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10 06月

「自分の十字架を負う」とは(その一) フランシス・フランジペイン 2019年6月10日


「自分の十字架を負う」とは(その一)

 

フランシス・フランジペインMinistries of Francis Frangipane)

 

 

 

キリストの再臨の時までに私たちは様々のメッセージを聞くことでしょう。信仰や愛について、又預言的油注ぎ,新しいぶどう酒、聖なる笑い等々、色々な人が様々なことを教えるでしょう。でもある一つのことが無視されているように私は思います。それは十字架の弟子となることです。

十字架はキリスト教の中心に位置するものです。私たちの信仰のシンボルです。十字架は教会の上にも、聖書のカバーにも、その他すべてのキリスト教主義の病院、施設、団体のシンボルになっています。しかし、「十字架を負う」というテーマのワーシップソングを最後に歌ったのは、いつだったでしょうか。そして十字架を負う弟子になることの素晴らしさを語るメッセージを聞いたのはいつのことだったでしょうか。

アメリカでは特にだと思いますが、クリスチャンは甘やかされるのが好きです。牧師はまるで「あなたをもっと心地よくするためには、何が御入り用ですか?」「何か読み物がいりますか?」「お休みになるのに枕をお持ちしましょうか?」と言うスチュワーデスのようです。

 

でも聖書は十字架こそ神の力だと言っています。リアルな神のリアルな力は十字架にあるのです。今朝は神の目的のために私たちの命を捨てることについてお話したいと思います。十字架は従順のための代価を象徴しています。どのような代価を払っても神に従うということです。十字架を見るとき「イエスはどこまで従い通したか」が分かります。そしてイエスは「あなたも私のあとに従いなさい。」と言ったのです。

今のクリスチャンは神によって救われたいと思っています。彼らはカウンセリングや祈りを繰り返ししてもらいます。それは即ち「このままの私でいられるように、変ることから救ってください。」と言っているのです。「あの人を赦すことから救ってください。(赦したくありません。)」「この必要のために自分を捧げることから救ってください。(自分を捧げたくありません。)」と言うのです。

自分は変わりたくないのです。あなたの都市や国が変革されるのを見たいのであれば、あなたが変わらねばなりません。あなたが変るためにはあなたの心が変えられなければなりません。それは即ち十字架の弟子になることです。

イエスはご自分の十字架について話される前に「弟子たちが各々自分の十字架を負う」ことを話されました。「わたしに従いたいならば、又わたしのように生きる力を得たいならば、十字架を負いなさい。」と言われたのです。「あなたの人生を変え、世界を変革させるためには、自分の古い命を捨て、古い生き方を捨てねばならない。」と主は言われました。ただ否むだけではなく、十字架にかけねばならないのです。

 

「十字架」と聞くと、それは私たちにとってまるでペンダントやイヤリングというアクセサリーのようです。でも皆さん、一世紀には十字架は地獄のシンボルでした。天国のシンボルではありません。十字架はローマ帝国のテロリズムのシンボルでした。十字架上の死体は鳥や犬がその肉を食べるままに放置されたのです。町の近くの人通りの多いところにさらされ、ローマに対して反逆しないようにという戒めとして用いたのです。

ですからイエスが「あなた方も自分の十字架を負いなさい」と言われたとき、弟子たちは全く意味がわかりませんでした。十字架を通してのみ得られる王国、力、栄光を悟れなかったのです。神の御国への近道はありません。十字架こそがその道です。パウロはピリピ3:10で「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。」と言っています。「キリストの苦しみ」にあずかることなしに、栄光への道はありません。

 

「十字架を負う」というと、「自分の身に起きた惨めな辛いことをがまんして耐えて行くこと」だと解釈されがちですが、そうではありません。自分でそれを選びとって進んで背負うということです。イエスはヨハネ10:18で「だれも、わたしからいのちを取るのではありません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」と言っています。啓示により、その十字架を負うことによって栄光へと導かれることを知るのです。十字架は神への従順の代価です。

 

「古い人を十字架につける」と言うとき、それはあなたの夫のことではありませんよ。横にいる夫をつつかないでくださいね。(笑)古い人とはあなたの中にある古い性質です。神はあなたの古い人を癒したり、改善したりしたくはありません。神はあなたを「もっと良くしたい」のではなく、「もっと死んでほしい」のです。そしてあなたの人生に真のイエスを表したいのです。イエスは「罪を否みなさい。」とは言わず「自分を否みなさい。」と言っているのです。「自己を否む」とは「自分と完全に縁を切る」ということです。罪は自己に付着していますから、自己を否むことなしに罪からの解放はありません。

古い自己は決して良くなることはありません。古い自己を改善しようとすると宗教的になるだけです。古い自分を十字架につけて、神の新しい性質をそのかわりに生きていただくのです。私が十字架につく度に、私が死んでイエスが生きるのです。これが十字架の力です。地獄のシンボルであった十字架は、イエスが担がれた故に地上の天国のシンボルに変ったのです。あなたが神の召しに従い十字架につき、古い人を殺すならば、それはあなたにとって地獄の体験ですが、そこにイエスのいのちが現われて、天国に変ります。

 

第二コリント4:7「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでなかことが明らかにされるためです。」

 

自分から出る力というものがあります。人をコントロールし操縦する力もあります。広告や宣伝はその力を使っています。しかしパウロはそのように自分から出る力ではなく「神の力」を求めているのです。神の力を完全に与えるために、神は私たちを「完全に弱く」する必要があります。パウロは弱くされた体験を証しています。

