Walk With God Ministries
Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
21 12月
感謝の心で不平不満と戦え
フランシス・フランジペン
クリスチャンになったときからずっと私は、次のような質問を人々がするのを聞いてきました。「イエスが『あなたがた12人は、わたしが選んだではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』(ヨハネ6:70)と、イスカリオテのユダのことについて言われた言葉は、一体どういう意味なのだろう。」と。
イエスはどういう意味で言われたのでしょうか? ユダは遺伝子学的に言えば悪魔であって人ではなかったのでしょうか?(イエスは、ユダの中に悪魔がいる、と言ったのではなく、ユダは悪魔だ、と言われました。)悪魔が人間として人々の間で住むことが、実際に可能なのでしょうか? 私は勿論古代ギリシャ語の専門家ではないのですが、この箇所は原語の文字通りの訳で考えるほうが真実が見えてくると思います。ここで「悪魔」と訳されている言葉は、「diabolos」で、新約聖書の他の箇所では、「中傷する者」とか、「悪意のある噂話」と訳されています。(第一テモテ3:11、第二テモテ3:3参照)
イエスが「ユダは悪魔である」と言われたのは、「あなた方のうち一人は『偽りをもって人を非難する者』、『中傷者』、『悪意ある噂話をする者』である」という意味で言われたのです。ユダは自分の否定的な物の見方を自分の内だけに収めていることができなかったのです。
ユダは、イエスをパリサイ人たちに引渡すほんの少し前に、高価な香油が御自分の頭に注がれるのをイエスがそのままにされたのを見て、腹を立てたことを思い出してください。ユダは「なぜ、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と怒って不平を言いました。(ヨハネ12:5)彼の言葉によって、他の使徒たちも同じように否定的な思いを抱いてしまいました。(マタイ26:8)ユダが言わんとしたのは、「誰がこの思慮の無い浪費を許したのか?」と責めているのです。勿論、それを許したのはイエスでした。女はイエスの埋葬の準備のために香油を注いだのです。しかし、ユダの目にはそれは浪費としか映らず、イエスはその高価な香油を受けるべきではなかったのです。この事件は、イスカリオテのユダを立腹させ、イエスを裏切るために大祭司の所に出かけることを正当化し決意させるものとなったのです。(マタイ26:14-15)
神は不平を言うことを問題視される
裏切りはある日突然起こるものではありません。人に対して感じた怒りや失望が、そのまま処理されずに心に溜まっていく時に、それが裏切りをひき起すのです。私たちが抱いた怒りは、祈りを通して全面的に神にお渡ししない限り、私たちの内で必ず腐敗して毒となり、その毒がゴシップを通して他の人たちへ伝達されていきます。その過程において私たちは人を中傷するのですが、そうするのが正当な行為と思えるのです。実際には「悪意のある噂話をする者」となってしまっているのですが、本人は、自分が識別した相手の性格的欠陥を「真理」として人に伝えているに過ぎないと思ってしまっているのです。
ユダによるイエスの裏切りを理解するためには、その源を掘り下げる必要があります。イスカリオテのユダは「不平を言う者」でした。私たちは、感謝すべきことが沢山与えられているのに、それが見えなくなって、ぶつぶつと文句ばかり言う者になってしまい、地獄から吹き込まれる思いによってどんどんと暗闇の世界に入っていってしまいます。
他のクリスチャンに対して怒りや苦々しい思いを抱いていると、ついその人のことを批判的なうわさ話として他のクリスチャンにしてしまい勝ちです。その人に対するあなたの批判をそこら中に撒き散らすことがないように、十分注意してください。もしそんなことをすれば、実際のところ、あなたはキリストの似姿になっていくどころか、むしろユダに似る者となっていってしまうのです。
いたるところにいる不平屋
