Walk With God Ministries
Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
13 04月
隔ての塀をこわし架け橋とする
キャシー・ペルトン
初代教会の人々の生活
先月のことですが、私は幾晩かにわたり、ぴったり2時44分に目を覚ましました。毎晩それが起こるので、主がそのことを通して私に何かを語っておられるのだということに気がつきました。その意味を祈り求めたところ、主の御霊が使徒行伝の2章44節に私を導いてくださいました。
「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有していた。」
この言葉を読んだとき、私の心の中に、他のクリスチャンたちともっと親密で個人的な交わりを持ちたいという強い願いがわきあがってきました。 主が私と引き合わせてくださった同じ町に住むクリスチャン達と心からの交わりを持ち、彼らの人生と関わりを持ちたいという願いが私の心に湧き上がってくるのを最近しばしば感じていました。私は他のクリスチャン、特に教会に来てはいても孤独を感じている人たちに対して同情心や憐みを感じ、そのような人たちともっと時間を共に過ごすようになってきていました。
人を知り、人に知られる大切さ
使徒行伝2:44には、彼らはすべての物を共有していた、とありますが、それを読んで私は、ただ所有しているものを売って分け与えるというだけではなくて、(確かにそれも大切ですが)、物質的なこと以上のことを考えました。 イエスが弟子たちと一緒に旅をして生活を共にしていた時のことを、私は思いめぐらしました。 すると神様は、私が周りにいる人たちと人生を分かち合うとはどういうことかを示し始めてくださいました。ローマ人への手紙12:15には、「喜ぶ者と喜び、泣くものと共に泣きなさい。」とあります。
共に旅をしてすべてのものを共有することは、その人々の喜びと悲しみをも分かち合うということです。キリストの身体である教会の中には、私を知ってほしい、という深い願いがあります。私はいままでの数ヶ月の間、周りにいる多くの人たちとゆっくりと交わる時間を持ちました。その中で彼らが先ず第一に言ったことは、周りにいる人たちを知り、自分も知ってほしいという願いを彼らが持っていることでした。知られるということは、即ち大切に思ってもらうということです。
イエスはご自分の弟子たちをよく知っておられました。彼らと旅をしながら共に食事をし、夜は共に寝ました。彼らが何かに成功したときや、また、失敗したときにも主は彼らを愛されました。主は一人ひとりと親しく交わりを持たれました。主は私たちにもそのようにしてくださるのです!ですから私たちも主と同じように、周りの人たちと個人的に親しく交わらねばならないのです。
使徒行伝2:46-47には次のようにあります。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」
どうして毎日多くの人が救われたのでしょうか? それは、クリスチャンたちがイエスがしたと同じような言動をとっていたからです。彼らはイエスの手足となっていたのです。彼らはお互いに親しく、毎日生活を共にしていました。一人ひとりが神からだけではなく、お互いにみんなと個人的に親しく知られていましたから、そこには大きな喜びがありました。彼らは「山の上の町」となり、「暗やみの光」となり、飢え乾いて人から愛され理解されたいと願っているこの世へ「愛」となったのです。
隔ての塀
私たちが個人的に親しく知られたいと願っているとすれば、どうしてキリストの身体の中にこのように多くの不一致があるのでしょうか。その一つの理由は怒って腹を立てること(オフェンス)です。 敵はキリストの身体を分裂させるために、人々が腹を立てるようにといつも働きかけます。非常につらいことが起こって痛みを覚えているときに、そばに来て共に悲しみ、愛を示す人が一人もいなかったとしたら、その人はきっとキリストの身体全体に対して腹を立ててしまうでしょう。
