Walk With God Ministries
Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
09 03月
信仰を持ちなさい。神に不可能はない。
ボブ・ジョーンズ師との会話
ポール・キース・デイビス
最近私はボブ・ジョーンズ師から、主が彼に与えられた啓示について聞くことができました。それは、西洋の教会ではどうして奇跡が起こらないのか、という問題に関してでした。彼に与えられた啓示はこうでした。「西洋の私達は、神はすべてのことが可能であるということは確かに信じている。しかし、問題なのは私たちの心にある『疑い』である。」
正直なところ、これを聞いた私は戸惑いを感じましたが、しばらくして私が十分理解できるようにと主は助けてくださいました。というのは、最初私にはこの啓示の内容は矛盾しているように思えたのです。なぜならば、神は偉大な神でありすべてのことが可能な方であることを信じるのは、信仰の最も基本的な土台ですから、なぜ信仰を持つ私たちがそれに関して疑いを同時に持つことがあるのでしょうか?
私の疑問への答えはマルコ11:22-23に見出すことができました。
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」
この箇所を丁寧に調べてみますと、主イエスは私たちの心の2つの領域を取り扱っておられることがわかります。:第一の領域は、神にとって不可能なことはない、と信じる信仰の領域であり、第二は、しかし神は私個人の祈りに応えて奇跡を起こしてくださるのだろうか、と疑う領域です。
信じて疑ってはならない
主がお弟子たちや私たちに教えておられることは、信仰という超自然的な領域のことであり、山をも動かすほどに偉大な信仰の領域のことです。ここでいう山とは、妨害の山かもしれませんし、実際の土と岩で出来ている山かもしれません。
主は私たちにむかって「神を信じなさい。」と宣言されました。そして次にこの原則を私達個人に適応して、「あなたがたに言います。」といわれました。主は私たちを個人的にとり扱われ、私たち一人ひとりがどのような信仰を持っているかを問われるのです。私たちのうちの誰であっても、山にむかって「動け」と言い、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになるのです。
主のお言葉の中に私たちは二つの次元を見ることができます。:信じなさいという信仰の次元と自分の中の疑いを取り去るという次元の二つです。主はこの原則について私に教えてくださったのですが、そのときに、西洋の教会の多くの人は神が全能の方であることを信じていることをも私に理解させてくださいました。過去において死人をよみがえらせた神ならば、又いつでも神は死人をよみがえらせるであろう、と私たちは信じているのです。
神は奇跡の神であり、何回でもしてくださる神であることを私たちは信じています。しかしながら、神が奇跡をなさる方であることは信じていても、神が実際に私たちを通して奇跡をなさるかどうかを私たちは疑っているのです。
神が誰か偉大な癒し手や伝道者を通して癒しや解放をされるのは信じるのですが、自分、即ち「私のような小さな者」を通して神が奇跡を起こされることには疑いを持ってしまうのです。多くの西洋のクリスチャンは、神は今も偉大な業をされることを信じています。しかし、神が彼らを個人的に用いられて偉大な業をされることはどうしても疑ってしまうのです。ですから、神の超自然的な大きな業の中に私たちが参与させていただけることを私たちが悟るには、神からの啓示によって知らされることがどうしても必要なのです。
どうして西洋では奇跡がおこらないか?