勿論、不平をいう者は、イエスを裏切ったユダに限りません。イエスの弟子になりたいと思っていた者たちや、ユダヤ人の指導者達も不平に侵されていました。次のことを考えてみてください。当時あちこちでイエスによる奇跡が起こっていました。キリストは5000人に食事を与えられたばかりでした。まさにその時にイエスの弟子たちの多くは、人の欠点のあら捜しを始めたのです。イエスが「お互いにつぶやくのはやめなさい。」(ヨハネ6:43)と警告されたにもかかわらず、人々はやめませんでした。彼らは現にキリストの弟子だったことを考えてください。しかも彼らがつぶやいた相手は罪人ではなく、唯一の罪のないお方にむかってつぶやいたということを。
「イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『このことであなたがたはつまづくのか。』」(ヨハネ6:61)
「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスと共に歩かなかった。」(ヨハネ6:66)
つぶやくとき、人々は奇跡を見ても喜ぶことが出来なくなってしまいます。つぶやくとき、弟子たちはイエスの教えに腹を立てるようになり、イエスと共に歩くのをやめてしまいます。
当時、そうであったように 今でも同じことが起こるのです。つぶやきは、究極的にはあなたがイエスと共に歩むことをやめさせます。それは物事を台無しにするものです。驚いたことには、イエスに欠点を見出したのはイスカリオテのユダやパリサイ人だけではなく、イエスの弟子たちさえ時々ぶつぶつと不平を言いました。彼らの真ん中で天国そのものが現われたときでさえ、彼らは何が間違っているかということばかりに心をとめていたのです。つぶやきの態度をもっているとそうなってしまいます。
この総てに批判的で感謝しないと言う毒は今日の教会の中に満ちています。パウロはそれに対する警告を与えています。「終わりの日には、、、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなり、情けを知らず、和解をせず、中傷し、、、、」(第二テモテ3:1-9参照) これでお分かりですね、「人々は中傷する者となる」つまり悪魔になるのです。彼らはお互いに言葉によって滅ぼし合うようになってしまうのです。
感謝する心
個人的にですが、私はつぶやきに対して宣戦を布告いたしました。感謝のない心は神の御心の敵です。あなたもこの戦いに参加してくれませんか? ぶつぶついう霊を十字架にかけてくださいませんか?
14 12月
「私に心を合わせて私の臨在を待ちなさい。」
「今のとき私の臨在なくしてあなたは前進できない。だから私の臨在を待ちなさい。」
チャック・ピアス
先週の火曜日の祈祷会で、主は御自分の臨在を今までとは違った方法で私たちのグループの中に現わされはじめました。今は新しいことが始まる時ですから、「主の臨在の契約の箱」がどこに向かって動いていくのか、自分はもう知っているなどと勝手に思い込んではいけません。私たちは、主が、次の戦いに向かって私たちをどちらに進軍させるかをよく見定めるために、期待しつつ、見守って主を待たなければなりません。
火曜日の朝、神は私たちにじっと静かに立って、自分の胸の鼓動が聞こえるほどに心を静めるようにと言われました。あなたも胸の鼓動をじっと注意深く聞いてみてください。そして、あなたの心の願いを主の願いに改めて一致させてくださるように求めてください。天国の静けさを聞くことができるようにしてくださいと、主に願ってください。混沌の世界にいる中で、主のみ翼の影の静けさを聞かせてくださいと頼みなさい。今まであなたが聞いたことがない音を聞かせてくださいと主に頼みなさい。主に「私は聞いております」と告げて、主があなたのまわりに天国を送ってくださるようにしなさい。それによってあなたのまわりの雰囲気、空気が変わるように主に願いなさい。
一日の思いわずらいから抜け出して、天国の心(意思)が聞こえるようにしなさい。しかしそれを自分の力でなそうとしてはいけません。神の心臓の脈動があなたの心臓の中の血液を押し出すようになるまで待つのです。他の人たちが先に進んでいくのを見て、心を騒がせている人がいます。また、将来の事を思いわずらい夜中に目を覚ます人がいます。彼らは、自分の実力を十分に発揮して将来成功するためにはいろいろなことをせねばならないと考え、どうやったらそれを全部できるのだろうかと、悩むのです。
主からの預言の御言葉
