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Walk With God Ministries


20 02月

今は変革のシーズン、テストの時 ボビー・コナー 2009年2月16日


今はチェンジ(変革)のシーズン、テストの時

ボビー・コナー 2009年2月16日

今、強いチェンジの風が吹いています! 今は決定的な変革と変化の時です。どっちつかずとか、中立ではおられません。今年はあなたが神の御国で大いに前進するか、それとも遅れをとるかが決まる年です。あなたがその鍵を握っています!その選択はあなた次第です。あなたは聖霊の導きに従いますか、それとも自分自身の火のあかりにたよって歩きますか?

「見よ。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。」イザヤ50:11

神の民は今のこの決定的な時のために準備されることが必要です。神の御霊は 神の軍隊にむかって、出動し整列するように呼びかけています。今は軍隊が招聘されるときです。出動とは戦いのための軍力を集めることです。整列とは軍隊を集めその組織をつくることです。

私たちはただ教会の椅子におとなしく座っているだけではなく、それ以上のことをするために召され任命されているのです。そして今は、真の愛と忠誠の革命を起こす時です。私たちは暗闇の王国に立ち向かうように召されています。革命とは邪悪な権力を倒すということです。

神の戒めに反することに対して、昨今の社会がそれを黙認し、放任し、性的乱れや反抗がまかり通っているのを見て、あなたが憂慮しているならば、今の世界にテストが絶対に必要であることがおわかりになるでしょう。

テストの時!

真理の御霊は、自分が 何を本当に信じているのかを吟味することを呼びかけています。本当のリアリティーチェックをする時です! もはや、ただ話し合いをするだけでは駄目なのです。自分たちが信じていると口で言っていることを実行する時です。みことばを聞いて話すだけではなく、実行する時です。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」ヤコブ1:22−25

今は、人間によって動かされるドライで死んだような 宗教で事足りる時代ではありません。話をするだけでは到達すべき場所には着きません。実行と油注ぎが必要なのです。なぜならば「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」第一コリント4:20

キリストのからだは、今のような情けない状態で生きるには、あまりにも多くのことを知っているのです。「行いのない信仰がむなしい」ことを決して忘れてはいけません。

ああ、愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ(たのです。)」ヤコブ2:20−22

神の御霊は今、私たちの霊的土台の状態を明らかにするためにテストが必要であると言われています。「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」詩編26:1−2

今、主があなたを深く掘り下げて試みられる事を覚悟してください。自分の罪を覆って隠そうとする時ではありません。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てるものはあわれみを受ける。」箴言28:13

すべてを告白し清くきれいになるときです。「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。」第二コリント7:1

多くの人が今まで大わらわで隠すことを願っていたことを、神は明らかにしていくでしょう。自分の隠れた罪を覆い隠そうと試みるのはとても愚かなこととなるでしょう。民数記32:23は、私たちの罪は必ず明らかにされると警告しています。「しかし、もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは主に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。」      

第二コリント13:5−6でパウロは、自分の人生が確立されているかどうか確かめるために自ら吟味するように教えています。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちには、イエスキリストがおられることを、自分で認めないのですか。—あなたがたがそれに不適格であれば別です。—」

私たちは神に、私たちの心に何か隠されたものがあるならば、それを明らかにしてくださいと願うべきです。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」詩編139:23

私たちは自分自身の心を知ることはできません。なぜならば、心は私たちを騙す事ができ、また実際騙すのです。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれがそれを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」エレミヤ17:9−10

「今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」ホセア10:12 (おわり)


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13 02月

野望が死ぬとき フランシス・フランジペン 2009年2月13日


野望(ambition)が死ぬとき

フランシス・フランジペン

私がクリスチャンになった時、主が私の将来の夢を見せてくださいました。そして私は、主が言われたことはすぐに実現するものだと思い込んでしまいました。 自分が整えられ、自我に死なねばならない事、忍耐を学ぶ必要、試練にあってもヴィジョンを持ち続けなければ神の約束は成就しないことなどに関して私は全く無知でした。その結果、私は大望、野心でいっぱいになりました。霊的に成熟していない者のうちに起きる最初の動機は、大望や野望、功名心です。イエスの復活の数日後に「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか?」(使徒行伝1:6)と聞いた弟子と私は同じでした。

