Archive for the ‘アメリカの使徒的・預言的な人たちからのメッセージ’ Category:
19 08月
主の前に立つ者(その2)
リック・ジョイナー(MorningStar Ministries)
預言のミニストリーの中の惑わし
預言のミニストリーの中に侵入している惑わしがあります。
私は50年以上教会の歴史を研究していますが、偉大な預言者でもある一時、道を逸れてしまうことがあります。ですから、誰かが少し間違ったからと言って、簡単にその人を裁くことはしたくありません。私が尊敬する聖書の人物たちも、ある一時少し道をはずしたのです。しかし、もし「自分は絶対大丈夫だ。」と過信するならば、間違ってしまう危険性が大きくなります。ですから、私はここで注意を喚起したいと思います。
時々預言的な啓示を受ける人が、神はすべての事に関して自分と同じように考えると思いはじめ、神から聞くことではなく自分の考えを預言し始めることが起りますが、それは究極の惑わしです。たとえ素晴らしい預言的啓示を受けたとしても、神の深遠な考えと私たちの考えとは、かけ離れていることを知らねばなりません。彼らが自分の考えを「神から受けました」と言って預言し始めるならば、深刻な偽りとなります。ですから、「そのような感じがした インプレッションがあった」というようなレベルで「主が言われました」とは決して言うべきではありません。低いレベルの預言的啓示は非常に歪められやすいのです。
偏見や、自分の中にある癒されていない傷などによって歪められます。それは惑わしを生みだす肥沃な土地となります。サタンがベルゼブル(蠅の王)と呼ばれるのは、多くの預言が偽りの上に立っているからです。あなたに傷があると蠅が傷口にたかって化膿させ、傷が癒えないようにするのです。皆さんがどのような傷を持っておられるのかわかりませんが、主の祭司としての資格を持つことはできません。旧約時代の祭司もかさぶたがある者は仕えることができませんでした。かさぶたは癒えてない傷だからです。あなたは仕えることができないばかりではなく、それは惑わしと悪の温床となります。
多くの人が「私は傷つけられた」と言いますが、私たちクリスチャンは傷つけられる権利は持っていないのです!傷ついたままでいる権利はないのです!どのように裏切られたとしても、私たちには傷を持ったままでいる権利はありません!イエスよりも傷ついた者はいません!イエスより不正な手段で傷つけられた者はいません!しかし、イエスは何と言われましたか?「父よ、彼らをお赦しください。」と言われました。
私がクリスチャンになった時、「主があなたの戦いをしてくださる。しかし、まずあなたは赦さなければならない。」と教えられました。ですから誰かから悪いことをされた時、その人を赦す努力をしました。そして主がその人をコテンパにやっつけてくれるのを待ちました。しかし、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。」と言ったのです。それは究極的な赦しです!
イエスは傷を受けたまさにそのところに、権威が与えられました。彼の打ち傷によって私たちを癒す権威です。
私たちが人に裏切られたりして傷つくのを主が許されるのは、その傷によって他の人を癒す権威が私たちに与えられるからです。
イスラエルが荒野で受けた最初のテストはマラの苦い水でした。彼らは3日間水なしで荒野を歩きました。どれほどの渇きだったことでしょうか。想像もできません。水を見たとき、彼らは狂喜しましたが、それは飲むことができない水でした。彼らが最初に学ばねばならなかったことは、「苦い水をどのように甘くするか」ということでした。モーセが木を投げ込んだときに水は甘くなリました。
ほとんどの場合木とは十字架を示します。私たちが約束の地に入るために、最初に学ばねばならないのは、苦いことを甘くすることです。そして癒しの権威を受けるのです。
私たちに確かにある印象が与えられることがありますが、それはそのまま「私はこのような印象、インプレッションを持ちました。」と言うべきであって、それを主からのものと言うべきではありません。
パウロも1コリント7:12で、「これを言うのは主ではなく、私です。」と「主からの啓示」と「自分自身の考え」とをはっきり区別しています。印象は神から影響を受けていることはありますが、そのレベルでは大抵の場合、他のものも混じっています。例えばコーヒーを飲まなかったからであることもあります。コーヒーを飲んだら、預言が変ることでしょう。(笑)自分の思い、感じを預言のように伝えるならは、神はほんとうに重要な預言をその人には委ねることはしないでしょう。私たちは「神の言葉」をもっと尊び大切にせねばなりません。
ある時私は主に文句を言いました。(私は主に文句を言ってもいいと思います。人に対して文句を言うのはいけませんが、主には言っていいのです。)「主よ、あなたはどうして私にはいつも厳しい預言をくださるのですか?」と。ジョン・ウインバー師は私を人に紹介するとき「これは私に対していい預言は一つもしたことがない人です。」とよく言いました。確かにハッピーでポジティブな預言を彼にしたことはないと思います。彼のことを全く知らなかったとき電話で始めて話したのですが、彼は「ヴィンヤード(ウインバー師のミニストリー)に対する神の言葉がありますか?」と私に訊ねました。私はヴィンヤードとはワインのためのぶどう園かと思いました。(笑)「ぶどう園に対する言葉などあるだろうか」と戸惑っていると、主が言葉を与えてくださいました。主は「スキャンダルがヴィンヤードに起ころうとしている、と伝えなさい。」と言われました。私は「ぶどう園にスキャンダルとは何のことか?」と思いましたが、主はそれだけしか言われなかったので、そのまま彼に伝えました。そしてまさにその翌日、彼のミニストリーで最悪のスキャンダルが勃発したのです。素晴らしいことに、彼は権威を持って大胆さと知恵でその問題に対処しました。
私は本当に厳しい預言を伝える役目をいつも主から与えられるのですが、今はそれを厭いません。幸いに私は、天の様子、王なるイエスの栄光を何度も見ることができたので、この世の艱難はすべて克服されることを確信できるからです。
臨在の中にある喜び
詩編16:11「あなたの御前には喜びが満ちています。In Your presence is fullness of joy. 」
戦争や災害がやってきたときに、どのようにしてそれを喜ぶことができるのでしょうか?