最近、私は短いヴィジョンを見ました。そのヴィジョンの中で私は一人ひとりのクリスチャンが木の塀に囲まれて孤立している姿を見ました。そして「O fences be removed! オー、塀(フェンス)よ、取り除かれよ!」と言う声が聞こえました。 主が立腹(オフェンス)について語っておられることが分かりました。次に、多くのクリスチャンを取り巻いていた塀が取り除かれるのが見えました。立腹の塀に使われていた板が、一人ひとりの前に置かれ、教会の中に生じた裂け目や破れの上の架け橋となりました。
この短いヴィジョンが終わったとき、私は自分にむかって「オー、塀(フェンス)よ、取り除かれよ!」と宣言し始めました。そして主に、私の人生の中のすべての立腹の板を取り除き、その板を亀裂を修復し回復させる架け橋として使ってくださるようにとお願いしたのです。
イザヤ58:12「あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。」
イザヤ58章を是非全部読んでみてください。この章がキリストの身体に一致を回復し、救いを求めている人々の魂を収穫するためのかぎとなる章ではないかと、私は思います。
新しい音
Iコリント13;1「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」
2年前のことですが、私はアルバータのエドモントンでの「ライズ・アップ 立ち上がれ」という集会に参加していました。集会中のある夜、何百人というクリスチャンが、私がそれまでに経験したことがないような全く純粋な美しいワーシップの中に入っていくことができました。このワーシップの中で、聞こえてくる響きに私は畏敬の念を覚えました。それは神の民が主を切に求める響きであり、また、同時に神が神の民を求める響きでもありました。それはまことの愛の音響でした。
そのワーシップでは、既成の歌は一つも歌われず、すべてその場で生まれた歌(スポンテニアス・ソング)で神への思いが歌われました。そのとき、私たちのチームのメンバーの一人であるステイシー・キャンベルが、静かにステージに上がり、私たちに聞こえていた「音」について語り(預言し)はじめ皆は心打たれました。彼女は主の御手御足に釘を打ち付ける槌の音について語り、それを「熱望の音」とよ
05 04月
花を咲かせる
パトリシア・キング
バラの花のヴィジョン
少し前のことですが、私は一つのオープン・ヴィジョン(起きているときに見るヴィジョン)を見せられました。この文章を読んでおられる方の中にもこのヴィジョンの指し示すことが当てはまる方がおられると思います。
このヴィジョンの中の私は、キッチンの窓から見える古い農家を眺めていましたが、そこに沢山のバラが植わっている庭園があるのに気がつきました。いくつかのバラは開いていましたが、ほかは堅いつぼみのままでした。バラ園の上には嵐を呼ぶような大きな黒雲が広がっていました。私は心の中で「もうじき、、」とつぶやき始めたのでしたが、「大雨になるぞ」という言葉を頭の中で考える暇もなく、そのとき天が開いて土砂降りになりました。大雨は降り続きましたが、その中で私は奇妙な光景を見たのです。
開いていたバラの花は、コップのように水で一杯になり、重くなると花は頭を下げてカラカラに乾燥した地面に水をこぼし、また、頭をあげて水を天から受けていました。
固いつぼみのバラの花は、同じ雨の下にありましたが、つぼみの周りに数滴のしずくをつけるだけでした。その時主が「開いている花は雨を受けるけれど、つぼみはしずくだけしか受けられない。」と言われました。
死海はなぜ死んだか
花が開かないでつぼみのままになっている理由は沢山あります。太陽の光が少ない、土に栄養がない、水が足らない、というようなことです。しかし、私の見たヴィジョンでは、すべての条件は調っていて、すべてのバラが同じ雨を受けていました。 同じ環境の下に置かれていたのに、開いている花と開いていない花とがあったのです。 一体何が違ったのでしょうか?
