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Walk With God Ministries


23 05月

主との個人的親密さを生き生きと保つ ウエイド・テイラー 5月22日 2008年




主との個人的親密さを生き生きと保つ

ウエイド・テイラー

主は天に昇られ、イエスの血潮は「とこしえの命の力」となりました。「その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。」ヘブル7:16

イエスは言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」ヨハネ6:53

私たちが主との親密な真の交わりの中で主のいのちに与り、そして聖餐に与るならば、私たちは「朽ちることのない、いのちの力」を受けるのです。ぶどうの木(イエス)のいのちを枝(私たち)が受けるとき、主が備えてくださった豊かないのちを私たちは生きることができるのです。

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10:10

現在のキリストの教会(あなたや私です)を用いて、主は「終わりの時」のための証を世界に与えようとしておられます。今のところこの世は、教会を笑いものにしたり厄介ものだと考えています。しかし、この世は今まさに激しく揺さぶられようとしているのです。終わりの時のために天に用意されていた使徒的権能がまさに解き放たれ与えられようとしています。天には神の御座があり、天のちからは私たちのためにますます備えられています。しかし、その力を受けるためには、ぶどうの枝が木からそのいのちとちからを受けるように、私たちも木につながらねばなりません。

ほとんどの人が自分の人生で今ほど忙しかったことはない、と言うのではないでしょうか。いろいろな用事で私たちは地上のことに心を奪われ、主のいのちとちからを得るために「上に昇っていく」十分な時間がとれないでいます。これは問題です。そういう人は、最後には取り残されてしまいます。というのは、彼らは永遠のものとの関係を築くことに重きを置かないからです。

「花嫁」と言う言葉がありますが、この言葉が今生き生きとして来ております。私たちが主の「花嫁」であるとは、主に服従する関係にあるということです。この「花嫁」は現在の教会の中にすでに存在し、顔を覆っているベールが上げられる時を待ちながら静かに調えられています。私たちが天の花婿(イエス)に全面的に依存し、主にいのちを明け渡すとき、私たちは自分のアイデンティティーを無くして主のアイデンティティーをいただくのです。

主に服従していくときに、私たちはバプテスマのヨハネのように、主のいのちを顕し、その証人となることができます。「彼は言った。『私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ。」と荒野で叫んでいる者の声です。』」ヨハネ1:23

今主がしておられることを表すもう一つのものは「神の息子たち」という言葉です。「息子」であるということは、主と「協同」あるいは「協力」関係にあるということです。
「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。私たちは朝早くからぶどう園に行きましょう。」雅歌7:11-12a

このレベルに達するコミットメントをした者たちを用いて、主は今の世に主のいのちと力を表されるでしょう。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたは、みな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」ガラテヤ3:28

教会において、「油注ぎの元では」男性とか女性の区別はありません。私たちはみな、全く性別に関係なく、主によって「力を与えられて」機能することができるのです。男性とか女性は主との関係のタイプを表します。私は「花嫁」として「主に依存し」、イエスと「一つ」となります。

また、「息子」として主と「協同」関係になります。そして、私は地上のものより「上に昇り」ます。私は「勝利者」ですから、主のいのちが私の人生を通して流れはじめます。そのとき、私の人生は主のいのちの「証」となり、主のいのちをこの世に表現する(あらわす)ものとなるのです。

私たちは終わりの時に近づいています。それは即ち「教会の時代」の幕が閉じられる時であり、国家に対する大艱難時代における(最後の)裁きの時、そして「神による神権政治」によって人類のすべてが治められる千年王国が設立される時です。
「そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。」マタイ25:10

主といっしょに「婚礼の祝宴」に行く用意の出来ていた者たちは、「新しい歌」を歌うことができます。「彼らは新しい歌を歌って言った。『・・・私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」黙示録5:9a-10 (終わり)


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17 05月

天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び)(2) スティーブ・ウィッツ   5月17日


天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び)(2)