もし落ち込んだり、落胆することがあるならば、それは私たちが主の臨在から離れてしまったからです。主が私たちを離れたり捨てたりすることは決してありません。主が動いたのではなく、私たちが動いたのです。ですから不安や恐れに襲われたならば、私たちは先ずこう言うのです。「私は主から離れてしまっていた。主に近づこう。そうすれば主は私に近づいてくださると約束された。主のそばを歩くならば、喜びが満ちるのだ。」主に近づけば近づくほど、私たちの喜びは満ち溢れるのです。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。』」イザヤ6:1−3
私がクリスチャンになり立ての時、この箇所を読んだのですが、「これはちょっと変だ。おかしい。」と思いました。「これほど世界に戦争、飢餓、病気、暴虐、悪があるのに、どうしてセルフィムは『栄光は全地に満つ』などと言えるのだろうか?」と。すると主が答えてくださいました。「それは彼らがわたしの臨在の中に住まうからです。もしあなたがわたしの臨在の中に住まうならば、あなたはただ栄光を見るのです。」
私たちは実際に起こっている様々な悪を見ない訳ではありません。しかし神の究極的な結末に栄光を見るのです。私たちは違う視点で見なければなりません。
神のすべてのメッセージは「回復」なのです。聖書の最初の3章と最後の3章で完全なストーリーとなります。創世記の最初の3章ですべてが失われましたが、黙示録の最後の3章ですべてが回復されたのです。
ヨハネが高い山に連れられたとき(黙示録21:10)、新しいエルサレムを見ました。その時までは、彼が見たのは、偽りの教会、バビロン、偽預言者、獣等でした。しかし次に彼は新しいエルサレムを見たのです。彼が高い山に連れていかれ、視点がかわったからです。私たちが谷から預言することは、正確かもしれません。そして多くの人がそこから「サタンの計画」を預言するのです。ボブ・ジョーンズ師はそれを「第二の天の啓示」と呼んでいました。彼らは将来起こることを見せられ、それを預言します。それは正確なのですが、彼らがそれを見せられた理由は預言をするためではなく、それが起こるのを止めるためなのです。しかし彼らは「サタンの計画」を見せられて、それをそのまま預言してしまうのです。しかし主がネガティブで悪いことを啓示されるのは、それが起こることを止めるか、少なくとも被害を軽減するためです。
私たちのするべき事
悪いことが起こるという啓示を受けたとき、私たちに出来ることが二つあります。一つは「悔い改め」であり、もう一つは「とりなしの祈り」です。新約の型であり影であった旧約においても、モーセはこれを理解していました。民数記16:45−46で主はモーセに「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」と告げられましたが、彼はアロンに「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったからだ。」と命じ、民のために贖いのとりなしをしたのです。「香」は何を表していますか?
祈り、とりなしです。モーセはここで、とりなしの祈りがどのように神罰を止めることが出来るかを、私たちに語っているのです。
私たちが空しい思いをとりなしに変えるならば、私たちの世界はどれほど違ってくるでしょうか?
私たちは空しいことを考えたりいろいろな恐れで自分の思いを一杯にして、無駄な時間を過ごしていることが何と多いことでしょう。その代わりにクリスチャンが時間と思いをとりなしに用いれば、家庭や教会、地域、国はどれほど変ってくるでしょうか。
ヘブル7:25「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
もしあなたがイエスの臨在の中に生きたければ、主がしておられることをすることによって主と一つとなれるのです。
イザヤ6章でイザヤが主を見たのは、ウジヤ王が死んだ時であったのは興味深いことです。イザヤはウジヤ王に希望をおいていました。ウジヤ王は義しい王でした。どうして神は彼を取られてしまったのでしょうか。しかし、イザヤはそれよりももっと高い希望を見ることができたのです。彼はセラフィムが「全地は主の栄光に満ちる」と歌うのを聞いたのです。あなたがただ「悪いこと」だけを見て「主の栄光」を見ないならば、あなたの見るものは歪んできます。あなたは悪いことを見ないのではありません。人は罪を示されなければ悔い改めることができません。
主も人の罪を指摘されました。しかし主は「悔い改めなさい。あなたは罪人だから。」とは言いませんでした。主は「悔い改めなさい。神の国は近づいたから。」と言われたのです。あなたは「御国」が見えますか?
新しいエルサレムが見えますか?
これからの時代への備え
現在、どうでもいいような預言が多く語られています。 主からではなく人の魂からの言葉、人を喜ばせるための預言やお世辞、万事うまくいく、等というものです。そしてそれはひどい結果をもたらそうとしています。なぜならば、もうすぐに恐ろしいことがやってこようとしているからです。イエスご自身も「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるのです。(マタイ24:21)」と言われました。主はその時私たちがどのようにすればよいかと言われましたか?