第二コリント4:8−12「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たち身において明らかに示されるためです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」

 

「イエスのいのち」こそ私が求めるものです。代用品はいりません。「イエスのように見えるけれど、フランシスのように考える」のはご免なのです。パウロは苦しみ、途方にくれ、迫害され、倒された経験を語っていますが、それはパウロを弱めるための神の業であるのです。それによってパウロの力ではなく、神の力が働くようにされたのです。天はあなたを弱め、殺すように計画しています。あなたが働けなくなったとき、神が働かれます。モーセが雄弁さをなくし、どもるようになったときに神は彼を用いることができました。それが十字架の業です。

 

アメリカは発明の国で、すべてのものを発明します。この世は、すべてのアイデア、機械、道具、プログラム、技術、スタイル等々で満ちています。神はそのすべてを滅ばされるのです。礼拝に神が来なくて臨在がないとき、はたして私たちはそれに気がつくでしょうか。神はアメリカのやり方、即ち「ああしよう、こうしよう、こうすればいいんじゃないか」と人間的に知恵をしぼって新しいプログラムや方法を取り入れることをすべて取り除き、「新しいいのち」を与えようとしておられます。それは即ち「古いいのち」が終ることを意味します。

パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びている」と言っています。パウロが苦しみや迫害に会ったとき、イエスがしたように自分のいのちを捨てて、イエスのいのちが明らかに現れるようにしたのです。パウロに襲った苦難を神はすべて益とされました。(続く)


03 06月

神との真の結びつき(そのニ) ショーン・ボルツ   2019年6月3日  


神との真の結びつき(そのニ)

 

ショーン・ボルツ(Bolz Ministries)

 

 

 

キリストのマインドを持つとは

 

15年ほど前から広く知られるようになったある神経生物学的真理があります。それは、「もし二人の人が素晴らしいことや真理、信仰に一致すると、二人の脳の中で細胞が輝き燃え活発になり、同時に反応した神経細胞(ニューロン)はまるで繋がっているかのように呼応する。そして一方が言うことに対して、もう一方の人は『そうだ、それは真実だ、それが真理だ』と認識反応できるようになる。」というものです。

 

一体どういうことでしょうか。それは私の脳の神経細胞の分布がもう一人の人の脳のように造られ配置されるということです。あなたの思考がもう一人の人のようになってくるというのです。ですからあるグループの中で人々が一緒に時を過ごしていると、彼らの文化やアイディア、物の捉え方を生み出し、みんなの脳の配線が同じようになって行くのです。

 

それは指紋のように一人ひとり違うものではなく、みんなの脳の中は同じような配線になるのです。ですからクリスチャンの脳はみんな同じアイディアを分かち合うように配線されています。それは神経細胞が一緒に反応するので、同じように造られ配線されるからです。

 

すごいですよね!それは即ち聖霊からイエスの深い思いを教えてもらって、あなたはイエスと同じマインドを持つことができるのですよ。私たちは自分の霊の中に実際にキリストのマインドを持つことができるのです。私たちもイエスのように考え、御父とイエスと一つになるようにと訓練されているのです。すごいではありませんか。

 

神経学的に二人が一致したときに出されるエネルギーは、一人だけの時よりも40~60%くらい多いのです。ですから数人が一つのアイデアで一致したときには、すばらしい力が出るのです。

第一コリント2:16「いったい『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心(mind of Christ)があるのです。」

 

私たちが「キリストの心(mind))を持ち、キリストと同じように物事を捉え考えることができるとは何とすばらしいことでしょうか。神経学的にこの真理を理解するならば、あなたは神と同じようなマインドを持つことをもっと求めるようになるでしょう。

 

ソロモンが求めたもの

 

神はソロモンに現れて、何を望むかと訊かれました。彼は富を願わず、立派な王になることさえ願いませんでした。ソロモンが願ったのは「Shama」でした。この言葉は通常「知恵の心、善悪を判断する心」と理解されています。しかしユダヤ人には「Shama」がどれほど重要であるかが分かるのです。それは「神がプロセスする(物事を受け止め考え処理する)のと同じようにプロセスする能力」という意味です。今、私たちはスポーツやビジネスで能力のある人の教室に通ったり、オンラインのクラスを取ったり、彼らの著書を買ったりして、莫大なお金を使って彼らのプロセスを学び成功の秘訣を知ろうとします。

 

しかし、私たちはお金を払わずに神のプロセスを学ぶことができます。そして神はご自分のようにプロセスしたいと願う者がいることを本当に喜ばれます。それは神は人間をそのようにもともと創造してくださったからです。

 神がソロモンの願いを非常に喜ばれたことは聖書からわかります。知恵の心と判断の心に加えて、神は彼に王たちの中で一番の富と誉れを与える約束をしてくださいました。

世界中の人がソロモンの心・マインドがどのように物事をプロセスをするかを見るためにやってきました。彼を見るとき、それはまるで神を見ているようだったのです。

 

ダニエルと友人たち

 

ダニエルとその友人たちのことを考えてみましょう。彼らは知識とあらゆる文学を悟る力と知恵を与えられていました。ダニエルはすべての幻と夢を解くことができました。それは神の御霊からきていたのであり、学問とか経験、教育から得たものではありませんでした。彼らは 神から直接与えられる知識や知恵(madda)を与えられ、 神のように考える能力を受けたのです。

 