発展途上国で奇跡が起こるのを多く体験してきたミニストリーに携わる人たちにインタビューをした結果、とても興味深いことが分かりました。そのような国々の人々には疑いというものが全くないと彼らは言うのです。イエス・キリストが生ける神の子であると一度確信するや、彼らはすぐに奇跡を経験し始めるのです。なぜならば、彼らは我々西洋人のような疑う心を持っていないからなのです。
彼らは霊的に物事を見ることができる人たちです。それは確かに今までは偶像という間違った対象のために使われていましたが、一たび彼らの信仰が主イエスに正しく向けられたときには、奇跡がどんどんと起こり始めるのです。彼らは主を信じると、神は宣教師たちが言っていたことを必ず彼らのためにしてくださると、一つも疑わないで心から信じるのです。
エレミヤは次のように言っています。
エレミヤ32:17「『ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と、伸べた腕をもって天と地をお造りになったのです。あなたのできないことは、ひとつもありません。』
私たちも今こそ、神が私たち一人ひとりに対して個人的に偉大な業をしたいと願っておられることを疑わず、このすばらしい現実に自分の信仰を目覚めさせようではありませんか。
ヤコブは次のように言っています。
ヤコブ1:5-6「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」(終わり) >
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02 03月
心のきよい者
キャシー・ペルトン
「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。マタイ5:8」
過去数ヶ月、この聖句が私の心に何度も響いてきました。私は主に「心のきよい者とはどのような人のことですか?」 と尋ねはじめました。
しかし、本当はそのような質問をするのではなく、素直に「主よ、きよい心をどうか与えてください。」と主にお願いするべきだったのです。しかし、神は常に誠実であられ、私たちが自分の思いを口にする前にすでにご存知な方です。 主は私がきよい心を持ちたいと願っていることをわかってくださり、すぐに私の心を取り扱い始めてくださいました。ほとんどの人がそうだと思いますが、私も毎日の生活の中にストレス、問題、苦難を歓迎したいとは思いません。しかしながら、それが私の心をきよめるための熱い精錬の火として、まさにその時必要なものであったということが、後になってわかるのです。私たちが大きな艱難を通るときには、自分が内に持っている最高のものと最悪のもの両方が、たちまち表に現れてくるようです。
人生のプレッシャーがきよさを生じる
私は最近、様々なところを通らされてきましたので、それをお話したいと思います。それらの体験は私の心に侵入してきて、私の神を見る視野を塞いでしまったのです。
過去6ヶ月のうちに、私の身辺で多くの変化とチャレンジがありました。まず私たち家族は主の導きに従って、カナダでのミニストリーを後にしてカリフォルニアに戻りました。主からそのように示されたのですが、その理由ははっきりとは告げられませんでした。カナダからアメリカに国を超えて引っ越し、主人はミニストリーではない普通の仕事につきました。私は二人の子供をホーム・スクールで教えながら、ミニストリーで海外にも出かけていました。そういう時にいろいろな事件が起こり始めたのです。私は肺の病気になり、2ヶ月間はかなり重い症状でした。(今もまだ治療中です。)次に、私たちのとても親しい友人が自殺をしました。そして3週間前には私たちの家が家事で燃えてしまいました。確かに試練の火は非常に熱く、きよめがすばやく起こったといえるでしょう。
心の中の不純なものというのは、道徳的な罪だけではありません。人生上のストレスや困難は、往々にして私たちの心の中に不信仰、落胆、失望という思いを起こさせます。このような思いは神をはっきりと見るための私たちの視野を塞いでしまうので、それを神は非常に案じておられます。これらの否定的な思いは、道徳的な罪(根本的な心の問題を解決しないときに起こることが多い)と同じように私たちの心の目を塞いでしまうのです。