主は3つの事を言われました。
1.固く立つ。自分の信じること、真理、義
のために、どのような代価を払おうとも、どのような結果になっても、それを世に表明する。クリスチャンはそのように召されている。
2.見上げる。御座におられる方を見つづける。何が起ころうとも主から目を離さない。必ず究極的には勝利があることを知る。
3.喜ぶ。決して喜びを失わない。あなたが喜びを失うならば、それは即ち主の臨在から離れることである。主と共に歩み、主の内に留まるならば、どうして喜びをなくすことがあるであろうか。
主がある時私に「終りには主の民はあまりにもハッピーなので、この世は私たちが知恵遅れだと思うくらいになる」と言われました。私たちは人々の苦難に対してハッピーなのではありません。それに目をつぶるのでもありません。しかし、主が「これらのことが起り始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。あなたの贖いが近づいたのです。」(ルカ21:28)と命じておられるのです。何が起こっても私たちは悲しむのではなく、主を見上げて喜ぶのです。
私たちが喜ぶとき、それは私たちが御国の住人であることの証拠であり、来るべき御国に入る者です。御国は「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14:17)なのです。
ではこの3つをするにはどうすればよいでしょうか。私たちにはできません。主は不可能な命令をされました。ただ一つの方法は「不可能のない方」に拠り頼むことです。私たちは自分の子供や近所の人たち、またすべての人に憎まれると主が言われました。憎まれるときあなたはわくわくしますか?しかし、もしあなたが揺るがないで真理に立ちつづけ、義と平安と喜びを失わないならば、あなたを憎んでいた多くの人があなたのそのような姿を見ることによって、偽りから解放されるのです。もしあなたが固く立たないならば、この世と共に流されてしまうのです。
詩編32:6「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所には届きません。」
今こそ主にお会いする時です。(終り)
13 08月
主の前に立つ者
リック・ジョイナー
今、キリストのからだで、預言のミニストリーがもっと発展していく必要があります。現状のままでは問題が多いのです。
エレミヤ23:18に「いったいだれが、主の会議に連なり(who has stood in the council of the Lord)主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。」とあります。
この章は、主が語られてもいないことを主の預言として語る者が多くいることを警告しています。現在も単なる「お世辞」にすぎないものを「主からの預言」として語っている者が多いのです。聖書には、お世辞や人を持ち上げることがいいとはどこにも書いてありません。
エレミヤの時代、ほとんどの場合エレミヤに同意する者はなく、彼は孤立して一人で立たねばなりませんでした。他の預言者たちとは反対のことをエレミヤは預言しました。これはエレミヤに限らず、聖書に書かれている預言者に共通のことであると思います。私たちは「人々が聞きたいこと」を語っているのでしょうか、それとも「本当に主の会議に連なってそこで聞いた主の言葉」を語っているのでしょうか?
ヨハネ7:18「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」
この「栄光」ということばは「recognition人から認められる」と言ってもいい言葉です。自分の思い、考えから話す者は、通常、自分が人々から認められたいから話すのです。どうして私たちは預言を語るのでしょうか?
新約聖書には預言者よりも使徒の方がずっと多く現われている事実を私たちは知るべきです。実際、預言者は非常に稀でした。それは今日も変らないと思います。勿論「預言的な賜物」を持っている人は沢山いますが、その人が預言者というわけではありません。クリスチャンならば誰でも神の言葉を聞くべきです。クリスチャンならば誰でも預言的啓示を与えられるはずです。しかし、そうだからといってその人が預言者であるわけではないのです。今日預言のミニストリーを混乱させているものがあります。真に主の言葉が語られるために、私たちは混乱を無くしてゆく必要があります。
18節の後半には「しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」とあります。私たちが「真の預言者」について理解するならば、「私は預言者になりたい」と願うことなど、気が狂った人がすることです。もしあなたが真の預言者ならば、人々から称賛されることなどほとんどありません。かえってすべての人があなたに対していつも腹を立てることでしょう。あなたが死んでしまい最早脅威でなくなるまで、誰もあなたを預言者とは認めないでしょう。あなたは「にせ預言者」等と悪口を言われますが、それは「真の預言者」にはつきものなのです。これは自分が認めてもらうためや栄誉のために求める職ではありません。それでも進んで預言者になる人はいるでしょうか?
キリストのからだは、からだ全体として、自分の国に対する預言者となるように召されています。この国に対する預言の言葉はどこにあるのでしょうか?
この10年間でアメリカに起こっているおぞましい腐敗を知っていますか?
もうかつてのアメリカの姿ではなくなっています。イザヤ5章20節に「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦(にが)みを甘み、甘みを苦みとしている。」とありますが、これがまさに今のアメリカです。「尊ぶべきことに恥辱を与え、恥ずべきことを尊んでいる」というのがアメリカの現状です。
それでは今どこに「預言的な声」が聞かれるのでしょうか? 今起こっていることに対する怒りの声はどこにあるのでしょうか?今幼稚園で性的倒錯が教えられているのを知っていますか?
国全体に倒錯が無理矢理押しつけられています。ロシアのプーチンがG20でしたスピーチはYoutubeからすぐに消されてしまいましたが、彼の言ったことは非常に正しいことでした。彼は西洋を叱責したのです。彼はまるで旧約聖書の預言者のようでした。「皆さんは混乱してしまって、どちらのトイレに入ればいいのかも分からなくなっている。」と彼は指摘しました。本当にアメリカやヨーロッパの現状は「気が違いっている」のを通り越しています。そしてそれは教会の中にまで侵入しています。それはこの国で起こっていることに断固として反対して立ち上がる真の義人、真の預言者が教会にいないからです。羊を守る羊飼いはどこにいるのでしょうか?警報を鳴らす見張り人はどこにいるのでしょうか?