ニューエイジ思想の人たちはこのために莫大なお金を使っています。しかし「神の知識と知恵」を得る道は、イエスの十字架の業を通して聖霊によって私たちに自由に与えられています。私たちは神と一つになり、 今までとは違う道を選びとり考え方を変えることによって、神にある人生を歩むことができるのです。

私たちがキリストのマインドで生き始め、神と一つになるならば、人々がイエスの言葉を聞くためにイエスの回りに集まったように人々は私たちの言葉を求めて集まってくるようになるでしょう。そしてあなたは職場や家族、社会の中で好意を持たれ、人々は「どうしてそんなことができるのですか? そんなことは学校では学ばなかったでしょうに。」と言うのです。

あなたは他の人よりもよいアイデアで貢献できるので、いろいろなチャンスを与えられます。あなたは神の知恵と知識の霊で満たされ、世界はあなたに、教育、政治、平和、国際問題等に関する多くの質問をするようになるでしょう。

人間の知恵と知識は、たとえそれがすばらしいものであっても限界があります。でも神は独特の計画、独特の考えを持っておられるので、常に素晴らしいユニークなものを与えてくださるのです。

 

そして私たちが神と一つになるとき、それは私たちの内に愛を溢れさせ、その愛によって物事を別の目で見ることができるようになり、世界に別の解決方法を提供することができるのです!(終り)


03 06月


神との真の結びつき(そのニ)

 

ショーン・ボルツ(Bolz Ministries)

 

 

 

キリストのマインドを持つとは

 

15年ほど前から広く知られるようになったある神経生物学的真理があります。それは、「もし二人の人が素晴らしいことや真理、信仰に一致すると、二人の脳の中で細胞が輝き燃え活発になり、同時に反応した神経細胞(ニューロン)はまるで繋がっているかのように呼応する。そして一方が言うことに対して、もう一方の人は『そうだ、それは真実だ、それが真理だ』と認識反応できるようになる。」というものです。

 

一体どういうことでしょうか。それは私の脳の神経細胞の分布がもう一人の人の脳のように造られ配置されるということです。あなたの思考がもう一人の人のようになってくるというのです。ですからあるグループの中で人々が一緒に時を過ごしていると、彼らの文化やアイディア、物の捉え方を生み出し、みんなの脳の配線が同じようになって行くのです。

 

それは指紋のように一人ひとり違うものではなく、みんなの脳の中は同じような配線になるのです。ですからクリスチャンの脳はみんな同じアイディアを分かち合うように配線されています。それは神経細胞が一緒に反応するので、同じように造られ配線されるからです。

 

すごいですよね!それは即ち聖霊からイエスの深い思いを教えてもらって、あなたはイエスと同じマインドを持つことができるのですよ。私たちは自分の霊の中に実際にキリストのマインドを持つことができるのです。私たちもイエスのように考え、御父とイエスと一つになるようにと訓練されているのです。すごいではありませんか。

神経学的に二人が一致したときに出されるエネルギーは、一人だけの時よりも40~60%くらい多いのです。ですから数人が一つのアイデアで一致したときには、すばらしい力が出るのです。

第一コリント2:16「いったい『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心(mind of Christ)があるのです。」

 

私たちが「キリストの心(mind))を持ち、キリストと同じように物事を捉え考えることができるとは何とすばらしいことでしょうか。神経学的にこの真理を理解するならば、あなたは神と同じようなマインドを持つことをもっと求めるようになるでしょう。

 

ソロモンが求めたもの

 

神はソロモンに現れて、何を望むかと訊かれました。彼は富を願わず、立派な王になることさえ願いませんでした。ソロモンが願ったのは「Shama」でした。この言葉は通常「知恵の心、善悪を判断する心」と理解されています。しかしユダヤ人には「Shama」がどれほど重要であるかが分かるのです。それは「神がプロセスする(物事を受け止め考え処理する)のと同じようにプロセスする能力」という意味です。今、私たちはスポーツやビジネスで能力のある人の教室に通ったり、オンラインのクラスを取ったり、彼らの著書を買ったりして、莫大なお金を使って彼らのプロセスを学び成功の秘訣を知ろうとします。

 

しかし、私たちはお金を払わずに神のプロセスを学ぶことができます。そして神はご自分のようにプロセスしたいと願う者がいることを本当に喜ばれます。それは神は人間をそのようにもともと創造してくださったからです。

 神がソロモンの願いを非常に喜ばれたことは聖書からわかります。知恵の心と判断の心に加えて、神は彼に王たちの中で一番の富と誉れを与える約束をしてくださいました。

世界中の人がソロモンの心・マインドがどのように物事をプロセスをするかを見るためにやってきました。彼を見るとき、それはまるで神を見ているようだったのです。

 

ダニエルと友人たち

 

ダニエルとその友人たちのことを考えてみましょう。彼らは知識とあらゆる文学を悟る力と知恵を与えられていました。ダニエルはすべての幻と夢を解くことができました。それは神の御霊からきていたのであり、学問とか経験、教育から得たものではありませんでした。彼らは 神から直接与えられる知識や知恵(madda)を与えられ、 神のように考える能力を受けたのです。

 

ニューエイジ思想の人たちはこのために莫大なお金を使っています。しかし「神の知識と知恵」を得る道は、イエスの十字架の業を通して聖霊によって私たちに自由に与えられています。私たちは神と一つになり、 今までとは違う道を選びとり考え方を変えることによって、神にある人生を歩むことができるのです。