野望は非常に巧みに人を惑わします。それは全く従順のように見せかけますが、私たちは主を真には知らないので、 神の声だと思って従っているのは、実は自分自身の声なのです。ヴィジョンは確かに神からのものかもしれませんが、動機は自我です。その結果、ヤコブ書にあるように、野望のある所にはやがてすぐに「秩序の乱れやあらゆる邪悪な行い ヤコブ3:16」が起こるのです。なぜでしょうか? それは私たちが神の御心を、人間の力によって達成できると考え始めるからなのです。私たちはブレークスルーを求めていますが、神は私たちを打ち砕き、ブロークンネス、を与えたいのです。

霊的に未熟な者は、未熟なので自分が未熟だということを認めることができません。ですから彼らは焦り、恐れ、要求を突きつけるのです。野望のある者はプライドによって盲目にされ、自分にはもっと大きな神の仕事をする準備ができていると思い込みます。実際のところ、一緒に働く人たちにとって、その人がもっと厄介なお荷物になるのです。というのは、彼の行動がいつも争いをひき起こすからです。

野望は、野望と霊的成熟との間に立ちはだかるものを常に殺そうとします。けれども霊的成熟を遂げるために死なねばならないのは、実は野望なのです。辞書によれば、野望とは「富とか名声などの成功と達成を熱心に願い、そのために努力することをいとわないこと」とあります。野望は争いや教会の分裂、教会内の紛争の主たる原因となります。

神から約束をいただいたのだから、 それをすぐに実行に移す命令を受けたのだと私は早合点しました。自分がまだ徳に欠け、忠実さや、人に仕えること、感謝の心を持つことなどに欠けていたことなどは理解していませんでした。私へのすばらしい約束や好機を神が実現してくださるためには、私の中でこれらの徳が 建て上げられねばなりませんでした。「私が神のために何をしたか」よりも、「私が神のためにどのような者になるか」のほうがもっと重要だったのです。

今私は、38年前に救われた当初には夢でしかなかったような霊的領域の中に生きています。私の野望は大いに傷つき苦しみましたが、私の夢は成就しています。私が召されている一番のことにはまだ達していませんが、野望と真のリーダーシップとの違いを、はっきり理解することができました。即ち、ミニストリーとは「リードせよ」という召しではなく、「死ね」という召しだということです。私が霊的な進歩を遂げた時はいつも、必ずその前に自分に死ぬことを要求される機会がありました。私の人生の力は自分に死んでキリストに生きるところから出てくるのです。

あなたは霊的成長を遂げたいと願いますか? 復活の力を持つ道は、十字架につくことです。神はあなたが自分に死ぬ機会を備えてくださいます。それを見逃してはなりません。自分と自分の野望に死ぬことは、真の霊的成熟を遂げるための道です。自分に死ぬチャンスが与えられた時に、それに対してあなたが肉的な怒りや憤りで反応してしまうならば、成熟はできないでしょう。しかし、あなたの野望が死んでも自分のヴィジョンを保つことができるならば、あなたは成功するでしょう。

真のヴィジョンを持っても、聖い動機を持つとは限りません。ある人は神から直接ヴィジョンをもらったにも拘らず、自己推進やそれを成就させようとする野心によって駆り立てられていることもあるのです。イエスは神の御国は近づいたと言われました。これはヴィジョンです。しかし主は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ともいわれました。(マタイ16:24)

もしイエスについて行くならば、それぞれがユニークな十字架を授かっていることに目をとめてください。「自分の十字架を負い」とある通りです。神は私たちがヴィジョンを達成する途上で肉的野望をはりつけにするために、一人ひとりのために特別にデザインした十字架を用意されているのです。ヨセフのことを考えてみてください。神は彼に将来に関する夢を与えられました。彼は、その神からのメッセージを静かに思い巡らす代わりに、10人の兄弟に対して高慢に振る舞いました。ヨセフはいつか皆が麦の束のように自分に頭を下げ自分に仕えるだろうと公言しました。