預言者エリヤ
1列王記17:1「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。『私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。』」
エリヤの言葉を聞いた者はこれまで一人もいませんでした。これは間違いなく非常に大胆な言動です。勿論、皆が彼は気が違いっていると思いました。しかし彼はその時、イスラエルの国でもっとも正気な人だったと思います。それは彼が自分のことを「私が仕えている神 the Lord before whom I stand(私がその前に立つ神)」と言っているからです。彼は自分の人生を人の前ではなく神の前で生きていたのです。彼はアハブに「あなたはただの人間、ただの王に過ぎません。私は主の前に立つ者、主の前で生きているものです。」と言ったのです。私はこれが本物の預言のミニストリーの土台だと思います。
イエスの優しさと厳しさ
マタイ16:23「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『さがれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(for you are not setting your mind on God’s interests but man’s.)』」
主から「サタン」と呼ばれたらどうでしょうか?
ちょっと厳しいですね。私たちはイエスに対してとても歪んで間違ったイメージを持っていると思います。多くのクリスチャンが「自分の姿をもとにして自分でイメージした神を礼拝している」のであって、本当の神を礼拝してはいません。イエスは12人の無骨な男たちを選びました。12人のドナルド・トランプを弟子に選んだようなものです。人はドランプ大統領が粗野だと言いますが、大統領として彼のように正直な人は今まで長い間現われませんでした。彼は自分の思うこと、信じることをそのまま話します。神は彼のように粗野な人たちを弟子に選ばれるのです。主が十字架につかれる前夜に弟子たちは、だれが一番偉いかと論争をしました。
私たちは「イエスは恵みとあわれみに満ちた方である」と思いたいし、実際彼は誰よりもそういう方です。しかし、私たちはそう思いたくないのですが、主は誰よりも厳しい方でもあるのです。パウロはローマ11:22で「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。」と言っています。
この両面を見なければ、私たちは主を見ていることにはなりません。弟子たちは3年半主と過ごしましたが、最後の夜に彼らは主に質問することを恐れました。イエスが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」と言われたとき、ペテロはヨハネに「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」と頼みました。ペテロは主からサタンと呼ばれたことで主を恐れていたのではないでしょうか。主は厳しく鋭い方でした。C.S.ルイスは「彼は荒々しい獅子のようであった。」と言っています。飼いならされた獅子ではなかったのです。
私たちはどなたを礼拝するのでしょうか? 自分が「こういう方であって欲しい」と願う主の姿を礼拝するのでしょうか?
人々は彼らが望むような神のイメージを勝手に作り上げてしまっています。それでは将来的に見て必ず破綻します。主は主であって、それ以外の方ではないからです。主は初め子羊として来られましたが、次は獅子として戻ってこられます。
人の歓心を買う
パウロはガラテヤ1:10で「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」と言っています。人の歓心を買おうとする度合いが、主への熱意を鈍らせてしまう度合いになるのです。私たちの言動の動機はどこにあるのでしょうか?
ルカ16:15で主はパリサイ人にむかって「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」と言われました。私たちはつい人を喜ばせる事を言ってしまうのですが、それは何と「神の前で憎まれ、きらわれる」ことであるのです。私たちは誰を喜ばせるのか、「神なのか、人なのか」をはっきり決断せねばなりません。
ルカ6:26「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」
ヤコブ4:4「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」
「世の友」とならねばならないという圧力が日々強まっています。世に合わせて、世から好かれ、世から尊敬されることを求めるとき、私たちは自分を神の敵としているのです。私たちは何を「よし」とするのでしょうか。どのようなことに目をつぶって許容してしまっているのでしょうか?
今起こっていることに対して抗議の叫びがどこにあるのでしょうか?
自分に心地よいことだけを聞く人びと
2テモテ4:3−4「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分のつごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」
今教会で教えられているひどい教義を知っていますか? 恵みの濫用が起こっています。
多くのクリスチャンがそれに追随しています。クリスチャンが、心地よいことだけに耳を傾けるようにと、サタンが働いているのだと思います。それ意外のものは受けつけられないのです。
チャレンジを与える厳しいメッセージや自分の考えとは異なるものは受け付けられない精神性が、何世代かに渡って蔓延するようにされてきたのです。今の学校では子供たちは「教育」されるのではなく「考えを押しつけられている」のです。今の若者ほど惑わされている世代はありません。
人々は私にむかって「あなたの言っていることは、今の若者(ミレニアル)にとって、どれほど腹立たしいことかお分かりでしょうか?」と言います。私は「ありがとうございます。とても励まされました。」と答えます。もし彼らが私の言葉を喜んでいるならば、私は真理を語っていないことになります。私はミレニアルに向かっても、又他のどのグループに対しても語っているのではありません。ただ主の言われることに従順に従って語っているのです。耳を傾ける人は聞くでしょう。主の言葉は空しく帰ることはないのです。私はこのミニストリー(モーニングスター)がどうなるかも考慮には入れていません。ただ主に従っているのです。ただ主の言われることを聞いて従いたいのです。(続く)
05 08月
エリヤとイゼベルとの戦い
フランシス・フランジペイン(Ministries of Francis Frangipane)