これと同じことが「神様の庭園」の中でも起こることがわかります。ある者たちは雨の中で踊り、ある者は傘をひろげ、ある者は雨を飲み、又他の者は水の成分を知りたがり、ある者は溺れることを恐れ、ある者は旱魃を恐れます。結論は「けちけちしている人」からは何も得られないということです。彼らは豊かなのですが、自分の持っているものをしっかりと握りしめ、それを必要としている人たちに分け与えようとはしないのです。死海が死んだのもそれが理由です。
あふれ出すことの大切さ
ヨルダン川から良いものがすべて死海に流れ込むのですが、そこから出ていくものは何もないのです。それで水は澱み死んでしまうのです。それと同じように、キリストの身体の中でも、霊的水ぶくれは非常に嫌われるべきものです。私たちはすでに生ける水で一杯なった身体でざぶざぶと音を立てながら集会に集い、もっと水を受けようとするのです。乾いている人のためにもっている水を分け与えようともしません。その結果はもっとも悲劇的なものとなります。即ち、つぼみが固く閉じていて、雨を受けることが全くできない状態になるのです。これは自分で飢饉を招いている姿です。
言葉は影響力がある
神の子供たちが花を咲かせない理由はいくつかあります。恐れや、無視されたとか、拒絶された、裏切られた、妨害された、虐待された、批判されたというような経験が原因となります。批判は創造性を殺してしまいます。たった一言のひどい言葉でそれを言われた人の賜物は窒息してしまいます。互いにかけ合う言葉は、その人を育てる肥料になるか、あるいは殺す毒になるかのどちらかなのです。殺す力のあるような否定的な言葉を受けると、私たちは自分を固く閉ざし、やがて干上がってしまいます。
神さまは花は咲くように造られたのです。花は、開くと無防備になり攻撃されやすくなります。その花のすべての良さがあらわになり、隠れたところがなくなります。飢えたひとのためには食糧となり、乾いた人のためには飲み物となり、家のない人のための宿となり、見るに美しく、新鮮な空気を与えます。(実際に植物は炭酸ガスを酸素に変えます)これが主から与えられた私たちの仕事であり、この世でするべきことなのです。
また、私は植物に話かけると良く育つことも知りました。ディボーションのときを持つのはまさにこのためです。神様はあなたに話けられ、あなたは必ず成長します!後の雨が降り始めています。ですからつぼみのままでいないで花を開いてください。(終わり)トップへ戻る
01 04月
生まれるときと死ぬとき
十字架を抱いて命の木を生きる
ポウレット・リード
預言的なヴィジョン
私は2002年にミネソタ州のミネアポリスで行われた女性の使徒的預言的カンファレンスに出席しました。そのとき、一つのヴィジョンを見せられたのですが、 最近そのヴィジョンを主が思い出させてくださいました。私が友人たちと共に王なる主を礼拝していたとき、そのヴィジョンを見て私はびっくりしたのでした。私は霊の目でそれを見て、震えました。そこには私の身体(多分キリストの身体なる教会をあらわしている)が、白いガウンを着てうつむきに川に浮かんでいました。ちょっと見たところそんなに変なことではありません。ただ単に水の中でいろんな変わった姿勢をして遊んでいるだけかもしれません。でも私の身体はずっとそのまま長い間浮かんでいるのです。私ははっとしました。そして聖霊に聞きました。「主よ、あんなに長い間うつむきに水に顔をつけて浮かんでいるということは、私は死んでいるに違いありませんね!」 その時、神様は力強い静かな「アーメン」で私を満たしました。
そこで、私はそのヴィジョンをもう一度注意深く調べて見ることにしましたが、3つのことに気がつきました。まず、それが普通の川ではなく、神の川であることがわかりました。第二に、私は救いの衣を着ていて花嫁の正義の外套をまとっているのがわかりました。(イザヤ61:10) 第三に、私の両腕はまっすぐ前に伸ばされ、その手は王の差し出した笏をしっかり握っていました。
絶えず祈りなさい
愛する皆さん、天の父は夢やヴィジョンで警告を与えてくださり、人生で起ころうとしている様々なことに対して私たちが祈りの備えができるようにしてくださいます。しかし、人々が実際にヴィジョンを生きはじめると、あらかじめ備えよという神からの警告を忘れ勝ちになります。そんなとき聖霊が「わたしの息子、娘よ、わたしはおまえの霊を備えようとした。わたしはおまえを守ろうとしているが、しかしまた、完全な霊にもしなければならない。」とささやかれます。伝道者の書3章でソロモン王が>「すべての営みには時がある。」と教えているとおりです。黙っているのに時があり、話をするのに時があります。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時があります。泣くのに時があり、ほほえむのに時があります。そして「生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。」(伝道者の書3:2)
