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Walk With God Ministries


16 01月

知るべきはただ二つの事 フランシス フランジペン 1月16日


知るべきはただ二つの事

フランシス フランジペン

多くの事柄で私たちの心はいつもいっぱいになっています。多くの本、多くの例話、多くのよい教え―確かにそれらは心に止めて悪いことではなく、「これが真理だ。」と私たちに語りかけてきます。しかし、私は長年主に仕えて来たなかで、次の二つの事だけを求めるようにと主によって導かれました。それは「キリストにある神の御こころを知る」ことと、「キリストの光に照らされた自分自身のこころを知る」ことです。

神の御こころを知ること

長年の間、私は神のこころを知り、人々に対する神の愛の深さを知ることを求めて来ました。私は主の御こころを知り、主が御わざをされるときの動機となる憐れみのこころを知りたいのです。聖書には簡単明瞭に、イエスは人々を愛されたと書かれています。マルコ福音書には、「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」とあります。(マルコ6:34)
主にとっては、人々を教えて癒すだけでは十分ではなかったのです。主は彼ら一人一人を個人的に気に懸けてくださいました。彼らが健やかで食物を十分に得ているかどうかすらも、主にとって大切なことだったのです。

一人の少年が持っていた5つのパンと2匹の魚は、イエスが奇跡を行うために十分でした。しかしそれは、キリストご自身は疲れ果てていたにも関わらず、群衆のために働くことをいとわなかった故にこそ起きたのです。
考えてみてください。そもそもキリストは弟子たちを休ませるために連れ出したのです。「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」(マルコ6:31)個人的にイエスご自身も祈ることによって力を得ようとしてそこに来ていたのです。
というのは、イエスの先駆けであったバプテスマのヨハネがその週のはじめに、ヘロデの手によって首を切られました。ですからイエスが群衆に食事を与えたのは、主が感情的にも肉体的にも消耗しきっていた時だったのです。イエスはただ一度とか二度とかではなく、弟子たちを通して繰り返し 「人々にパンと魚を配り続けられた。」のです。(マルコ6:41)

その結果、何千人もの男性、女性、子どもたちが全員「食べて満腹した」のでした!(42節)
なんというイエスの御こころでしょうか!奇跡は群衆のために起こりましたが、パンと魚を次々に与え続けるイエスの疲れた御手を支えた(力が与えられたという)奇跡に関しては何も書かれてはいません。主を支え続けたのは、ただ主の聖なる愛だけでした。肉体の力がどんどん弱まる中で、主は人々を助けるために与え続けられたのです。


ですから、もし私がイエスを知ることを求めるならば、この事をまず認識する必要があります:イエスはすべての人を愛されている。特に社会が無視する人たちを。だからイエスが人を助けるためにどれだけの距離を行かれるかを(私は)知らねばなりません。というのは主は私を通してその同じ距離を行かれるからです。確かに私は病気や貧困、人間の苦しみに対する主のお考えを知る必要があります。主の僕として私はこれらのことを知らなければ主のお役に立つ事はできないのです。もし私が実際に主の御こころを行いたいならば、主の御こころを真に知る必要があります。だから学びや祈りの時にはただ知識だけを求めるのではなく、私は神の御こころを訊ね求めるのです。

自分のこころを知る

神の御こころに私がだんだん近づくにつれ、主の臨在の火が私の中で深い清めの業を始められます。主の限りない豊かさの中で、私の貧しさが現れてきます。詩編の著者は書いています。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ち得ようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」詩編24:3−4 もし私たちの心に欺きがあるならば、主の山を見つけることさえできませんし、登ることなどとてもできません。こころが清くないのに、神の聖なる所で仕えることができるでしょうか。心が清い者だけが神を見ることができるのです。

神に向かって登って行くのは、真理の溶鉱炉の中に入って行くことであり、そこでは私たちは魂の中の欺瞞が取り去られます。聖なる場所に住まうためには、たとえ嘘によって自分が救われるときであっても、正直に誠実に生きねばなりません。主の山に登る階段を一段上がるたびに、私たちの魂はもっと高い透明度にさらされ、心の動機が完全に見えるところに押し出されて行きます。私たちは神に向かって登るという神の召しを追い求めるのです。

しかし、私たちの魂は、恐れと暗闇の中にうずくまり隠されていて、偽りと迷妄の世界で息づいています。これが私たちの内なる人であって、神が救おうとしておられる魂です。あなたは、真理だけが解 放することのできる本当の自分自身をすでに発見しましたか? 確かに私たちは清さを求めはしますが、まことの清さに到達するにはここを出発点とせねばなりません。真理の御霊が心の隠された場所を露にすることが必要です 。事実、私たちを清さに導くのは正直さ、誠実さなのです。神よ、真理への情熱を与えて、あなたの聖なる場所に立つことができるようにしてください。