その時、主が言われました。「わたしの心は心配などしていません。あなたの心がわたしの心と一つになるのを待ちなさい。わたしの胸の鼓動とリズムを合わせていなさい。さあ、わたしの前に座り、私の胸のうちを聞きなさい。そうすれば、あなたを混乱させ乱しているものを、すべて整え秩序正しくする力があなたに与えられるでしょう。わたしの胸の鼓動が契約の箱を正しい方向に向けます。今の時は、わたしの臨在なしにあなたは進んで行ってはならないのです。ですから、わたしの臨在があなたの所に来るまで待たねばなりません。わたしのためのスペースが必要です。早く歩きすぎると、あなたはつまづくでしょう。契約の箱があなたの前を進むようにしなさい。
わたしの臨在の中で、あなたの足取りは確かなものになります。わたしの臨在の中で、あなたは自分の進む道が見えてきます。わたしの臨在の中で、あなたは敵を見ることができます。ですから、上を見上げるのです。空は晴れてさえぎるものがありません。あなたの行く手には霧がかかり邪魔なものが転がっているでしょうが、空は開けて透視できます。わたしの臨在の中で、あなたは周りの状況をすべて感知することができるのです。いつ右に曲がればいいのか、いつ左に曲がればいいのかが、あなたにはわかります。しかし、あなたが自分で立てた計画に従うと、敵が侵入してタイミングを狂わせ、律法的な組織を作り上げることを許してしまいます。
あなたにとって最良のものは、わたしの心の中にあります。わたしの心臓があなたの中で脈打つようにしなさい。そうすればあなたは最良のものを持つことができます。わたしはあなたの前に出たり、後ろに廻ったりすることが自由にできる神です。わたしをあなたと同じ線上に置きなさい。そうすれば、わたしが前に立って道を開き、又、あなたの間違いを見張ってそれがあなたを追っかけてくるのを後ろで防ぎます。
あなたが次に渡ろうとしている川の中に浅瀬を発見して、そこを性急に渡ろうとしてはいけません。それはあなたの目を欺くものであり、あなたが思ったよりも深いのです。わたしの臨在があなたの先を行くようにしなさい。そうすれば、あなたの前に川底が現れ、それがあなたの行くべき道となるでしょう。川はあなたを押し流そうとしますが、あなたが足を一歩踏み入れる前に、乾いた地が現れるでしょう。わたしの臨在があなたの行く道を前もって整えるようにしなさい。
あなたの行く手には障害物がありますが、わたしはあなたに右、左と方向を変えさせ、衝突を避けさせます。あなたは障害物を無事に過ぎ越し、あなたの人生の目的を満ちさせる道を進むことができるようにします。
あなたの必要なものへの心配が、あなたのタイミングを狂わせ、わたしが用意しているより先にあなたを駆り立ててしまいます。わたしの臨在にとどまりなさい。そうすれば、あなたは自分の前方に必要なものがすべて備えられていることを見ることができるでしょう。
あなた方の多くの者は勝利の解放を求めている。しかし、その道はまだ作られていず、わたしの契約の箱はまだあなたの道には入っていない。わたしの臨在が先ずあなたの道をトランスフォームし、切り開いて必要な手術をし始めるのを(霊の目で)見るまで待ちなさい。それが整ったとき、解放はすばやくもたらされるでしょう。わたしが用意する道は、あなたが自由に進むことのできる道です。あなた自身にたたかわせて進ませるような道ではないのです。
今わたしの心臓はあなたの心臓と一緒に鼓動する。それは、あなたは新しい出発点をもう越したからです。わたしの契約の箱をあなたの前に行かせなさい! 今は新しい時に入ったのであるから、あなたはわたしと共に歩き始め、わたしと共に止まらねばならない。わたしが来いと言わないのに、来てはならない。わたしがあなたを呼ばないのに勝手にステージにあがってはなりません。何故ならばそこはあなたにとって風が強すぎるからです。そこは風が強すぎて、あなたは吹き飛ばされてしまい、次のステップが見えなくなるでしょう。
わたしより先にあわてて祝ってはならない。よくわたしを見ていて待ちなさい。そうすればあなた自身が祝っていることを見るときが来ます。あなたは勝利を先に見、わたしがあなたのために用意した次の戦いを十分戦うために解放されるでしょう。(終わり)トップへもどる
06 12月
恵みを受けた者の軍隊
ダニー・ステイン
「ダニーさん、『堕落した者の回復』に関する主からのメッセージを心から感謝いたします。私はそれを読んで本当に祝福され、あなたが私のために扉を開いてくれたことを大変うれしく存じます。」――という言葉がいろんな人から私に届きました。