私たちがキリストのマインドで生き始め、神と一つになるならば、人々がイエスの言葉を聞くためにイエスの回りに集まったように人々は私たちの言葉を求めて集まってくるようになるでしょう。そしてあなたは職場や家族、社会の中で好意を持たれ、人々は「どうしてそんなことができるのですか? そんなことは学校では学ばなかったでしょうに。」と言うのです。

あなたは他の人よりもよいアイデアで貢献できるので、いろいろなチャンスを与えられます。あなたは神の知恵と知識の霊で満たされ、世界はあなたに、教育、政治、平和、国際問題等に関する多くの質問をするようになるでしょう。

人間の知恵と知識は、たとえそれがすばらしいものであっても限界があります。でも神は独特の計画、独特の考えを持っておられるので、常に素晴らしいユニークなものを与えてくださるのです。

 

そして私たちが神と一つになるとき、それは私たちの内に愛を溢れさせ、その愛によって物事を別の目で見ることができるようになり、世界に別の解決方法を提供することができるのです!(終り)


24 05月

神との真の結びつき(その一) ショーン・ボルツ( Bolz Ministries) 2019年5月24日


神との真の結びつき(その一)

 

ショーン・ボルツ( Bolz Ministries) 

 

今日はキリストと一つになって生きることについてお話したいと思います。主イエスはヨハネ17章で御父に祈られたとき、この事に関する真理を私たちに垣間見させてくださいました。それは主が祈り方を弟子たちに教えたのではなく、ご自分の祈りの人生をありのままに見せてくださったからです。ヨハネ17:21で主は「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。」

 

「一つとなる」とは、単なるロマンティックな感情のことではありません。「一つとなる」と聞くと、多くの場合私たちは何かふんわりと詩的な言葉だと思い勝ちですが、主は、「ご自分と御父が実際に持っておられる結びつき」のことを話しておられるのであり、私たちにとっても大変重要なことであるのです。聖書の中でイエスやパウロが言及された多くのことが、今の神経学や心理学で言われ始めています。そして「一つとなること」が、事実、科学的に可能であることが言われています。

実際のところ、あなたの心理的精神的機能は始めからあなたの中に造られ組み込れています。神経学的に見ても、人間の中には人間同士だけではなく、あなたと神とが一つとなり繋がることができるように最初から造られているのです。これはこれからますます科学的研究によって証明されていくでしょう。しかし、私たちは人間がそのように造られていることをあまり認識しておりませんので、これをもっと知ることは私にとってとてもわくわくすることです。

 

第一テサロニケ5:9−10「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったのです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに( union with Him )生きるためです。」

 

私たちが主と一つになって復活のいのちを得るように、主はご自分のいのちを与えてくださったのです。 主と一つになる(union with Jesus)という主題を理解するのは非常に大切です。それは聖書で結婚に関して用いられる言葉と同じだからです。

私と妻とは似たところも少しはありますが、大部分は本当に違います。ですから私たちが一緒に暮らして本当に幸せであるために、中間地点までお互いに歩みよるようにいつも努力しています。一緒に人生を歩むとき、自分の考えを犠牲にしてあるところで折り合いをつけねば、非常に惨めな人生になってしまいます。

 

でも二人が歩みよって一緒に歩くならば、一人よりももっとすごいことができるようになります。妻のシェリーと私は結婚して6年経ちましたが、私はそれ以前独身だった時よりも、この6年間で自分のアイデンティティーに関してもっと理解し、ミニストリーやビジネスにおいてももっと発展することができました。二人が一つになったとき、どれほど幸せになるか、どれほど力が与えられるかには、本当に驚かされます。結婚だけではなく、他の関係においても、同じことが言えると思います。

 

長寿の秘訣

 

心理学者であるスーザン・ピンカー氏が「結びつき」に関して言っていることをご紹介したいと思います。彼女は科学者ですが、すばらしい神経学者であり、長寿の研究の先駆者でもあります。皆さんも、長寿のためには大酒をしない、タバコを吸わない、とかはご存知だと思いますが、ピンカー氏の長寿のためのリストの一番目をお話しましょう。それは「人々とのふれあい」です。つまり、あなたが長生きをするための一番の道は、社交的なふれあいなのです。

2番目も似ていて「親しい関係」です。ですからタバコをやめると少し寿命が伸びるけれど、もし誰かと親しい関係を持つならば、いやそれ以前に社交的な言葉を人々と交わすならば、(例えば郵便配達の人に挨拶したり、スタバでコーヒーを入れてくれる人に「お元気?」と声をかけるならば)そんなに親しくなくてもあなたの寿命は伸びるのです。

ピンカー氏はイタリヤのサルデーニャ島にすむ167万人ほどの住民で百歳以上生きる人が、世界平均の10倍もいることを調査しました。彼らの社会ではいつも人とのふれあいがあり、お互いに面倒を見て、見過ごしにされる人は一人もいないのだそうです。

また、他の神経科学者は次のように言っています。ある情報をデジタル(テキスト、ライン、Eメール等)で受けた時と、電話とか顔と顔とを合わせて聞いたときではインパクトが違うのです。直接肉声で聞いたときは、録音とかEメールにくらべて75%もインパクトが強いのです。ビジネスであれ個人的なことであれ同じです。誕生日パーティーに直接電話をしたり、会って誘うならば、Eメールで誘うより75%その人が来る可能性が高まるのです。