あるときには、私たちは神の川の中で障害物にぶつかってばかりいて、目的地につくのがどんどん遅くなるように思えるときがあります。私たちはそれに対して縛ったり解いたり、叫んだり泣いたり、障害物を横に押しやったりします。それは多くの場合正しいことです。しかし、私たちが懸命に祈ったり戦ったりしているときに、真に静まって全能の主に介入していただく心を持つならば、主がこうささやかれるのが聞こえるでしょう。「愛する子よ、聞きなさい。あなたが戦っているのは敵からの障害物ではないのだよ。それは木だ。わたしはその木の上で死んだ。おまえも神の川を流れていくとき、あなたが死ぬまではその木に何度でもぶつかるだろう。」
十字架を抱きなさい
あの荒削りの十字架に出会うたびに私たちは自分の世界が少し揺さぶられるのを感じます。そして実を結ばない枝が剪定される痛みを感じます。プライドは去らねばならず、高慢も取り払われなければなりません。肉欲、罪、嫉妬、疑い、野望、欲望等々、すべて肉なるものは十字架にかけねばなりません。実を結ばない枝は私たちから切り取られ、遠くに流れいって忘れられ、もはや決して木につながれることはありません。いのちの木は、私たちからイエスに属さないものがすべて取り払われないと、手に入れることはできません。私たちを十字架にかけて殺す木は、同時にそこから力が湧き出る木でもあるのです。パウロが「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者のなかからの復活に達したいのです。」と言う通りです。(ピリピ3:10,11)
神の川の水が増すに従って(エゼキエル47参照)、川は深くなり誰も渡れなくなります。しかしその川が流れていくところではすべてのものが命を得て生きます。私たちは神の道に出ていって神がご自身の素晴らしさを人々にみせることができるようにせねばなりません。木にぶつかって私たちが死ぬことによっていのちが生まれるのですから、その木を避けてはいけません。私たちの兄弟パウロのように言うことができますように。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、命にあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)
勿論「木」にぶつかるのは痛いことです。死と復活の間には必ず痛みが伴うに違いないのです。そのときのために祈りを積んで備えることは助けとなります。すべてのことにシーズンがあり、この痛みのときも又過ぎ去ると知ることができます。神が私たちを栄光から栄光へと変えてくださるのを知り、変えられるときにはいつも痛みが伴い精神的な危機感があることを覚えて、それを喜ぶことができます。愛する皆さん、困難だとあなたが感じるときはほとんどの場合、あなたが取った道は正しい道なのです。しかし、自分に死ぬことに焦点を当てるのではなく、自分に死ぬこととは神の静かで暗い胎内に入ることであり、そこで新しい命がはぐくまれていると言う新生の奇跡に目を留めようではありませんか。
私たちが恐れを覚えるときに天の父にそれを告白すると、即座に恐れを克服す信仰が与えられるのですから、どうか心配しないでください。それがイエスがマタイ26:39でなさっていることです。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」
私たちがいのちの川を流れていくとき、神は決して私たちが耐えられないようなことは与えられないのですから安心してください。主は教会をご自分の身丈にまで成長させてくださるのですが、それと共に次のように約束していてくださいます。「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。と
21 03月
第二バイオリンを弾く招き
ビル・ヨント
ピリピ2:3-11「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
「私のために第二バイオリンを弾いてくれませんか?」
今まで自分の賜物や召命に従って忠実に主に仕え、重要な役割を担い、人々に祝福を与えてきた多くの人々にむかって、今、特別の招きが与えられているのを私は感じています。その招きとは、今まで神様のオーケストラの中で「第一の場所」(それを「第一バイオリン」に例えてみます。)で演奏することを許されてきた油注ぎのある人たちにむけて出されているのです。神様の御国の中で第一の場所を占め、特にソロで弾くような働きをしてきた人の上には、すべての人の目や耳が集中しますし、敵はその人に間違った音を出させようと日夜働きかけますから、その人には強いプレッシャーがかかります。
私が見た一つのヴィジョンの中で、第一奏者を照らしていた天のスポットライトが、だんだんと暗くなるのが見えました。そして、今までスポットライトが当たっていた多くの人たちに、「へりくだって他の人の下で働きなさい。彼らがあなたよりもっと高められるように助けて彼らを建て上げる役目を担いなさい。それが御国の中でもっとも偉大なものになることですから。」というプロモーションの招きが出されているのが見えました。
自由さと創造的な油注ぎは第二バイオリンから起こってくる!