私の場合、カナダのミニストリーを引き上げたことは、私が持っていた自分のアイデンティティーの問題を浮き彫りにしました。私はキリストにしっかりと根ざしたものではなく、個人的にどれだけ事を成し遂げたかとか、自分の仕事を人がどのくらい評価してくれるか、というところに自分のアイデンティティーを見出していたのでした。また、ホーム・スクールは私の完全主義を露呈し、私は自分や周りの者をコントロールしようとしてしまいました。親しい友人の自殺は、私の心の中に残っていた失望感、罪悪感、絶望感を新たに浮かび上がらせました。そして家の火事は、キリストの身体なる教会に対して私の心にしのびこんでいた批判の思い、裁く心を表面化させたのです。
霊的な目をくらませる根
皆さんは、火事がどうして教会に対する批判(裁き)の心を呼び起こすのかといぶかしく思われるかもしれません。恐れとかパニックなら分かるけれど、どうして批判を呼び起こすのか、と。その理由はこうなのです。
ミニストリーに携わっていた数年の間に、ある人たちが非常な困難の中で緊急に助けを必要としているにもかかわらず放っておかれているのを見てきました。そして深い悲しみを覚えていました。困窮生活を送っているシングル・マザーを助けようとはしないで、巡回してきた預言者に何千ドルも教会は献金しているのでした。勿論ミニストリーに献金するのは悪いことではありません。ただ私は、やっとの思いで毎日の生活を送っている主に忠実な人々(往々にして彼らがもっとも献金をしているのですが)がひっそりと孤独を感じているのを見て、悲しみを覚えていたのです。
私が教会に対して幻滅を感じていたもう一つのことがあります。4年間私は祈りの家のディレクターをしていましたが、そこには多くの「祈りのミッショナリー」が訪れてきました。彼らは自分のものを全部ささげて国々のためや失われた人々のために祈っていました。しかし、彼らは十分な献金のサポートを受けることが出来ずに非常に貧しい生活をしていたのです。彼らの母教会は、「残念ながら経済的サポートはできませんが、あなたのために祈っていますからね。」ということが多いのです。
これらのことに対して腹を立てるのは、決して正しいことではありませんが、私の心の中に教会に対する裁きの根が張り始めたのが分かりました。私は教会を裁きの思いを通して見るようになりました。意識的に「裁く」とある時点で決意したというわけではないのですが、裁きの思いが徐々に静かに私の心にしのびこんできて、気がついた時にはしっかりと根を下ろしていたのです。けれども、我が家が火事になったときの教会のすばやい愛の対応により、裁きの思いは私から振り落とされてしまいました。私の心がきよめられるために火事が必要だったのです。
カリフォルニアに引っ越したときも、私はあちこちとミニストリーで旅行をしていたので、大変忙しく、主人も私も借りた家に対して「賃貸人保険」に入ることを不注意にも怠っていました。ですから火事になったときにすべての持ち物に保険はかかっていませんでした。火事から一時間くらいたったとき、私は自分の車の中に座り、ただ涙を流し、神に助けを呼び求めました。
神は助けてくださいました! どのようにしてでしょうか。それは主の麗しい「身体」を通してでした。いろんな教会、町、そして外国からも、火事のことを聞いた人たちが助けてくれたのです。まず数時間のうちに人々は私たちがとりあえず必要なものを持ってきてくれました。毛布、食べ物、水等です。特に長女は火事で持ち物すべてを失ったのですが、人々は彼女を買い物に連れて行ってくれて、新しい洋服を買ってくれました。
しかし、「キリストの身体」に連なる人たちの親切はそれだけではありませんでした。火事のあとの家
22 02月
魂の静かな刈入れ
フランシス・フランジペイン
死に面している人の夢を見た
数年前に、私は今にも死ぬという男の人の心の中に自分がいるという夢を見ました。その人はもうかなり昏睡状態が続いていました。彼の家族はずっと彼の救いのために祈ってきたのですが、彼がキリストを受け入れたのかどうかは分かりませんでした。彼らに分っていたのは、キリストを信じるようにと語る家族の説得に、彼が生涯抵抗し続けて来たということだけでした。