スティーブ・ウィッツ

天国のトリック

神は明らかにパズルがお好きです。どうして神はミステリーを用いるのでしょうか。 私の近著「声:天国の言語を理解しそれに応答する」の中で、私はこの点を探求しました。
第一章に、息子が2歳だったときのことを書いています。彼はどの2歳児でもそうであるように、エネルギーにあふれいつも誰かと遊びたがっていました。私が仕事から帰ってリラックスしようとしますと、彼は私がソファから立ち上がって遊んでくれるのを待っていました。私はソファに座ったままで、彼を呼び、ハグしてくれるようにたのみます。でも彼は「いやだ!」といたずらっぽく言うのです。私はおっくうなので、息子を私のところに来させる方法を考え出し、部屋の向うにいる息子にむかって「ジョシュ、カム セグ モイ ヤム」と言いました。そしてこの意味不明のことばを何度も繰り返したのです。息子は「なんだろう」と思い、少し近づいて来て、私の唇をじっと見て、お父さんが言っていることを分かろうとしました。そしてついには、彼は私のすぐ前に立っているのです!

ミステリィーの罠にかかって私の膝に乗ってしまったことを知らない息子を、私はくすぐりはじめます。彼は悲鳴をあげて母親のところに行きます。このように、ミステリーはあなたをひきつける力があるのです。神はそれを私たちが神に近づいて神の計画を知るために用いられます。あなたは天の「カム セグ モイ ヤム」というような言葉を聞いたことがありますか? 私たちの多くは、時間をかけて声を探すという代価を払うことをしようとしないことが多いのです。

求める心が必要

モーセは荒野で40年を過ごしました。彼の人生は燃える柴から聞こえてくる声により、あっという間にひっくりかえされました。聖書には、彼は「あちらへ行って(turned aside)、この大いなる光景を見ることにしよう。」といい、次に「主は彼が横切って(turned aside)来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。」(出エジプト3:3-4)と書かれています。この場面では、単なる「あちらへ行ってturned aside」という行為が啓示を受ける戸口になったのです。燃えつきない柴というミステリーは、ほんの少しの時間を使って考えることによって解けたのです。神はそれを見られ、応答されました。多くのミステリーを解くためには「意図的に解こうとすること」が必要でしょうか? もし私たちがちょっと立ち止まって理解したいと望むならば、人生のミステリーは解けるのでしょうか? 私たちの多くはいらいらして、「もし、神が本当に私にそうしてほしいならば、はっきり示してくださるはずだ。」と言います。福音書をちょっと読んでみれば、イエスの弟子たちはイエスの意図が何であるかに関して、多くの場合混乱していました。「そして彼らは主の言われることがわからなかった。」という箇所がよく出てきます。イエスは、主が去られ、聖霊が来られる(ルカ24:49)というような、次々に展開する神の御計画の次の段階を知らせることに関しては、なぞめいたコミニケーションで弟子たちの好奇心を高めています。

使徒行伝2章では、イエスはすでに去られ、弟子たちは忍耐をもって…ミステリーの到来を待っていました。120人が屋上の間に集まり、わくわくして、心を合わせ、そして多分何が起こるかと興味津々で待っていたのです! 聖霊が特別の顕れとともに力を伴って来られました。キリストの弟子たちは、炎のような舌を経験し、酔ったようになり、17の異なった言語で話す能力を与えられました!神の御国の新しい時代のミステリーが明らかになったのです。

二つの重要な問い

初代教会に起こったこの歴史的な日は、二つの重要な問いをもたらしました。「これは一体どういう意味なのか?」と「私たちは何をしなければならないのか?」という二つの問いです。

ミステリーが起こったときには常にこの二つの問いに対して教会は答えなければなりません。今日も、人生に起こるすべてのミステリーに対して人々はこれと同じ二つの問いをいだくのです。

現代の社会に教会が与える影響力の大きさは、教会がこの質問にどれだけ答えられるかによって決まります。 質問に答えるためには、知恵が要りますが、深いレベルではやはり預言的な人が必要となります。神から聞くことができる人々が最後には治めるのです。彼らは光となり、道しるべとなるでしょう。今日の社会には多くのジレンマがあります。西洋医学がいいのか、東洋医学がいいのかという論争は、ますます激しくなっています。オーガニックな食料が記録的に増えていますし、いろいろな代替治療法が紹介されています。環境保護とビジネスが一つとなって問題に取り組んでいます。以前は両者が敵対していましたが、今は共に協力してミステリーを解こうとしています。

