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Walk With God Ministries


31 08月

団結して戦う   ヴィクトリア・ボイセン   8月31日


団結して戦う

ヴィクトリア・ボイソン

皆さん、敵は教会に対してもっと激しく攻撃をしかけようとしています。けれども神のご計画は、この敵の攻撃を使って、福音がもっと拡大するための扉を開くことなのです。

使徒行伝の教会

使徒行伝12章には、ヘロデ王による迫害が激しくなり、教会が衝撃をうけたことが書かれています。使徒ヤコブが剣で殺され、ペテロは捕えられて投獄され、厳しい監視のもとにおかれました。ヘロデは過ぎ越しの祭りの後にペテロを裁判にかけるつもりでしたが、教会はこの事態に驚いて、すぐさまある行動をとりました。彼らは祈りはじめたのです。

ヤコブを失った彼らは、ペテロをも失うかもしれないという危機に立たされ、よい応えを得るまでは絶対にやめないと決意して必死に祈り始めました。そして彼らは確かに天を動かしたのです。ペテロは奇跡的に天使によって牢獄から解放され自由にされました。教会は彼らの祈りに対する神の応答に圧倒され、ペテロが本当に自由になったことを信じられないほどでした。彼らが祈っていた家にペテロが着いたとき、彼らはあまりにも驚いて彼を天使だと思ったのでした。

主にある兄弟を救うために始められた彼らの祈りの戦いは、それから間もなくして彼らの敵であるヘロデ王の死という思ったよりも大きな結果を生み出しました。

主は今日、同じような出来事をきっかけとして、教会の中で大きなわざをしておられると、私は信じます。最初は、敵が急に襲ってきて、私たちは迫害が激しくなったことに驚かされます。しかし、初めは恐れを持ちますが、私たちは目を覚まし、敵の進撃をこれ以上絶対に許さないという決意の行動を取り始めます。

私たちの信仰は、敵の攻撃によって奮い立たされるのです。私たちの仲間の間になにか意見の相違があったとしても、敵の襲撃の前にはそれらはまったく取るに足らないものとなり、私たちは団結して戦うようになります。 私たちは祈りへと押し出され、防御します。しかし、自己防衛のために始められた戦いは、神の御国を拡大させるための戦いへと進展していくのです。

使徒行伝12章に描かれている教会は、ペテロを救いたいと熱心に祈りました。しかしながら、この祈りの結果は、彼らの敵の死という予想以上のものでした。ヘロデ王は民衆が彼を神だと称えたときにその栄光を神にきさなかったゆえに、主の使いによって殺されました。(使徒行伝12:22-23)そして神のみことばは、ますます盛んになり、教会には新しい改宗者が加えられました。24節を見て下さい。

皆さん、戦いは激しくなってきています。しかし、主は敵を使って私たちが戦うために目を覚まさせ、もっと大きな勝利を与えようとされているのです。

神から与えられている権威

主は、その至高の知恵をもって、恐ろしい状況が私たちの周りに起こるのを許され、それによって受動的で無関心状態の私たちを奮い立たせようとされるのです。小熊を守る母熊へと私たちを変えるのです。主は敵を使って私たちを眠りから目覚めさせ、義憤で満たし、どんなことをしてでも勝利を勝ち取るという、何物にもくじけない自己犠牲的愛を生まれさせます。神は私たちを立ち上がらせ、敵にむかって「それまで!」といわせようとしているのです。眠っている教会の目を覚まし、大胆に「もう十分だ!これ以上はさせない!」と言わせたいのです。

神はこう言っておられるのです。「いつまで敵の図々しい攻撃を我慢しているつもりか? 敵はお前が身動きがとれないほどの窮地に追いやっているではないか。お前のためにも、敵によってお前を苦しめるために使われた人たちのためにも、立ち上がるときだ。 お前を苦しめた人たちにむかって真理を語れ。彼らの報復を恐れるな。」

親が断固として「やめなさい!」というまで悪さをする子供のように、サタンは私たちが本気で「やめろ!」というまで攻撃してくるのです。私たちは今までサタンをなだめて譲歩しようとしてきましたが、実際に必要なのは、神から与えられている権威をもって堅く立つことです。堅くたって戦わないならば、私たちは敵に敗北するでしょう。なぜならば、敵は私たちがやめさせるまでは攻撃を決してやめないからです。

サタンよ、これでお前は終わりだ!

