Walk With God Ministries
Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
21 06月
霊のシーズン
グラハム・クック
これは神のご性格のバラドックスの一つですが、神は常に変わらない方であると同時に、移りかわるシーズンの中で働かれる方です。 私たち人間にとってそのような聖霊の働き方を理解するのはとても難しいのですが、永遠なる神がなさることにはすべてシーズンがあるのです。
たとえば自然界を見てみますと、神は春夏秋冬という季節を作られ、種まきと収穫のとき、労働と休息のときをこの地に与えておられます。それと同じことが霊的な領域でも言えます。しかし、どういう理由かわかりませんが、多くの教会は霊のシーズンがあることを認めようとはせず、常に不変の霊的バランスがあるに違いないと考え、最善のバランスを見つけ出そうと躍起になっています。彼らは常に一定、コンスタントでありたいと願い、教えとワーシップ、み言葉と聖霊の間に常にバランスをとろうとするのです。
しかし、神はそのような「バランスをとる」という考え方を退けられます。主の霊は私たちの人生の中で満ちたり引いたりするのです。 私たちは、神のみ言葉の中で満たされるときもあれば、御霊の中で満たされるときもあります。私たちの任務は、神がその時々になさっておられることを察知し、それにそって神に対応し従っていくことです。もし神が聖書のみ言葉を使って奥義を啓示しておられるときは、私たちは聖書に焦点を当てねばなりません。 もし神が聖霊の賜物とわざを通して物事を啓示しておられるときは、それに全速力で従っていかねばなりません。
私たちは御霊がフルに満ちている状態でずっと生きていくことはできません。それは不自然なことです。潮は満ちるときがあれば引くときがあります。満ち潮があれば次には必ず引き潮があります。私たちが御霊において引き潮になっているときには、神は私たちを変わることのないみ言葉へと導いてくださいます。 そしてそのみ言葉が、次の御霊のシーズンのための支柱となるのです。神は御霊の引き潮のシーズンを、次に来るブレイクスルーが何であるかを私たちに教えるためにお用いになります。即ち、霊的引き潮のシーズンに私たちが何をするかが、神が次に起こそうとされている満ち潮がどのようなものになるかを決定する重要な鍵となるのです。 神は引き潮と満ち潮を両方用いて私たちを導いてくださいます。
私たちは今、神の働きには必ずシーズンがあることを理解し、それを受け入れねばなりません。 たとえば、神は初め何もあなたに語られないかもしれませんが、そのシーズンが来れば必ず語られるのです。ですから、私たちは、神からのみ言葉が来るまでじっと主に安息して待つことを学ばねばなりません。
私たち自身が確立されるときと、新しいことへの開発に入るときとは、同時には絶対に起こりません。そのような二つのパラドックスをうまくバランスをとって生きる能力を、神は人間に与えてはおられません。そうではなく、私たちは神が今のシーズンは何をされているかを悟り、それに従って生きるのです。 つまり私たちはその2つの極点をシーズンに従って行ったり来たりするのです。 あるシーズンには私たちはしっかりと神のみ言葉に結び合わされて確立されます。また別のシーズンには、御霊の奥義を捜し求める神秘な冒険の旅に出かけるのです。ただみ言葉の川に浸ってだけいると、私たちは神を知的な思想的な存在にしてしまい、神を「知性をつくして」のみ愛することになってしまいます。しかし私たちが霊的に探求していくと、力を尽くして主を愛するようになり、主により頼む者となります。私たちの信仰生活は、み言葉の素晴らしい冬のシーズンと御霊の燃えるような夏のシーズンの両方を経験せねばならないのです。
ある教会が神の御霊の満ち引きをよく理解していると想像してください。その教会では、御霊が豊かに働いておられるときは、人々は大胆に新しいことを始め、最高の方法で賛美をささげ礼拝することへと解き放たれるでしょう。多くの夜に人々が集まり、ただ熱心に神をワーシップすることだけに時を過ごします。そして日毎に主の大いなる力が現されるでしょう。
そのような教会では皆が霊的に大人になっているので、神がまた「み言葉にもどりなさい」といわれたときには、それを察知できるのです。このような教会は、み言葉の教えと真理が語られるダイナミックな場所となります。そして、次に来る御霊のシーズンで彼らが霊的により深い冒険をするときには、その前に学びしっかりと心に植えつけられた真理のみ言葉が彼らに伴うことを、その教会は確信することができるのです。人々は教師や牧師の周りに喜んで集まり、今のみ言葉の学びは次にくる御霊の大きな流れのための準備であることをはっきりと理解するのです。