しかし、それはまだ自分の罪を悔い改めないまま、罪に捕えらえられていた人々からだったのです。私はすぐに彼らに「あのメッセージはあなたのためではありませんでした。」と返事をしました。なぜならば、神が罪人を回復するためには、その人が悔い改めをすることが必要だからです。
愛は赦す
何年も前に、私はある貴重な学びをしました。私は「愛は多くの罪をおおう」(第一ペテロ4:8)という聖句を信じ、また実践していました。私の周りには罪を犯し続ける人たちがいましたので、私は「彼らの罪をおおう」必要を感じました。なぜならば「愛はおおう」と私は信じていたからです!
しかし、私は、愛がおおうのは「告白した罪」だけだということを学んだのです。 神は人を罪から回復させるために、まだ告白されていない罪は、明らかにされたいのです。
私が人々の罪を明らかにせず「おおって」いたことは、彼らに罪を犯し続けさせるという結果を招いていたのです。イエスは姦淫の場で捕えられた女に「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と言われました。人々に罪を犯すのをやめなさいというのは、律法的なことではないのです!
もし、人々に真実を語ることを怠るならば、私たちは彼らに道を誤らせてしまいます。十字架のイエスの贖いの力は、人々が自分の罪を認めて赦しを受け取るときにのみ発揮されます。もし、不従順のうちを故意に歩み続けるならば、私たちは主に赦されて歩んでいるという確信を持つことはできません。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためにいけにえは、もはや残されていません。」(ヘブル10:26)
回復は悔い改めを土台としています。そして悔い改めには実があるのです。パリサイ人は自分たちの教義や考えに合うように、真理をたくみに曲げる方法を知っていました。自分たちはいつも正しいと自認していたパリサイ人に対して、バプテスマのヨハネは次のような言葉を投げかけました。彼の言葉は剣のように鋭いものでした。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8) 恵みがあるから聖い生活をしなくてよい、ということはありません。恵みとは、私たちが自分の正しくない行いを告白したときに、キリストが愛の赦しでそれをおおってくださることなのです。
しかし、それと同時に、悔い改めはクリスチャンが互いを責めることによって起こるのでもありません。正義と報復を振りかざすことによって起こるのでもありません。それは裁きを通して起こるものではないのです! 人々を悔い改めに導くのは裁きではなく神の慈愛です。
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:4)
私たちが聖霊を消したり悲しませたりできるのと同じように、神が神の子どもたちを取り扱われるときに、私たちはそれを見てそのなさり方を馬鹿にしてしまうことがあるのです。神は慈愛と忍耐と寛容をもって人々に豊かな恵みを注いでくださるのですが、もし私たちがその場に介入して過酷な主人のように振る舞い、神の恵みの域を超えた裁きを下すならば、私たちは天の父とは全く異なる心を持っていることを暴露することになります。
私は「罪を犯し続けている人」でも回復されると信じているわけでは決してありません。
「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対そんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:1-2)
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」(第一ヨハネ3:9)
しかし、人にたとえ罪があっても、私たちは神の子として、その人を赦し、彼らが召された務めへと解放せねばなりません。恵みが人の人生を変えます。そして、人々は変わることができるのです。すべてのことは新しくなります! もし私たちがこのことを信じないならば、福音の力を本当には信じてはいず、私たちを贖ってくださった方を本当には理解しないまま、ただ頭に叩き込んだ教義によって生きているだけと言えましょう。
私もこれまで周りからさまざまな攻撃を受けてきた者の一人です。それは私自身に対するものや、あるいは、妻や娘、息子という家族に対するものでした。けれどもつまるところ、イエスの贖いのいけにえは、私を傷つけた人々を主が赦されるに十分であるばかりか、私が彼らを赦すためにも十分であると、主は信じておられるのです。