自分の愛する人たちが苦労していたり、人からひどい扱いを受けているのを見ることがあります。私たちはそれを見て心が痛みますが、それに関わることをしません。これは私たちを無関心にして人の事に巻き込まれたくないと思わせる敵の策略なのです。 彼らになにかアドバイスをしたり、どうしてそうなってしまったかを教えたりすることは簡単にできます。しかし、神が私たちの望まれるのは、彼らのために破れ口に立つことであり、彼らと共に敵と戦い、権威をもって「それまで!」と叫ぶことです。私たちは団結して勇士らしく共に戦わねばなりません。団結するとき、私たちは強いのです。

クリスチャンである私たちは、もはや自分のために生きるのではありません。今こそ他の人たちを自分よりも先にする、即ち、他の人の信仰を強めるために、自分の信仰を用いて彼らのためにとりなしをするときです。私たちが情熱を持ち続け、あるいは常に目を覚ました状態にいるためには、この信仰の戦いが必要なのです。 私たちの信仰が休眠状態になり、なまぬるい状態になると、敵の思わぬ襲撃にあうでしょう。

私たちの祈りには力があり、又常に祈ることが必要なのです。祈りによって守られます。サタンは祈りなど効果がないと私たちに思い込ませ、私たちを祈らせないようにして来ました。サタンの攻撃はここから始まることが多いのです。私たちに武器を放棄させることに成功すると、敵は私たちが無防備なときに襲撃することができます。私たちはどうでもいいようなことで忙しくするように惑わされ、攻撃されやすくなるのです。

私たちは戦うことに疲れてはいけません。神は私たちが武具をつけて戦いに備えることの重要性をご存知なので、私たちにその力を与えるためにはどんなことでもしてくださるのです。敵は教会に対する攻撃を増してきています。しかし、神のご計画は敵の攻撃を使って教会にもっと大きな勝利をもたらすことなのです。

敵の攻撃が続いても、恐れずに神が私たちに与える力を受けねばなりません。私たちは敵よりも力があり、敵をやっつけるのが神のご計画です。なぜならば「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よ り力があるからです。(Iヨハネ4:4)」敵は激しく攻めてくるかもしれませんが、私たちへの戦いに勝つことはできないのです!

このように宣言してください。「神は私を愛しておられる。主は私を緑の野に導き、私のたましいを生き返らせる。私のすべての必要を満たし、わざわいから守ってくださる。主は敵の策略を教えてくださる。私は主に聞き主の御心に従う。神は私を敵に勝利するものとしてくださる。私は主の声を聞き主の導きについてゆく。私は生き、主の言葉を宣言する。キリストにあって私は強く、私は勝利する!」

聖徒のみなさん、共に立って力強く叫ぼうではありませんか。

「サタンよ!お前はこれまでだ!」と。               〈終わり〉


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25 08月

ヴィジョンの復活    アル・トーマス    8月25日


神がいわれます。「ヴィジョンが復活する準備をせよ。」

アル・トーマス


神がいわれます。「まず死が先にこなければならない」

「ある者たちは、自分のヴィジョンがどうして達成できないか、どうして成果が現れないかが理解できない。 また、自分のミニストリーが考えていたように成長していかないのを不審に思う者たちもいる。しかし、ヴィジョンを達成するためには条件があるのだ。」

「復活が起こるためには、まず死が必要であることを忘れてはならない。自分のヴィジョンや願い、夢がわたし(神)からのものかどうか確信がないならば、それをひとまず地の中に埋めて、そこから立ち去れ。もし、それがわたしからのものであるならば、わたしがそれをよみがえらせる。」