世界中で多くの人たちが、自分は「真理」を知っていると思い込んでいますが、彼らの人生の中に聖さも力も併せ持ってはおりません。真理とは、歴史的に築き上げられた教義以上のものにならねばなりません。神が過去に動かれたときの記念品とかお土産というような宗教的遺物の博物館以上のものでなければならないのです。真理とは、キリストの内に顕された神の御こころを知ることであり、また、神の恵みの光に照らされた自分のこころを知ることです。私たちは人類の一員であり、故に無知で覆われてしまっています。私たちは自分の周りの世界をほとんど知りませんし、いわんや自分の魂の性質など知ってはいません。私たちは神の御こころを探し求めるときに、知らず知らずに自分のこころをも捜しているのです。なぜならば、神を見つけるときにだけ私たちは自分自身をも発見します。というのは、私たちは「主のうちに」あるからです。

しかし、主の御前に自分のこころを注ぎだして主を求めるとき、私はおののきつつダビデ王の祈りを祈るのです。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷つい
04 01月

兄弟の番人    ラリー・オカシオ  2009年1月4日


兄弟の番人

ラリー・オカシオ


創世記4:8−9
しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

父なる神にとって最も大切なことの一つは、「人間 同士のつながり、関係」です。このことは神がカインを叱責し厳しい罰を与えたときに、何度もカインとアベルとの関係を強調したことから分かります。主はカインにアベルのことを問いただしたときに、アベルを単に一人の人としてではなく、「あなたの弟アベル」と言って訊ねています。主が怒ってカインに話をされた時、アベルの名前を言われた回数の2倍もカインのアベルとの関係(弟)に言及されておられます。

創造の当初に、この生々しい話が私たちに与えられているという事実によって、神が人間関係を非常に重要視しておられることが強調されています。そして人間関係のテーマは聖書全体を通じて何度も繰り返されています。兄弟、姉妹、夫、妻、指導者、部下等の関係に関して書かれていることはすべて、主が喜ばれることは何か、悲しまれることは何かを私たちに教えているのです。 カインの 「私は自分の弟の番人なのでしょうか。」という問いに対して、今日私たちも答えなければなりません。

ガラテヤ6:2
「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」

現実的、実践的な形で私たちは、自分の兄弟姉妹が霊的に、又しばしば物理的にもですが、どのような状態にあるか把握していなければなりません。主によって用いられるために必要な基本的なことの一つは、他人の痛み、苦しみ、弱さを理解し同情する能力です。私たちはクリスチャンとしての旅を共にしていますが、その旅は 自分一人では出来ないように神はデザインされたのです。イエスでさえあがないの御業を完成させるために重荷を負ってくれる助けを必要とされたことは、この重要な真理を浮き彫りにしています。

ルカ23:26
「彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」

悲しいことに今日私たちの多くは一人で独立して生きていて、兄弟や姉妹が重荷を負って苦しんでいるのがわからないのです。最近私が住んでいる地方で、多くのティーンエイジャーの自殺があったことは、社会に大きな警笛を鳴らし、人々はそれを無視できなくなりました。私たちの影響下にある 多くの人たちも、助けや導き、あるいはただハグされることを必要としているのです。多くの者が見逃してしまうことですが、主は「キリストのからだ」を、みんなの成功をつなぎあわせるように造られたのです。あなたも私も ただ一人で主にある高みに登るようにとは召されていず、兄弟姉妹を一緒に連れて行くようにと召されているのです。

民数記32:17−18
「しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます。私たちの子どもたちは、この地の住民の前で、城壁のある町々に住みます。私たちは、イスラエル人がおのおのその相続地を受け継ぐまで、私たちの家に帰りません。」

この原則は、イスラエルが約束の地に入ろうとするときに、二つ半の部族がヨルダン川の東側に残りたいと望んだ、この旧約聖書にある話によく表されています。主から彼らに課された条件は、彼らも他の兄弟たちと共にヨルダン川を渡り、共に戦い、すべてが相続地を受け継ぐのを助けるというもので、その後、川の反対側の自分たちの相続地に帰ることが許されたのでした。

私たちは、自分の個人的な神の目標を達成するだけでは十分ではないのです。他の人々がそれぞれの目標に達するのを助けることにも、私たちは召されているのです。もしあなたの結婚生活が祝福されているならば、他の人たちの結婚生活のために祈りで戦っていますか? あなたの助けを必要としているシングル・ペアレントや問題を抱えている家族を知っていますか? 現代のティーンエイジャーや クリスチャンになったばかりの人を訓練することに関わっていますか? それとも自分の問題、関心事、夢とかにだけで心がいっぱいになってしまっているでしょうか?