福音派と聖霊派の壁もだんだんに消滅してきて、区別がつけにくくなってきました。過去20年間、記録的なペースで多くのミステリーが解かれてきました。教会こそが、革命的な様々な発見の最前線にいる必要があります。天国の声を聞ける人々はどこにいるのでしょうか? 神は人生の謎を解くようにと私たちを召してくださっているのです。ネヘミヤはエルサレムを再建するための計画を持っていました。ダニエルは王と王国の未来に関する啓示を受けました。 ヨセフは飢饉のときエジプトを救い、ユダヤの民を守りました。最近の「Evan Almighty」という映画は、聖書の話を現代に置き換えたものです。それは21世紀にノアのような召しをうけた新国会議員エバンの話です。ユーモアがありますが、同時に預言的でもあります。人生に対する神の御心を理解すればするほど、エバンは物事が明確に分かるようになります。私たちも神からのコミニケーションを聞いて解き明かし、現在の自分の人生に用いていくのでしょうか? 長い間耳を澄まして待ち、「あちらへ行ってturn aside」」、天の声に応答するでしょうか? この質問にどう答えるかで、私たちの未来が決まるかもしれません。ミステリーの中には、それを解明するのにもっと長い時間を必要とするのもあります。今日、そのチャレンジは非常に複雑で、それを解くためにはソロモン級の知恵が要求されるものもあります。非常に深いミステリーに私たちはどう対処したらいいのでしょうか?
 私は第一コリントにその答えがあると思います。全く分からない外国語にぶつかったとき、あなたはどうしますか?コリント
08 05月

天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び) スティーブ・ウィッツ 5月9日


天国の言語を学ぶ(神とのかくれんぼ遊び)(1)

スティーブ・ウィッツ

「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」 箴言25:2

自然界のミステリー現代の伝説の一つに、ミツバチは本来飛べるはずがない、というものがあります。羽を持つ昆虫のユニークな飛行能力の仕組みを、科学者たちは解明できないでいます。でもミツバチが飛べることは明らかです!これは一種のミステリーなのです。私の家の後には何百羽ものアヒルとカモが住んでいます。そのうちの何羽かのアヒルはうちの小さな池に入れるために私が購入したものです。数年前に、そのうちの一羽を一マイルほど離れた別の池に移したいと思い、大きな白いアヒルを捕まえて箱に入れ、車に乗せて新しい池に連れていきました。

箱から出されたアヒルは、新しい自分の家を見ていぶかしく思ったようですが、大丈夫適応できたように見えました。 私はしなければならない仕事があったので、働きながら時々畑の向うのアヒルをチェックしていました。一時間ほどしてから、アヒルは大分慣れたかな、と思って見てみるとアヒルが見えないので、狐か大きな亀に食べられたかと心配になりました。それであたりをもっとよく見回しましたが、やはりアヒルは消えていました。私はアヒルを失ったことや、アヒルのために払った15ドルを損したことを嘆きながら、そこら中を探し回りました。私は仕事を終えて家に戻りました。妻に今日起こったミステリーを話ながら、アイス・ティーのコップを手にもってリラックスするために裏のデッキに向かいました。すると、放蕩息子の白いアヒルが私の椅子のそばにいるではありませんか! 

アヒルは道路を越え、流れを越え、野原を一マイルも歩いて(太りすぎていて飛べないので)家に戻ってきたのです。これに似た話を前に聞いたことはありましたが、自分の周りに起こったのは初めてでした。 まさにミステリーです。ビールのなぞ去年の夏、私はなぜかビールが飲みたくてしょうがなくなりました。私は日頃ビールを飲んでいるわけではなく、好きでもなかったのです。おかしなことに、私は特定のビールが飲みたくなりました。ギネスビールです。味わったこともないものを、飲みたくてしょうがなくなるということが、一体あるのでしょうか。 でもそれが起こったのです! これは家族の間のジョークとなりました。 

私は実際に買う気はありませんでしたが、数週間の間、ギネスビールを飲みたいという思いは続いたのです。すると、金曜日の朝7時15分に、私の友人のマーク・デュポンが(彼は預言の賜物がありました)電話をしてきました。彼は2008年に関する神の言葉を私に話しはじめました。そして最後に、ある本を読むことを薦めてくれました。私はその本の題名、「時ならぬ預言」を書き留めてから、著者の名を尋ねると、彼は「ギネス、オス・ギネスだよ」と答えたのです。それは不思議な瞬間でした。 これもミステリーです。数日後に私はその本をむさぼり読みました。それは私の人生を変えるような力がありました。神はこのように不思議な言語を使って話されるのでしょうか。飛べるはずのないミツバチがそれでも飛ぶ、アヒルは地図がなくても自分の家に戻ることができる、飲みたくてしょうがなくなったものが、読むべき本の暗号である・・・。主は隠され、私たちは見つけるのです。主は秘密にされ、私たちは探すのです。