いにしえから戦われている一つの戦いがあります。それはエリヤの霊とイゼベルの霊との戦いです。この戦いにおいて、「エリヤ」は神の御こころを表しています。即ち、人々が悔い改めて神に回帰することです。反面「イゼベル」とは、
神の御業を阻む独特な悪の主権を表しています。
勝利者が国を勝ち取る
エリヤの霊とイゼベルの霊との戦いを理解するためには、この敵対する2つの霊が聖書の中でどのように描かれているかを知る必要があります。この二つの霊は
対照的なものです。エリヤは大胆でしたね。しかしイザベルは厚かましく傲慢でした。エリヤは悪を容赦しませんでしたね。しかしイザベルは義を憎悪していました。
エリヤは神の道と神のことばを語りましたね。しかしイゼベルは魔術と偽りの言葉で満ちていました。
エリヤとイゼベルとの戦いは、今日も続いています。両者の軍団のリーダーは預言者たちです。私たちの国の魂は、まさにこの戦いの勝利者のものとなるのです。
サムエルによれば、エリヤは預言者学校の長で、彼の下には主のことばを歌で表す何百人という「預言者のともがら」がいました。しかしこの戦いでイゼベルは、酷い方法で計画的にほとんどすべての神のしもべを殺害し、残ったのはエリヤだけのように見えました。(1列王記18:22)最後の預言者としてエリヤは、450人のバアルの預言者と400人のアシュラの預言者に対して「力を見せよ」と挑みました。彼らの神々と主の力との対決です。
850人の男たちは偽預言者であり、イゼベルの食卓につくサタンの祭司たちでした。(1列王記18:19)彼らは暗やみの霊が生み出した最もパワフルな者たちであり、悪霊に取り憑かれた者たちでした。イゼベルの夫、アハブ王は、イスラエルのすべての人に知らせを送ったので、
エリヤの神とイザベルの悪霊たちの間の戦いを見るために国をあげて集りました。
戦いの方法は簡単でした。両者が祭壇に雄牛をのせました。そしてエリヤが言いました。「あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」敵の預言者たちが神を呼ぼうと12時間試みた後、エリヤは「もっと大きな声で(バールを)呼んでみよ。、、、もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」とあざけりました。
次に夕暮れ時にエリヤがいけにえを捧げて祈ったところ、主の火が降ってきて、全焼のいけにえを焼き尽くしました。民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言いました。このパワフルな出来事のすぐ後に、エリヤはバアルの預言者たちを捕え殺しました。
私たちは「この時、エリヤはイゼベルをも始末するように神に願うだろう」と考えるのですが、彼はそうしませんでした。意外なことにエリヤは霊的な戦いの渦中に投げ込まれたのです。イゼベルは部下の身に何が起きたかを知ったとき、
エリヤに向かって 悪霊の力を 解き放ちました。エリヤが恐れて逃げ出した原因はそこにあるのです。
あなたは「どうしてこのように力ある預言者が逃げ出したのだろうか?」と訊ねるかもしれません。答えは簡単ではありません。事実、状況は悪化しました。次の場面でのエリヤは、えにしだの木の下に横たわり、「私は先祖たちにまさっていない。」と嘆き、死をも願ったのです。どのような圧迫感がこの偉大な神の人を襲い、彼を恐れと落胆の餌食にしたのでしょうか。それは彼がイゼベルの呪術に屈したからでした。
次のことを理解してください。私たちがイゼベルの霊に立ち向うとき、たとえ彼女の「色情や呪術」には屈しなくても、「恐れや落胆」の力に対して屈しないように、堅く身を守らねばならないのです。イゼベルはあなたを敗北させるために「恐れと落胆」の霊を送るからです!
ドラマは続く
これは霊的奥義なのですが、 ある者の上にあった油注ぎを、聖霊が他の者に移して機能させることがあることを聖書は語っています。例えば、エリヤの霊の二倍の油注ぎが彼の後をついだエリヤを通して働きました。(2列王記2:9−10参照)
又、バプテスマのヨハネが出現したとき、彼はエリヤの霊と力をもって主の前ぶれをしました。(ルカ1:17)イエスも又彼を「実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ11:14)と言いました。
エリヤの霊的影響力がバプテスマのヨハネのミニストリーを通してこの世に再び戻ってきたのです。エリヤのようにヨハネも悔い改めの必要を説きました。そしてヘロデ王と妻へロデヤの姦淫の罪の生活の中に悔い改めが必要でした。ヨハネが彼らの罪を告発したとき、ヘロデヤの願いを聞き入れてヘロデはヨハネを牢に入れました。(マルコ6:17−18)
ヘロデヤの暗い魂に働きかけ彼女を操っていたのは誰だったのでしょうか?
エリヤの霊がヨハネを通して働いていたように、妖婦ヘロデヤの反抗的態度を通してイゼベルは再び登場したのです。イゼベルは呪術を盛んに行ない(2列王記9:22)エリヤを攻撃し恐れと落胆をもたらし、彼が自信をなくして混乱に陥るようにしたことを思い出してください。
今やヘロデヤはヨハネに猛烈に歯向かいました。
ヨハネはキリストの上に御霊が下るのをはっきり見た預言者です。御父が「これはわたしの愛する子」と宣言する声も聞きましたし、イスラエルのメシア、イエスの聖さを畏れをもって見つめもしました。しかし今や恐れと落胆がヨハネの肩に重くのしかかったのです。キリストへの疑いが彼の心に溢れ、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:3)と弟子を通して質問したのです。
ヘロデヤにとって好機が訪れました。ヘロデの誕生日に娘にヘロデの前で踊らせ、何でも望むものを与えるという約束を勝ち取らせました。母親の願いにより(「イゼベルの願いにより」と言った方がより正しいでしょう)娘はヨハネの首を願い、それを受け取りました。そしてこの敵対する2つの霊は、その後一時の間、静まったのです。
エリヤがやってくる!
2千年前に、イエスはエリヤのミニストリーは終ってはいないと言われました。主は「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。」(マタイ17:11)と約束されました。また、マラキは「見よ。わたしは、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ4:5−6)と預言しています。エリヤは戦いのため、又、回復のために来るのです。大いなる日の前に、主の恐るべき日の前にエリヤは戻ってくるのです。
イエスの再臨の前にエリヤが来るならば、イゼベルの顕れをもこの世に見ることを、私たちは知らねばなりません。現にこの国では呪術と淫行が横行し、イゼベルがはびこっているのが分かりませんか?