ソロを弾く主役の演奏者(第一バイオリン)よりも、脇役の第二バイオリン演奏者のほうが実際もっと自由に創造的に様々な音を弾くことができるということは興味を惹きます。彼らは第一バイオリンが一番素晴らしく聞こえるように自由にハーモニーを造りだすことができるのです。聴衆は気がつかないことが多いですが、彼はスポットライトを浴びている主役の多くの間違いを自分の創造力でカバーしているのです。
ヨセフはエジプトの宮廷で、パロや自分の家族の下になって第二バイオリンを弾く地位に引き上げられ。エジプト全土は天のハーモニーを聞くことになった。
創世記41:40「『お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。』
…41:43 ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、「アブレク(敬礼)」と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、…」
創世記50:18-22「 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。 ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き、」
第二バイオリンを弾くことは実はプロモーションである
詩篇75:6-7「 高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」
神様が誰かの地位を下げるのは格下げだと、私は前は思っていました。でもそれは神様の見方ではありませんでした。それは私たちをもっと大きな目的にむかって昇格させるための神様のプロセスの一段階なのです。ヨセフに彼はどうやって宮廷の地位にまで昇格したのか聞いてごらんなさい。彼はきっと穴や牢屋に入れられたことが大切なプロセスであったと説明してくれるでしょう。また、ポティファルの妻から逃れるためにどれほど速く走ったかも! 神から与えられた夢が現実となるために必要な誠実な人格や徳を、ヨセフには持っていました。彼は賜物や夢により宮廷まで到達しましたが、そこのとどまることができたのは、彼の人格によってでした。
神様が私たちを低い位置に置かれるのは、私たちを私たちの目からではなく神様の目からみてもっと高く上げてくださるためなのです。神様はご自分の身体の中に沢山のメンバーをもっておられますから、一部の人だけをいつも使われることはありません。もしそんなことをしたら私たちは燃え尽きてしまいます。もしあなたが今低いところにいるならば、元気を出してください。今からあなたは昇っていくのです。もしあなたが今大いに用いられているのなら、あなたの賜物と人格を精錬するために主があなたをへりくだらせるような位置に落とされるかもしれませんから、そのときは驚かないでください。第二バイオリンの奏者になりたい人はいますか? すべてにおいて主イエスが第一の席に着かれますように、そして主にすべての栄光があるように他の人を高く上げることができますように。主もそれをされたのですから!(終わり)トップページへ戻る
15 03月
神様へのシンフォニー
フランシス・フランジペン
教会において会衆全員でとりなしの祈りをしたり、個人の家に集まって祈りをするとき、すべての人が霊の一致を保ち、神の心に触れるという目標にむかって互いにサポートし合い熱心に祈ることが重要です。それぞれの祈り方や祈りのスタイルは異なるかもしれませんし、与えられている重荷もまた違っているかも知れませんが、全員が心を一致させることは祈りによって霊的な成功を勝ち得るために非常に重要なポイントです。