人生には多くのミステリーがあります。神ご自身が最大のミステリーであり、私たちの運命もすぐその次くらいにミステリーに満ちています。神がどのようにコミニケートされるかを解くのは、私たちの人生に与えられたチャレンジです。それはわざと難しくしてあるのでしょうか? それは多分、あなたが神をどのような父であるかと見る見方によって変わってくるのだと思います。 見つけやすい場所私の子供たちは今はもうみんな大きくなりましたが、小さいときにはよく私に「かくれんぼ」をしてくれといったものでした。

 彼らは小さい手で目隠しをして、数えはじめます。私はすばやく見つかりやすいような場所に隠れます。大抵は窓のカーテンの後で、足を下からわざと出して立ちます。するとたちまち小さな子供たちは私を見つけ、大喜びでカーテンの外から私に抱きついてきます。愛情深い父親は隠れるのが好きですが、わざとそんなに上手には隠れないのです。見つけてほしいからです!かくれんぼは確かにミステリーですが、そんなにむつかしいものではありません。だれでも参加できて、みんなが勝つことができるのです!神もまた、愛情深い父親であり、同じようになさいます。つぎの聖書箇所を考えてみてください。

申命記30:11-14 「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

神のミステリーは必ず解くことができるのです。目的があるのです。それは目的や計画、戦略、戦術を啓示するためのものです。神はそれを遠いところに隠すことはせず、私たちにそれを解くようにと招いてくださいます。神は「探せ、求めよ、戸を叩け」というような表現を好まれる方なのです。 父を信頼すること私の父も似たようなゲームをしてくれました。 父は玄関のドアの内側に大きな古い水差しを置いていました。毎日仕事から帰ると、父はポケットの中の小銭をその中にみんな入れたのです。バケーションの時になると、みんなでその中のお金を数えて、何か楽しいことのために使うのでした。私が本当に仕事らしいことをしたのは、16歳のときが最初でした。私が初めて給料をもらって帰ってきた日のことですが、私がうきうきしているのを見て、父は私の財布の中に給料が入っていることを見抜きました。父は、「財布の中にいくらあるのか?」と聞きました。私は正確には分かりませんでしたが、「30ドルくらいだよ。」と答えました。すると父は「お前の財布の中身全部と水差しの中身全部を交換してあげよう。」と言いました。こういうことは珍しくなかったのです。リスクの ある事をすばやく判断する訓練を私にするために、父はこのようなことをよくしました。私は水差しを手に持ってみてもいいかと聞きました。というのは、この前いつ中身をあけて使ったかを思い出せなかったので、今はどのくらい入っているか私は分からなかったからです。それは駄目だと父はいいました。私はリスクを取らねばならず、その決断を迫られました。早く決断せねばこの取引の話しはご破算になると父は迫りました。私は水差しを見て、父の目をじっと見、再び水差しを見て、答えました。「取引成立!」私は父に30ドルを渡し、水差しのところに飛んで行き、中身を調べました。 ざっと見て大丈夫だと感じましたが、ゆっくり数えたときにはっきりしました。私は大儲けしたのです。水差しの中には125ドル以上ありました。どうして私が取引をしたか、お分かりでしょうか? 父が私を愛していて、私はそのことを知っていたからです!父が私の益にならないような取引の話は絶対にしないことを、私は知っていました。愛情深い神はご自分の息子や娘をからかったり、だましたりはしません。父と私は長年このような取引を何度もしたのです。 父の愛は私にリスクをとらせる力を与えました。父は私のジレンマを和らげてくれました。それは父が私を愛していたからです。