彼の肉的未熟さは、兄弟たちに肉的で悪魔的でさえある策略を思いつかせました。彼らはヨセフを殺そうとしたのです。ヨセフのヴィジョンは神からのものでしたが、彼の思いには徳が欠けていた故に、それによって命さえ奪われかけたのです。(創世記37章参照) しかし、神はヨセフが霊的知識に欠如していた時も尚、彼と共におられたのです。

そして、私たちも未熟で野望を持っているときでさえも、神は共にいてくださることを喜ぶべきです。しかし、次のことを理解していなければなりません。真のヴィジョンというものは、成就する前にあなたを殺すということです。ヨセフはどのような状況におかれても、どのように不正な目にあっても、神を信頼することを学ばねばなりませんでした。彼は忍耐を学び、彼の夢が実現し花開く時がくるまで他の人に仕えることを学ばねばなりませんでした。「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。」(詩編105:19)

次のことを考えてみてください。全能なる神はもっと簡単で安全な方法でヨセフをエジプトに連れてくることも出来たはずです。ヨセフは奴隷に売られることなく、家族の中で成長することもできました。彼は夢と解きあかしの賜物をもらっていましたから、聖霊が エジプトに行けという夢を与えることもできました。(何世紀も後のヨセフにはそうされました。)

そしてエジプトに着いたならば、ヨセフの夢の解きあかしの名声が、例えば王が夢を見た翌
06 02月

人を助ける賜物 リック*ジョイナー 2009年2月2日


人を助ける賜物

リック*ジョイナー 2009年2月2日


教会が今の時代に与えられている目的を果たすためには、絶対に一致が必要なこと、そしてどうすれば一致をもたらすことができるかを私たちは考えています。今まで分裂していた 教会間や教派間、又クリスチャン同士の間に、信頼と交わりの大いなる橋が数多く架けられるのを、今年は見る事ができるでしょう。それによってキリストのからだは、今までにない力を与えられるのです。

キリストのからだの中に、これほど多くの分裂があった理由の一つは、私たちがあまりにもすべてを一様化しようとしたことです。かつてイスラエルに求められたのは、基本的な二つの事、即ち、礼拝と戦いに関して一致することだけでした。それは、主が定められた場所と形式で共に主を礼拝すること、そして、同胞他部族が敵からの攻撃を受けた場合に彼らを助けることができる戦いの準備をしていることの二つでした。

ですから、教会もこの知恵を使って生きるならば、その力、権威、大きさ、富、影響力は、すぐに何倍にもなることでしょう。礼拝に関する一致を論じる時に、例えば音楽のスタイルのように主が自由を与えていてくださることに関しての討論は絶対に避けなければなりません。しかし、礼拝の対象は「どなた」であるのかとか、モラルや正義、その他すべてのクリスチャンが共有すべき基本的な真理に関しては、一致しなければなりません。

モラビア派は、次のように言っています。「基本的なことに関しては一致がなければならない。その他の事に関しては自由がなければならない。そしてすべての事において愛がなければならない。」

人を助ける賜物のミニストリー

次に、戦いに関しては、他のクリスチャンや教会が攻撃されているのを見たならば、クリスチャンとして私たちはその人たちと共に戦う姿勢を常に持っていなければなりません。現在、残念ながらこのような事は稀ですが、これが実行された時には、クリスチャン同士が特別の力強い永遠の絆で結ばれるのを私は見てきました。

ずっと以前に私は、人を助ける賜物のミニストリーは教会に一致をもたらす最も力のあるものの一つであることを教えられました。私は、このミニストリーは教会で草刈りをしたりお皿を洗ったりすることだと思っていたのですが、それよりもっと深いものだということを主が教えてくださいました。それは他のすべてのミニストリーの土台となるべきものなのです。

聖霊は「助け主」と呼ばれます。真に人を助けるミニストリーは聖霊のご性質の表れの基本的な部分です。溺れた人が助けを求めて叫んでいるとき、それに応えて救う人は人を助けるミニストリーをしています。攻撃を受けている人を助けるのは、人を助けるミニストリーなのです。

主の御心は人を回復させること

ずいぶん以前、私は自分の子どもが下水溝にはまってしまい、汚物にまみれている夢を見ました。誰も助ける人がなく、それどころか彼の汚さを見て世界中が軽蔑しているようでした。すると夢の中に一人の男の人が現れ、私の子どもを救い上げ、きれいに洗って元通りにしてくれました。子どもは解放され、また前進して行けるようになりました。