「自分のヴィジョンを完全に埋めたかどうかはどうやったら知ることができると思うか? 何かが死んだかどうかを判断するのは簡単だ。死んだものは動かない。お前があれこれと様々なことをしてみても効果がなかった(実がならなかった)ならば、わたしは『お前のヴィジョンに死ね。』と言おう。死ねばわたしはお前を復活にむけて調えることができるからだ。もしお前が自分のヴィジョンを死なせることができるならば、(そしてそれがわたしからのヴィジョンならば)それは墓の中にとどまることはない。(Iコリント15;36)

 わたしが『ヴィジョンを埋めてしまえ。』と要求する理由は、わたしよりもヴィジョンのほうを大切にする者たちがいるからだ。ヴィジョンが彼らの偶像になってしまっているのだ。お前がヴィジョンを持っているのか、それともヴィジョンがお前を所有してしまっているのか?ヴィジョンはいかに偉大であったとしても、ヴィジョンを与えたわたしより偉大であることはありえない。 『自分の心を満たすためにミニストリーは必要ではない。』ということが、お前にわかるようになるだろう。お前に必要なのは、わたしなのだから。」

待つことの大切さ

「草は一夜にして育つが、樫の木が育つには何年もかかる。ある者たちは、わたしを待ち望まなかった故に、太陽(プレッシャー)が照りつけると草のように萎れてしまった。しかしわたしは、わたしを待つことを学んだ者を義の樫の木(イザヤ61:3)としよう。わたしの御心ではないことや、わたしのタイミングではないときに早まって事をなすことがないように心せよ。(伝道者の書3:1,7)」

「往々にして、わたしのスケジュール表はお前のものとは異なる。わたしの道はお前の道とは異なることをお前は知るだろう。(イザヤ55:8-9) わたしの臨在の中に座すことによってのみ、お前はわたしのタイミングを知ることができる。わたしの道を選択すれば(詩篇25:4)、物事を力まかせにコントロールしたり、強引に征服する必要がないことをお前は知るだろう。何事でもそれを始める前にはわたしの前でじっと静まることをお前は学んできた。行動を起こすタイミングはおのずと明らかになる。そのときにお前は動くのだ。わたしの前に静まることによってのみ聞くことができるわたしからの指示を、お前に与える。(詩篇46:10) わたしから『聞く』まえにわたしのためだと考えて『行動する』ことは間違いであることをお前は悟るであろう。」

「人々から『お前は何もしていないではないか。』と批判された者もあるであろう。人々はお前の信仰はもう死んでしまったとか、ミニストリーをもう放棄してしまったに違いないと思うのだ。しかし、お前とわたしは知っている。お前の信仰は死んだのではなく休止しているだけだ。やがてすぐにわたしは「続行・プレイ」のボタンを押すであろう。そうだ、わたしは突然(使徒行伝2:2)動くことができる。 それは待つという時間(使徒行伝1:4)をあなたが過ごしたからだ。わたしは決して走らない。わたしをのろまと呼ぶ者もあるだろう。多くの者が、わたしが愛であるゆえに(Iヨハネ4:8)ゆっくりしているのだということを悟らずに、わたしのタイミングを誤解する。愛が働くペースは異なり、それは内なる速さなのだ。わたしがゆっくりしているのは、お前がスローダウンしてわたしとの交りが可能になるためであり、わたしがお前に追いつくためではない。ある者たちは成功するために早いスピードで走る癖がついてしまっている。わたしはゆっくり動くが、(IIペテロ3:4)多くの事を成し遂げることができる。」

復活させられるのは主のみ

「休止状態になっている多くのミニストリーを、わたしはこれから復活させる。 以前失墜した者や人々から退けられたしもべたちを、わたしは回復させる。彼らの中には、あまりにも多くの機会が与えられるようになり、これは夢に違いないと思う者もあるほどであろう。しかし夢ではない。多くの者にとって遅延は終わった。それはお前が自分のヴィジョンと召命をわたしの手に委ねたからだ。お前はヴィジョンに死んだ。自分の力で成し遂げようとすることをやめた。(権勢によらず、力によらず、、、)どうやったら成長するかを分析したり、成長のために何かをしたり、どのくらい成長するか計算したり、成長度を計ったりという事を一切やめることを、お前は学んだ。そして、成長させるのはわたしであることをあなたははっきりと理解したのだ。(Iコリント3:6-7)」