ピリピ2:3−8
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト/イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

一つだけ守りきる価値のあるものといえば、神のようであることでした。しかし、イエスは正にその逆をしたのです。主はご自分の神性を捨て、主の人間性によって私たちが益を受けられるようにとされたのです。その結果、主が模範を示してくださったすべての関係は、「神と人」の関係ではなくなり、神と正しく結ばれた一人の人間が、その兄弟姉妹をどのように扱うことが出来るか、又、扱うべきか、を教示するものとなったのです。

ヨハネ15:13
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

この聖句をただ肉体的な死にだけ適用するならば、このみ言葉や、更にはキリストのあがないの御業に対しても不当なことをしているのです。確かに誰かのために死ぬことは高貴なことに違いありませんが、その人のために生きることはもっとよいことです。イエス・キリストの死は大きく扱われ、それは勿論正しいことですが、実はイエスはあなたや私のために死んでくださっただけではないのです。主は私たちのために生きてくださったのです。主はただ一度の勇敢な行為、救済の御業をしてくださったのではなく、全生涯を通じて無私の献身をすることを決意されたのです。それと同じように、神は私たちが兄弟姉妹のために死ぬことを強く望んでいるのではなく、むしろ私たちが彼らのために生きることによって彼らとの関係を大切にすることを望
25 12月

時を知る   リック/ジョイナー 2008年12月25日


時を知る

リック/ジョイナー


様々なことが起こった2008年も、終わりに近づきました。多くの人は、世界で起きていることを見て、新年を恐れと不安を持って迎えようとしています。しかし一方、大きな信仰と希望をもって迎えようとしている人たちもいます。そして信仰と希望は必ず勝利をおさめるのです。2009年は(そのような人たちには)最高の年になります。

クリスチャンならば全員、大きな信仰と希望をもって未来を展望するべきです。たとえそれが「大艱難」に入ることになってもです。これから世界に何が起こるかは問題ではありません。なぜならば私たちの王は勝利され、御国は必ず来るからです。御心は天になるようにこの地でも起こります。ボブ/マムフォードは「聖書の最後を読めば我々が勝利することがはっきりしてる!」と言いました。第二コリント2:14にあるすばらしい約束を見てください。

「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」

この箇所で言われているように、主は常に私たちを「キリストによる勝利」に導いてくださるのです。重要な点は、主の勝利は私たちが望んだ結末と同じとは限らないということです。主の最大の勝利は十字架でした。私たちもそのような勝利を喜んで受け取ることが出来るでしょうか? もし出来るならば、悪に対する最大の勝利を私たちも経験することが出来るでしょう。2008年は多くの人にとってブレイクスルーの年でした。2009年にも又、多くの人がそれを経験するでしょう。私たちの勝利は確実であり、もしあなたが信仰の人ならば、勝利が確立されるずっと前からそれを喜び始めることができます。恐れを持つ人は、たとえ物事がうまく行っている時でさえ、いつも悩んでいます。信仰のある人は、たとえ物事がうまく行っていなくても、常に平安と喜びをもって生きています。私たちはそのどちらかを選ぶことができる(選ばねばならない)のです。

私たちの教会の最近の礼拝で、ジャック/ディア師が話したことですが、私たちは往々にして、主にではなく物事の結果に自分の信仰を置くという間違いを犯してしまいます。それでは私たちの思いは、主にではなく、起こっている事柄、物事に捕われてしまうことになります。もし私たちが主に信頼するならば、物事のすべての結果は主の目的のためには一番良いものであること、そしてそれはただ私たちの勝利ではなく「主の勝利」であることをも信じなければなりません。多くの場合、一番の勝利は私たちの信仰が成長することであり、ヤコブ書にあるように、それは金よりも価値あるものなのです。私たちの信仰は、信仰が必要とされない限り成長しないのです。

このことは、特定の結果を望んで祈ってはいけないと言う事ではありません。例えば、ある癒しとか、ある問題を乗り越えるための祈りです。私たちはある一つの結果に信頼を置くのではなく、主に信頼を置かねばなりません。そうするとき、多分自分が期待した以上の結果を見る事になるでしょう。

