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Walk With God Ministries


14 11月

燃えつくす火の中に立つ  ボブ・ソージ   11月14日


燃えつくす火の中に立つ

ボブ・ソージ


「神の燃えつくす火はあなたの人生の総てを燃やし、愛だけが残る」
祈りが生ける宇宙の神との会話であり、それがどんどんと深まり発展していく栄光の冒険であることを見出したときに、私の祈りの生活は全く変えられました。弱い者であるけれども主を心から慕っている礼拝者に対して、神は燃えるような情熱を持っておられます。その神の御前で、清い憧れの思いで心を燃やし栄光の中に立つことは、何にもかえがたく、それよりも素晴らしいことはないのです。

祈りがこのようなものであるという理解に、私が偶然行き当たった、というわけではありません。神がそうさせてくださったのです。神が突然私の前に現れてくださったのです。それは私が激しい試練を経験したときに、神がそれを使われて私の霊的DNAを書き換え、私の人生の方向を変え、私がずっと望んでいた(けれども、どうすれば発見できるのかが分からなかった)神との関係の入り口へと私を連れて行ってくださったのです。私は厳しい不幸に見舞われ、必死で神を求めていました。 餓死寸前の人間が食べ物をあさるように、私は生きるために聖書の御言葉を求めました。火のような試練が私を変えたのではありません。試練の中で神を必死で求めたことが、私を変えたのです。

今のシーズンの、神の御前での私の役目を適切に示している聖書箇所が二つあります。一つ目は、申命記10:8です。「そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福されるようにされた。今日までそうなっている。」 私の一番の召しは、神の御前に立ち主にお仕えすることであると、私は今考えています。大きな課題とか、大きな志とか、何か他に急いですることがある、ということではないのです。ただ主の御前に立ち、主を愛するのです。

二つ目の箇所は、黙示録4:5です。「七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」 この「御座の前で燃えている」というところを見たとき、私は心の中で叫びました。「主よ、私の人生もこの言葉で表わされるようになりたいです。私もあなたの前に立ち、あなたの御座の前で燃えたいです!」と。

私は自分が誰であるかを発見したのです。私は聖い者であり(自分が聖いというのではなく、神の御前にいるので私は聖いのです)聖なる方の御座の前に立ち、主の麗しさと御力を仰ぎ見、御座から流れる火(ダニエル7:10参照)が私の心に流れ込み、それが神の心に燃えているのと同じ情熱の火で私を燃やし、私の心は主の愛で点火され、今度は私の愛が火山の噴火のように主に向かって流れ出すのです。(ローマ5:5参照)

私は主の御前でとこしえに燃えるのです。私はいつもそこに立っていることでしょう。主の恵みの故に、私はそこから除かれないでしょう。この世の何物も、また、地獄からの襲撃も私をこの聖なる御座の前から動かすことがありませんように。私はもはや御座の前で燃えるという究極の特権を味わったので、もう他のことでは満足できないのです。

ただ立つ

神はあるシーズンには、私たちにただじっと立っているようにと言われるのです。何か大きなプロジェクトを追っかけるという興奮の方を私たちは求めるかもしれませんが、神はときどき私たちに、総ての活動をやめてただ立ちなさいと言われるのです。主はそれ以外の選択肢を与えてくださらないときがあります。周りの状況が、他の道を選択しようとしてもどうしてもできないようにさせ、私たちは神の御心という鎖に縛られた囚人のようになってしまいます。鎖から抜け出して次のことをしようとしても、どうしてもできず、ただ御座の前で、王なる主への聖なる愛に燃えて立っているのです。

普通よく「ただ立っていないで、何かしなさい!」と私たちは言います。私たちの人生が自分でコントロールできないような状況に陥ったときの一番の誘惑は(何をしたらいいかわからないとき)何かをしてしまう、ということです。人々は「停止している車を神様は操縦できないよ。だから、とにかく何かをはじめなさい。そうしたら神様が行くべき方向を示してくださるよ。」と言うのです。

確かにそういうときもあるかもしれません。しかし、主は私を違う道に導かれました。主は先ほどの言葉を逆にして、「ただ何かをしないで、そこに立っていなさい!」と私に言われたのです。つまりこういうことです。「何をしたらいいかわからない時は、ただ何かをしてはいけません!わたしを待ち望みなさい。わたしの御前に立ち、わたしに仕えなさい。わたしが話すまでは。わたしがあなたに話しかけたそのときに、あなたはそれに応答して動いてもいいのです。しかし、わたしが話すまでは、ただそこに立っていなさい。」