私たちは今デジタルの時代に生きていますから、これは重要な事実です。クリスチャンとして、私たちが神とどのようなコネクションを持つかが考えさせられますね。

もし神の御霊が私たちに働いていないで、ただ情報だけを得ているのならば、神が私たちのために意図されたいのちを十分には生きていないことになります。そして聖霊の考えや思いを知らずに、聖霊と一つになることも出来ないのです。

私たちは豊かだと思っていますが、ただ情報を持っているだけなのです。神と顔と顔を合わせて話すならば、75%更にインパクトを受けることができます。「顔と顔とを合わせて」と言っても、それはモーセのような経験をしなければならないということではありません。神がリアルな方であることを知り、リアルな神と実際にコネクトし、その神と時間を過ごしてインパクトを受けるということです。もう一つ興味あることをピンカー氏は言っています。

「私たちが生存するためには、食物、水、睡眠が必要なように私たちには純粋な人間とのコンタクトが必要です。デジタルは情報を交換するためにはいいですが、人間関係や繋がりを深めるためのものではありません。サルデーニャ島のようの人々のように、私たちはもっと顔と顔を会わせて人と繋がる必要があるのです。それは長生きの秘訣です。」

 

英国人の実態

 

英国の研究報告によると、英国人はどの年代層であっても、睡眠を除く他の何よりもデジタル器具やスクリーンに時間を費やしているそうです。そして多くの場合一人でそうしています。訓練された教師に一年習ったり、家族でいつも一緒に食事をすることによって得られる益よりすばらしい効果のあるアプリなど存在しません。英国人の四分の一は、人々と感情的な繋がりはないと言っています。

又、三分の一の人は、広いコミュニティーと繋がってはいないと感じています。もし男性が女性くらい長生きしたければ、又、都会の人が地中海の村人くらい長生きしたければ、近所の人と話ができる場所に住む必要があるのです。幸せに長生きしたかったならば、人との交流が必要です。

私は「Happy」という映画を見たのですが、それは地球で最も幸せな人たちをさがして世界中を旅する映画でした。それは人々同士が交わり繋がって生活しているコミュニティーに住んでいる人達でした。彼らは互いに気をつけ合っているので、安心して暮らしていました。彼らは孤独ではありませんでした。彼らは原住民で貧しい人達でしたが、幸せだったのです。

 

私の体験

 

私は2000年に、それまでしていた多くのミニストリーをすべて止めて旅にでました。回りの人たちは、私が何か問題にぶつかったのか、と考えたようです。というのは、毎週のように世界中で大きなミニストリー集会をしていたのに、急に全く世間から姿を消したからです。でもそうではなく、私は自分と神との関係をはっきりと見出したかったからなのです。

私は二代目のクリスチャンで、教会で育ちました。そして16歳のときミニストリーを始め、その道をまっすぐに歩いてきました。その中で私が尊敬していた多くのミニスター達が道徳的、また感情的失敗を犯すのを見ました。又、ミニストリーにありがちな「駆り立てられるような」ミニストリーに私も陥っていきました。今の社会はどの分野においてもそうですね。

しかし、神が大きく動かれる時のことを調べると、それはいつも神が人の心の中に働かれて救いを与え、その結果として教会が成長しています。ですから、私は人の心にどのように神が現れ、どのように人が神を愛するようになるのかを見つけ出したかったのです。

 

救いとは人が神を恋い慕い愛することです。しかし、「救い」は結果としての「実」であって、あなたと神が一つとなる「根の組織」で起こることではありません。枝に実る実が救いですが、根がなくてはそれは起りません。

ハイディ・ベイカーの夫であるロン氏の言っていたことを私はよく覚えています。彼は5代目のクリスチャンですが、彼の祖父は中国の宣教師で、そこで本物の神のムーブメントを体験しました。それは孤児達が毎日神とすばらしい出会いをするようになり、それが何ヶ月も続くこともあったそうです。

孤児たちは読み書きができなかったにもかかわらず、聖書の箇所を沢山話すようになりました。子ども達はイエスや天使等に出会いました。

ロンの祖父が属していた宣教団体は福音派で、救いに直結していない霊的、超自然的な出会いに心を閉ざしていたので、祖父は本部への報告書にそれを書くことを控えました。

「このような神との出会いで人々は救われ、教会は成長する」と私たちは結論づけますが、ロンが注目したのは、そこではなく「子ども達がイエスと出会い、イエスがご自分の心の秘密を子どもたちに話した」ということでした。

イエスが初代教会の人々と持っていたのと同じ関係を子どもたちは持っていたのです。そしてイエスというお方、実際には会ったこともないユダヤ人であるイエスを愛し恋いこがれました。その出会いを宣教師が導く必要はなかったのです。

 

子どもたちは教会や村で、自分が読んだ事のない聖書を教えました。それまで福音に堅く閉ざされていて、ロンの祖父が何十年も実を得ることができなかったその地方に、ものすごい御国がもたらされたのです。神が介入された故に多くの実がなりました。私はこの話を聞いて、このような歴史的事実が教派の教義の故に握りつぶされたことが他にも沢山あったのではないかと思いました。

このようにイエスと直接出会うことによって、多くの魂が救われ、多くの教会が生まれました。この話を聞いたのは私がマイク・ビクル師のところで彼の「キリストの花嫁」研究の手伝いをしていた時でした。私は世界中のキリストの花嫁に関する記録を調べましたが、そのほとんどは極く初期の教会、あるいは初期のカトリック教会の信者たちの体験によるものでした。彼らは神への愛に捉えられ、心と霊において神と同じ空間にいることを感じ悟ったのです。