たとえば、私と妻が二人で祈るときには、私は2つくらいのセンテンスの中にすべての祈りの中身を詰め込んでしまいます。「主よ、私の子供たちを祝福して満たしてください。」というように簡単に祈ります。このセンテンスの中に私は「主よ、彼らに触れてください。彼らの罪を赦してください。必要を満たしてやってください。導いてください。彼らを用い守ってください。」という意味が全部入っているのです。私の祈りはいわばコンピューターのジップ・ファイルのようなもので、外面は小さく見えるのですが、中身は沢山なのです。小さく見えますが、神様がそれをあけてみると沢山の意味が詰め込まれているのです。
それに反して妻の祈りは、私の祈りよりずっと長いのです。彼女は子供たちに関して主が知るべきであると彼女が考えるすべてのことを伝えます。あたかも主が子供たちのことを聞くのは始めてであるかのようにです。彼女は子供たちの人生に何が必要であるかを主に説明し、それがどうやったら将来彼らの人生にもたらされるかを主に提案します。彼女は子供たちに関してすごい情熱をもって祈るので、確かに神様の心を動かすことができます。
大切なことは、私たち夫婦が一緒に祈るときに、一致しているということです。お互いの祈り方を批判しません。お互いの祈りを聞いて、それぞれが違う祈りかたをするのを感謝して評価します。大抵二人で一緒に祈ったあとも、彼女は一人でとりなしの祈りを続けます。彼女が「主よ、子供たちにベッドのシーツを洗うように、そして十分の睡眠時間をとることも言ってやってください。それからジャンクフッドを食べさせないでください……」と主にお願いしているのが聞こえてきます。 母親としての子供たちへの愛で一杯なのですから、そのように祈っていいのです。
教会でグループとして集まるときも、これと同じ原則が当てはまります。みんなが一致するのです。一人の人が他の人より長く祈ったり、ずいぶんと細かいことまで祈ったりしてもいいのです。私たちの教会はアメリカのために祈り、また、他の国々やリーダーたちのために祈りますが、ある人たちは政府のリーダーのために祈り、またある人たちはギャングのリーダーのために祈り、また、ビジネス界のリーダーのために祈る人たちもいます。アメリカのために共に悔い改めて、プライドの罪、不正の罪、殺人の罪(特に堕胎の罪)を赦してください、と祈ります。また、私たちの貪欲さ、国家的な傲慢、テレビや映画などの不道徳な内容などに対する赦しも請います。一人ひとりに違った重荷があり、フォーカスも違いますが、私たちはお互いの祈りに情熱をもって心から一致します。
私たちが心を一つにして祈るなら、天の父はそれをかなえてくださるとイエス様は約束してくださいました。(マタイ18:19) 私たちが一致していることが私たちの祈りと同様に重要です。祈るスタイルは違っていてもいいのです。私は歩きながら祈ります。私の親しい友人は身体を前後に揺すります。また、ある人は空手チョップのように手で空を切りながら祈ります。それぞれ祈るスタイルは違いますが、心はしっかりと一致して共に祈りに燃えるのです。
興味深いことに、福音書で一致を表すために使われている言葉はギリシャ語の「sumphoneo」です。英語の「symphony 交響曲」はこれから来ています。つまり神様は、それぞれに癖のある一人ひとりの祈りを我慢しながら聞いている、というのではなくて、一致した熱心な祈りの声としてシンフォニーのように聞かれるのです。一つ一つの声がユニークな楽器でありながら、同じ栄光に満ちた一つの歌を一緒に歌っている声のシンフォニーとして聞いていてくださるのです。
愛する皆さん、共に祈るときは、常に一致を保とうではありませんか。不和はどんなことをしてでも避けねばなりません。祈りながら泣く人もあれば笑う人もあり、また、霊の戦いの祈りをする人もあれは、主を崇める人もありましょう。 しかし、私たちが一致して祈るときの祈りは、聞いてくださっている神様の心にはシンフォニーのように聞こえるのです。(終わり)トップページへ戻る
Page 119 of 131 « First ... « 117 118 119 120 121 » ... Last »