「・・・しかし、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。」ダニエル11:32b
クリスチャンは全員、「解き明かしのクラス」を受ける必要があります。神に関して、あるいは、人間の目的に関して質問があるならば、その答えを得なければなりません。自分が見た夢や状況をどう解釈すればよいかわからないために、人々が失望、落胆してしまうことはよくあります。神は私たちを発見する人生、ミステリィーを解く人生へと招いておられます。そのクラスを取った者の人生には、主の顕現や栄光ある啓示が与えられるでしょう。多くの結婚が、親密な関係を保つ努力を怠った故に失敗に終わっています。結婚にはミステリィーが満ちていますから、それを探し出さねばならないのです。それには時間もエネルギーもかかりますが、何でも価値のあるものには必ず投資する必要があるのではないでしょうか。現在の社会には恐れの感情が深く蔓延っています。テロリズムへの恐れ、サブプライム・ローンの問題、全般的に不安定な経済、あるいは、モラルの低下などがあり、多くの人々を心配の牢獄につないでいます。アメリカで急成長している製薬事業は、睡眠薬関係です。映画俳優ヒース・レジャーが睡眠薬を複数摂取したために死亡した最近の悲劇的な事故は、現代を象徴しています。人々は安息がないのです。 疑問を抱えています。 安息への道を知り、他の人々にも示すことができるようなパイオニア精神を持つ人を人々は求めているのです。

リーダーシップ・ジャーナルという雑誌の冬の号に、イスラム教徒がキリスト教に改宗する理由に関する興味ある記事が載っていました。その記事はある一つのテーマで貫かれていました。イスラム教徒はクリスチャンのライフスタイルに興味をそそられるようです。「女性を大切にし、神を愛し、愛に満ちた、超自然的な」ライフスタイルは、真理を捜し求めている人たちを磁石のように惹きつけるのです。神は、今まではミステリーだったものを、今彼らに明らかにしています。クリスチャンの生活は、神をイスラム教のように「罰する神」として見るのではなく、「愛の神」として見ることを強調していることを彼らは今発見し始めているのです。今まで多くの人にミステリーだったことを、神はいま明らかにされておられます。多くのクリスチャンが見出してきたこと、即ち、イエスが来られたのは「復讐の日」ではなく「恵みの年」を宣言するためであったことを彼らは発見しているのです。(恵みの)年と(復習の)日の比率は365対1です。イエスは裁きよりも恵みの主であられます。(次週に続く)


Steve Witt 師は新しく教会を設置して行くチャーチ・プランターの仕事を三十年やって来た人で、元々はカナダのヴィンヤード系のリーダーの一人。現在は米国オハイオ州クリーブランド市にあるメトロチャーチ・サウスの牧師を勤めている。
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24 04月

 栄光の宮  フランシス フランジペン 4月24日


栄光の宮 

フランシス フランジペン

神殿に主の栄光が満ちるときソロモンが神殿を主に献げたときのことを調べると、神が教会に何を求めておられるかを知ることができます。神殿が完成したとき、それは壮大な祝典のうちに主に奉献されました。ソロモンは、牛2万2千頭、羊12万頭をいけにえとして捧げました。 そして、王が祈った直後に、神の栄光が人々の目前に顕れたのでした。それまで400年以上もその様な事はありませんでした。
 「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと数々のいけにえとを焼き尽くした。主の栄光がこの宮に満ちた。」と書かれているとおりです。(第二歴代誌7:1)

建物に過ぎない神殿を捧げたときに、主が目に見える形で御自分の栄光を顕してくださるならば、主の生ける神殿である教会の上に、栄光ある御臨在を顕したいと、主はどれほど願っておられることでしょうか?しかしながら、主の栄光が顕れるには、いくつかの条件が整っていなければなりませんでした。まず第一に、ソロモンの神殿が多くの部分を完全に繋ぎ合わされ金で覆われて100%完成したときに、はじめて主の栄光が顕れたことです。それと同じように、私たちの中に主が完全に顕され、それを見て世の人々がキリストを信じるようになるためには、私たちが「完全に一つになって」共にキリストの神殿として建て上げられることが必要です。

次に必要とされる条件は、ワーシップに関することです。主が顕れてくださったのは、歌い手、ラッパ奏者、祭司たちが声を上げて賛美し礼拝したときでした。 私たちが神をワーシップする者でなければならないことは、強調し過ぎるということは決してありません。 現在でもすでにいくつかの教会の礼拝では、主の御前に立ちのぼるまことの(純粋な)ワーシップの故に、微かではありますが、生きている雲のような輝く主の栄光が顕れ始めています。
しかし、神の栄光が顕されるためには、もう一つ別の領域での準備も整っている必要がありました。この必要条件はリーダーたちに関するものです。 「祭司たちが聖所から出て来たとき、・・列席したすべての祭司が各組の務めの順序にかかわらず身を聖別した。…そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。」(2歴代誌5:11-14)