 

それは私の心を真にとらえました。なぜならば、カトリック教会が出来る前からこのような人々の流れがあったからです。宗教の縛りから自由になって「神よ、私はあなたを知りたいのです。あなたがそれを望んでおられますから。」と言った人たちがいたのです。そして私も「神が私たちに知られたいと思われるように、私は神を知りたい」と思いました。それは神の霊である聖霊を通して可能です。イエスご自身が聖霊が来られることを弟子たちに3度約束をされました。

ヨハネ14:16には「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。」とあります。聖霊は来て、話されるのです。聖霊は御父から聞いたことを直接あなたに話されるのです。又、第一コリント2:10に「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」とあります。聖霊が御父と私たちの心の深みを結びつけてくださるからです。

 

脳という素晴らしい器官

 

私は脳という器官が大好きです。というのは脳は身体の中で唯一他と交わりを持つ器官だからです。あなたの脳は人々と交わることによってのみ発達します。あなたには神経可塑性と呼ばれるものがあり、それは脳が発達し変ることが出来る能力のことです。心臓や肝臓と違って脳がすばらしいことは、脳に損傷が起こったり、又は何かの中毒になったり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)がある時、あなたの脳は神経可塑性により新しく造られたり、変ったり、癒されることができるのです。

脳だけがそういうことができます。けれども脳だけではできません。あなたが何を考えるかにより、又人との交流によって変るのです。それは神が私たちの脳に与えられた本当に素晴らしい能力であり、「他の人の霊の真似をする」という働きです。そして脳が人との交流によって発達するとき、特に小さいときに時を過ごした人々、あなたを育てた人(普通は両親ですが)が脳の発達に及ぼす影響が一番大きいのです。あなたが小さいとき最も世話をしてくれた人が、あなたの神経生物学的機能を形造り始めますが、それは聖霊の業と似ています。

 

 私たちが神にどうやって繋がるかと言えば、それはまず第一に、私たちには神のマインドが与えられているからだと思います。第一コリント2:16には「いったい『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心(mind)があるのです。」とあります。ですから、私たちが神と共に過ごす時、クリスチャンとして形造られ、キリストの心(マインド、物の見方、理解)によって形成されていくのです。(続く)


20 05月

癒しについて(そのニ) ジャック・ディア 2019年5月20日


癒しについて(そのニ)

 

ジャック・ディア

 

 

 

神はすべて癒されるか

 

 ここで申し上げておきたいのですが、私は神の癒しを信じていますが、すべての人が癒されるのが御心だとは信じていません。そのように信じている友人も沢山いますが、彼らはイザヤ53:5の「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」を、その根拠としています。確かにこの言葉は本当です。イエスの十字架の死によって、私たちは癒されたのです。

しかしそれは身体の癒しだけではなく、私たちが与えられる祝福のすべては十字架を通して来るのであって、十字架なしに来るものはありません。しかしここで一つの問いがあります。それは

「すべての人がすべての身体の癒しをこの世で生きている間に受けることを、十字架は保証しているか?」という問いです。私はその質問に対して「いいえ、十字架はそれを保証していません。」と答えます。

 

「十字架は、私たちすべて主を信じる者が天国において究極的に癒しを受け取ることを保証しているが、この世で生きている間に受け取ることは保証していない。」と私が言う理由は、そういう確実な約束は聖書の中にないからです。新約聖書には癒されなかった人の例を見ることができます。例えば、パウロはテモテに「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」と言っています。

パウロはテモテのために何度も祈ったに違いありませんが、彼は癒されず、それでパウロは胃等にたびたび起きる病のために薬として少量のぶどう酒を飲むように勧めたのです。それでパウロはテモテを叱責していません。

私たちの教会でもそのようにしています。すべての人の癒しを祈ります。そして祈りが答えられて癒されるまで、あるいは神が「もうその人の癒しのために祈るのはやめなさい」と言われるまで、祈るのです。祈っても癒されないときに、「神は癒す力を持っています。あなたのために祈った私も信仰を持っています。でもあなたは癒されませんでした。あなたの人生に何か罪があるに違いありません。」とは決して言いません。それは非情なことです。

 

病気になった人は、もうそれだけで落ち込んでいます。ですから更にその上に罪責感を与えるのは最悪のことです。私たちは「どうして癒されないのかわかりません。でもあなたのために祈り続けますよ。」と言って、私たちはすぐに癒されることもあり、時には何週間も祈り続けて癒されることもあります。

 

憐れみ(compassion)の意味

 

神は「憐れみ」によって人を癒されることが多いのですが、新約聖書の「憐れみ」という言葉を調べてみると非常に興味深いことがわかります。それは「腸、はらわた」という意味があるのです。なぜでしょうか?それは私たちが誰かの痛みを感じ、心から同情し憐れむならば、私たちはその深い感情をお腹の底で感じるからです。

しかし、旧約聖書で使われている言葉を見ると、さらに興味深いものがあります。神の憐れみを表すヘブル語は 「rachemラケム」ですが、それは「子宮 womb」という意味を持ちます。神の憐れみを表すとき、彼らは「子宮、胎」という言葉を選び、神の永遠の母親のような憐れみを表したのです。どうしてでしょうか?