夢の中で、私は彼の心の状態がはっきりと分かりました。彼の考え、感情、葛藤があたかも自分のことのように感じられたのです。彼の目はほんのわずかしか開いておらず、回りをぼんやりとしか見ることは出来なかったのですが、彼の愛する人々がベッドの傍らにいるのは見えました。彼は愛する家族の方に手を伸べようとするのですが、彼の腕は全く動きませんでした。
彼は彼らの名前を呼ぶのですが、彼の唇からは何のささやきも出て来ませんでした。 彼の手をとっていた人が「もし、私の声が聞こえるなら手を握ってちょうだい。」と言いました。彼にそれは聞こえたので、自分の指でその人の手を握ろうとしましたが、実際にはその指を少しも動かすことはできませんでした。彼の手はぐったりとして力の入らないままだったのです。彼に意識はありました。彼らの祈りを聞くこともできましたし、彼らが彼の顔に接吻するのを感じることもできました。しかし、それに対してなんらかの応答を身体で示すことは彼には出来なかったのです。
今までの生涯の間心をかたくなにしていたプライドと防衛心は彼からもはや消え去っていました。肉体の破局が彼を圧倒していました。死が近づき、自分が永遠という時間に直面する用意が出来ていないことを、彼は悟りました。外面的には冷静に見えましたが、内面では彼の魂の激しい争奪戦が起こっていたのです。そしてその戦いは主の勝利に終わりました。神の執拗なまでの愛に征服されて、彼はついに平安を得たのです。彼は入院してから、キリストを自分の救い主として受け入れる祈りを静かにしたのです。彼の身体からいのちが無くなろうとするとき、彼が自分は救われたことを何とかして愛する人たちに伝えようとするのを、私は見ていました。
突然、計器の音が部屋の静寂を破って響きました。彼の心臓が最後の鼓動を打ったとき、私は死んだ男の身体を上から見下ろしていました。病室では看護婦が忙しく立ち働き、家族は部屋の隅で抱き合いながら悲しみ嘆いていました。愛する者がキリストを受け入れないで死を迎えたということが、死そのものよりももっと彼らにとっては辛く耐え難いことでした。私の心は動かされ、そのときに夢から覚めました。しかし目覚める直前に主が、「彼はわたしと共にいると、彼を愛する者たちに伝えなさい。」と私の心に語られたのです。
神は慈しみ深い方
私がこの夢を見てからもう数年が経ちましたが、愛する人がキリストを受け入れないまま死んでしまった、という深い心の痛みを持ち続けているクリスチャンが大勢いるという事実に、私はますます気がつくようになりました。勿論私の見た夢がすべての人に当てはまるわけではありませんが、この夢を通して神が語りかけておられる人々がいるのです。そのような人の心には聖霊がその確証を与えてくださるという保証を私は受けたので、この夢を皆さんにお伝えしています。
そして、この夢を人々に早く伝えなければならないという思いに私は駆られています。主はあなた方に重要な仕事をしてもらいたいと願っておられるのです。しかしながら、あなたの愛する人が救われないで死んだということを敵が使って、あなたの魂に疑いの種を蒔いたのです。あなたは愛する人の死を悩むばかりではなく、神の愛や祈りの力に関しても疑いを持ってしまったのです。その結果、神に対する確信が弱くなってしまっています。しかし家族のほかのメンバーのためにも、今こそあなたが確信をもってしっかりと立たねばならない時です。
愛する皆さん、人生には分からないことが沢山ありますが、分からないことによって分かっていることまで曇らせてしまってはいけません。神は慈しみ深い方です。神は私たちの罪のためにひとり子をこの世に送ってくださった程に私たちを愛してくださっている方です。イエス様は「わたしを見たものは父を見たのである。(ヨハネ14:9)」と言われました。私たちがキリストを見るとき神を見るのであり、神は私たちを愛してくださる慈しみ深い方であることを知るのです。
又、私たちは愛する人を事故などで突然失うことがあり、そういう場合は悔い改めたり神に立ち返ったりする時間は彼らにはないように思えます。しかし、臨死体験をした人たちのことを思い出してください。彼らは、目のまえに自分の人生がすべて映し出されるのを見たといっています。その時には、時間が止まってしまうかのようなのです。突然の死と思われるようなときにさえ、時間は非常にゆっくりと進むのだと私は思います。この特別な状況の中では、自分の人生をじっくりと顧み、決心し、主の名を呼び求める時間さえも与えられることが確かにあるようなのです。