神の権威を無視するイゼベルの猛々しさが聞こえませんか?
彼女が神のしもべたちに不品行を行わせているのをあなたは見たのではありませんか?(黙示2:20)イゼベルがこのようにずうずうしい態度で自分を顕していることは、取りも直さず、エリヤの霊も又、悔い改めを説き、預言者たちを戦いに立ち上がらせていることを確証しているに他ならないのです。
平和の時ではない
旧約聖書で、私たちは神がイゼベルをどのように滅ぼされたかを見ることができます。イスラエルで新しく王となったエフーが、エリヤの後継者であるエリシャが語った主のことばによって、神の約束を成就するために遣わされました。
エフーとその軍勢が戦車で激しくイゼベルを追ったとき、イスラエルとユダの王たちは彼を迎えました。彼らは「エフー、元気か。」と聞くと、彼は「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行われている限り。」(2列王記9:22)と答えました。そして彼は二人の王を殺し、直ぐイゼベルに向かいました。
エフーを見たときイゼベルは「目の縁を塗り、髪を結い直し」窓から見下ろしていました。そして「元気かね。主君殺しのジムリ。」と言いました。
エフーが窓を見上げて「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか。」と言うと、2、3人の宦官が彼を見下ろしていたので、「その女を突き落とせ。」と言いました。すると彼らはイゼベルを突き落としたので、彼女の血は壁や馬にはねかかりました。エフーは彼女を踏みつけました。(2列王記9:30−33)
エフーの霊は私たちが今日持たねばならない何かがありました。私たちは彼女の手管や策略に引っかかった人たちに対しては同情するべきですが、イゼベルの霊そのものに対しては憐れみを持ってはいけないのです。エフーはイゼベルに対していっさい妥協はしませんでした。
それによって私たちはこの悪魔に私たちの魂に探りをいれる機会を与えず、彼女の多くの呪術につけ込ませるすきを与えないのです。彼女は私たちの思いに影響を与える高い地位から投げ落とされねばならず、それによって私たちは真にキリストに従うことが出来るのです。(ルカ10:19、ローマ16:20参照)
この国で淫行や魔術が行われている間は、そしてイゼベルの霊が征服されるまでは、私たちは「いちじくの木の下で(ミカ4:4)」平安にくつろぐことはできないのです。妥協や恐れによる偽りの平安でよしとすることを拒否せねばなりません。神の御霊は私たちを戦いに召しておられるのですから!
宦官たちがイゼベルを投げ落とした事は意味深いです。今この記事を読んでおられる方の中には、この悪の霊のとりこになった人がいます。今日、神はあなたにイゼベルに対する神の裁きに参加する特権を与えておられます!
神の味方となり、神の解放を得てください!
祈り
天の父よ、私のこころをあなたに委ねます。イエス・キリストの御名により、イゼベルの霊を退けます。イエス・キリストのしもべとして、イゼベルの虜となっていた者たちを解放します。インターネットや不正な関係によって不品行に陥っていた人たちを解放します。
イゼベルの奴隷たちに言います。もしあなたが真実主の味方ならば、この無慈悲な主人への同情的な思いを投げ捨てなさい!
あなたの頭から彼女の邪悪な思いを断ち切りなさい。イエスの御名の力により、今あなたの魂を掴んでいる彼女のサイキックな縛りからあなたを解き放ちます。生きるキリストの権威によって祈ります!アーメン(終り)
30 07月
時は満ちた
ダニー・ステイン(Mountain of Worship)
わたしが望むものはまだない
2012年10月2日のことですが、私は新しい住まいであるニューイングランドに向かって高速道路を走っていました。途中で沢山の天使たちが立っているのが見えましたが、その最後に非常に大きな天使がいるのに気がつきました。その天使には以前にも数回会ったことがありましたが、彼が私に話しかけたことは今までありませんでした。
この天使はぼんやりした青い光に包まれていました。
明らかに彼は大天使だということが分かりました。彼は「あなたは『この事』をする用意ができていますか?」と聞きました。私はちょっと答えにつまりましたが、思い切って「『この事』をやりましょう!」と言いました。そして
主イエスに「主よ、『この事』とは何ですか? 私に何をお望みなのですか?」と訊ねました。
主は「わたしが望むものはまだ存在していません。」と答えられました。まだよく理解できなかったので、私は又「主は私に何をしてほしいと思われるのですか?」と訊ねました。主は「わたしはあなたに『教会』が何であるかという定義を新しくしてほしいのです。」と言われました。するとその時私はクルーズ船のヴィジョンを見せられました。そして
「 クルーズ船の明確なイメージをすでに持っている人に対して、クルーズ船の新しい定義を与えるのは難しいことです。それと同じくらいに教会に新しい定義を与えるのは、とても難しいのです。」と主は言われました。
まだ主の言われる意味がはっきりと分からなかったので、私は三度目にまた訊ねました。「あなたは私に何をしてほしいのですか?」主は答えられました。「わたしはあなたに『乗っ取って』ほしいのです。」主の言葉は私の霊に衝撃を与えました。「主よ、それはとても大胆で、傲慢に聞こえますが、、、どういう意味ですか?」と訊ねましたが、答えは返ってきませんでした。
プレロマ(Pleroma)
プレロマ:ある時、 条件や状況や物事に全く制約されずに、すべての歴史とすべての運命が出会うこと。時が満ちる時(The fullness of
time エペソ1:10 、ガラテヤ4:4参照)
神は「プレロマ」について私に教え始めました。これは聖書の中に何度か使われている言葉で、常に「時が満ちること」と関係しています。主が求めておられるのは「時が満ちること」であり、それは即ち、ご自分の臨在の栄光を花嫁の上に顕し、力ある神の御業を地上に現すためなのです。
過去にも「時が満ちた」ことがありました。それは旧約の後の400年が過ぎ、「時が満ちた」時に起こった世界が経験した最大の出来事でした。400年間の苛立ちとフラストレーションが最高潮に達したとき、長い沈黙をイエスが破られたのです。それはこの地がイエスを迎える用意が整ったからです。
この研究を始めて、私はプレロマという言葉が実際に「食糧、必需品、船員、兵士、帆をすべて整え、大海原に出航する準備が出来た船」という意味であることを知りました。又、エペソ4:12にある「聖徒たちを整えてequipping the saints」という言葉は「網を繕う mending the nets」という意味があることも興味深いと思いました 。
神は、私たちの船がまさに来ようとしていると告げておられるように思えます。そして私たちはその船に乗り込もうとしているのです!