恵みを受けた者の軍隊
聖書に書かれているのは、神が不完全な人々を恵みによって変えられ、用いられていくという話です! 人々が悔い改めたならば、私たちは彼らを神が与えた当初の召しへと呼び戻さねばなりません。そして、彼らが実を結ぶことによって、恵みによって彼らがどのように変えられたかが証されます。
「人を罰し恥を与えること」と、「懲らしめ矯正すること」とは全く別なことです。一方は死をもたらす律法の文字によって執行されますが、もう一方はいのちを与える聖霊によって執行されます。イエスは、姦淫の場で捕えられた女に対して「律法が要求すること」を「恵み」によって圧倒できることを示し、この真理をよくあらわされました。
「イエスは身を起して、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』 彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(ヨハネ8:10-11)
畑は色づいています。2日ほど前に主が私に、もっと働き人が必要だと言われました。主との会話を通して私は、主がもうじき大変重要な預言的な召集を主の軍隊からの脱走兵にむかってかけようとしておられるのを知りました。退場させられて洞
30 11月
霊を見分ける賜物の必要性
ジヨン・マーク・プール
今日、「キリストのからだ」において、特に預言の働きに関して、最も必要とされている賜物は何かといえば、それは霊を見分ける力です。
ヘブル5:12-14「 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」
見分けとは何でしょうか
サンディー・ワーナー師は見分けの力を次のように説明しています。
「見分けるとは、ギリシャ語で、法的判断、識別、論争することです。それは、完全に分ける、撤退する、反対する、分け隔てる、決断する、躊躇する、抗争する、違う意見を言う、疑う、判断する、偏り見る、ためらう、動揺する等を意味する単語から派生しています。
ですから、もしあなたが何かを識別しようとするとき、ためらったり動揺するとすれば、それは当然です。この言葉が表しているのは、見分けの賜物を使う人が通るプロセスをあらわしているのです! 実際は悪いものであるにもかかわらず外見が良いと、そのことは識別する人の霊を困惑させます。彼は肉の目ではそれは良いものであるという外的サインを受け取るのですが、彼の霊はその外見に対して疑問を持ち、反発し、躊躇し、相争い、相違し、迷っているのです。物事を霊的に見分けるということは、その人が肉的に見るものと、霊的に識別するもととの間に内面的な戦いを引き起こすものなのです。
神の御国であなたが、欲しい時にはいつでも飲みやすいミルクが哺乳瓶一杯に満たされて出てくるのを、ただ待てばよいというミルク飲みの幼児であるならば、信仰生活の中で霊の見分けの賜物をいただけるなどとは決して思わないほうがいいでしょう。私たちは子供のときは、子供のように振る舞い、子供のように話しました。でももう御国の子供時代を終えて霊的大人にならねばならないのです。つまり、子供だったときは子供のように考えましたが、大人になったら、子供っぽいことはもうしてはならないのです。
一コリント13:12-13「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」
愛をもって父は必要な訓練をされる
父なる神は愛する故に私たちを訓練してくださいます。その訓練によって私たちは御言葉の硬い食べ物を食べることができるようになり、霊を見分ける力を持つようにされ、預言者にどのように生き、どのように動けばいいのかをいつも聞かなくても自分でわかるようになります。
私たちが生き生きとするのは、キリストが満ち満ちておられるからであって、預言者から与えられた言葉で満たされているからではないのです! 確かに預言は必要であり、預言の賜物も預言者という役目もあります。しかし、私たちは、自分で主の導きを聞いて、それに従っていくことができる大人のクリスチャンにならねばならないのです。預言者はあなたのそばに常にいて毎日あなたに語ってはくれません。でも安心してください。イエス・キリストという大預言者が、いつもそばにいて適切な御言葉をくださいますから!