最近私は、「『もう十分だ。』と言わない火。」(箴言30:16) という箇所を読んではっとしました。神の中には決して満足することのない火があるのです。そして私の中にも神によって入れられた火があり、それも決して満足しないのです。私の中の火は、絶えずもっと神を求めて手を伸ばしています。それに応えて神の中の火ももっと私を求めてくださるのです。私たちは燃えるような愛の心を神にささげつつ、終わりのない冒険をして永遠をすごし、神もまたその輝かしい麗しさを、私たちに終わることなく次々に見せてくださるのです。

この危険なことをしてください。それは神の御前に一人で立つことです!主の「燃えつくす火」があなたの人生の総てを燃やしつくし、愛だけが残ります。私たちの神は「仕える者たちを炎とされる。」(ヘブル1:7)方なのです。
あなたがそれを望むなら、主はあなたをも炎としてくださいます。(終わり)


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13 11月

5768年はシンプルで新しい出発の年にしよう(2) チャック・ピヤース 11月13日


5768年はシンプルで新しい出発の年にしよう(2)

チャック・ピヤース

                                             
八と言う数字は常に「新しい始まり」にリンクされています。このヘブライ語は命にリンクされており、熱いのです!私たちが入ろうとしている年には、私たちは熱くあることを選ばねばなりません。それは情熱に満たされ、私たちの未来を心にいだくのです。そのために火のように熱烈に神を求めることを選びなさい。
1.今年は顕れる年です。あなたが見張り続け、現実となることを待ち望んでいたことが実現するでしょう。
2.あなたが今まで持っていた自分の限界を超自然的に超えることが出来て、あなたの新しい時代が始まります。
3.天と地が共に働いて、あなたの環境に新しい神の臨在が造り出されます。
4.今年のかぎとなる言葉は「主権」(支配)です。あなたが今まで配置されて立っていたところを支配しなさい。しっかり治めさない、さもないとあなたの土地に「野獣」がのさばり始めるでしょう。
5.今年は、神の民が敵に対して大きな権威を行使する年です。あなたに敵対する国々(者たち)をあなたの土地から追い出すことが出来ます。あなたが神から受け継いだ土地に無断で入り込んでいる者を総て追い出すか、さもなければその者たちはあなたの領地に居座る権利を得て、次のシーズンまで彼らの侵害がそのままに残るでしょう。私たちの住む土地は私たちの考え(思い)次第です。ですから、今年は私たちの「思い、考え方」を変革して(トランスフォーム)私たちが今生きている戦いのシーズンに、新しい勝利のメンタリティーを持つべき年です。
6.あなたの「動物的衝動」を抑えなさい。あなたが救出される場所を見つけ、いかなる野獣もあなたの行く道に出て来させてはいけません。総ての貧乏根性的な考え方に対して果敢に戦いそれをやっつけねばなりません。「ライオンが私の行く道にいるから私は隠れよう。」というような思いを捨てなければならないのです。しっかりと立って、いかなる敵の侵略にも対決し、打ち勝ちながらあなたの道を進んで行くのです。イザヤ書35章が、今年の私たちにとって、かぎとなる御言葉です。
7.出エジプト記23章も今年のかぎとなります。神は私たちの定まった将来に向かって前進するために私たちと契約を結びます。この契約は家族、地域、国々に適用されます。もし私たちが神との契約を忘れていたり、拒否して来た部分があれば、その部分は私たちの将来には含まれません。 私たちは元もとの神との契約というルーツににもどり、それをもう一度見直すことによって、神との関係をもどさねばなりません。
8.主に自分を固く結びつけよ。あなたのために備えられた未来から、サタンがあなたを引き離すことのないようにせよ。「孤児の霊」から逃れよ!もう一度純粋さをとりもどせ!秘密の場所があなたを呼んでいる。ヨハネ伝とヨハネの手紙が今年のトランジション(推移)のキイとなる。

ユダヤ暦5768年のことは、過ぎ越しの祭りの頃から考え始めていました。ある朝早く、主を求めて私は自分のオフィスに行きました。2001年の9月からどのような道をたどって7年目に来たかを、いろいろ思いめぐらしていました。そして「8」という数に関係した聖書箇所をあちこち読んでいたのですが、そのときに妻のパムから彼女が見た夢のことで電話がかかってきました。

パムの一番好きな聖書箇所はエペソ5:8-16です。
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。 ・・光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。・・そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」


「贖う」というのは「買い戻す」とか「牢獄から解放する」 という意味です。今まで私たちは「買い戻す」シーズンにいました。今年は戦いの報奨を受ける年です!