多くの人は多難だった2008年が過ぎ去るのを見て「やれやれ」と思っています。新年を新たな出発と見て、希望と期待を持つことは良いことです。私たちは今の時代が過ぎ去るのを同じ思いで見ることでしょう。次の時代が今私たちが考えることが出来ないほどすばらしいものになることは、絶対に確かなことです。一日ごとに主の再臨と御国の到来が近づいています。しかしそうであっても、その時までにはこの世界は艱難を通らねばならないのです。使徒パウロは私たちが御国に入るためには艱難を通らねばならないと言っています。それはこの世界にとっても同じです。しかし、この世がどのような所を通るかは問題ではないのです。もし私たちが主にとどまり、揺るがされることのない御国の上に人生を築いたならば、私たちはそれによって影響を受けることはありません。

以前私はある預言的経験をしました。突然私は、 ある種の戦艦の 制御室の中に立っているのがわかりました。レーダーのスクリーンの前に私は立っていましたが、主ご自身が私のすぐ右に立っておられました。スクリーンに小さな光の点(ブリップ)が前方正面にあらわれ、自分たちの方にむかって動いてきました。衝突を避けるために私は船が90度向きを変えるように命令しました。しかし、スクリーン上の点は動かず、それどころかますます近づいてきます。それで今度は反対方向に向きを変えるように命令しました。しかし、その結果は前と同じで、点はますます近づいてきます。次に私はスクリーンを握って衝撃に耐える身構えをしましたが、衝撃は起こらず、点も消えてしまいました。私は主に一体これはどうしたことか、と尋ねました。主はあの点は「大艱難」であったと言われました。主は、大艱難は必ずやってきて避けることはできない、しかし、それは主のすべての行動を映し出すレーダースクリーンのほんの小さな点に過ぎず、私が主の近くにとどまる限りそれを感じることもない、と言われました。

この体験は私にとって非常にリアルであり、魂の奥深くに何かを植えつけてくれたので、私はとても助けられました。しかし、あなたが私の見たこの幻を信じても信じなくても重要なことは、主は信頼するに足るお方であり、主のみ傍近くにいれば何が起ころうと守られるということは、まさに正当な聖書の真理です。

あなたは、主のみ傍近くにいたにもかかわらず殉教した人たちはどうなのだろう、と思われるかもしれませんが、それも主の守りだったのです! 私たちが生きるか死ぬかは問題ではなく、問題なのは私たちが忠実であり続けるかどうかなのです。私たちの全人生は「主と共に治めるための訓練」であり、福音のために命を捨てることは信仰の最も偉大な行為の一つです。もし私たちがただ復活の教義だけでなく心から復活を信じるならば、私たちはこのことを喜ぶべきであり、使徒や多くの殉教者と同じように、主の御名のために苦しむことに私たちが値するもの見なされたことを光栄に思うべきです。

2009年は最良の年となるでしょう。それは困難ではないということではありませんが、それは私たちにとって一番よいことなのです。なぜならばローマ8:28−30に次にように書かれているからです。
「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

私たちが速やかに勝利を得るための一つの方法は、神が私たちに起こるのを許されるすべての事は、私たちが御子に似る者になるためであることを理解することです。何か試練が起こったらすぐに、 どの御霊の実の訓練を主が自分にしておられるのかを見定めるのです。一番の基礎は、愛と信仰です。愛はあなたに何をせよと言っていますか? 信仰はあなたに何をせよと言っていますか? それがほとんどの場合「答え」です。そして第一コリント13:8「愛は決して絶えることがありません。(滅びない)」という事を常に忘れないでください。

2009年に勝ち取るべき 最大の勝利は、私たちの愛が成長することです。まず神を愛し、そしてお互いを愛するのです。二番目に大きな勝利は、信仰が成長することです。この二つは必ずしも試練を通してだけ得られるものではありませし、特に試練がなくてもこの二つを忠実に追い求めているならば、そうです。しかしながら、やってくる試練はすべて価値あるものです。裁きの日には、私たちの人間としての成功度は、他の何よりもどれほど神を愛し人を愛したかにかかっているのです。成功してください。愛を成長させてください。また、信仰を成長させて、どんどん成功してください。(終わり)


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20 12月

私たちを鼓舞する神の恵み ボビー・コナー 12月20日


私たちを鼓舞する神の恵み

ボビー コナー

クリスチャンである私たちは、毎日正しいゴール、目標、そして神から与えられた目的をもって生きるようにと教えられています。これは神の恵みを受けつつ歩むのでなければ達成はできません。(エペゾ5:14−18参照)