「お前がわたしを待ち望み、わたしが働くのを許してくれた故に、わたしはお前のヴィジョンをよみがえらせる。お前が自分のヴィジョンからではなく、わたしとの交わりの関係から喜びを見出した故に(詩篇35:9)、わたしはお前のヴィジョンを今まさによみがえらせようとしている。『私は自分のミニストリーよりも主をもっと愛している』という素晴らしい真理が人々の霊の中で鳴り響くようになり、それによって主の軍隊が今まさに興されようとしている。

「よみがえりの備えをせよ。自分のヴィジョンからではなくわたしから力を得ることをお前は学んだ。ヴィジョンではなくわたしに焦点をあてることをお前は学んだ。それこそがお前の光であり(ヨハネ8:12)、お前に道を示す。(IIペテロ1:19) お前に聞こえる物音は、大きな収穫を刈り取るのを今まで妨げていたすべての障害物を、わたしが横に押しのけている音だ。(ヨハネ4:35-36) お前が動かせないと思っていたものも、わたしは取り除く。(マルコ9:23) 今まで偶像になってしまっていたミニストリーのヴィジョンは、今やお前の道具となった。元気を出して、上を見上げ、立ち上がる備えをせよ
21 08月

神の平安による勝利 フランシス フランジペン 8月21日


神の平安による勝利

フランシス フランジペン

真の平安とは、あなたが物事に無頓着で何が起こっても動揺しないということではありません。また、非常に「霊的」であるため、世の中で何が起こっているのか気にもしないので得るものでもありません。平安は、神が私を愛しておられるという確信から生じる実です。第一ヨハネ4:4の「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力がある」という真理をあなたが確信するときに、平安があなたの心に生まれます。平安は自分の手で得るものではなく、神の愛によって保証されるものなのです。

平和の神がサタンを砕く


霊的戦いを効果的にするためには、私たちは自分に与えられている霊的権威を理解し、それを行使せねばなりません。けれども霊的権威とは、自分の権威の下に人を押さえつけるものではありません。あなたが霊的権威を持つということは、かつて葛藤や抑圧で満ちていた場所に、神の平安を打ち立てるということなのです。ですから、あなたが真の権威をもって働くためには、まず自分のうちに平安を持たねばなりません。

使徒パウロは「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16:20)」と教えています。私たちが戦いの最中にも平安を保ち続けるならば、それは恐れとか抑圧をもって責めてくる敵に対して致命的打撃を与えることになります。私たちの勝利は決して私たちの感情や知性で勝ち取るものではありませんし、自分の目で見たことや耳で聞いたことで判断するのでもありません。 それは、神が言われたことは必ず成就すると確信する信仰からくるのです。

キリストの勝利を完全に味わいたいならば、周りで起こる状況に対して人間的にリアクトするのをやめねばなりません。何かに対して本当に権威を持つならば、それを見たときにあなたの心は何の心配も恐れも脅威も感じないはずです。あなたの中の平安が勝利のしるしです。イエスが激しい嵐に対して権威をもっておられた証拠は(マタイ8:23-27参照)、嵐に対してご自分が持っておられた平安を宣言し、それをもたらしたことです。主は嵐と戦うこともなく、恐れることもありませんでした。主は猛威をふるう暴風に立ち向かい、完全な平安の中にある主の権威をもってそれを治められました。

また、イエスがピラトの官邸で裁判にかけられたとき、そこは地獄の力によって人々が感情的な狂乱状態に陥っていましたが、キリストの周りには聖なる静寂が漂っていました。それは、どのような代価を払おうとも、父なる神の御心に従うことを決意されたイエスから流れ出る平安でした。神の御座の平安と静けさを、イエスの霊は完全に映し出していました。そしてイエスが裁かれていたはずの場面は、一瞬にしてサタンやピラト、また、イスラエルの宗教家たちが裁かれる場面と変えられたのです。