人生には私たちには分からないことがありますが、一つのことは永遠に真実です。それは、神は私たちを愛してくださる父であるということです。神は人が一人でも滅びることを望まず、私たちの救いのために、私たちの死に瞬間まで戦ってくださいます。ですから、重荷を主に委ねましょう。主は心から私たちのことを思ってくださっているのですから。そして私たちの前に備えられたレースを忍耐をもって再び走ろうではありませんか。なぜならば、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:16)」と主は約束されているからです。
祈りましょう。
「主イエス様、私の罪のために死んでくださって有難うございます。主よ、多くのことが私にはわかりません。しかし、あなたが良き方であることを私は知っております。私に理解できないことはすべてあなたにお委ねいたします。私の人生をあなたにお任せし、私の愛する者たちをあなたの御手に委ねます。」〔終わり〕トップページへ戻る
07 02月
2007年―夢と計画が実現するように
ボブ・ホッチキン
2006年―自分の考えが死なねばならなかった年
最近私は、主が2007年に何を計画されているのかを尋ね祈っていました。そして主が、今年は「夢と計画が実現する年である」と言われたように感じました。
2006年には、多くのクリスチャンは、主が私たちの心に与えられたことを祈りに祈り、宣言に宣言をし、信じに信じてきました。しかし、多くの者にとっては期待したように物事が起こらず、その経験は様々な疑問や苦しみをもたらす結果となりました。 彼らが、きっとこのようになるだろう、と想像し期待したようなことは起こらなかったのです。
けれども、落胆してはいけません。神は私たちを無視されたのではありません。私たちを忘れたのでもありません。私たちを捨てたのでもありません。主はご自分がどのような方であるかを示す、より大きな啓示を受けられるように私たちを整えておられたのに過ぎないのです。もっと大きくて素晴らしいものを受けられるように、私たちを準備しておられたのです。
2006年は、私たちが「神はこのようにされるであろう」と考えていた自分勝手な思いが死ぬのを、神が許された年だったのです。
私たちが信じるように主が与えてくださった夢や計画が死んでしまったのではなく、ただ、主はこのような方法でこのようにしてくださるだろう思い描いていた「自分の考え」が死んだのです。それは主がもっと大きくて素晴らしいことをなされるためです!
しばしば、自分の計画や約束が実現しないとき、その約束は反故になってしまったと私たちは思ってしまいます。そうではありません。それは、私たちが神をもっと偉大な方として見ることができるようにと、神がそのように事を動かしておられるのです。神は私にいつももっと大きな規模で神は事をなすことを期待するようにといわれますが、それが「どのような方法で」、「どのように実現するか」を自分で決めてそれを期待してはならないといわれます。とかく私たちは、神はこのようにすべきだとか、いつそれをすべきだ、とか知っているように感じてしまうのです。
「神はこういう方である。」、と私たちが決めてしまって自分自身を閉じ込めてしまっている箱の中から、私たちを解放して、主はとてつもなくすごい方であり、無限な方であることを、主は私たちにもう一度知らせたいのです。なぜならば、ただ単に神の約束が実現することではなくて、神が約束を実現してくださるとき、それによって神ご自身がどれほど偉大な神であるかを知ることが、私たちの心の奥からの真の願いであると、主は知っておられるからです。
主は私たちを驚かすのが好きなのです。主は約束されたことを、ご自分がどのような方であるかをもっともよく表す方法で実行したいと思っておられます。私たちが「主の道は我々の道より高い」ことを知って信仰にとどまり、祈りと賛美をもって神を敬い続けるならば、2007年こそ「夢と計画よ、出て来なさい!」と主が叫ばれるのを聞く年となるのです。そしてその現われ方は、神の素晴らしい新しい一面を私たちに示すものであり、それによって私たちは以前にも増して、主を称え、愛するようになるでしょう!