祭司たちの組分け(Divisions)は、家系やそれぞれ与えられた任務に従って神によって定められたものでした。それは妬みや争いから生まれた肉的な分裂分派(Division)ではなく、役割り、機能、順序に従った組分けでした。しかし、祭司たちが聖所に入るときは、彼らが「各組の務めの順序にかかわらず身を聖別する」ことを神は命じられました。(11節) 言い換えるならば、神殿を建てて聖所に入るときは、祭司たちはそれぞれの務め(それはある意味で彼らを分けていたものですが)よりも、神の栄光を求めることを優先しなければならなかったということです。そしてそれが彼らを一つにしたのです。 まさにこの時、即ち、彼らが「組に分かれていない」時に、神の栄光は顕れたのです。

今日においても、神は一つの都市に存在する複数の教会に対して、それぞれ異なった働き、恵み、能力を与えておられます。それらは、その都市にある多様な文化的背景の必要を満たすためにすべて必要なのです。そして、教会がそれぞれに異なりユニークであるということは、教会同士が分裂しているのではなく、キリストのからだがそれぞれの働きをもって(一つに)完成されるということなのです。 しかし、もしも神の栄光が教会にもどることを私たちが望むのであれば、各教会に与えられてそれぞれ違う任務よりも、御霊による一致を優先させねばならないのです。
今日、集会、カンファレンス、祈祷会、あるいはコーヒーを飲みながらの一対一の交わり、また、教会の祭壇の前、町全体の伝道集会などという様々な場所で、「組分け(教団教派等の)に関係なく」キリストのもとに帰ってくるクリスチャンが、ますます多くなっています。 実際、ここ数年で何万人もの牧師たちが神に飢え乾き、自らを神のために聖別し服従することを新たに誓っています。彼らは神の栄光を求めているのです。その結果、何が起こったでしょうか? キリストのからだなる教会は「組み合わされて成長し・・・主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたもともに建てられ、霊の働きによって、神の住まいとなるのです。」(エペソ2:21-22)と聖書に書かれている姿へと組み合わされつつあるのです。

「組み合わされて fitted together 」「ともに建てられ built together」ということばに目を留めてください。まことの主の家は、「所属する組に関係なく、ともに組み合わされる」ときに、現われてくるのです。そうなったときに初めて教会は主の神殿、即ち「神の御霊の住まい」として真に姿を現わします。栄光の源「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:22-23)

イエスは、教会組織の新しい形とか、新しい教義やプログラムを与えるために来られるのではありません。主は、「ご自分の聖徒たちによって栄光をうけ、信じたすべての者の驚嘆の的となられる」ために来られるのです!(第二テサロニケ1:10) 「主イエス・キリストの栄光を得させる」ためにこそ、主は私たちを召されたのです!(第二テサロニケ2:14)

私たちが持っている現在の教会の定義をはるかに超えたものを、神が今すでに建てておられるのですから、それをしっかり見ようではありませんか。神は私たちを共に組み合わせて、まさに主の栄光が顕れる「主の聖なる神殿」を建てておられるのです!次の祈りの言葉をよく考えて見てください。 神殿を建てようと主が私たちを召しておられますが、この祈りはその召しに対する私たちの応答です。各々の特徴、召命はそのまま失うことなく、しかし、教団教派にとらわれずに私たちが共に組み合わされて一つのものを建て上げることができるようにと、神は今私たちを召しておられます。あなたも主の神殿を建て上げた
17 04月

あなたの嵐はどこからきたのか?  ビル・ジョンソン  4月17日


あなたの嵐はどこからきたのか?