彼女が見た夢は次のようなものです。
「今朝、私は小鳥の鳴き声でゆっくりと目を覚ましたのですが、あたかも夢と現実の間にある幕の中を歩いているように感じました。ベッドにそのまま横たわっていると、見た夢を思い出しました。

夢の中で私は、旅行者たちの一団の中にいました。彼らは私の知らない人たちでしたが、私にとって重要な人たちだということはわかりました。旅行をしなければならないと私たちは告げられましたが、荷物やチケットもなく、旅の予定表も持っていませんでした。私たちは空港の通路のような所に立って出発のときを待っていました。突然強い風がその通路を吹き抜けてきて(風のトンネルのように)私たちは通路の端にむかって吹き寄せられました。通路の端に近づいたころ一つの門のようなものが開きましたが、それはサイエンス・フィクションに出てくるような門ではなく、星の門でした。その門は暖かい光を放っていましたが、そこを入っていくと私たちは自分の身体から離脱し、違う場所に連れていかれました。不思議なことに、そこはさっきまでいた場所と全く同じに見えたのですが、同じ場所ではありませんでした。私たちは、大部分がガラスでできているビルディングの中にいました。

私たちはみんな、飛ばなければ目的地につけないことがわかっていました。飛び方を知っている人は誰もいませんでしたが、とにかく飛び上がってロビーを少し飛んでみました。ロビーにいた人は私たちを見て驚き、自分たちも飛びたいといって私たちのほうに手を伸ばしました。私たちは目的地まで飛んでいくのには、もっと弾みが必要なことがわかったのでそっと着地して、向きをかえ、助走しながらロビーのコーヒーショップの所にあったトランポリンまでいき、その上でジャンプしました。すぐに私たちはビルディングの外の田舎の景色の中を飛んでいました。そして自分たちに与えられてい るミッションがわかったのです。それは、近くの村で虜になっている一人の人を助け出し、私たちと一緒に連れ戻すということでした。

救助活動自体ははっきりまだ思いだせませんが、私たちがもどろうとした時のことは覚えています。村人の一人が一緒に行きたいと言いましたが、それは無理であると知って、彼は私たちみんなに小さな宝石箱をくれました。私が貰ったのは、真珠がちりばめられた金の小箱でした。中には真珠や金、クリスタルのこわれた宝石のかけらが入っていました。それぞれの箱の上には言葉が記されていましたが、私の箱には「シンプリシティー (単純)」と書いてありました。私たちはギフトのお礼を彼に言ってから、空を飛んでもどりました。そのときに私は小鳥の声で目が覚めたのです。

ユダヤ暦5768年はモーメンタム(勢い、はずみ)の年

5768年は、あなたの人生で新しいシーズンが始まるばかりではなく、キリストの身体なる教会がモーメンタムを得る年となるでしょう。勢いのついた物体を止めるのは困難です。それを止めるためには、その動きと反対の力をある時間加えなければなりません。その物体に勢いがあればあるほど、止めるのは困難です。ですから、すごく勢いのある物体を止めるのには、より大きな力か、もっと長い時間、又はその両方を与えなければなりません。力がある一定期間与えられると、その物体の速度が変えられます。そしてその物体の勢いも変えられます。力が物体の動いているのとは反対方向に加えられると、物体の速度は落ちます。もし力が物体が動いているのと同じ方向に加えられると、物体の速度は速くなります。いづれにせよ、加えられる力によって物体の速度は変化します。

今年は二つの勢力がモーメンタムを競い合う年です。神は私たちのために働いてくださいます! 私たちが阻止してこなかった敵の勢力は、地上で力を増しつつ前進している御国の速度を落とそうとしてきます。私たちは「強い者」の業を縛り、略奪されたものを取り返さねばなりません。神の民が、エジプトを出てから前進し続けたように、今私たちも、この世代のために備えられた約束の地が現実のものとなるように、進みはじめなければなりません。恐れや不信仰、疑いの声が前進させまいとするのを許してはなりません。私たちの宝を略奪した大きな敵の要塞を打ち破る40日間の期間が、3回に渡ってあるでしょう。

5768年はImpulse(衝撃)の年

力を時間で掛けると、物体の速度の変化になります。これは衝撃と呼ばれます。衝撃とは、ある身体、個人、または王国がもう一つのものに対抗して働くことです。衝撃とは、伝達された力です。その結果、一つの動きがお起ります。ひとたび何かが動き始めると、それを止めるのは困難です。今年はキリストの身体は大いなる勢いを持って前進していきます。それに反対する力もあるかもしれません。私たちは何が私たちを駆り立っているのか、自分の動機を知らねばなりません。私たちの人生において聖霊の働きが顕著でなければなりません。5768年(2008年)は、私たちが自分の願望を達成しようと躍起になる年です。また、超自然的な力が人間に可能になる年です。ですから、私たちは聖霊の力のもとにとどまらねばなりません。さもないと、暗やみの勢力の地上の計画に、私たちを賛同させようとする、諸々の霊に影響されてしまいます。

激しく攻める者たちが天の御国を奪い取っています。過去7年間に地上である変化が起こり、それが一つの動きを作り、それは止めることができないのです。新らしい力で前進している神の御国に、暗やみの王国は道を譲らねばなりません。神の超自然的な力が神の民に与えられたので、地上で大きな動き、変化が起こっています。

私たちは、この世を今変えたいと願っておられる王の推進力の影響を受けているのです。今こそ、モーメンタム、勢いをつけるときです! それぞれが地上で与えられた権威の中で働くことを学ぶならば、私たちは神の力を身に帯びて、それを使っていくことができます。この年は神の民にとってトランスフォーメーションの年です。私たちがトランスフォームされると、次に町や地域、国が変わっていくでしょう。刈り入れ人たちは、色づいた畑に喜んで入っていくでしょう。肉的な衝動に従ってはいけません!