ラザロの復活
ヨハネ11章にラザロの復活の話があります。ラザロとその姉妹マルタとマリヤはイエスの親しい友でした。主は何回も彼らを訪れています。マルタはイエスのために料理をしました。マリヤはイエスの足元で主をあがめて座っていたり、また、香油をイエスに注いで自分の涙と髪の毛で主の足を拭いこともありました。この家族は心から主を愛していたのです。そして彼らは主から愛されていることも知っていました。実際、ラザロが病気になったときイエスのもとに遣わされたものは、「あなたが愛しておられる者が病気です。」といいました。(ヨハネ11:3)
彼らは、主を愛していたばかりではなく、主をよく知っていました。彼らは主がメサイヤであることを知っていました。主が神であることを知っていました。そして、彼らに助けが必要なときには、主は必ず来てくださることを知っていました。ですからラザロが病気になったとき、マルタとマリヤは、私たちと同じことをしました。祈ったのです。つまり、主に言葉を送ったのです。彼らはイエスが自分たちを愛しておられること、主が癒し主であること、主がよい方であり神であることを知っていたので、マルタとマリヤは主がすぐに来られて助けてくださると期待しました。
神は私たちが「主は必ず助けてくださる。」、と期待することを望んでおられます。主は信仰に報いてくださる方です。しかししばしば、主の方法とタイミングは私たちにとって初めは理解しがたいときが多いのです。
イエスはこの家族を愛しておられました。主が私やあなたを愛しておられるのと同じように、完全に永遠に、そして熱情をもって愛しておられたのです。ヨハネ11:5には「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」とはっきり書いてあります。 主は彼らを真に愛しておられた故に、彼らが助けを求めたときに(主が彼らの祈りを聞かれたとき)主はすぐには来られなかったのです。(ヨハネ11:6) これはちょっとおかしいのではないでしょうか。私たちにも、マルタやマリヤにとっても不可解なことでした。しかし、神にとっては「全くよいこと」だったのです。
イエスはマルタとマリヤを心から愛していたからこそ、彼らの祈りに対して彼らが予想したような対応をされなかったし、また、彼らがいいと思うタイミングにはされませんでした。主は彼らを愛していたのでラザロがこの病気で死んでしまうまで待っておられたのです。それがマルタとマリヤにとって(勿論ラザロにとっても!)大変な事態であることを主はご存知でした。彼らが予想し期待したのとは全く違う事の展開であることも知っておられました。主のご計画は、彼らが主とはどう言う方であるかを、もっと深く知るための啓示をもたらすことにあったのです。
神は、このように私たちが困難な苦しいときを経験することを許されるのです。主は私の祈りを聞いてくださらなかった、答えてくださらなかった、信じてきた主の約束は死んでしまった、と感じる苦難のときです。それは、主が私たちが想像もしなかった方法で現れてくださり、主が私たちにとってどのような方であり、どのようなことをしてくださるかをもっとよく知らせるためにそうされるのです。
マルタとマリヤは、イエ
01 02月
主の剣の年―勝利へと前進せよ!
ボビー・コナー
過去12年間、贖いの日(the Day of Atonement)に毎年主イエス・キリストが私に現れてくださいました。主とのこの預言的な出会いによって私は世界に起ころうとしている出来事に対する洞察を与えらてきました。
勝利に向かって進む
去年の贖いの日、私は静かに主を待ち望みはじめました。突然、大きなヒュッヒュッという音で静けさが破られました。すばやく私は右肩越しに振り返って見ますと、そこには非常に強烈に輝く光があり、目がくらみました。
真昼の太陽よりも強い光でした。この光の中に主が右手にキラリと光るかみそりのように鋭い抜き身の剣を持って立っておられるのが見えました。主は剣を頭上高く掲げ、主の口から力強いはっきりした命令が放たれました。
「進撃!勝利に向かって前進せよ!」主の声には大変な力があったので、天と地が揺るがされました。
神の御霊は、私たちが霊的なまどろみから目を覚まして立ち上がり、持ち場について前進するようにと鼓舞しておられます。前進とは、前に進むことです。真理の御霊は私たちが進むべき道をはっきりと示してくださいます。私たちが目指すところは「キリストに似た者となる」ことであることを先ず理解せねばなりません。主のご性質を十分に頂いたとき、初めて私たちは苦しんでいるこの世界を愛することが出来るのです。この愛によってのみ、私たちが主の弟子であることをすべての人たちが知るようになるのです。