ヘブル12:6-8には、主が愛するものを懲らしめることが、はっきりと書かれています。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」
赤ちゃんは神の御言葉の硬い食べ物を見分けることができない
ヘブル4:12-13「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
霊の見分けに関する真理を本当に把握するためには、私たちは、まず「心の一新」をすることによって変革される必要があります。ミルクを今までふんだんに与えられていた幼児や若者から急に哺乳瓶を取り上げて、彼らの口に硬い肉の塊を押し付けることが好ましいことでしょうか。そんなことをしたら、彼らは硬い肉を咀嚼する力がなくて、喉に詰まらせて死んでしまうことでしょう。硬い肉を食べることは、キリストのからだが「見分ける力を持つ」ために、序々に慣れていかねばならないプロセスです。
このプロセスが完了したならば、(そのためには、従順、自分に死ぬこと、今までの肉の習慣を断ち切ることが必要)、私たちは霊の見分けの訓練の本番に入ることができます。あなたの中で「見分ける力」はしっかりと根をはり、あなたの心を神の深みに向けて開かせるでしょう。この「霊を見分ける力」はあなたに対して誰かがどう思っているかを知るというような低級なものではありません。見分けをオカルトの世界の魔術と混同してはいけません。彼らは誰かの秘密を知ってその人を自分の支配下に入れようとするのです。「霊を見分ける力」は聖霊の重要な賜物であり、キリストのからだのすべての分野において必要なものですが、預言の賜物を持っている人、また、預言者として今働いている人たちにとって特に重要です。
第一コリント12:10「ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」
「霊を見分ける力」は聖霊が下さる賜物ですが、神の御言葉という硬い肉をよく噛んで御言葉の基礎を築くことなしにこの賜物をいただくことはできません。また、この賜物を適切に使う力を持つためには、正しい訓練や指導をうけて、人間として霊的に成長しなければなりま
23 11月
これからの時代にもっとも価値ある賜物
リック・ジョイナー
キリストの教会は現在、過渡期(トランジション)を迎えています。過去数世紀の間に形作られてきた教会の形態では、これからの時代を生き抜くことはできません。主がバプテスマのヨハネを賞賛されたように、私たちも今までの教会が成し遂げてきた多くのことに対して敬意を払うべきです。しかし私たちは、これからは違うタイプのリーダーに従っていくべきであり、主はそのようなリーダーを今起こされています。一方は衰え、もう一方は盛んにならなければならないのです。
たとえあるリーダーが以前力を発揮していたとしても、今の過渡期には別のタイプのリーダーが求められます。過渡期のリーダーには、時を見分け、今どのように対処して行けばいいかを知る知恵が必要とされます。主は、天気が変わるしるしを見分けられても時のしるしがわからない者たちを叱責されました。最近は、天気予報はどんどん正確になってきましたが、教会が時を見分ける力は、概してそれに追いついてはいないようです。しかし、必ずその時がきます。どのようにしてそれは起こるのでしょうか?