時が来ると、神があなたを訪れます。あなたの人生に神のヴィジテイション(訪れ)があるのを期待して待ちなさい。私たちは前進している民です。神は私たちの只中に御国をもっておられます。神の御国は前進しています。私たちは交わりから戦いへと移行しています。私たちの人生の中に神の約束が実現していくのを見るので、私たちの賛美はお祝いへと変わります。この年は超越する年であり、捕らわれていたものを取り戻す年です。しかし、私の妻の「simplify シンプルにする」という言葉を忘れないでください。新しいものが確立されるまでは、行ったり来たりが簡単にできなければなりません。

まとめると、今年は「針の穴を通る」年です! 回りのものをすべて取り払って、せまい所を通りぬけて、新しいところに行ってください! (終わり)


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30 10月

5768年はシンプルで新しい出発の年 チャック・ピヤース 10月30日


5768年はシンプルで新しい出発の年にしよう(1)

チャック・ピヤース

私は長年にわたって年毎にユダヤのカレンダーを取り寄せ、その年の年号の数字の意味を考えます。そして、その年の主のご計画を思いつつ、新しく迎える年をどのように過ごすべきかを祈って来ました。私たちが主に仕え、主の王国のご計画を求めるとき、主は新しい年を迎える毎に、私たち一人一人に新しいチャレンジと新しい喜びを用意していて下さると信じます。ヘブライ数字には数字にそれぞれ意味がありますから、その意味を知ることによって、私と家族それに私と親しい人たちのために主がその年に用意していて下さることの内で、年の初めに何を宣言布告すればよいかを知る助けとなります。

 神の御心を知るためにヘブライ語を理解しなければならないとは思いませんが、ヘブライ語では、数字に言葉としての意味以上に、絵としての意味、又音声をも持つのです。と言うことは、新しい主の年2008年に入ったと単に言葉で言う以上に、ヘブライ数字の年号を見るとフルに描写された絵画的理解、見解が得られます。ヘブライの年5768年は、グレゴリアン・カレンダーで2008年に当たりますが、それは「Samekh Chet!の年」であり、それは「一つのサイクルの完了の年―新しい始まりを自分のものと宣言せよ!」という意味です。

時と言うのは興味あるコンセプトです。神は私たちと違って、時の流れの中で生きてはおられません。私たちの父は、私たちの人生の初めから終わりまでのどの瞬間にでも、あたかもそれがいつも現在の時であるかのように立ち入ることが出来ます。私たちが今までに人から見捨てられたり、傷つき、裏切られ、恐れたとき、あるいは、楽しかったり、満たされたとき、又、他のどんな感情とか状態の中にあった時にも、私たちはその時の中に聖霊の力で入っていくことが出来るのです。神を信じる人は、過去に犯した罪を赦されるだけでなく、神と一緒にその時点までさかのぼり、その過去の時点に現在形としてご臨在される神が助けて下さるのを見ることが出来ると共に、敵が悪用しようとした過去を贖ってくださり、回復して下さるのを見ることができるのです。

時の中に足を踏み入れる

永遠と言う時の全部が一枚の大きな紙で表されていると想像して下さい。そこが、時間と空間に全く制限されずに、神がおられるところです。次ぎにその紙の上に一本の線を描いて下さい。その線が、初めと終わりがある「時」を表しているとします。この線は、神がこの世を創造をされて「時」というものを作られた時点から始まっています。そして、神が「これで終わり。それまで!」と言われる時がこの線の終わりのポイントです。人間はその線上で生きています。神はご自身の計画と目的に従って、その線上のどこにでも、いつでも出たり入ったり出来ます。神は常にどの時点をも一度に全部見ることが出来、何かが起るのを待たねばならないと言うことはありません。神にとっては総てが現在として見えているのです。この説明の仕方が時と言う複雑な考えを最も簡単に説明し、ご理解いただけると思います。