サタンが使う武器の倉庫は、恐れ、思い煩い、疑い、自己憐憫などで一杯に詰まっています。このような武器は私たちから平安を奪い、心を悩みで満たします。あなたの敵はどこから攻めてくるかわかりますか? あなたの周りの人間関係で、平安がないところがありますか? そこからサタンは攻めてくるのです。 逆にいえば、平安があるところには勝利があります。サタンがあなたにむかって火矢を投げてくるときにどれだけ平安を保っていられるかは、あなたがどれだけキリストの勝利の中を本当に歩いているかを示すバロメーターです。

パウロはピリピ1:28で、「また、どんなことがあっても、反対者たちにおどろかされることはないと。それは彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。」と言っています。あなたが平安を保ち、神のみ言葉に堅く立って動かされることがないことこそ、神の御心に服従しようとあなたが心を定めている証拠です。「どんなことがあっても反対者たちに驚かされることがない」という事実は、あなたが敵に対して権威を持っているというしるしでもあります。

平和をつくる者は神の子

平安は霊的な力です。平安は聖霊のもつ特性であり、あなたが平安のうちに歩むとき、あなたは力のうちを歩んでいるのです。平和をつくる者というのは、ただ単に戦争に反対する者というのではありません。それは霊と目的においてキリストに心から服従している故に、神の子と呼ばれるのにふさわしい者です。(マタイ5:9参照)その人が行くところには神も行かれ、神が行かれるところにはその人も行くのです。平和をつくる者は恐れず冷静で大胆です。燃える火が光と熱をまわりに放つように、その人からは平安が流れ出ます。

人生の戦いの中で平安を保つことは、敵をやっつける武器と実際なるのです。揺るがない確信をもって立つあなたの姿は、サタンのうそに決して騙されないことをはっきり表わしています。敵に対して霊的権威を持つための第一歩は、どのような状況に置かれても平安を持ち続けることなのです。イエスは悪魔と対面したときも、感情的になったり恐れたりはしませんでした。サタンが偽り者であることをご存知であった主は、神以外の声に影響されることを堅く拒みました。主の平安はサタンを圧倒しました。そして主の権威はうそを打ち破り、サタンは逃げ去りました。

治める前に安息する

詩篇23:4で、ダビデは「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」と言っています。神と共に歩くときに、わざわいを全く恐れなくなることが可能なのです。ダビデは人生の中で、ライオンや熊や巨人を始めとして沢山の敵に遭遇せねばなりませんでした。この詩篇で彼は「死の陰の谷」にいるときもわざわいを恐れなかったといっています。ダビデは主に信頼していました。「あなたが私とともにおられますから。」といっています。神がともにおられますから、あなたが遭遇するすべての困難は、神に信頼するときすべて勝利となるのです。ダビデは続けて5節で「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ」といっています。今あなたが戦っている戦いは、もうすぐあなたの食事となるのです。即ち、それはあなたを養い霊的に立て上げる経験となるのです。

戦いの最中にあなたが肉的にリアクトしてしまうのを鎮めることができるのは、神の平安だけです。神の平安は神ご自身からのみ来るものです。「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。」と黙示録4:6にあります。ガ
10 08月

実を捜したヨシュアとカレブ  ビル ヨント   8月10日


実を探したヨシュアとカレブ

 ビル・ヨント


民数記13:20b 「あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取ってきなさい。」 その季節は初ぶどうの熟す頃であった。

スパイたちが約束の地に送られたのが、初ぶどうの熟す季節だったことは興味があります。12人のスパイ全員が、その土地の巨人にではなく果物に焦点をあてることを、主は望んでおられたのではないかと私は思います。ヨシュアとカレブも他のスパイたちと一緒に偵察をしていましたから、巨人がどれほど大きいか、町の城壁がどれほど高いかを彼らが話すのを、何度も聞かされたに違いありません。でもヨシュアとカレブはそのときに、「巨人がそんなに大きいならば、そこの果物もどんなにか大きいに違いない。」と考えたのではないでしょうか。二人は約束の地で果物を探すことだけに心を注いでいたのです。私たちは、自分が探すものを見つけるのです。そして、男二人が棒でかつがねばならぬほどの大きなぶどうの房を、エシュコルの谷から持ち帰ることができました。