み言葉と御霊は素晴らしい相互関係を持っています。二つのものは決して相反するものではありません。お互いに尊重しあい譲りあうことを知っています。そしていつ満ちるべきか、引くべきかをわきまえています。(終わり)
[師の最近の著書「預言とその責任」から]トップへ戻る
14 06月
二つの王国の衝突
ジェフ・ビーチャム
はじめに
神の視点からみると、世界には二つの王国しかありません。一つは「神に従う」という王国であり、そこでは人々は神の御心と神のやり方に従います。もう一方は「自分を崇拝する」という王国であり、そこでは自分を捨てるという神の道に逆い常に争います。今というシーズンの中にある私たちは、神の王国の文化習慣に従うべきであり、西洋のキリスト教文化と神の王国の文化は必ずしも一致しないことをはっきり認識するべきです。
ナンバー・ワン
これから時代が進むにつれて、二つの王国はお互いに人間の魂を自分の方に勝ち取ろうとして、激しくぶつかりあうようになります。この戦いは、もともと天においてルシファーが神を押しのけて自分がナンバー・ワンになろうとしたときに端を発しています。 それと同じ強力な霊が今この世に働いていて、人々やグループが自分こそ一番になろうと互いに競いあうようにそそのかそうとしています。
西洋の文化では、競争は人生の重要な要素です。 競争は人生に成功するために必要な要素として受け入れられ、称えられています。しかしながら、競争というものは究極的にいえば利己主義であり、人々の欲望を掻き立て、ねたみを起こします。そしてねたみはすべての争いや戦争のもととなるのです。
地上で起こった最初の競争は、カインとアベルの間でした。カインは主へのささげ物に関して自分なりの考えを持っていました。しかし、アベルのささげ物は主に受け入れられたのに、カインのものは受け入れられませんでした。カインはひどく怒り、弟を殺してしまいました。しかしカインとアベルの競争は、実質、誰が自分の人生でナンバー・ワンか、というカインが神を相手取った競争であったのです。
最初の町とバビロンの塔を建てたニムロデ王は、ノアのひ孫でした。彼は父祖の信仰を捨てオカルトに手を出しました。彼は軍隊を訓練し強固にするために、兵士同士を競わせるという手段を用いた最初の人でした。彼はふしだらな行為や競争心、魔術を用いて兵士たちを誘惑しコントロールしたのです。
バビロン文化はギリシャ文明に引き継がれ、ギリシャ文明はローマ帝国を起こし、ローマ帝国は今日の西洋文明の基礎を作りました。競争は私たちの文化の中で大切な目的を果たし得ます。人間の欲望を操ってビジネスが互いに競争し生き残るためによりよいサービスをするようにしむけます。同じように、個人同士で競争させることによってもっとよい結果がでるようにさせます。 また、競争することによって生産力を増やすと多くの人は考えていますし、確かに短期間ならば、個人としてもグループとしても刺激をあたえて生産力を増加させるかもしれません。しかしもっと長期のことを広い視野で見てみると、どうしても争いや戦争が起こり、その結果として生産力を減少させ、効率を低下させるのです。
御国の経済
協力と共同が御国のやり方
最終的には、協力と共同こそが競争よりももっと生産力を高めるものであることが証明されるでしょう。競争は神の御国の原理ではありません。協力と共同が御国の方法です。バビロニア形式の社会の中での競争は、ジャングルの法則のようなものです!強者だけが生き残るのです。
神の御国の経済は、欲に基づく競争を基盤としてはいません。御国は愛に基づいて仕えることを基盤とする経済です。イエスはマタイ22:39で、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。また弟子たちには「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34,35)」と言われました。
競争は不必要な争いを個人や家族間、部族間、また国家同士の間に引き起こします。 それは、「自分が充分持てない、足りなくなる。」という恐れの中にその根があるのです。それは、土地とか、食物、仕事、商売や、あるいは又、称賛、評判、愛情等、どのようなものが対象であれ、「おまえと争ってもっと得なければ自分の分が十分ではない。」という恐れです。
「すべての人が満足するほど十分にはない。」という信じ込みが、すべての戦争や争いへとつながっていくのです。「おまえが手に入れるより先に手に入れるように私は戦わねばならない。もしすでにお前が手に入れていたら、私はそれをお前から奪いとらねばならない。」と考えるのです。
ヤコブ4:1-2に次のように書かれています。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」
信仰が神の御国で収穫を増すための肥料です!