 しかしながら、私たちは「時」の中で神に応答することを学ばなければなりません。私たちは、自分の生きている時代のキリストの大使として主を代表するように召されております。私たちがする決定と行動は、三世代先まで影響を与えます。ですから、主が私たちに何を望んでおられるかを知り、それに従って私たちが応答するとき、主の栄光が地球を満たし、この地上の環境と霊的大気が主によって変えられるのです。神の「時」とのこの自由な関係のゆえに、神は私たちが祈りの言葉を口にする前にすでに答えて下さることが可能であり、実際、度々そうなさるように思えます。

神は、天から地上に御心をもたらすために必要なリンク(つなぎ)として私たちを選ばれました。神は、私たちが神と親しく交わり、御声を注意深く聞いて、預言的レべレーション(啓示)を得て、それを地上に布告宣言することを望んでおられます。これが奇跡を生み出し多くの神の祝福を放ちます。私たちが神の御声を聞いたなら、それをとりなすことが出来ます。そして、預言も出来ます。預言とは神の心の内とその思いを宣告することです。私たちがいただいた預言的レベレーションを宣告する時、その宣言は大気と環境にむかい「地球上の時間」ではなく「天の時間」の中に放たれるのです。

戦いのシーズン

イッサカル族は新しい時へ移るタイミングを知っていました。彼らは時とシーズンをよく心得た部族でした。ですから、私は今の時代に、この部族をこの地上で代表しようとして来ました。そうすることによって、神の子どもたちが、今生きている時がどんな時であり、何をすれば神のご計画をこの地上で進展させることができるのかを知り、そのための準備を整えることができるようになるためです。私たちはヘブライ暦の5762年に新しい戦いのシーズンに入りました。

新しく迎える年についてお話しする前に、過去の数年について振り返ってみる必要があると私は感じました。そうすることによって、私たちがどのようにして今日に至ったかを知っていただきたいからです。ヘブライ数字の意味を知ることが、私たちが新しくすべきことを布告するための神のレベレーションを察知することになるからです。私たちが一つのことを一度布告すれば、後は神がどのようにそれを実現されるか見守ることが出来ます。レベレーションが王国を建て上げるのです!レベレーションがハデスの門に打ち勝ちます!レベレーションが私たちの手に御国のかぎをもたらすのです。

私は、この戦いのシーズンを前もって見通すことができましたから、「これからの教会の戦い」について書いて来ました。それによって、神の人々が前もって戦いへの必要な心構えが整えられるためでした。ですから、ほとんどの人にとって、今のシーズンは、まさに予告されたことが現実になっていると思います。それでは、下記に今まで私たちが通って来たシーズンのヘブライ的見方を要約してみます。 

5762年/2001-2002年 七年間の戦いの始まり。この年はニューヨークのワールド・トレードセンターがテロリストによって破壊された9月11日の悲劇の事件で始まりました。地球上での神の約束の計画の戦いが始まったのです。それは次の世代にマントルを手渡すための戦いでした。

5763年/2002―2003 安息日の年―信仰の増す時、雄牛に乗る年。経済構造が変わり始め、次の五年間でそれが全
22 10月

大いなるトランジッションは始まっている  リック・ジョイナー 10月22日


大いなるトランジション(移行、推移、変化)は始まっている

リック・ジョイナー

「トランジションのときは最もリスクが大きい。故に信仰が最も必要とされる。」
大きなリバイバルが起こったところではどこでも、それが過ぎ去ると、前の状態より悪くなったように思えるのはどうしてでしょうか? この問いに対する答えは、教会がもっといのちにあふれるため、また、教会がリバイバルなど必要がないほどの豊かないのちを保つための、多くの重要な答えを持っています。リバイバルというのは、再生という意味ですから、何か生き返らせるべきものがあるときにだけ必要です。教会が、本来あるべき姿で活き活きと繁栄しているとしたら、リバイバルは必要ではなく、どんどんといのちと力を増し加えていくことでしょう。

箴言4:18に「義人の道はあけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」とありますが、これが本来あるべきノーマルなクリスチャニティー(キリスト教)の姿なのです。どんどんと光が増し加わる中を歩いていき、ついには真昼のように明るいところに到着するのです。残念ながら、現在、真昼のように明るい光の中を歩いているクリスチャンがいないのは明らかであり、また、自分はそうだという信用の置ける人もいないので、私たちがまだこれから、かなりの距離を歩いていかねばならないのははっきりしています。しかしながら、ある人々やムーブメントは、明るさを増していく正しい道を確かに歩いているようです。

ですから、もし自分の歩いている道がだんだん明るくなっていかないならば、どこかで道を曲がり損ねて間違って道を歩いてきてしまったのです。そうならば私たちは、間違ってしまったところまでもどって、もう一度正しい道を歩かねばなりません。これは「悔い改め」ということです。

正しい道からそれることは確かにありますが、そればかりか、間違った道の途中で止まってしまって動けなくなると大変です。多くの人がこういう状態におちいります。彼らは罪を犯すとか律法的になるとかではないかもしれませんが、彼らの道の光は少しも明るくはなっていきません。彼らは立ち往生してしまったのです。その理由の多くは、彼らはトランジションするべき場所にきたのにそれができなかったり、あるいは、するのを拒んだりしたからなのです。