主が何を求めておられるのかが明らかになってきたのは、2018年の春になってからのことでした。主は私に又、クルーズ船のヴィジョンを見せてくださいました。
未だに主の言われる意味が分からないので、私のフラストレーションは頂点に達しました。私はこのクルーズ船を今までとは違う角度から見る必要を感じました。そして私は「何かを定義し直すためには、それが造られた本来の意図を知る必要がある!」という声をききました。それで私は教会を再定義する出発点からやり直したのですが、その時やっと主が何を求めておられるのかを知ることができたのです。
「船(教会)の本来の目的」
船の「本来の目的」は漁をするためだと主が教えてくださいました。イエスはご自分に従うならば人々の人生がどのようなものになるかを、漁師たちに話されました。それは人間をとる漁師になるということでした!
彼らがとる魚は水の中ではなく、水が海をおおうように地をおおう主の栄光の中にいるのです。即ち、主の船が漁師たちを魚の大群へと導き、大収穫となるのです!
主は又、船の「本来の目的」は人々をある場所から別の場所に運ぶことだと教えてくださいました。船はその中に住みつくものではなく人を運ぶものなのです。
ですから教会は、「人々をずっと乗せ、人が沢山乗っているのが即ち成功である」というのではなく、人を次の場所にまで運ぶのが本来の目的です。船に乗る時があり、降りる時があります。人々は訓練され整えられたならば、主の道を歩き続けるために解き放たれていかねばなりません。
三番目に、主は船の「本来の目的」は「物資が豊かに有り余っている所から欠乏して場所へと運ぶこと」だと教えてくださいました。初代教会はこの機能を大いに果たしていました。
教会の中に欠乏している者は一人もいないという時があったのです!そのことは歴史家のヨセフス等によって記されています。初代教会は、物資は分け与えるものであるという事実を真摯に受け止め実行していました。パウロはエペソのクリスチャンに向けて「かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)と勧めています。
新約聖書の福音書や書簡を通して、繰り返し私たちは「他の人々の必要を満たし、互いに重荷を負うように」と教えられています。私たちはキリストのからだから受けるだけではなく、与えていくべきなのです。
最後に、主は船の「本来の目的」は、兵士と武器を戦場に運ぶことだと教えてくださいました。教会は武器であり戦車なのです。私たちは戦いが戸口に現れるのをただ受け身で待つのではなく、イエスが命じられたことを成し遂げねばなりません。即ち、私たちは敵を攻撃し侵略してゆくのです。
地域や国を、主の臨在で「乗っ取る」のです。暗やみに光をもたらし、極めて困難な場所にも侵入していくのです。戦いの武器は肉の物ではなく、敵の要塞をも破るほどに力があるのです。(2コリント10:4)
新しい定義となるプロセス
教会は今、重大な「再定義のプロセス」を通っています。10年以上ミニストリーに関わってきた人のほとんどは、「以前はよい結果を生んだ方法が、最早それではうまくいかなくなってきた」と認識し始めています。ただ単に「同じような集会を開き、同じことを繰り返しさえすれば、イエスが言われる実が実る」という考えはもう成り立たないのです。
今この「プレロマ」、即ち「時が満ちた時」に入るにあたり、人間が肉の力で盛り上げたものではなく、真の神の働きを求め続けていた人達は、それを見るようになると私は信じます。「キリストのからだ」は今、非常に劇的な変革を遂げようとしています。自分たちで造った建物を飾り立てて神を表そうとするようなものではありません。又、バンドや有名人の活躍によるものでもないでしょう。
数人が賜物を用いて業をすることでもなく、少数で教会の方針を決めることでもないでしょう。あらゆる場所であらゆる人々が、プログラムとかイベントではなく、日常の暮らし方によってそれは起こってゆきます。
「プレロマ」は、まず船に乗り込むことです。船はあなた方をどこかに連れて行き、あなたを奉仕のために整え、あなたの心を変革して人々のために尽くしたいという思いを起こさせ、世の初めから計画されているデスティニーへと皆を解き放っていくのです。
イエスが今建てておられる教会は、レンガではなく啓示を土台としています。教会は、王とその御国が本当に国々や地域社会を変革する力があることを人々に示し実証します。キリストの弟子に、又悪霊に縛られた者たちに、真の自由をもたらします。小さい者にも大きな者にも救いをもたらします。
「教会 The Church」は人々であり、動詞であり、教会の「本来意図された目的」を見出した人々によって永続されるものであり、一つの場所では収まりきれない神の働きなのです。(終り)
22 07月
預言的な家族を育てる鍵
デモンテ・エドモンズ(Freedom 4 the Nations)
健全で力ある地域教会を立て上げキリストのからだに活力を与える道の一つは、力ある家族を立て上げることです。家族こそが社会の土台となる核です。歴史的に見て、家族の力が弱くなった社会では、道徳の廃退と崩壊が起こりました。神はアダムの助け手としてイブを造られたとき、地上で最初の家族を制定されました。
聖書の内容はほとんど「家族に関すること」だと言っても過言ではないと私は思います。旧約聖書の大部分は、アブラハムが約束の子イサクを通して家族と家系を得るであろうという約束を土台としています。そして次には、ヨセフと兄弟たちが和解し回復されたこと、イサクが超自然的に妻を見つけたこと、