神はご自分の仕事を助けてくれる強い人を求めておられるのではありません。実は主は、ご自分が用いることができるくらいに十分弱い者を捜しておられるのです。神の力は私たちの弱さのうちに完全にあらわれるということを忘れてはなりません。(第二コリント12:9参照) 超自然的なすばらしい力を私たちが経験するための鍵は、自分が弱くなることです。

御霊の働き

私が「弱さ」という意味は、性格的に弱いとか、聖書をよく知らないという弱さを言っているのではないことを、はっきり申し上げておきます。私が言っているのは、御霊の働きを達成するのは肉の力では絶対出来ないことをよく悟った人のことです。これを悟ってとき初めて、私たちは本当の意味で強くなり、神の栄光ある御国を拡大させるための力を受けるのです。権勢によらず、能力によらず、神の霊によって神の御国は建てられることを、決して忘れてはなりません。(ゼカリヤ4:6)

詩編107:23−28には、大海原で働いている熟練した強い船乗りの話が描かれていますが、それがこの真理をはっきり描き出しています。ある日、主が嵐を起こされ、彼らの船乗りとしての自信は見事に吹き飛ばされてしまいます。彼らは絶体絶命の状況におかれます。この時、彼らは主の恵みと助けを叫び求めたのです。彼らは船を扱う技術も経験もありましたが、強い波と風が起こり、神により頼まねばならないことを悟ったのでした。

あなたの人生の風向きが急に変るという状況に遭遇したことがありますか?もしまだそういう経験がないならば、近いうちに必ず何かが起こり、あなたの人生の基盤 が何に置かれているかテストされるでしょう。嵐や洪水は私たちをテストするためにやって来て、私たちが本当にキリストだけに基礎を据えているかどうかが試されるのです。

キリストは「わたしを離れてはあなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)とはっきり言われています。この「何も nothing」と言う言葉は、完全に、全く何もできないということなのです。実際はゼロよりももっと少ないことを表しています。神の御国を拡大するのは御霊の働きでなければならないことを悟るとき、私たちの人生は喜びに満ちます。

今までにあなたがしたことや達成したことが如何にすばらしくても、それらは何一つとして、イエスがあなたを通してご自分の命を生きてくださるときの喜びと は全く比べものになりません。神は一人一人にぴったりでユニークな恵みの道を用意してくださっているのです。自分の考えとかやり方をすべて御霊に服従させるならば、あなたは恵みの中を生きる人生を 始めることができます。この領域に入るならば、あなたは神から与えられた課題を全部達成できる豊かな恵みを経験するでしょう。

恵みに満たされた新しいクリスチャン

神からのこの恵みは、新しいクリスチャンを輝く情熱の火で燃やします。私は長年牧会をしておりますが、その喜びの一つは、新しいクリスチャンの 人生に神がしてくださっているすばらしいことに彼らが興奮しているのを見ることです。新しいクリスチャンの喜びと興奮はみんなに伝染していきます。新しいクリスチャンのそばにいると本当に元気づけられます。彼らは神の愛で生き生きと輝いています。

牧師として私は新しいクリスチャンのためのクラスで教える機会がありますが、イエス・キリストが彼らの人生に与える喜びを見て、私の心は祝福されます。そして、恵みの中を歩む秘訣をすでに会得した成熟したクリスチャンの目も、この恵みの故に満ち足りて光輝くのです。 ご自分の栄光を顕す大きな業をなすために、神は私たちに恵みを与えて用いてくださいます。この驚くべき神の恵みによりどれほど偉大なことが出来るかということを証するのが、私たちの人生でなければなりません。

恵みで満たされた人生と実行とは切り離すことはできません。私たちは神の驚くべき恵みによって救われ、保たれているのです。キリストの身体である教会は、未信者に働き救いを導く神の恵みに関しては、よく理解しているようです。しかし、神の恵みの力が信者の日常の生活の中で働き、 真に効果的に実を実らせるのだという理解が欠けているようです。

恵みはあなたの思いを変えてくれるだけではなく、あなたの人生そのものを変える働きもしてくれます。恵みは力強いモーティベイターであり、私たちがもっと高みにまで登り、キリストと御国のためにもっと働くようにと鼓舞し奮い立たせるのです。

恵みを受けるために必要なもの

使徒パウロは第一コリント15:10で、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対する神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と述べています。パウロは神の恵みはむだにはならなかったと明言していますが、それと同時に彼の人生で力強く働く恵みの故にさらに多く働いたと言っています。