霊的なトランジションの中をどのように進めばいいかを知る能力は、リーダーに要求されるものの中で最も難しいことの一つであり、また、それを持つ人は甚だ少ないのです。トランジションの中を通ることは最もリスクが大きく、それゆえにもっとも信仰が要求されます。私が経験してきたすべての重要なトランジションでは、次の霊的レベルに移行するためには、私の働きの全部の存在がリスクにさらされたようでした。この移行をすれば、ミニストリーはもっと実を結ぶようになるという約束があっても、ほとんどの場合、その前には厳しい剪定の過程が要求されるのです。ミニストリーに人がどんどん集まってきて、すべてが上手くいっているときに導くのは楽ですが、人々が去っている剪定のときに導くのは大変です。そのトランジションの目的や必要性は、往々にして、リーダーたちは理解していても、他の人たちにははっきりわからないのです。

使徒パウロが一世紀の教会に次のように言っています。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒行伝14:22)この法則を私たちは「私たちが神の国にはいるには、多くのトランジションを経なければならない。」と解釈することができます。トランジションは艱難、苦しみです。ですから、全世界が神の御国に推移するときには、一番大きな大艱難が起こるのです。みんな御国に入りたいのですが、その扉を開いて入っていく勇気のある人はあまり多くはないのです。

しかしながら、教会やムーブメント、ミッション、そして会社や国家でも、発展の途中の段階で止まってしまうと、成長が止み、前進しなくなり、いのちがなくなっていきます。いのちの川はその名の通り川であって、湖や池ではないのです。川はいつも流れ、動き、どこかに向かって動いています。「同じ川に2度入ることはできない。」というのは、そういうことです。川はいつも変わっているのです。好むと好まざるにかかわらず、それが健康ないのちがある基本的な証拠です。いのちの道は義の道とも言われますが、それは道であり、道は必ずどこかへと通じているのです。

聖書の中には、神の偉大な働きを推し進めて行こうとするときに、人々が私たちと同じ問題にぶつかったことが書かれています。一つの顕著な例はエズラ記4:24-5:2にあります。
「 こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。 さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。」

ハガイとゼカリヤが預言したように、エズラ記には残りの者たちが神殿を再建するために、エルサレムにもどったことが記されています。しかし、基礎工事が終わった時点で、彼らは自分の家を建てるのに気を取られて、神の家のことをなおざりにしまいました。これは、まさに教会が今日ある姿を預言的に表しています。過激的で聖書的なキリスト教、新約の教会を回復させたい、と志す者が大勢立ち上がりました。そして、そのための基礎は据えられました。しかし、その後、働き人たちは気を散らされてしまい、おのおの自分の「家」、ミニストリーを建て上げるために行ってしまったのです。

今ある多くのミニストリーは、御国建設のために真の目的とヴィジョンを持っているものはほとんどなく、みんな個人の目的、ヴィジョンを中心に成り立っています。エズラ記によると、人々は預言者が現れて預言し始めるまで、自分のことだけに気を取られていました。今日主が、預言のミニストリーを立て上げておられる主な理由がここにあります。即ち、主の家の修復を完成させ、教会を神に召された通りの栄光ある姿にするために、人々が再び働きはじめるようにするためなのです。

過去20年の間に、キリストの身体なる教会のより多くの人が、預言のミニストリーを受け入れるようになってきました。
11 10月

神の御性質にあずかる特権(2) ポール・キース・デイヴィス 10月11日


神の御性質にあずかる特権(2)

ポール・キース・デイヴィス


神に使われるための11の必須条件(先回からの続き)

1.弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさらない

マタイ10:24-25「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。」
私たちは「さらに大きなわざ」を行う世代が現れることを約束されています。しかしながら、これはまず、イエスがされたのと同じわざをもっと多くの人がすることを表しています。誰が自分の師よりもまさることを望めるでしょうか?今は何千人という人がイエスと同じ油そそぎを受けて、イエスがされたのと同じ業をしながら世界を回っています。そのように、マタイ10:8「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」を本当に受け取るならば、マタイ10:18-25に書かれている迫害に耐える備えもしなければなりません。

私たちは師よりもまさるものではないのです!もし人々がイエス・キリストを迫害したのなら、私たちがイエスと同じ業をしたときには、人々は私たちをも迫害するのです。奇跡を求めるならば、それと同時に人から誤解されたり、嫌がらせを受けたり、個人的な攻撃を受けたりすることを覚悟しなければなりません。そして、迫害されたときは、キリストがされたように対応せねばなりません。それが、超自然的人生を歩むための条件としてアレン師に与えられた第一のものでした。