巨人のいる異邦人の地を神は「乳と蜂蜜の流れる豊かな地」と呼ばれた


詩篇27:13 「ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。」

私たちが約束の地に入るためには、まず自分の国や政府、都市や私たちが顔を合わせるすべての人々の良いところを見なければなりません!ローマ4:17の言葉を使って、まだ現れていない良いところを、あたかも既にあるもののように呼び出さねばならない場合もあるでしょう。

ローマ2:4「人を悔い改めに導くのは神の慈愛です。」

神はあなたの悪いところではなく、良いところを見てくださっていることにお気づきでしょうか? 放蕩息子がまだ罪にまみれた姿で家に近づいて来たときに、父親は「私の息子が帰ってきた!」といいました。そのとき父親は息子の中に何を見ていたのか聞いてみてください。異邦人が立ち騒ぎ人々の罪が増し加わるのを見るとき、あなたの口からどんな言葉が出てくるかを十分に注意してください。イスラエル人が相続すべき地に入れなくしたのは、10人のスパイの口から出てきた否定的な言葉のせいでした!

今日の私たちもそれと同じです。もし自分たちの口の言葉で受け継ぐべきものを拒むことができるならば、同じように自分たちの口の言葉によって受け継ぐことも出来るのです!ですから、生けるものの地で良いものを見つけ、良いことについて話そうではありませんか!

ぶどうの「房」が約束の地に入る鍵

その後もヨシュアとカレブは、不信仰な「すっぱい」ぶどうたち(彼らはやがて荒野で干からびてレーズンになってしまいましたが)から離れることはなく、一緒に行動を続けました。神はずっと後になってから主のタイミングでジョシュアとカレブを彼らから切り離し、ついに二人は約束の地に入ったのですが、それまでは、二人はみんなと共に過ごし、その過程の中で将来のために必要な訓練を受けたのでした。

イザヤ65:8 「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから。』というように、わたしも、あなたのしもべたちのために、その全部を滅ぼさない。」

神は今、この地上に御国をたてるための総体的なヴィジョンを持っておられます。ですから、私たちはクリスチャンの房の中にとどまり、教会、すべての民族、すべての言葉、すべての国とつながってなければならないのです。なぜならば、神は一つのミニストリーとか一つの教会、一つのホーム・グループの中だけにとどまるにはあまりにも大きな方だからです。新しいぶどう酒はぶどう一粒、即ち一つのミニストリー、一つの教会、一つのヴィジョンだけでは出来ません。「房」につながっていなければ、あなたの人生もミニストリーも必ず干からびてしまいます。

神の手がぶどうの房を押しつぶす

あなたや私が連なっているこの巨大なぶどうの房を、神の手が押しつぶしているヴィジョンを私は見ました。私たちは、そのプレッシャーは敵からか、もしくは同じ房の中の他のぶどうから来ている、と初めは思ったのですが、そうではありませんでした。神の手がこの房をつぶして、最後の、即ち終末のリバイバルの魂の収穫のためにとっておいた最高級の新しいぶどう酒を造っておられるのを、私ははっきりと見えたのです。