子どもを助けてくれた人に対する私の 感謝の気持ちは、口で表すことは到底できませんでした。自分の全財産を上げたい、その人のためならば何でもしたいと思いました。その時、夢の中で主の声が響きました。「ジム・ベイカーはわたしの子どもである。彼を助けてくれるだろうか?」

当時ジム・ベイカーは、世間で、そしてクリスチャンからも多分一番軽蔑されていた人の一人だったでしょう。彼が刑務所に入っていたときにクリスチャンの人たちから沢山手紙がきたのですが、それを読むと彼を一番軽蔑していたのはクリスチャンの人たちだったのではないか、と思えるほどです。神は彼を愛しておられました。そして ご自分の子どもの一人が傷ついているのを見て、神も苦しんでおられました。私は彼のしていたPTL(Praise The Lord)という番組は、たまにちらっと見たことがあるだけですし、面識はありませんでした。彼の裁判の様子や刑務所に入ったことも、ニュースで少し知っていただけでした。

しかし、私は出来る限りジムを助けようとすぐに決心しました。けれども、私は彼を助けるために大したことは出来なかったと思いますし、正直言って、彼との関係においてより多くの恩恵を受けたのは私のほうだったと言わねばならないでしょう。何よりも、このことを通して以前には経験しなかったすばらしい神の恵みが私の上に注がれたのです。

トッド・ベントリーの問題が起こり、彼を回復させるようにと頼まれたときに、私が迷う事なく承諾したのは、同じ理由からでした。ジム・ベイカーを助けることは私や私のミニストリーを大きく損なうことになると、何人かの人から忠告を受けました。確かに そういう事も少しはあったかもしれませんが、すべての人からよく思われるよりも神から恵みを受ける方がもっと価値があるのです。トッドは、私が彼を助けるのは何か見返りを期待しているからではないか、という疑問を持ったと思います。すべてのクリスチャンが彼に対して腹を立てているように思われるときに、どうして私が彼を助けるなどということをしたいのか、と彼は訝しがったのです。しかし、20年以上前に主から受けたあの夢は、今も同じように私にとって非常にリアルなものであるのです。

私がこの世で生きているのは、ミニストリーを建て上げるためではなく、神の御心を行うためです。そして人を回復させたいという主の御心と同じ心を教会が持つまでは、神や人から教会が信頼されることは決してないでしょう。この世が罪を犯して神に背を向けた時、主はこの世を罪に定めることなく、この世を救うためにこの世に来られ、ご自分のいのちを与えられました。主の心を持つ者は、問題の渦中にある人たちのために同じことをするのです。

真のクリスチャンは礼拝に関して基本的に一致しています。今、クリスチャンが他の兄弟姉妹が攻撃にあうときにそれに応えて助けの手をのべ始めるならば、私たちの一致は非常に早く達成されていくでしょう。また、罪を犯した人を助けるために働くことも必要です。それはキリスト教の基本、即ち救い主が私たちのためにしてくださった事だからです。(終わり)


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30 01月

荒れ果てた「ゆずりの地」(相続財産)を回復する(2) ポール・キース・デイビス 1月30日


荒れ果てた「ゆずりの地」(相続財産)を回復する(2)

ポール・キース・デイビス


栄光に満ちた領域

今世代において未だかつて経験したことのないレベルの栄光が集会の上に臨むでしょう

イザヤは、大いなる暗闇で天の光が義人の上に輝くと預言していますが、今私たちは歴史上そのシーズンにまさに入ろうとしています。今まで秘められていた御国の奥義を語るとき、私たちは真理の御霊によって輝くのです。イザヤ60:1−3でこう宣言されています。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

終わりのとき、主は主の御民の上に深い臨在や大いなる栄光を くださり、それによって 救いのみ業を国々に証しされます。
恵みにより救われた罪人に、このような召しと責任が与えられるとは、まことに驚きです。ダニエルが預言したように「多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。。。。思慮深い人々は悟る」のです。(ダニエル12:10)

