて父は御手を私の上から引かれましたが、私はなおもそこに横たわっていました。
イエスは優しく御腕で私を助け起こしてくださいました。一言も言葉を交わすことなく私たちは近くの丘まで歩いて行き、腰をおろしました。そして、これから起ころうとしていることを、主が話してくださいました。
「父とわたしは、あなたがこの丘の上に立つことを計画してきました。あなたがこの丘の上に立つとき、父とわたしは人々をあなたのところに連れてきます。それは、彼らも父の輝く炎を体験し、傷をいやされて回復し、自分に与えられた使命を全うできるようになるためです。人々がわたしを見つけられるように手伝ってくれますか?」
苦痛と非難の旅
父なる神に触れられた衝撃から私はまだ力がなく震えていましたが、「はい。」とうなずきました。しばらく丘の草の上で休むようにと言われて、主は私を一人にされました。
そこにじっと横たわりながら、私は今まで歩いてきた道について思いをめぐらしはじめました。私に投げつけられた非難を思い出したとき、私は大きな痛みを感じました。そしてその瞬間に、イエスもご自分への非難を浴びながら同じ道を歩かれたのだ、ということに気がついたのです。ただ私と違うことは、主はただお一人で、防ぐ盾も持たずに歩かれたということでした。私の戦いは非常に困難なものでしたが、イエスが共におられず、また、盾で守られていなかったならばもっと厳しいものであったことでしょう。平安が私の心をみたしました。 そしてIペテロ2:21-23を思いだしました。
「 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(1ペテロ2:21-23)
皆さんの中の多くの方が、父なる神の栄光の御座にまで通じているこの道を歩くようにと召されていると思います。それは大変困難な道ですから、あなたは弱リ疲れ果てることでしょう。でもその報酬を考えてください。父の栄光に勝るものはないのです。敵の非難、告発はあなたを父から引き離すことはできません。しかも、敵の非難が大きければ大きいほど、あなたはもっと大きな父の栄光を見ることができるのです。なぜなら「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる。」(詩篇34:18)とあるからです。
あなたの周りで今戦いが激しくても、救い主なるイエスの御そば近くにとどまっていてください。主の中にこそ、あなたの避けどころ、力があるからです。代価がいかに大きくても「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさる」(詩篇84:10)ことを決して忘れないでください。
神はあなたと
16 11月
一番良いもの
ラリー・オケーシオ(Other Side Ministries モーニングスター・ジャーナル誌Vol.16、No.4)
イスラエルの2つ半の部族が神の約束の地にゆくことをやめて、ヨルダン川の東側に定住することに決めてしまった事は、聖書の中で最も悲しい出来事の一つではないでしょうか。(民数記32:1-33)確かにその土地は彼らの生活に適する良い地ではありましたが、それは、神の約束の成就ではありませんでした。「良いものは一番良いものの敵である。Good is the enemy of best.」という古いことわざがあります。これはまさに真理です。私たちも神様が約束された「一番良いもの」を求めてヨルダン川を渡ろうとしないで、ただの「良いもの」で妥協し満足してしまうことが、あまりにも多いのではないでしょうか。
人間は、心地よさや気楽さ、苦労しないで満足を得ることを好む傾向がありますから、神から与えられる一番良いことが何であるのかを見極めることは、聖霊の助けがなければ非常に難しいのです。今の社会は、何が最高のものであるかを、ブランド名やタイトル、又は貨幣価値で決めてしまおうとしています。しかし、これはなにも今始まったことではないのです。イスラエルがカナンの住民を追い出して約束の地を勝ち取ろうとしたとき、主は彼らがただの「良いもの」を「一番良いもの 」の代用にしてしまう傾向を知っておられましたから、「あなたは一生、彼ら(アモン人とモアブ人)のために決して平安も、しあわせも求めてはならない」(申命記23:6)という警告を発せられました。