私たちの存在すべて、また、私たちがすることすべては神の恵みの故なのですが、私たちは神の御国を前進させるためにおおいに働くようにと召されています。クリスチャン生活の大きなパラドックスの一つは、私たちがすることはすべて恵みにより恵みを通してなされるのですが、神は私たちが勤勉に主に仕え、一生懸命働く(努力をする)ことを求めておられます。チャールス/スポルジョンは「信仰は、愛が建てた階段を 上って行き、希望が開いた窓から外を見る。」と言いました。

神から与えられる恵みを十分に受けとるためには、勤勉な働きが必要です。そして又、恵みを受けるためにはへりくだりが必要です。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」第一ペテロ5:5

へりくだる者に恵みは約束されています。偉大な聖人であるウオルター/ビュートラーは、このように言っています。「へりくだりが到着するやいなや、恵みは戸口に立って迎える。」 もし私たちが真にへりくだり、常に神の御業を賛美し神の栄光を横取りしないように注意するならば、必ずもっと恵みを受け取ることが
13 12月

神の癒しの力—創造的奇跡を起こす8つの秘訣  マット・ソーガー  12月13日


神の癒しの力—創造的奇跡を起こす8つの秘訣

マット・ソーガー


癒しの力

あるスタジアムでの集会中、そこら中で癒しが起こっていたのですが、12歳の女の子がステージに上がってきた時のことを私は決して忘れないでしょう。その集会で主は私に、耳が聞こえない人の耳を開く祈りをするようにと導いておられました。神の臨在と栄光がその場に満ち、今まで聞こえなかった人々の耳が開き始めたのです。
癒された人々が次々に証をしているときでしたが、私のミニストリーチームの一人がある 少女をステージの上に連れてきました。彼女は生まれつき耳がなく、頭の両横に小さな穴があっただけでした。神の油注ぎが彼女の上に臨んだとき、 耳の中ではじけるような音がするのを彼女は聞いたのです。 主が創造的な奇跡を起こされ、突如彼女の頭の中に鼓膜が形造られ、生まれて初めて耳が聞こえるようになりました。
この奇跡は、私が起こしたのでも何でもないことが私にはわかりました。私の役目は、ただ会衆を賛美に導いて神の栄光を迎え入れただけであり、そのあとのことはすべて神に委ねたのでした。それはメキシコでの集会でしたが、その夜は神の力による多くの癒しが起こり、いくつかの身体障害も癒されました。

コミュニオンとインティメシー

私がすばらしい癒しの力を初めて見たのは14歳のときで、私の母が癒されたのでした。しかし、それからの数年間、そのような癒しが 教会の毎週の礼拝で 起こらないので、その理由が私にはわかりませんでした。 祈っても何も起こらない祈りにうんざりしていました。
誰かのために祈ったならば、何でもいいから、何かが起こって欲しかったのです。私はこのようなフラストレーションと共に、私の霊は聖霊とのもっと深い関係を求め飢え乾いていました。若い私の中に二つのことが起きていました。神は私が現状に満足しないようにされ、私の心に霊的乾きを起こさせ、その乾きは私を聖霊との何時間にも及ぶ交わりへと 駆り立てたのです。

過去20年間、私は神と共に歩むことを学んできました。神は霊的力に満たされて生きる生き方に関して多くのことを教えてくださいました。神は数えきれないほどの人々の人生に何千回も御力を顕してくださり、私にその証人となる特権をくださいました。御ことばに深く根ざし神と親しく歩むことは、神が私の人生を通して ものすごい力を解き放ってくださるのを見るための基盤となりました。
キリストがあなたの心に入った瞬間から、あなたは御霊によって生き始めることができます。神の力の中で生きるには20年間クリスチャンでなければならないということは決してありません。

私もクリスチャンになって間もない頃に、何回も神の力を経験しています。その経験が今の私を形つくっています。神のタイミングは完璧であり、神によって整えられることが不可欠です。整えられることのよって油注ぎが保証されるわけではありませんが、それは油注ぎを持続させます。 神の力と賜物について一つ学んだことは、それは神の恵みから溢れ出るものであり、信仰によって活性化されるということです。しかし、その源はすべて神にあり、神の天よりの栄光を受ける資格は、ただ神の恵みにより与えられるということを忘れてはなりません。自分の努力や行いとは全く関係がないのです。もしそうであれば、私たちもすこし認められてもいいでしょう。しかし、そうではないのですから、すべての栄光は神にあるのです。 内なる徳が高められ キリストに深く根ざすときに、神は私たちの人生の中に計り知ることのできない神の力を注ぎこんでくださいます。

今日は、神の創造的な奇跡の力によって働きための8つの秘訣をお話したいと思います。これらの原則を生活に適応するときに、私たちはしるしや不思議が私たちを通して起こるのを毎日見ることができるようになると信じます。