競争とは、自分がすべてをコントロールしたいと言う思いから、神や人を相手に争うことです。しかし、神の御国のライフスタイルには争いはありません。
IIテモテ2:24-26 「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。 それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」
神の御国では個人間でもグループ間でも競争はありません。すべての者は他の人も自分と同等に思いやってお世話をしたいと思うのです。
敗者はいない
神の御国には敗者は一人もいません。遊びは楽しむためであり、仕事は他の人の必要を満たすために仕えることです。誰かが勝つために他の人がバカにされたり笑われたりすることもありません。神の御国での唯一の競争相手はサタンです。地上のすべての人は、知っていても知らなくても、神の王国と暗やみの王国との戦いに参加しているのです。神の王国の中の唯一の戦いは、直接的にせよ、間接的にせよ、サタンとその闇の王国を相手にした戦いです。
他の人に対する戦いは決してありません。どんな理由でも誰かと競争をすることは決してありません。神は人を皆公平に見る方です。すべての人が神を知り、神の御国を
07 06月
神の可能性に心を開く
ジョン・ポール・ジャクソン
私は、神から昔受けた油注ぎを大事にしてそれを固守している教派の中で育ちました。それは、「聖霊に満たされたことを証明できるのは、ただ一つの事実によってのみである。」という信仰を土台にして建てられた教派でした。
しかし、この信仰の土台は正確とはいえません。というのは、この「一つのこと」をしないクリスチャンが病人のために祈り、その結果、病人が癒されるのを私は見てきたからです。もし彼らが聖霊で満たされていないとしたら、病人の癒しは誰の力によるというのでしょうか? サタンですか?
古い油注ぎにしがみついていることの証拠は何でしょうか。もしあなたが「私は聖霊の働きにおいて最高のところまで到達している。」と思うならば、そうなのです。「今自分が到達した地点よりも上はない。神がなされる可能な限りのことはここにすでにある。私は完全なクリスチャンの生き方をしている。」という風に思い、敵の巧妙な罠にかかってしまうのです。
リバイバルを殺すもの
リバイバルはすべて、このように人々が考えてしまうことによって終焉を迎えます。 それは、初めは心によぎる微かな思いから始まるのですが、それが心にしっかり根づくともう取り去るのが困難になります。「神がなされることのすべてがここにある。」という思いは、2つのことに端を発しています。一つは、神を知り尽くすことができると信じ込む狭い考えであり、もう一つはプライドです。 私たちが神の偉大な働きを経験したときは、そのような間違った考えではなく、「これは、神がこれからされようとしている新しい冒険のほんの始まりにすぎない!」と言うべきなのです。
新しい冒険の始まりを促す
私たちは思考のプロセスを変えなければなりません。神の能力を制限するのをやめねばなりません。確かに、私たちは今までになかった素晴らしい経験を味わっているかもしれませんが、だからといって神がそれ以上のことがもう出来ないわけでは決してありません。
しかしながら、私たちがこのように考えるのはとても難しいのです。今までに何人もの優れた神のしもべたちが、自分が経験したことを「これこそキリスト教の根本だ。」と信じて、それを土台にして教派を建て上げてきました。「これこそが神がなされる最高のものだ。」と考えてしまうからです。
そして、自分が勝手に定めた限界(バウンダリーズ)を超えて神が進んでいかれると、古い油注ぎに固執しているので神のご計画についていくことができず、取り残されてしまいます。 そしてパリサイ人と同じようにこう言うのです。「私が持っている古い皮袋は十分役に立っている。 えっ、新しいぶどう酒ができたって? そんなはずは絶対ない! そんな渋いものがぶどう酒だなんて! 私のぶどう酒のように甘くないではないか!」と。
これは誰にでも起こりえることです。私の教会でも起こりえますし、あなたの教会でも起こる可能性があるのです。 教会で神の働きが起こると、「これこそ最高のものだ。これ以上のものはない。」と思ってしまうとすれば、そこで止まってしまいます。