この人々は、「私たちの中におられるキリスト、栄光の望み」という奥義を理解する者たちでしょう。この精錬するというプロセスを通してのみ、私たちは自分を破滅させずに地上で主の栄光を現すことができるのです。今通されているプロセスが、自分が整えられ準備されるためであることを正しく理解するならば、主から召されているのだという希望を持つ事ができます。もしそれが理解できないと、失望したり、希望をなくしたり、自分は失格者だと感じてしまうでしょう。

この現実を正しく把握せねばならないもう一つの理由は、21世紀のために備えられているものを受ける鍵を、祈りととりなしのミニストリーが受け取るようになるためです。祈り、賛美、預言的宣言を通して私たちはこの実現のために戦うでしょう。人間の肉的な努力ではなく、私たちの信仰が活性化され、御霊の啓示と神の計画とに一致して語る(宣言する)ことによってそれは達成されるのです。ヨブ22:26−28に書かれています。

「そのとき、あなたは全能者をあなたの喜びとし、神に向かってあなたの顔を上げる。あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。」

最終的に、神の栄光の現れの結果として、教会史上経験したことのないほどの魂の大きな収穫が起こるでしょう。それはアメリカだけにとどまらず、その他の地上の国々へのメッセージとなるでしょう。また、それは人間の組織によって運営されたり支配されるのではなく、聖霊のリーダーシップによって行われるでしょう。

栄光は分別する

コラの反逆は、神の栄光が現れた時に裁かれました。民数記16:19−21に書かれています。
「コラは全会衆を会見の天幕の入り口に集めて、二人に逆らわせようとした。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。主はモーセとアロンに告げて仰せられた。『あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。』」

コラの反逆が神の栄光によって裁かれたと同じに、反逆の種は私たちの中で、個人的にもキリストの身体としても分別されるのです。神の栄光が現れるところでだけ、汚れたものから清いものを分離することができるのです。

この世の圧迫と混乱は、完成され主の御国が現れる準備がこの時代に整うにつれて、ますます大きくなるでしょう。光と闇との対決もまた、悪が増大するにつれ激しくなって行きます。それと同じように光の子たちは、主のあがないの業による救いと希望をこの世に伝えるべく応えなければなりません。

最近私は啓示的な幻でこの現象を見ました。幻で私は地獄の内部の扉が開いて大勢の悪霊が出てくるのを見たのです。その中のいくつかはその特徴で識別することができました。一つはアドルフ・ヒットラーのような容貌であり、もう一つはジョセフ・スターリンのようでした。これらは歴史上の暴君を通して働く悪霊だと信じます。

これらの悪霊どもが人々の前に現れ、今世代では未だなかった暗黒と邪悪の中を歩むようにとある者たちを訓練しているのを、私は見ていました。それはあたかも終わりの時代に関していにしえの預言者たちが語った、暗闇のマントルを受け継ぐようにと選ばれ力を与えられた者たちのようでした。

これが起こっているときに、私ははっきりとした声が「光の子たちも同じように応答せねばならない。」というのを聞きました。この戒めと共に、終わりの時の対決のために整えられた天使たちが天から下ってくるのが見えました。彼らもまた、啓示と力のマントルの中を歩む人々を訪れて訓練する任務を与えられていたのです。

光と闇の対決

義と平安と喜びが特徴である主の御国は、勝利を勝ち取るキリストのからだのうちでますます大きくなりますが、暗闇もそれと平行して大きくなります。この世にいる間、私たちはこの世の霊に属さないようにと戒められています。闇が深くなればなるほど光は明るく輝くのです。

神の御霊の働きに自分を委ねた者たちは、義において成長しますし、また、次のことが起こります。
「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」マタイ13:43

過去数百年の教会の歴史の中で、数知れない霊的ブレイクスルーがあり、それによって次の世代は変えられてきました。神はマルチン・ルターを用い、義人は信仰で生きるという真理を確立するために、彼にブレイクスルーの油注ぎを与えました。

ルターに続いて、ジョン・ウェスレーやその他の人々がブレイクスルーの油注ぎを受け、聖化のメッセージをしたので、クリスチャン生活のあるべき姿に関しての今日の理解を変えました。次にはウィリアム・J・シーモアとアズサストリートのアウトポアリングによるブレイクスルーを経験しました。その次にはウィリアム・ブランハムと後の雨のアルトポアリングによるブレイクスルーがありました。