2.弟子は師にまさるものではない。しかし、完全な者は師と同じになる

アレン師はこう言っています。「第一の条件の言葉を聞いて、私の心はへりくだらされ砕かれた。しかし、神が次に言われたのは、私は師よりまさることは決してないが、師のようにはなれるということであり、それを聞いたとき私の心は急に栄光の炎の中に高く上げられた。」
ルカ6:40「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」

御言葉は私たちに、この世の霊に打ち勝って生きるようにと語っています。私たちの決断の仕方、考え方、生活様式は、この世からの影響を受けることなく、聖霊と完全に調和して生きることが可能なのです。このことは、主が私たちに命ずることが、必ず実行可能であることをよく表しています。そして、それは聖霊と完全に一つになることによってのみ可能となります。

アレン師はこのように書いています。「この言葉は先の言葉よりも、もっと私を驚かせた。絶対これは無理だ!人間が完全を望むなんてことができるだろうか。でも確かに神は私ができないと知っておられることを、やれと言われる方ではない。そして疑いもなくこれは神の声なのだ。私は天の父にパンをお願いしたのだから、石をくださることはないはずだ。…この言葉が聖書の中にあることを知ったとき、私の心は嬉しさでふるえた。それはマタイ5:48で、『ですから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』とある。」

3.天の父が完全なようにあなたも完全でありなさい

この条件が示していることは、私の著書「Thrones of Our Soul 魂の王座」の中で書いたことと深くかかわっています。それは霊、魂、体の完全なる全き聖化と関係しているのです。私たちの霊は新生したときにあがなわれました。次に知性、意志、感情が神の御言葉にしたがって聖化されていきます。そして私たちは、アダムが罪を犯す以前の状態へと形造られていくのです。神はアダムの霊、魂、身体の中に君臨され、完全にアダムを支配しておられました。それは、最後のアダムである主が、この世に生きておられるときもそうでありました。そしてその主が、私たちも同じように神とそのような関係になる道を備えてくださったのです。

4.キリストが私たちの模範

第一ペテロ2:21-23「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」

アレン師へのこの条件は、私たちの毎日の生活に関することで、私たちの日常の心の思いを問題にしています。しばしば、私たちは難しい問題にぶつかったり、裏切られたり、身に覚えのないことで告発されたりします。クリスチャンとして私たちは表向きは人を赦すと言いますが、心の中では恨みを抱き、密かに主が彼らを懲らしめるようにと願うのです。しかし、純粋なキリスト教は、言葉だけでなく心から相手を赦し、何のこだわりもなく真心からその人を祝福できるものです。そして、これが私たちが御国の真の子供である証拠です。

5.自分を捨てる

ルカ9:23「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

イエスが歩まれた道は自己否定の道でした。アレン師に示された自己否定の課題は、個人的な生活様式や自分の好きなプロジェクト(それはつい時間を取りすぎてしまうもので、そのような時間はもっと実を結ぶことに使うべき時間です。)に対するもの(自己否定)でした。アレン師にとって、それは祈りと断食の犠牲的な生活の訓練を意味していました。他の人にとっては、別の訓練があるかもしれませんが、そのいわんとするところは同じです。私たちは時間を真の実を結ぶことに使わねばならず、時間とエネルギーを私たちから奪う霊的なブラックホールを避けねばなりません。
しばしば、クリスチャンとって自己否定とは、神と時間を過ごすために楽しい仲間や個人的な興味から退くことを意味します。私たちが神に近づけば、神は私たちに近づいてくださると約束していてくださいます。

6.十字架

いくら自己否定をしても、もし十字架を背負いイエスについていかないならば、何の役にもたちません。ルカ9:23に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十 字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。

イエス・キリストの十字架は、世の初めから計画され隠されていた奥義です。新生したすべてのクリスチャンは、自分の信仰がはっきり革新されるためには、十字架のヴィジョンを見ることが必要です。私は以前、主がエルサレムの通りを十字架の重みに耐えながらゆっくり歩まれるヴィジョンを見ました。そして、主が力尽きて倒れられたときに、それはクレネ人シモンにとっては運命として定められていた場所でしたが、シモンがそこに立つのを私は見ていました。

シモンは、世の初めから、まさにその場所に、その日に立つように定められていたのです。彼の運命は史上最大の人間のドラマの中で、カルバリまでの残りの道のりを主の十字架を背負うということでした。私はこのヴィジョンを見ていましたが、私がその十字架をあの時にかつぐという光栄にあづかりたかったと、私の心が叫んでいるように感じました。けれども、紀元33年にその栄誉をいただいたのは、この男一人でした。私はシモンが主の流された血潮にまみれて十字架をかつぐのを見ていたのですが、その時主が「わたしの十字架はそれをかつごうと願うもののために、いまも備えられている。」と言われるのを私は聞いたのでした。