しかし、悲しいことにイスラエルの民は何度もこの警告を無視しました。そしてそれは私たちも同様なのです。度々私たちは、自分にとって一番良いことは何かという答えを、神にではなく神以外のものに聞いてしまうという罠に陥るのです。この世が最良とするものと神が最良とするものとは往々にして正反対であることを、私たちは、何故かなかなか理解できないのです。
このポイントをよく表している話が旧約聖書にあります。それは第一サムエル記に出てくるハンナのことですが、彼女は主からの特別な召しを受けました。(Iサムエル1-3章)ハンナの夫はエルカナといいましたが、その時代の習慣で彼にはもう一人ペニンナという妻がおりました。エルカナはこの二人の妻を愛しておりましたが、特にハンナを愛していたことがうかがわれます。
Iサムエル1:4-5
イスラエルの当時の時代背景を考えますと、不妊の女ということがハンナにとってどれほど辛い重荷であったかが分かります。不妊の女は神にのろわれているとみなされていたのです。その上ハンナは絶えずペニンナに嫌がらせをいわれ、苦しんでいました。
Iサムエル1:6-7
この箇所を読んで私たちは、ハンナにとってペニンナは神からおくられた「一番良いもの」では決してありえない、と決め付けてしまいそうになります。しかし、もう少し掘り下げて考えてみると、興味深い真理が見えてきます。ペニンナという名前はヘブル語でルビーという意味なのです。そうです、女性の好きなあの宝石です。しかしこのペニンナというルビーはハンナにとっては宝石どころか、ただ悩みを与えるだけのものの様に思えます。しかし、本当にそうだったでしょうか。聖書によると、ハンナはペニンナから絶えず苦しみを受けた故に、追い詰められてついに神にすべてを打ち明け、明け渡す決心をしたのでした。
Iサムエル1:11
この後、ハンナにはサムエルという子供が授けられ、誓い通りに彼は主にささげられました。サムエルは成長してイスラエルの大預言者、祭司、士師となりました。ハンナが神からの一番良いものを受け取ることを止めてしまう危険があったのは、皮肉なことにペニンナではなく、ハンナを心から愛していた夫のエルカナでした。エルカナはハンナの重荷を少しでも軽くしようと一生懸命彼女を慰めました。神がハンナに「一番良いもの」を求めさせようとしておられたときに、図らずも彼は「良いもの」で満足するようにと彼女を諭してしまったのです。ハンナが神の約束を求めるのをやめさせようとしてサタンは狡猾にもエルカナにこういわせました。
Iサムエル1;8
これはとても優しいエルカナの言葉です。しかしこれは実はハンナやサムエル、ひいてはイスラエルという国家に対する神のご計画を台無しにしようとする敵が彼に言わせたことなのです。エルカナの「私は十人の息子以上の者ではないのか?」という質問に対して、私たちは、「いや、違う、絶対に違う!」と叫ばねばなりません。
たとえそれがどんなに素晴らしい夫であっても、どんなに立派な家であっても、またどんなに素敵な車であっても、それらは神が私たちの人生のために用意していてくださる一番良いものと比べ物には絶対にならないのです。私たちが今緊急にせねばならないことは、聖霊との交わりを深く持つことです。何故ならば聖霊の助けによってのみ、自分の人生の中のペニンナとエルカナを識別していくことが出来るからです。彼らはあなたの人生の中に必ず存在しますが、彼らを識別する知恵は私たちのうちにはないことを知ってください。
邪悪な敵は、私たちが神からの一番良いものを求めないで、それ以下のもので満足するようにと惑わす機会をいつも狙っています。敵は「それで十分ではないか、満足しなさい、感謝しなさい。」とささやきます。神がもっと素晴らしいものを用意していてくださることを、信じて期待をすることは欲張りであるという罪悪感を私たちに抱かせようとします。敵が「あなたにとって私は十人の息子以上の者ではないのか。」とささやくのが聞こえますか?
神からの一番良いものとはなんでしょうか。それはあなたの人生に対する神の御計画が完全に成就することです。そしてそれは、すなわち、主に栄光をおささげできるように私たちのうちにキリストが形作られることです。この地上でそれ以上に良いものや価値のあるものは絶対にないのです!(終わり)トップページへ戻る
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