第一歴代誌12:32には「イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。」と書かれています。イッサカルはヤコブの12人の息子の一人で、イスラエルの12部族の一つとなりました。どうしてこの部族が、時を悟り何をすればよいかという知恵を持っていたのでしょうか? その答えは、創世記49:14,15に書かれています。ここは、ヤコブが息子たちに預言をしている箇所ですが、彼はイッサカルに対して次のように言っています。
「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す。彼は、休息がいかにも好ましく、その地がいかにも麗しいのを見た。しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった。」
イッサカルは、休息の地が好ましく、その地が麗しいのを見たにもかかわらず、困難な仕事に従事し奴隷とまでなったのです。彼がこのように人に仕える心を持っていた故に、主はイッサカルの子孫を信頼し、来るべき時代にもっとも価値ある賜物を彼らに委ねようと思われたのです。その賜物とは即ち、時を知り、何をすればよいかを知る知恵でした。
備えと訓練
現在は情報時代なので、情報こそが一番重要なものであるといわれてきました。しかし、他のすべての情報を一まとめにしたものよりも、未来に関する正しい情報と何をすればよいかという知恵が、本当は一番価値のあるものであることが、やがて明らかになることでしょう。ヨセフがエジプトの総理大臣に昇格したのは、将来に関するパロの夢を解き明かすことができたことと、それに対してどうすればよいかという知恵の言葉の両方を持っていたからに他なりません。この二つの賜物を合わせ持つ者たちは、これからヨセフと同じように、影響力のある地位を与えられていくことでしょう。
多くの人が自分はヨセフのミニストリーをするように召されていると感じているようで、私のところに来てそのように言われる方がよくあります。しかし、そのためにヨセフが通ったような準備期間を通りたいという人にはあまりお目にかかりません。ヨセフは自分の兄弟たちから拒絶されたばかりか、奴隷として売られたのです。さらに奴隷になったばかりか、主人の妻から偽りの罪を着せられ投獄されてしまいました。それでもまだ、あなたはヨセフのようなミニストリーをしたいと思われますか?
よく私が言うことですが、沢山の人が高いレベルの権威と影響力を持つために必要な訓練を受けることを拒んだので、多くの賜物を持っていたのにもかかわらず、あまり実を結ばないで人生を終えるのを私は見てきました。一般的な原則として、短期間に簡単に入手できるものほど、その重要性は低いのです。ですから、もし私たちが本当に重要なミニストリーをしたいと思うならば、それは多分、短期間にとか、簡単には起こらないでしょう。信仰と忍耐をもって約束のものを手に入れた人たちを熱心に見習うようにと言われるのは、そういう理由です。大切なミニストリーであればあるほど、それを達成するためには、より大きな信仰と忍耐が必要とされるのです。
「自分はミニストリーの楽しい部分だけをすればいい、実をならせるために必要なつらい仕事など自分はする必要はない」と高をくくっていた人が、残念ながら沢山います。彼らが多くの賜物を持っていたにもかかわらず、挫折感に満ちた悔いの多い人生を送っているのは、こういう理由からなのです。彼らはほんの少しの間、明るく輝いたかもしれませんが、流れ星のようにすぐに消えてしまったのです。彼らには実質が伴わず、人格、知識、知恵に欠け、長期間火を燃やすために働き続けるという献身もないのです。彼らは多くの場合、晩年を挫折感のうちに過ごします。なぜならば、彼らの今の人生はむなしく将来は暗いので、過去に住むしか仕方がないからです。
「イッサカルの子孫」になるためには大変な努力が必要ですが、その苦労を厭わない人はそう多くはおりません。使徒パウロがテント作りをした理由はここにあります。テント作りなどは偉大な使徒に全く無駄な時間の浪費をさせるものだと、私たちは考えるかもしれません。しかし、もしパウロが現実的な地道な仕事をしながらそれを主への礼拝に変えていくことを喜んでしなかったならば、主は彼に偉大な啓示をお与えにはならなかったことでしょう。もし私たちが真実な者であるならば、自分が教えることを生きなければならないのです。
ヴィジョンを持つのは楽しいことですが、そのヴィジョンを実現させるために困難な努力を進んでする人は少ないのです。また、細かいことに気をとられて、ヴィジョンを失ってしまう人もよくあります。私たちのワーシップ・リーダーであるダン・ポッターが、ダビデ王に関する彼の重要な洞察を話してくれました。ダビデは預言者でした。もし、彼がその賜物だけに力を注いだら、もっとも偉大な預言者になっていたかもしれません。彼はまた、音楽家であり詩人でもありました。もしそれだけに集中していたら、もっとも偉大な作曲者となっていたかもしれません。しかし、彼は王、統治者として召命を受けていたのであり、その分野で彼は最も偉大な功績を残したのです。預言者であること、また、音楽家であることは、彼の究極の召命を果たすために役立ちました。しかし、彼は第一のことを第一としてゆるがせなかったのです。
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