1.あなたの人生に神の臨在を培う


神の栄光がすべての奇跡の源です。聖霊が働きやすい環境をあなたが培えば培うほど、あなたは神の臨在をもっと持ち運ぶことになります。そして主の臨在をもっと持ち運ぶほど、もっとあなたに力が与えられるのです。聖霊というお方とその臨在を感覚的にも感知しながら、できるだけ長く時を過ごすことによって達成されるのです。 どんな小さなことでも罪を犯した時や 、ほんの少しでも霊的に心が暗闇の方に向いてしまった時は、すぐに告白し悔い改めてください。

異言でたびたび祈っていください。イエスの血潮で覆われなさい。み言葉を黙想してください。歌や祈りで神を礼拝してください。 聖霊に、感覚的に感じられる方法で来てくださいと、できるだけ何度も絶えずお招きしてください。聖霊を悲しませることを避けなさい。 あなたの人生が聖霊で満たされていくとき、奇跡、しるし、不思議が自然にあふれてくるのをあなたは見るようになるでしょう。

2. 心に神の信仰を培う

真の超自然の信仰は、私たちの霊から流れ出て私たちの思いに影響を与えます。その逆ではありません。信仰は、理論や自然界の現実を 超えて、私たちをもっと高い霊的現実へと導きます。神がすでに霊的に達成されたことに、目に見える世界を合致させていきます。
私たちはみ言葉の中に生き、常に思いを新たにしていかねばなりません。 信仰は心に啓示が与えられたときに生まれます。聖霊とみ言葉によって真理があなたの思いと心に啓示されるとき、信仰があなたの内で生きてきます。
ヨハネ8:32に「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。常に思いをみ言葉の上に置いて、あなたの思いと霊を神のみ言葉に浸しなさい。そうすれば、真理が啓示され、超自然的な信仰が心に生まれでるでしょう。真理が啓示されることによって生み出される心の信仰が、神の力で働くために究極的な鍵です。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12:2

3. 信仰に行動を加える

力の油注ぎに関して正しく理解しておかねばならないことは、それは ある意図された目的のために理由があって注がれるということです。
イザヤ61:1には次のようにあります。「神である主の霊が、わたしの上にある。 主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げるために。」

癒しと奇跡のための力の油注ぎは、あなたが病人が癒されるようにと祈っ ているときにだけ顕れます。私たちは力の油注ぎが必要な機会を意図的にいつも求めていなくてはなりません。行いのない信仰は死んでいるのです。(ヤコブ2:20)
力の油注ぎは、人々を超自然的な方法で助けるために与えられるものであり、そのときに神の御こころと御性質をも彼らに明らかに示すことができるのです。決して失望してはいけません。一心に集中して粘り強くなければなりません。目に見える状況がどうであれ、自分のヴィジョンを高く持ち、神の御こころと真理を知って理解し、神の信仰によって動かされなさい。この行動が神の力を解放し、奇跡を生み出すのです。

4.熱心に霊の賜物を求めよ

第一コリント14:1には、霊的賜物を熱心に求めよ、と書かれています。私は祈りのときに手を自分のお腹の上に置いて、聖霊が活発になって 賜物が自分の中で顕著に顕れるようにと求めます。癒し、奇跡、知識の言葉、信仰という御霊の賜物はすべて、奇跡を行うミニストリーのためには非常に大切なものです。 あなたが活発になるようにと神に願うと、主はそうしてくださるのです。御霊の賜物はギリシャ語ではカリズマと呼ばれ、「恵みの賜物、何の働きもなしに受ける恵み」のことです。それは神の恵みの顕れです。受けるために働いたり努力はできません。救いがそうであるように、それは聖霊によって値なしに与えられるものです。求めれば求めるほど、もっとあなたは受けるのです。そしてすべての賜物を受けることができます!

5.断食と祈りの訓練


マタイ17:16には、弟子たちが癲癇の少年を癒すことができなかった記事があります。イエスは 質問されたとき、癒せなかった理由は弟子たちの不信仰だと言われました。神の御心に問題があったのではありませんでした。また、イエスは少年の信仰に焦点も当てられませんでした。弟子たちの心の信仰のレベルが問題だったのです。
しかし、もう一つの重要な要素は祈りと断食でした。祈りと断食をする中で、あなたの肉体と肉の思いが神の心と思いに全く服従し、神の信仰があなたの疑いにとってかわる時があるのです。祈りと断食は、神の信仰を私たちの内に解き放つ助けになります。奇跡を生み出すのは私たちの内の神の信仰であり、断食ではありません。この場合、断食と祈りは神の心に存在する信仰の満ち満ちた様にまで私たちの心を導く道として働くのです。
もう一度言いますが、奇跡は私たちの行いではなく、私たちに差し伸べられた神の信仰と恵みによって起こるのです。