現在私たちは、主がされたのと同じ業を、キリストの身体のメンバーが息子、娘として現すようになる、もっともすばらしいブレイクスルーがまさに始まろうとしている地点に立っています。これからの数年はびこるであろう暗闇
25 01月

荒れ果てた「ゆずりの地」(相続財産)を回復する ポール/キース/デイビス  1月25日


荒れ果てた「ゆずりの地」(相続財産)を回復する(1)

ポール/キース/デイビス


新しい年への啓示を願っていたときに私に与えられたものは、新たな預言的約束ではなく、すでに与えられている約束を達成せよという主からの訓戒でした。

確かに私たちに一番必要なのは、今の世に対する新しい約束ではなく、すでに与えられている預言の言葉が実現することです。今までに多くの言葉が語られましたが、成就したものはほとんどありません。しかし、それが変ろうとするシーズンに今や入ろうとしています。
エゼキエル12:22−23に次にように書かれています。

「人の子よ。あなたがたがイスラエルの地について、『日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。』と言っているあのことわざは、どういうことなのか。それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する。』と彼らに告げよ。」

今年目指すべき目標を主に求めたとき、これからのシーズンに成就すべき事柄として、過去にすでに与えられ用意されているいくつかの啓示的メッセージが、はっきり示されました。その多くのものは、 ゆずりの地(相続財産)を回復することと、先人によって導入されたけれどもその時代には十分には用いられなかった偉大な「マントル」に関することでした。

12月(2008年)に私たちのミニストリー(white Dove Ministries)は「癒しの声の回復」というカンファレンスを行いました。ゲストスピーカーはリック・ジョイナー、ビル・ジョンソン、それにトム・デイビスでした。最近のもっとも重要なカンファレンスの一つだったと思います。

かつてわが国に訪れた啓示と力のマントルを回復する力が、今の私たちに整えられた故に、このテーマが強調されたのだと思います。1940年代、50年代に訪れた「癒しの声」のリバイバルは、教会史上最高のものの一つでしたが、残念ながらそれは失われてしまいました。預言者イザヤが当時叫んだ問いは、今も我々に問いかけられているのです。「誰が破れ口に立って『返せ!』と言うのか?」と。

「これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もない。あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。」イザヤ42:22−23

本年の前半、私たちはこの召しを達成するために大きく前進するという預言的約束をにぎって、これを強調していくつもりです。
この目標に向かい共に協調して進んでいける人が数人でもいるならば、来年の今頃にははっきりした進歩が見られるはずです。人間的には2009年はテストと試練の年になるでしょうが、同時に神の民のレムナントがきよい心と正しい動機で主を求めて前進する年ともなるでしょう。

荒廃したゆずりの地を回復する

興味深いことに、先の時代の目覚ましい出来事の多くは、荒れ地で起こりました。1960年代に数多くの主の訪れや啓示がアリゾナの砂漠でおこり、それらは現在私たちが直面している状況に直接適用できるものでした。

私たちには荒野のシーズンが少し残されていますが、義人にとっては、実は非常にすばらしい時なのです。荒れ果てたゆずりの地を回復するようにと私たちを整えるために新しい指令が出されたのです。それはイザヤ49:8が文字通り成就される時になるのです。

「主はこう仰せられる。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。』」

主は我々の手を取り我々を見守り、民の契約となり国々の光となって地を回復し、荒れ果てたゆずりの地を人々が相続できるように、私たちを整えていてくださったのです。

完成への踏み石

この一年で我々が約束の地を完全に勝ち取るでしょうという預言ができるなら本当にすばらしいでしょうが、そうではなく、今年は準備期間が完了し、ヨルダン川を渡る命令を受けとるシーズンであるという方が正確でしょう。ヨシュアも川のこちら側で次のリーダーになる指令を受けたのです。

これからのシーズンには、多くの人が、先人のマントルを着ることをゆるされて任務の指令を受けるでしょう。現在、先の時代の偉大な御霊のアウトポアリングにおいてリーダーとなった霊的な父や母を敬うことが強調されています。彼らは多大な困難を乗り越えてその時代に神の御国を顕したパイオニアたちです。