もし、私の教会で神が大きく働かれたとしても、「とうとう私たちは最高の地点に到達した!」とは言いたくはありません。それだけは絶対に避けたいのです! 私は今も神の偉大な働きを祈り求めています。しかし、それと同時に私たちが絶対に 「これ以上のものはない。他のどの教会もこんなすばらしいものは持っていない。だからすべての人がここに来るべきだ!」とは言わないような心を与えられることを祈っているのです。
神の働きを止めないように
私たちの人生の中で神がされることは、すべて始まりにすぎず、これからされるすべての事のほんの入り口なのです。それは出発点なのです。ですから、その時点で私たちがどのように応答するかによって、神のそれからの動きが決まります。もう自分は最高のものを手に入れた、と考えて神の働きを止めてしまうことは避けねばなりません。
少し違う視点で言いますと、イエス様と静かなときを過ごすときに、「私はもう最大限深く主と交わることができている。」と考えないでください。神はいつでももっと深いところのある方であり、どんなに神との交わりが深くなったとしても、それはまだ表面をかすっただけのものに過ぎません。 あなたが神との交わりを深めることこそ、あなたの本当の冒険なのです。(終わり)トップへ戻る
30 05月
預言されているリバイバルがなぜ起こっていないのか
コンラッド・ランパン
今日私が祈っていると、主が静かに私の思いのなかに次のように語られました。
「周りを見ても霊的な動きがあまり起こってはいず、全体的に熱が冷めているのにあなたは気がついていますか? リバイバルの到来がずっと預言されているにもかかわらず、それが起こっていないのを多くのクリスチャンがいぶかしく思っています。 聖霊の活発な動きが何度も約束されたのですが、未だにそれが起こっていないので、人々は何故なのだろうかと疑問に思っています。 しかしそれは、このわたしがリバイバルの到来を延ばしているのです。 その理由を知りたいですか? それはわたしがわたしの民の心の中を知りたいと思うからなのです。」
私は「主よ、あなたはすでに人の心をご存知ではないのですか?」と申し上げました。
主は答えられました。「目に見える状況が、自分の期待していたのとは全く違うように動いていくときに、その人の心の本当の願望が一体何であったのかが、明らかにされることがあります。わたしの霊の動きは世界のあちらこちらで実際に起こりましたが、それは試験的なものに過ぎず、その目的は人々の心が本当には何を一番大切にしているかに光を当てて明らかにするためでした。わたしが人々を訪れて留まるのは、人の心の中に何があるのかを見極めてからでなければなりません。全世界に訪れようとしているリバイバルは、今まで見たことも聞いたこともないような、偉大なものになるのです。
わたしが召した者のうちの多くは、わたし自身を求めているのではありませんでした。彼らはただリバイバルを求めていたのです。リバイバルが、彼らが思っていたようには起こらず、また、考えていたタイミングで起こらないと、彼らはぶどうに手がとどかなくて「このぶどうはまだ熟してなくてすっぱいに違いない。」と勝手に決めた狐のように、わたしから去っていくのです。
普通と違う変った主のやり方
私は「普通と違った unusual」という言葉を何度も霊で聞きました。今までに何度も神は私たちに主の変ったやり方について話されました。今回又、主は「普通と違う」と言われています。
「わたしがリバイバルの到来を遅らしているのは、わたしの民が心の中で、本当には何を期待し予想しているかという隠された部分を表面に現すためです。すでに多くのクリスチャンの罪が露わにされました。彼らの心の中にはあまりにもこの世的な予想、期待があり、神の真の動きとは一致して働くことができませんでした。また、この世的な慣習やオカルト的なものまでが正体を隠して教会の中に侵入してきましたが、それも明らかにされてきました。その罪が露わにされるのをわたしが許しているのです。教会の内部に隠されていたこの世的な罪は、教会がフルパワーで前進するのを阻んできました。しかし露わにされることによってその力をなくすのです。
わかりませんか? わたしはわたしのパワーを全面的に現す前に、教会を清めなければならないのです。世界にわたしの力を現す前に、わたしの霊は内部をまず清めなければなりません。わたしが始めようとしている聖霊の働きはものすごい力を持っています。ですから、軽々しく取り扱ってはならないし、この世的、肉的な物の考え方を少しでも混ぜてはいけないのです。
それがリバイバルが遅れている原因でもあり理由なのです!