ヘブル人の男性は妊った妻が胎の子に抱く感情が、自分が抱くものとは全く違うことを知ったのです。母親が胎児に抱く感情は男性の理解を越えて犠牲的であり、献身的であり「何としてもこの子を守る」という思いです。

 

妻の祈り

 

私は25歳の時、1973年5月18日にテキサス州で結婚ました。妻とはヤング・ライフというミニストリーで一緒に働いた時に知り合い、翌年に結婚しました。私が神学校でドクターコースで学んでいる時でしたが、ある日、彼女は帰宅してにっこり微笑んで、「赤ちゃんができたわ。」と言いました。

私もうれしくて幸せでした。でも経済的にはどうしようか、と思いました。幸い、私が学んでいた神学校から教えるように招かれて、その健康保険で出産もできることがわかりました。ところが、妻が流産する可能性が出てきました。出血が始まり、知り合いの医者に見てもらうと、「私はお二人をとても愛していますが、『赤ちゃんは大丈夫ですよ。』となまじっかな希望をもたせたくはないのです。お薬をあげますから、家にかえって安静にしていてください。でもあなたのお腹の赤ちゃんは多分助からないでしょう。あなたはまだ若いし、またすぐ子供はできますよ。」と言われました。

それで私たちは小さなアパートに帰り、黄緑のソファに座って二人で泣きました。妻はあまりに激しく泣いたので、目が腫れて開かないほどになってしまいました。私は色々なことを思い巡らしていました。「神様、あなたは私たちに赤ちゃんを与えてくださって、それでもってこんな風に又取り上げるんですか?なぜですか?」と。

 

そして別の医者の意見も聞いてみたいという思いが浮かび、親友のお兄さんのジョーが医者だったので、早速彼に電話をしてみました。「ジョーさん、妻が流産の確率が高いと言われたのですが、、」と言って妻の症状を話すと、

彼は「最初の医者の診断は正しいと思います。80%その赤ちゃんは助からないでしょう。それに、ジャックさん、もしその赤ちゃんが生まれたとしたら、一生育てるのに苦労をしますし、経済的にも大変でしょう。流産はかえって祝福かもしれませんよ。」と言いました。その時、私はその言葉に慰められました。(今なら決してその言葉を受け入れたりはしないでしょう。でも当時私は神は癒される方であることを知らなかったのです。)そして妻のところに行き、ジョーの言葉を伝えました。

でも妻は泣き続けました。私はもう一度少し大きな声でジョーが言ったことを繰り返しましたが、彼女はそのまま泣き続けました。私は少しばかりいらいらして彼女の肩を抱いて自分の方を向かせようとしました。すると彼女は私をつき放して言いました。「初めからちゃんと聞こえていますよ!ジョーが言ったことなんか、私はどうでもいいのです。神様が与えてくださる赤ちゃんならどんな障碍があっても私はいただきます。そしてこれから一生涯面倒を見ます。この赤ちゃんを失うことだけは絶対いやです!」それを聞いて私は黙りました。「一体どのようにして彼女はそんな風に思えるのか、お腹の中にほんの短い間存在し始めたばかりの赤ちゃんに対して、どうしてそのように強い愛情を持つことができるのか、どうしてこの赤ちゃんを失うことが最悪のことだと思うのか」と私は考えていました。

「どこからこのような感情が母親には生まれるのだろうか。彼女は妊ってから気分が悪くなったり、命まで脅かされたというのに、この子を失うのは最悪のことだと言っている。」と思い巡らしているときに私は「racham 胎」という言葉を聞いたのです。「そうか、これがそういうことか!これが優しい母親の愛なのだ。神よ、あなたが私たちに感じておられるのはこのような愛なのですね!」と私は心の中で叫びました。

「私たち人間は本当にお腹の赤ちゃんのようで、私たちがしたことと言えばあなたを傷つけ、あなたの息子の命を奪ったことなのに、あなたはこのような小さな者の一人でも失うのは世界で最悪のことだと言われるのですね!」

 

それからも妻のリサは祈り続けていましたが、本当に恥ずかしいことですが、私は赤ちゃんが助かるようにと祈ることができませんでした。それは、神は最早癒されることはないと信じていたからです。「神は新約聖書の正当性を証明するために当時は癒しを行ったのだ」と信じていたのです。

しかし、妻は毎日祈り続け、出血も収まってきたので、先生の助手の仕事に戻りました。皆彼女が切迫流産の兆候があることを知っていました。流産の経験のある人が、「大丈夫よ、また子供はできるわよ。私もそうだったわ。」と慰めてくれるとき、彼女は心の中で「でも、私はこの子がほしいのです!」と叫んでいました。

そして妻はずっと祈り続けました。 彼女は診察に行く度に、もしかして心音が聞こえるかもしれないと期待しました。4ヶ月目には聞こえるはずでした。

医師は「リサさん、心音は聞こえません。子宮掻爬をする必要があります。」と告げました。でも妻は「いいえ、しません。」と答えました。医師は「リサさん、今しないとあなたが病気になったり、将来もう子供が出来なくなるかもしれませんよ。」と繰り返しましたが、リサは「いいえ、しません。」と答えたのです。医師は言いました。「わかりました。一歩譲ってあと一週間待ちましょう。来週の金曜の朝10時に来てください。その時心音が聞こえないならば、掻爬を施します。いいですね。」リサはそれでも「はい、わかりました。」とは言いませんでした。そしてそれから7日間、昼も夜も祈ったのです。