6.神の声を聞くことを学ぶ

超自然の領域で働くためには、聖霊なるお方に対する鋭い感覚を発達させねばなりません。神はクッキーの型のように判で押したようには働かれませんし、いつも同じ方法で働かれるのではないからです。これはいらいらさせられることかもしれませんが、事実です。
このことはイエスにも見ることができます。主は毎日の生活の中でしるしや不思議が起こるのを 見られました。しかし主は 同じように祈られたことはほとんどありません。ある時はイエスは人々に手を置かれましたが、ある時はある 行動をとるようにと指示されました。又ある時は非常にかわったことをされました。
例えば、地面につばきして泥を目に塗りました。主は型破りであり御霊に導かれておられました。その鍵は、主は天の父がしておられるのを見てそのことだけをされたと言うことです。(ヨハネ5:19)

父の行動を見たり聞いたりする主の能力は、主が祈りと交わりにおいて父と過ごす時間の中から生まれたものです。もし私たちが霊的目と耳を敏感にしたいならば、神を見たり聞いたりできる場所に自分を置かねばなりません。そのためには「寂しい場所」に行って、自分の心と思いを神にだけむけることができるようにせねばなりません。自分で話すだけではなく、神に耳を傾けることを学ぶことによって霊的感覚を訓練するならば、あなたは御霊によってすばらしい神の力の顕れを見るようにと導かれるでしょう。

7. 油注ぎのあるところに行く

神の力の新しいレベルへと私が進むことができた大きな鍵は、神の動きのある場所に行ってもよいことを学んだことでした。ある人たちは、「神が私に何かくださるのなら、私の部屋に来てくださる。どこかに行く必要はない。」と考えています。勿論、神は私たちの部屋に来てくださることはできますし、実際そのようなことはよくあります。しかし、それだからといって、神が動いておられる場所に行くことによって油注ぎを文字通り「キャッチ」できるという事実がなくなるわけではありません。

神を持ち運んでいる人やミニストリーを見つけて、そばに行ってください。私たちは交わりを通してお互いから学び、 分与を受けます。このように他の人と一緒に神と交わることは、密室での個人的な祈りを通しての神との交わりにとって代わるものでは決してありません。それは個人的な礼拝に付け加えられるものであって、神との関係を補強するものにすぎません。私は現在最も油注ぎを受けている人たちの幾人かと共に交わるという祝福を受けています。彼らとの交わりは私の信仰を燃やしてくれたばかりでなく、私の人生やミニストリーの中に知恵、啓示、力を与えてくれました。

油注ぎのある交わりは、あなたの人生に油注ぎを養うために絶対に必要です。そのような交わりはコーヒーを飲みながらの一対一のものでも、また油注ぎのあるメッセージのCDやビデオ、また集会で共にワーシップするということでもできます。神が臨在される場所に行くことによって神の力に触れてください。

8.愛を動機とする


このことに関して一番重要だと私が思うものは、そして往々にして欠けているものは、愛です。イエスは憐れみの心で病人を癒されました。(マタイ14:14)私たちの心に神の愛が大きく注がれなければ、私たちは全く力がありません。
愛が私たちがするすべてのことの基礎でなければなりません。愛が霊的力を受けたいという願いの基盤でなければなりません。愛がないときに、力はプライドや自慢になってしまいます。実際のところ、人々への神の愛が私たちの心にないならば、力はむなしいのです。(第一コリント13:2)
愛は事実神の力の最も偉大な顕れです。イエスが全き従順の中を歩まれたのは愛の故でした。罪の力とサタンに打ち勝ったのは愛 でした。私たちが互いのために自分の命を与えるのは愛によってです。愛が私たちの信仰を動機づけるのです。(ガラテヤ5:6) 愛によって私たちは御霊の内に生きるようにされるのです。愛が一番偉大な徳 です。信仰がなければ神に喜ばれることはできません。しかし、愛がなければ、神を知ることは全くできません。
真理で満たされた愛は、罪、誘惑、怒り、不一致、病、圧迫、霊的腐敗、死に対する究極的な霊的武器です。愛はすべてを克服するのです。 これらの原則をあなたの人生に適応して神と共に歩めば、神の栄光ある力と油注ぎがあなたを通して解き放たれるに違いありません。

奇跡が起こるのを待っている人が、ほら、あそこにいますよ!(終わり)


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