クリスチャンの中には、リバイバルが起こらないので落胆し、自分はただ夢を見ていたのだといってリバイバルが起こらないのを『現実』として受け入れてしまった人がいます。 しかし、その人のポイントはずれています。 聖霊よりもリアルな現実はないのです。わたしが平凡なことをすると思ってはなりません。わたしはユニークで変ったことをする神だからです。あなたが予想した通りにわたしが動くことを期待してはなりません。わたしは超自然的な神だからです。わたしは奇跡の神です。わたしはよみがえりの神であり、打ち破りの神なのです!
これはクリスチャンへの裁きの言葉ではなく、むしろ励ましの言葉です。 あなたの心の願いがわたしの願いと一致していないことがわかっても、立ち去ってはいけません。わたしに立ち返りなさい。そうすればあなたにわたしの心をあげましょう。
ある人たちは意気消沈し、孤立し、人から見捨てられたと感じ、祈れば祈るほど駄目になり、疲れきってもう何を期待したらいいのかもわからなくなって、『主よ、いつまで待てばいいのですか!』と叫びたいような気持ちになっています。もうどん底まで落ちて、かつてあなたが持っていた多くのアイディアや素晴らしい計画もすべて失くしてしまいました。 多くの夢も壊れ、沢山の苦痛を味わいました。それでもあなたはミニストリーを離れて他のビジネスに変ることをしませんでした。耐えられないような苦しみを通りながらも、あなたはわたしこそがあなたのビジネスであることを悟るに至ったからなのです!
わたしが召し出し任命した牧師や聖職者の中には、わたしの霊の働きを祈り求めた途端に教会員が減ってしまった人もあるでしょう。ある人は教会の閉鎖にまで追い込まれ、あなたのミニストリーはもう過去のものとして扱われている人もあるでしょう。あなたは勝利を期待していたのに、敗北を味わいました。けれども決して絶望してはなりません。あなたは今正しい道を進んでいるのです。なぜならば、あなたが失ったものはすべて、リバイバルの道を阻むものにすぎなかったからなのです。もう自分には何も残っていないように感じますか? わたしを見なさい。わたしがここにいます。あなたにはわたしがあります。他に何が必要だと言うのですか?
地下を流れていた川が、勢いを増して地上に噴出して来るような強力なリバイバルをもたらすためにわたしが用いる人は、復活する前の3日間を地下で過ごし、その苦しさを経験した人でなければなりません。 自分の思いではなく父の御心に服従することを学んだ人でなければ、聖霊によって用いられることはできないのです。
忘れさられた? 孤立している? さげすまれた? あざ笑われた? 力を無くした? しかし、あなたがわたしだけにしがみついてさえいれば、あなたは今もリバイバルをもたらすためにわたしが用いる器なのです!」(終わり)トップへ戻る
24 05月
蒔かれた種の生長と実り—-麦か毒麦かの見分け
リック・ジョイナー (渡橋 喜代佳 訳)
「プライドとへりくだりが、本物と偽物を見分けるもっとも基本的な特質の2つです。」
種と毒麦
私たちは、忠実な人々がさらに忠実になり、さらに権威をゆだねられるという、そのような時代にいます。それはまた、不忠実な人々がさらに不忠実になるという時代でもあります。この世に蒔かれた良い種と毒麦の両方が実りの時を迎えます。したがって、主がマタイ13:37~47で預言しておられるように、どれが毒麦でどれが良い種かが、ますますはっきりしてくるでしょう。この箇所で主は弟子たちに、農夫の麦畑にやって来て毒麦を蒔いた敵についてのたとえ話をされ、次のような解説をしておられます。
「イエスは答えてこう言われた。『良い種を蒔く者は人の子です。畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。』」
麦の収穫—麦か毒麦かの見分け
主は、このことがこの世の終わり、すなわち「収穫」の時に起きると言われました。収穫とは、麦と毒麦の両方を刈り取ることです。この世の終わりには、善も悪も実りの時を迎えます。そのため、お互いがはっきりと見分けられるようになりますし、年を追うごとに両者の違いがますます明らかにされていくと考えられます。