ぶどうの房から神が新しいぶどう酒を造ろうとされるときは、すぐにそれと分かります。何故ならば あるぶどうの粒たちがぶつぶつ不平を言い出すからです。

隣のぶどうに告げよう

神の手がぶどうの房にプレッシャーをかけると、あるぶどうたちは「ああ、神様、あなたが私と一緒の房に入れたぶどうたちとはもうやっていけません。どうかここから私を出してください!」と叫び始めるのです。主は「そうしてあげるよ。でもわたしのやり方でね。もう少しそこで頑張りなさい!」と答えられます。更にもっとプレッシャーが加えられると、あるぶどうたちは「主よ、私の価値がここでは認められていません。私のすぐ周りにいるぶどうたちは、私があなたからいただいた賜物や召命や夢の実現を阻んでいます。私という人間が生かされていません!」と叫ぶのです。
主は「あなたの人生はわたしのスケジュール通りに進んでいますよ。あなたの皮が破れることは、わたしが今しようとしていることのためには絶対必要なのです。あなたが自分のいのちを失うならば、それをわたしのうちに見出すでしょう!」 このぶどうの房の中にいるもののほとんどが、神が何をされようとしているのかは全くわかっていませんでした。私たちの夢や計画、ミニストリーよりずっと偉大で私たちの理解を超えたことを、神はしようとされているのです。今はあなたの隣にいるぶどうに向かって「神の知恵はあなたや私の知恵よりまさっている!」と告げる時です。

国々の救いのための油注ぎはぶどうの房の上に

神の手がなおもぶどうの房を押しつぶすと、多くのぶどうは粉々につぶれました。そしてぶどうの汁が房から地上に滴ってきて、国々の偉大な魂の収穫のための新しいぶどう酒となったのです。〈終わり〉


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04 08月

教会史上最大の癒しの波がやってくる  ボビー・コナー 8月4日


教会史上最大の癒しの波がやってくる
   

 ボビー・コナー

私は、集会中に突然、会場中が焼きたてのパンの香りであふれるという素晴らしい経験を、今までに何度もすることができました。パンの香りがしたときは、ほとんどの場合、その後で素晴らしい癒しの御業が現れるのでした。イエス様は、癒しは子供のパンだといわれました。(マルコ7:27参照) 病気や痛みのある人のために与えられるパンの香りは、天からのパンであられるイエスのご臨在のしるしです。主は癒し主であられるからです。今、聖霊は大いなる癒しの油を注いでいてくださいますが、それは「キリストのからだ」なる教会に与えられようとしています。

主が私に預言的に訪れてくださったとき、こう言われました。「教会に告げなさい。あなたたちが準備ができていてもいなくても、わたしは今あなたたちを訪れます。わたしは手に贈り物を持って行きます。それは癒しの贈り物です。それは個々の人に与えられるのではなく、キリストのからだ全体に与えるものです。

癒しの素晴らしい賜物がある個人の上にとどまって働くのを、私たちは今まで見てきました。例えば、ベニー・ヒンは癒しと奇跡の大いなる賜物を用いてミニストリーをしています。それは素晴らしいことです。 神の器たちを主が用いて大いなるみ業を彼らを通してなさるのを感謝しています。しかしながら、これから起ころうとしていることは、それよりもずっと偉大です。信じる者すべての上に癒しと奇跡の力ある油が注がれるのです。

ずいぶん前のことですが、私はベニー・ヒンへの預言を主から託されました。私は彼に会いにいき、「間もなくあなたが持っている油注ぎを子供たちもいただくときが来ます。」と告げました。それを聞いたときの彼の言葉を私は忘れることができません。彼は目を輝かせて大喜びで、「ボビーさん、知ってます。主が私にもそのことを話してくださいました!その日が今来るように祈りましょう。」と言ったのです。

私たちは教会史上最大の癒しのムーブメントが今にも起ころうとしている時を迎えているのです。この癒しの油注ぎが起ころうとしている理由の一つは、私たちがそれを必要とするようになるからです。教会の集会で天からのパンが与えられるようにと皆で祈らねばなりません。病人のために祈り、油を塗り、信仰の祈りをし、主が癒しのための天からのパンとして現れてくださるのを期待するのです。

罪人と飢えた人のためのパン

出エジプト記16章に、主の民が荒野を旅していた際にパンを求めて叫んだ民へ主が答えられたことが記されています。飢えた民がぶつぶつと荒野の不平を言ったとき、神が天から降らせた白く丸い純粋なパンは、イエス・キリストの前ぶれとも言うべきひな型でした。即ち、それは神が天から下しました。それは純潔を表わす白い色をしていました。それは永遠を表わす丸い形をしていました。また、キリストご自身が自分は天からのパンだと言われました。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)」
イエスという素晴らしい天のパンを下さった神に、私たちはどれほど感謝していることでしょうか。主を食べるときにのみ、私たちは真のいのちを持つことができるのです。私たちは世の光でありいのちであるまことのパンをいただいているので、荒野を旅するときも飢える者は一人もなく、暗やみで躓く者もいないのです。