確かに彼らの中には間違いを犯して失敗した人もいましたが、彼らが土台を築いてくれた故に、私たちは次の大きなアウトポアリングを打ち上げることができるのです。
我々のミニストリーでは、A.A.アレン、アレクサンダードーウイ、ジョンGレイク、ウイリアムブランハム等の癒しのリバイバリストを敬う重要性を強調しています。

この人たちの中には20世紀に最も汚名を着せられた人もいましたが、人々の魂の救いと奇跡のために非常に目覚ましく用いられた人たちです。我々の敵は、先人の欠点や弱さを極端に強調することによって、彼らの証しを効果的に台無しにすることに成功しました。
しかしそれでも、主は彼らのパイオニアとしてのよい働きを認識する人々を用意されました。そして未完成の命令を前進させるように私たちを準備されたのです。

代価を支払う

霊的賜物はカリバリの十字架で贖われた超自然的な恵みの結果です。しかしながら、個人の霊的成長はそれぞれが自分で高価な値で主から買わねばなりません。

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」黙示録3:18

我々が栄光から栄光へと進んでいくことは常に主の御心でした。しかし残念なことに、教会は、歴史的に見てそれを果たす責任をとって来ませんでした。子どもたちは親がいた場所よりも 高いレベルから出発するべきです。それが聖書全体を通じての伝統と遺産の原則です。

「善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。」箴言13:22

私たちは再 び ゆずりの地が荒れ果てているのを認めて、今の世代が所有できるようにする機会を与えられています。私たちの前の時代に紹介された 啓示と力のマントルは私たちも手に入れることができます。私たちはどのような代価を払っても神にあるこの場所に到達する必要があるのです。この啓示の重要な点は、この目的のために私たちの前に備えられた「開かれた扉」があることを強調することです。

これからのシーズンにこのマントルを分与するために主の御霊がある人たちを訪れることを、主はいくつかの啓示を通してはっきりと現されました。間もなくリーダーとなる人々の多くは、今は人に知られていない人たちです。しかし彼らは天では知られており、大切な啓示と力を受けるために用意されているのです。

ですから、この預言的約束は、私たちがこのゆずりの地のために必死で戦うようにさせるためのものです。私たちは、エリヤの上にあった油注ぎをエリシャがつかんで受けたように、主の御霊の注ぎを私たちが受けるべくしっかりと主の御前に立つことが肝要です。


最近私は荒れ果てたゆずりの地に関する啓示を主からいただきました。その幻の中で、私は自分が砂漠地帯の山がある場所にいて、大きな価値のある宝を見つけようとして考古学的な発掘をしていました。

すると、昔のリーダーたちによって始められたもので、今日完成すべき啓示が書かれている多くの古い本を掘り出しました。私はこれらの本が金銀よりも価値のあるものと考えました。古いものや比較的新しいものもありましたが、私はそれらを完成することによってすべての私たちがすべき仕事、役目、約束が完成されることが分かりました。
この啓示は、先の世代の人たちによって始められた仕事を私たちが受け継ぐ機会と責任について語っています。ヨシュアがモーセの仕事を完成させたように、私たちも成就されていない約束の完成を担うのです。

恵みと真理が主の栄光を呼び覚ます

砂漠は恵みとまことによって主の訪れと分与が確立されるところです。

「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。」詩編57:7−11

私たちに今与えられている機会は、荒野の経験の最後の部分を私たちが喜んで受ける事によって、次に来ることに対して私たちが完全に整えられることです。シェキナの栄光は会見の幕屋の上にくだり、モーセは神と顔と顔を合わせて長時間会うという特権を与えられました。

イスラエルはまだ約束の地には入らず荒野にとどまっていましたが、そこで約束の地を勝ち取るための備えをしていました。今日もそれと同じなのです。これからのシーズンは正しい人たちの間に神と神の栄光が顕れる時となるでしょう。

義人たちが栄光を受けるでしょう。神の栄光のしるしが人々の上にとどまり、彼らは父の御国で太陽のように輝くでしょう。(続く)


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