そして次の金曜の朝医師のところに戻りました。彼が聴診器をあちこちにあてはじめたとき、リサは「神様、お願いします!神様、お願いします!」と祈っていました。「このあたりでは聞こえませんね。」と医者は言って、少し下のほうを調べてから微笑んで「弱いですけど、心臓が動いています。赤ちゃんは生きています。」と告げました。けれども彼は「すべて大丈夫」という保証はしませんでした。

 

長男の出生

 

1976年6月28日、私たちの長男スティーブン・ディアはまったく健康な身体で生まれました!彼は決してあきらめなかった母親の祈りの翼にのってこの世に生まれたのです。彼の母は彼が胎の中にいた時、神の憐れみ(compassion)を心に抱き続けていたのです。

もし「神は今は癒されない」と言う人があるならば、私は「じゃ、神の憐れみがどこに消えたのか教えてください。私たちの痛みを神がいつから感じなくなったのですか?いつから私たちの祈りに答えてくださらなくなったのですか?

どうして神は1世紀には奇蹟によって憐れみを表現されたのに、今はそうされないのですか? どうか納得のいく説明をしてください。」と言うでしょう。

 

私が誰かのために祈るときは、「主よ、あなたがこの人のために感じているように私にも感じさせてください。」と祈ります。又、神は「ジャック、あなたはあれもこれも怠りましたね。昨日あなたがしてしまったことを覚えているでしょう?私がするなと言ったことをしましたね?」とチェックするような方ではないと信じます。私はそのような神に仕えてはいません。

又、私が仕えている神は私たちに癒される資格や権利があるから癒す方ではありません。神は弱く、未熟で、しっかりしていない人々を癒してくださる方なのです。どうしてわかりますか?

それは人間はすべてそのような者、即ちあなたや私のような者だからです。又神は信者か信者ではないかによって決める方でもありません。未信者のために祈る人があれば、神は信者と同じスピードで癒してくださいます。

 

誰かがあなたのために祈り始めるとき、あなたは自分の罪を想起するかもしれませんし、このような声を聞くかもしれません。「確かにメッセージは本当だろうよ。神は人々を癒すさ。でもそれはあなたのような者ではなくて、もっとキチンと生活している人を癒すんだよ。だからお前ももう少し生活をちゃんとしてから癒しを願った方がいいよ。」これは告発者であるサタンの声です。私たちを非難し責める声であり、その目的は私たちが「神の善意は私たちが善であることを条件としている。あなたが善でなければ神の善を経験することはできない。」と思わせることです。

けれどもそれは全く逆だと私はわかりました。17歳のとき神が私の寝室に来て私を見つけてくださったとき、私は良い人間ではありませんでした。私はスコット・マンリーというすばらしいメンターを持つ資格など何もありませんでしたし、私の人生の光である息子を持つために私は何もしませんでした。

実際私は彼の命が保たれるようにという祈りさえしなかったのです。私が持つすべての良いものは、思いがけない贈りものでした。私がそのために何かをしたのではありません。

確かに私は人生における苦しみ、痛みも経験しましたが、痛みに関する小さな秘密を教えましょう。苦しみの中を神と共に通るならば、あなたはその苦しみをも神が良いものへと変えてくださると感じるのです。つまり、神はあなたの破れの中であなたをもっと強くし、あなたに力を与え、その破れ故に誰か他の人を助けることができるようにしてくださいます。そして神の喜びをもっと知るようになるのです。

私はある人たちのように「人生はつねに素晴らしいはずだ。私たちが祈ればすべての人は癒されるはずだ。」とは思っていません。人生はそのようではありません。時には信じられないほどに激しい痛みがあります。しかし神はそれを乗り越える恵みを与えてくださいますし、あるいは奇蹟を起こしてくださるのです。

神はどちらにせよ常に恵みを下さいます。「お前には資格がない。」という声を聞いたならば、「その通り、私には資格がない。でもサタンよ、ここから出ていけ!」と言えばよいのです。

私は良い人間だから祈るのではありません。私はいつかお返しが出来るから奇蹟をお願いするのではありません。私は血潮によって贖われた生ける神の子供であり、私はただイエスの血潮を通して神の御前に行き、決してお返しができない奇蹟をお願いするのです。

 

ジョン・ウィンバーから学んだこと

 

私は20世紀の偉大な指導者の一人であるジョン・ウィンバーから癒しの祈りを教えてもらいました。一つのポイントはそれをあるフォーミュラ(定式、方式)にしてはいけないということです。先週起こったことが今週も起こると思ってはいけないのです。又、彼は決して「癒しが起りそうなムード作り」もしませんでした。人々に癒しを約束もしませんでした。

彼はただ静かに神の導きを待ちます。神はどこで何を癒しておられるか、どこから始めればよいのかを聞くのです。それはヨハネ5:19に基づいていることです。イエスは「わたしは父がしておられるのを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。」と言われました。その日イエスはベテスダの池(そこには多くの病人がいました)に行かれましたが、そこではただ一人だけを癒されました。どうしてでしょうか?それは御父が一人だけ癒されていたからです。

ウィンバー師はいつもチームを用いていました。自分が「癒し手、ヒーラー」であるとは決して言いませんでした。常にイエスが癒す方であり、主の力と憐れみが多くの人を通して流れ出るようにされるのです。彼はいつも言っていました。「教会の中で私が最も癒しの賜物を持っている者ではありません。自分より人々のために癒しの祈りが出来る人たちが少なからずいます。」ですから今日もそのようにチームで祈っていきたいと思います。(終り)


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