ビル ジョンソン

人生に起こる嵐は、奇跡と同じく、私たちが成長するために計り知れないチャレンジとチャンスを与えてくれます。しかし、あなたが面している嵐の種類によって、それには大きな違いがあるのです。ある種の嵐は、それがサタンから送られてくるにもかかわらず、私たちを鼓舞し、すでに自分が握っている神の真理を使うようにと促します。そういう嵐は必ず奇跡を生み出します。マルコ4:35-41に書かれている嵐はそのようなものです。

『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』(マルコ4:35-41)

しかし、これとは違う種類の嵐もあります。次の有名な聖書の箇所に書かれているように、神は私たちが間違った方向に進んでいることを教えるために、嵐を送られるのです。
ヨナ1:4-6 「そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」

ここで私たちは、二種類の嵐とその異なる二つの目的を見ることが出来ます。一つは神によって、もう一方はサタンによって送られました。そして両方とも舟の中で眠っている人が登場します。一人はいやな現実から逃げ出す途中で意気消沈して寝ていました。もう一人は御国に住む人でしたが、御国には嵐はないのでぐっすり眠っていたのです。

一体、あなたが面している嵐はどちらの種類なのでしょうか? あなたはその嵐を神が望まれる方法で取り扱っているでしょうか? 過去にあなたに起った様々な奇跡で信仰が強く育まれ、それによってこの嵐のチャレンジを信仰で受けることができましたか?

弟子たちが遭遇した嵐は、彼らを神の御心から離れさせようという目的でサタンが送りました。ヨナの嵐は、御心に彼をもどすために神によって送られました。ある人たちは、神が右に行けというのに左に行ったため嵐に会いました。神は憐れみをもって彼らを引き戻すために嵐を送られるのです。

また、ある人たちは、神の御心の只中にいるが故に嵐に出会います。主は嵐を好まれるわけではありませんが、あなたがすでに与えられている嵐を静めるための道具を使うように訓練したいと思い、嵐を送られるのです。

私たちは嵐の中に立たされると、すぐさま神に介入していただいて、私たちの苦境を変えてくださいと叫び求めるのが、私たちのなすべきことだと思ってしまいます。しかし、それが嵐の目的ではないのです。もし私たちが神に叫び求めるだけだったならば、奇跡の業に参与する特権を私たちは放棄してしまうことになります。神は嵐を静める道具を私たちに与えないで嵐を起されることは、決してありません。神は私たちがそれらの道具を使って奇跡的な結果をもたらすことを望んでおられるのです。

あなたを去年襲った最大の闘いや危機的状況を考えてみてください。少し考えれば、その問題に対処するために神が与えていてくださった道具が何であったかが分かるはずです。神が私たちの人生に問題が起こるのを許されるのは、私たちがいつも神に泣きついてばかりいないで、問題に打ち勝てるようにしてくださるためです。勝つための道具は舟にちゃんと積まれているのですが、敵が恐れの風を巻き起こし、私たちが道具のある場所を忘れるように仕向けるのです。

私たちの多くは、嵐が来ると眠っているイエスに弟子たちが言ったのと同じ祈りをしてしまいます。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか!」と祈るのです。すると、イエスは起き上がって彼らの祈りに答えられました。神が祈りに答えてくださると、私たちはそれで喜び満足します。弟子たちは置かれた状況の中で当然するべき正しいことをしたのだ、と私たちは誉めさえするかもしれません。しかし、イエスは彼らを見て「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われたのです。

「何ですって!」と弟子たちは思ったかもしれません。「私はあなたのところにきてお願いするほどの信仰を持っていましたよ。そしてあなたは私が願ったことを聞いてくださったではありませんか。私の役目は祈ることで、あなたの役目はそれをしてくださることじゃないんですか!」と。

違うのです。じゃま物に向かって「出て行け!」と命令するのは、私たちの責任なのです。ほとんどのミニストリーがしていることは、神にお願いしてどうにかして地上の問題を解決していただくことです。しかし、本当は私たち自身が嵐に「静まれ!」と命令すべきなのです。私たちは周りの状況を天の御国の視点で見て、主の御ことばを宣言するのです。後はそこに天の支配が来るのを見ていればよいのです。

私はとりなしの働きに対して、絶大な愛と尊敬を抱いておりますし、私の妻は素晴らしいとりなし手です。しかし、多くのとりなし手たちは、うめいたり嘆いたり泣いたりして、絶えず重苦しい気持ちでいることを「とりなし」と呼んでいます。彼らは祈るときに、決して信仰に立つことをしません。私はそれがどういうものか知っています。というのは、私の人生の中でも、とても長い時間、すごく真面目に、すごく勤勉に祈っていたときがあり、もし祈った時間を記録していたならば多分みんな感心するくらい熱心だったことがあるのです。神は私が真心からそうしていたことを御存知だったので、私
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