かつて、私も麦畑のそばを車で走っていた時に、実際毒麦が麦によく似ていることを知らされたことがあります。両者が実りの時を迎えるまでは互いに区別できないと、そのようにも教わりました。実ると、麦は垂れてきますが、毒麦の方はまっすぐ伸びたままなのです。このことから、「実ると、麦はますますへりくだり、毒麦はますます高ぶるようになる」と言えるかもしれません。プライドとへりくだりこそが、本物と偽物を見分けるもっとも基本的な特質の2つなのですが、この世の終わりが近づけば近づくほど、ますますこの特質のことが言われるようになるでしょう。
実るまでは麦と毒麦を見分けるのが難しいわけですから、間違って麦を引き抜くことがないように、両者が一緒に生長するのを待つのは主の知恵だった、ということも心に留めておくべきです。実は、これが、預言的なミニストリーが起こされるなかで、ずっと私たちに立ちはだかってきた一つの問題でした。若くて未熟な預言的人々も、しばしば未熟な振る舞いをしてしまいます。すると、私たちは、彼らが「麦」ではなく実際は「毒麦」なのではないかと考えてしまうのです。主の知恵に耳を傾けず、早まって毒麦を取り除こうとする人々は、しばしば「麦」を捨てて「毒麦」の方を取っておこうとします。
多くの教会や教会のリーダーたちは預言的なものを欲しがりますが、預言的なものは、まず成熟を待たなければなりません。もちろん、短期間であれば事は簡単かもしれませんが、結局のところ、多くの損失を伴うことになるでしょう。教会や教会のリーダーが成熟した預言的ミニストリーを責任もって行なえるようになるのは、どのようにしてでしょうか。それは、「成熟のプロセス」を通ることによってであり、麦と毒麦の両方の生長からそれぞれの性質を学ぶことによってなのです。それはまた偽物を見分ける方法でもあります。
私は、成熟していない預言的な人々を、彼らにまだ問題があるという理由で、教会やミニストリーが拒絶するのを何度も見てきました。すると、たいてい同じこれらの教会やミニストリーは、多くの害をもたらすことになる偽預言者から欺かれるのです。そうなると今度は、自分たちの問題を「預言的なもの」のせいにしてしまいます。このことは、ただ預言的ミニストリーに当てはまるだけではなく、伝道者や教師、使徒、牧師にも当てはまります。今日みられる教会分裂の多くはこの理由によるものですし、今や、健全な地域教会にいるクリスチャンよりも教会生活をしていないクリスチャンの方が多いのも、この理由によるのです。
たしかに、未熟なミニストリーもまた問題を引き起こしますが、それだけの価値はあるのです。冒頭のたとえでは、主は種を蒔いている、つまり、畑に投資している農夫であり、畑はこの世界を表わしています。注意していただきたいのですが、投資の基本原則は、「安く買って、高く売る」ことです。ある人に投資する時というのは、安い時、つまり、スタートしたばかりの時なのです。同じ事がミニストリーにも当てはまります。今成熟しつつある預言的ミニストリーは、この先どのような教会やミニストリーに信頼を寄せることができるというのでしょうか。それは、自分たちがまだ成熟のプロセスをたどっていた時に、自分たちを信頼してくれて、投資してくれた教会やミニストリーなのです。
使徒パウロ—–成熟していった人物の例
私たちはまた、生長過程のどんな様相を呈している麦であっても、その麦の中に存在している毒麦には気がつくようになるべきです。どのように麦が生長していくのか、そのすばらしい例の一つを使徒パウロに見ることができます。彼は、初期の手紙の中では、自分が大使徒たちにも劣っていないと述べています(2コリント11:5参照)。その5年後には、「使徒の中では最も小さい者」(1コリント15:9参照)に変わります。さらに、この5年後、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)となっています。そして、最後の手紙の一つでは、自分のことを「その罪人のかしら」(1テモテ1:15)と宣言するまでになるのです。彼は明らかに霊的な成長をとげていき、実際、一世紀の最も偉大な使徒の一人に数えられるまでになるのですが、このように(へりくだって)自分のことをどんどん低く見ていったのでした。
若き使徒だった頃のパウロはかなり傲慢だったかもしれませんが、それでも彼が使徒だったことに変わりありませんでした!—–このことも、私たちは考慮する必要があります。
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