ヨハネ13:34-35「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
正義と裁き
真理の御霊は「主の剣」に関する洞察を与えてくださいます。万軍の主を仰ぎ見る備えをしなさい。
ヨシュア5:14「すると彼は言った。『いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」」
又、御霊は神の義、神の裁きについても理解を与えてくださいます。
さて、ヴィジョンの続きをお話しましょう。主が剣を高く上げられているのを見たとき、主が正義と裁きを実行しようとされておられることは明瞭でした。しかし、主の意図されるところが何であるのかは分かりませんでした。私の心臓があまりにもドキドキするので身体中が震えました。一人の人が身体を様々な縄やチェインで縛られているのが見えました。主が彼に近づかれるのを私はじっと見ていました。私は直観的にその人が今の教会を現していることを悟りました。剣を高く上げ、主は今にもその人を打つように見えたので、私は思わず大きな声を出してしまいました。
「おお、主よ、今はあなたの大いなる裁きのときなのですか?」と私が叫ぶと、主は力のこもった確信のある声で、「いや、そうではない。私は剣を抜いて正義をもたらそうとしているのだ。剣は罪の束縛の縄を断ち切り、神の民を解放し、戦場に馳せ参じるようにするのだ。」といわれました。
主の剣と剣の主
私たちは今すでに、主と御霊の剣のシーズンに入っていますので、数年前に私が経験した預言的な出来事をお話したいと思います。この主との出会いを思いだす度に、私の心は、もっと親密に主と歩みたいという願いで掻き立てられます。なぜならば、主が私たちの人生に最高のプランと目的を持っておられるの私は知っているからです。私たちは心からの祈りは、「主の剣と剣の主に関するもっと深い理解を与えてください。」というものであるべきなのです。
カリフォルニア州サン・ジョゼにいた2001年2月22日の未明のことですが、私は鮮明な夢を見ました。それは非常に生生しく強烈だったので、衝撃をうけて私は目を覚ましました。時計を見るとキッチリ2時22分でした。かなり長い間その夢について思いを巡らしていたのですが、やがてまた深い眠りに落ちました。本当に驚いたことには、5時55分にまた、全く同じ夢を見たのです。前にもましてそれは強烈でした。
全く同じ夢を2回見たという事実に私は衝撃をうけました。非常に驚いたので、ノース・キャロライナにいる預言者仲間のボブ・ジョーンズに電話をして、夢の話をしました。ボブは私の電話に少なからず驚いたようでした。そして「信じられないと思うけど、私もほとんど同一の夢を昨夜見たんだよ!」というのです。
神が同じ夢を複数の人に与えられるときは、それに注意を払うことは非常に重要です。神の御霊が同じことを語っておられるからです。聖書には、すべての事実は二人または三人の証人の口によって確認されると言っています。(IIコリント13:1)
私と一緒に次の祈りをしてください。
「神よ、御霊が教会に言っていることを聞く耳をください。そしてあなたの召しに喜んで応える心をください。」
夢の内容
私は大勢の人の中に立っていました。それは空港の中の通路のような広い通路でした。人々はお互い同士挨拶をしたりお喋りをしたりしていました。そこにいるだけで十分満足している様子で、そこからどこかに行くことは頭にないようでした。
突然、13メートルほど向こうにイエス・キリストが現れました。人々は主が近づいてこられるのに全く気づかず、無関心で、くだらないお喋りを続けていました。主は決意に満ちた様子で、大きな輝く栄光の剣を右手にもって私のほうに歩いてこられました。剣は真っ赤に燃えるように輝き、かみそりのように鋭いものでした。主は私の真ん前まできて止まりました。剣を頭上高く振り上げて「剣に口づけをするときだ!」とはっきりと言われました。
これは強い指令であり命令でした。こう言いながら主は剣を顔の高さまで下ろし、ご自分の唇につけられました。
そして、「剣に口づけしなさい!」と命令されました。私は顔を近づけて、剣に口づけする用意をしました。剣はイエスの唇に平らにつけられていました。私が前かがみになって剣にキスしようとしたとき、主は剣の向きを変えられて非常に鋭利な刃が主と私の唇に当たるようにされました。私はその鋭い剣の刃に唇を近づけるのをためらいました。主は私のためらいを察して、「わたしの恵みはあなたに十分である。あなたに代わって私が痛みを負った。」と言われま
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