天のパンを分け与える

今は天のパンを、飢えて傷ついている人々に分け与える時でもあります。この世界は、天のパン、即ち生けるキリストを求めて飢え渇いています。第二列王記の7章に非常に興味のある出来事が記されています。ここに大飢饉の只中に置かれた人々の有様を見ることができます。この飢饉はかつてなかったほどに悲惨なもので、人々は自分の子供の肉を食べるまでに身を落としていました。(6:25-29参照)

このような悲惨な状況の中で第二列王記7:1に記されている預言が神の民に与えられました。預言者エリシャは立って大胆に宣言しました。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる。』」 これは何という大胆な宣言でしょうか!恐ろしい大飢饉の只中で、この預言者は明日には食糧がただ同然で与えられるほど満ち溢れると宣言い切ったのです。

「あなたは主を信頼するならばゆるがされないであろう、預言者を信じれば繁栄するであろう。」と教えられています。(第二歴代誌20:20参照) 第二列王記7:2には愚かな侍従が多くの言葉で、たとえ神の介入があったとしてもそんなことはありえない、と言ったことが記されています。

それに対してエリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」と答えます。この結末は第二列王記7:17-19にあります。侍従は民が神が与えられた食物に殺到するのに踏みつけられて死んでしまいました。この偉大な奇跡を起こすために神がどのような人たちをどのように用いられたのかは驚きに値します。 私たちの弱さの中にこそ完全に神の力は現れることを忘れてはなりません。私たちは弱い者ですが主は強いお方です。

私たちも第二列王記7:9のらい病人のようでなければなりません。彼らは死にかけている惨めな病人でしたが、ある決断をして状況を一変させました。彼らは「どうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろう?」と自ら問うて、立ち上がり、前進し、変革を求めたのです。病状の進んだ4人のらい病人たちが、病に犯された足で立ち上がる姿を想像してみてください。お互いに助け合いながら、弱弱しく震える身体を支え、今の状態よりは何かましなものがあるであろうと未知の世界に足を引きずりながら歩き始める姿が、目に浮かぶようです。

あなたはどうですか? あなたは霊的食物に飢え渇き疲れ果てていますか? あなたは立ち上がって未知の世界に進んで行こうとしていますか? 「私はここにすわってこのまま死んでしまうのだろうか?」と自分に問うてみる必要はないでしょうか? もし現状に満足してしまっているならば、私たちは変化を求めはしません。

エルサレムを包囲していた敵の兵士たちの陣営にらい病人たちがたどりつくと、そこは全員が急いで逃げ去ったあとでした。敵 は恐怖に襲われて、食糧ばかりかすべての持ち物もそのままにして逃げていきました。4人の弱弱しいらい病人たちが手ごわい敵に一体どうしてこのような恐怖心を起こさせることができたのでしょうか? その答えは第二列王記7:5-7にあります。主なる神が、強大な軍隊が攻めてくるような響きを敵に聞かせたのです。ですから4人が到着したときには、敵は一人もいず、ただ食糧と多くの財宝がテントの中に残されていました。

4人は、まず自分たちの空腹を満たしました。すると彼らは別の空腹感を覚えたのです。それは自分たちが見つけたものを他の人たちに分け与えたい、という思いでした。見つけたパンを他の飢えている人々にも分け与える責任を自分たちは持っていることを彼らは悟ったのです。それと同じように、天からのパンをすでに与えられた私たちは、そのパンを他の人たちに分け与えねばならないのです。私たちが、この世の中の傷つき飢え渇いている人々に天のパンを分け与えることができるように、主が大きな恵みを注いでくださるようことを、私の心は切望してやみません。アーメン!(終わり)


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