自分のために定められている運命を達成するために、日々十字架を負ってキリストについていくのは、私たちの特権です。

7.私は衰えねばならない

ヨハネ3:29-30 「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

アレン師は次のように記しています。「この7番目の条件において、神は私のプライドを扱い始められた。私はそれまで、自分はプライドが高いと感じたことがなかった。プライドに関して、誰かの説教を聞いて示されたり、誰かに直接指摘されたり、あるいは聖霊からの真摯な取り扱いを受けたりしたことはあった。しかし、自分にはプライドがあるかもしれない、と少しでも感じたときは、私は、多くの人がするように、それは『自己尊重』であり『威厳』であり、『育ちのよさ』、『気高さ』なのだ、と言い逃れをして問題をそのままに放置してきた。けれども、神はそれを『罪だ』とはっきり言われた。箴言21:4に『高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。』とあるとおりである。

神は、私がいかに神なしでは何もできない存在であるかを、はっきり示してくださった。私の努力など何の役にも立たないことも。私は今まで認識していなかったのだが、私の最善の努力さえ神なしには取るに足らないことであると知らされた。神は、私の人生のすべてを神のコントロールに委ねることを要求された。そうするには、私のタレント、知識、能力が、それが何であれ、すべて神の前で覆い隠されねば(衰えなければ)ならなかった。」

8.あの方は盛んにならねばならない(ヨハネ3:30)

アレン師の言葉です。「大草原の中を車で走っていて、遠くに山があるのに気がついた、という経験をあなたはお持ちだろうか。初め、その山はとても小さく見える。でもなおもドライブをして山に近づいていくと、山が急速に大きくなるのに驚くであろう。勿論山が大きくなるのではない。山は最初見たときと同じ大きさなのだけれど、あなたが山に近づいたので、大きく見えるのだ。これこそ、神が「盛んになる」ということと全く同じ現象なのである。神はすべての人にとって同じ神だ。しかしある人々にとっては、神は小さく縮んだような無能な神で、何か重要なことをしてくれることなど期待できないように見える。その理由は人々が神から遠く離れて暮らしているからなのだ!私たちが『神に近づきなさい。(ヤコブ4:8)』と教えられている理由はここにある。

多くの人は、自分と神との間に沢山のものが入り込むのを許してしまったゆえに、神とひどく離れてしまっている。ある者たちは、口先は神に近づいているけれど、心は遠く離れている。(マタイ15:8-9) 神は『彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。』と言われる。神に近づく唯一の方法は、あなたと神の間に入ってしまっているものが何であるかを、真剣に、本気で探し出して、それらを除くことだけだ!」

9.無駄な言葉、愚かな話をやめる

マタイ12:36 「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」
「本当の霊性を持っていないことを一番暴露するのは、愚かな話や冗談や、無駄な言葉だ。絶え間なく愚かな話をしたり、馬鹿げた冗談をいう事ほど、その人が人の魂の苦しみに無関心な浅薄なクリスチャンであることを示すものはない。大抵の人は、そんなことは些細なことだと思うかもしれないが、これほど破壊的で人の間で伝染していく霊的病気は他にあまりない。」とアレン師は言っています。

10.からだをささげる


ローマ12:1 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

私たちの中で、神にすべてをお委ねしていない部分が大きければ大きいほど、敵は私たちの魂に取り入ってくることができます。使徒パウロは私たちが完全に神に委ね、服従する生き方のすばらしさを教え、勧めています。
ウイリアム・ブランハムは、あるとき、彼の霊的賜物の中で一番すばらしいものは何かと、人から聞かれました。多くの人は、彼はきっと霊的な識別力や知識の言葉、あるいは、癒しの賜物を彼が挙げるだろうと思っていました。けれどもそうではなく、彼は『私の一番の賜物は、私が横に退いて主に座を譲ることができる能力です。』と言ったのです。これは、終末の時代の御国の子供として神を求める人々の特徴となり目印となるでしょう。

11.神の御性質を持つ者となる

第二ペテロ1:4 「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

私たちが主の御性質にあずかる者となる、というのは神の約束であり、他の総ての聖書の約 束とおなじく、私たちはそれを信じなければなりません。恵みによって救われた罪人である私たちが、天国に行けるだけではなく、この世でも欲のもたらす滅びを免れることができるというのは、全く驚くべきことのように思えます。けれども、それが私たちへの約束であり、義しい人々はその約束の成就を見るようになるのです。偉大な十字架の力により、弱く罪ある人間も、神と結びあわされることによって、肉体があるままでこの地上で神の御性質といのちにあずかることができるのです。
神の御性質を知ることは、神の力を知ることであり、そのとき私たちは神の祝福を運んでいく管になることができるのです。(終わり)


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