モーセ、ミリアム、アロンがイスラエル解放に用いられたことなど、神は家族の出来事に目を注がれています。
預言的な家族を建て上げることは、神の聖なる性質を映し出して神と共に働く家族を建て上げることです。即ち家族一人ひとりが地上で与えられている預言的な目的を果たすことが出来るようになるのです。そのような家族を建て上げるために親として出来ることを、自分の経験から学んだことをお話したいと思います。
重大発表
最近出産前に行われるようになったあるイベントがあります。それは「 性別発表 The Gender Reveal」です。家族や友人たちが妊婦のところに集まってお腹の中にいる赤ちゃんの性別発表に参加するのです。大抵の場合、妊婦は医者のところで超音波で性別を調べて貰ってはいますが、その結果の紙をまだ開いておらず、そのパーティーで皆と一緒に開けて、喜び祝うのです。
しかし、それとは違うもう一つの「重大発表」があります。まず、私たち夫婦に3人の子供が生まれる前に起こったことをお話しします。私たちが結婚したとき、神が「生まれてくる子供たちに関して話したいから紙とペンを用意するように」と言われました。私がペンを持つとすぐに、神が一人ひとりの子について明瞭に語るのを聞きました。子供たちの特徴、召し、性格、特徴等を神が教えてくれたのです。妻は子供たちに関して私が神から聞いて書いた預言を読んで大喜びしました。
この預言は実際に子供たちが生まれてきた時にさらに意味深いものとなりました。ある日私たちは今まで受けたいろいろな預言を読み返したのですが、主が言われたことが一人ひとりの子に全く正確に当てはまっていることを見出しました。子供たちが生まれる前に神は私たちに「重大発表」、即ち地上における彼らの目的を教えておいてくださったのです。
多くのクリスチャンは(牧師でさえ)「子供たちの目的、使命を教えてください」と神に願うことをしません。しかし、私たちはエレミヤ1:5の言葉、「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、」という言葉を忘れてはなりません。神は「わたしはあなたの子供をあなたが知る前から知っています。わたしは彼らがあなたの家に生まれる前に彼らのための計画と目的を持っています。」と言われています。私たちは自分の子供たちに対する神の目的を出来るだけ早く知るように祈るべきです。
子供の賜物を開発する
神から子供についての情報を予め教えてもらうことは、「子供の人生の天のブループリント」に沿って彼らを育て教育するための道具として用いることができます。それは彼らが神から与えられている賜物や能力を見極めるのを助けます。例えば神は、私たちの娘の一人が「憐れみの賜物、慈善を行う賜物(ローマ12:6−8)」を持ち、世の中の不正に対して我慢できない性格だと言われました。
家で誰かが病気になると、真っ先に直るまで看病をするのはその娘です。5歳の息子が悪質な菌で腹痛になったとき、4歳だったその娘は、妻に「大丈夫よ。私がずっと部屋で看病するから。もし何かあったらお母さんを呼ぶからね。」と言いました。
又ある時、マーケットで車いすの人を見ると、励ますために彼の背中を撫で始めたこともありました。私たちは彼女の憐れみの賜物が育つように助けて、それは素晴らしいことだと励まし、「あなたは親切すぎる」などとは決して言いませんでした。もしあなたの子供がいい声で歌が上手ならば、その賜物が主に捧げられるように祈るといいのです。
また、神からの賜物を、ヴォイストレーニングやクワイヤーや楽器を習わせたりして発達させることもできます。生まれつき運動神経がいい人も、たゆまない適切な訓練によってのみ最高の運動選手になるのです。それは霊的な領域においても同じです。
ダニエルは王や統治者たちに仕えることになりましたが、若い時から御国の権威に立つ訓練を受けていました。ダニエル1:17には「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」と書かれています。ダニエルの賜物と才能は王の宮殿に住んだときに開発されていったのです。
あなたの子供の中にある神から与えられた可能性を見て、それが発達するようにしてください。
夢と幻の重要性
神が自分のこどもに関係した夢や幻を与えることがあります。ある牧師の話ですが、彼はある夜、自分の息子が酷い事故に遭うヴィジョンを見ました。彼は息子の安全のためにすぐに祈り始め、神が「もう止めていい」と言われるのを霊で感じるまで祈り続けました。
翌日、息子から電話があり、悪天候の山の中腹をモーターバイクで走っていたことを話してくれました。大きなトラックや車が曲がり角でスピードを出していたので、彼は身の危険を感じました。それは父親が夢を見て祈るようにと示されたのと同刻でした。父親は祈りを通して息子を守ったのです。
妻はある時夢の中で神から「サタンはあなたの息子をどもるようにし、彼が自信を失って話さなくなるようにするだろう」と言われました。妻がそれを私に話したとき、息子はまだ赤ちゃんだったので私たちは驚きました。
何年も経ったとき、ある日突然息子がどもったのです。それまでは何の問題もなく話していたのですが、急に起こったことでした。私たちは夢のことを思い出しました。そして神は私たちが信じて祈るならば、どもりはなくなると約束してくださったのです!
これは神が夢やヴィジョンを通して語られる多くの例の中の2つの例に過ぎません。神からの啓示に注意を払うことはこどもの命を救うことにもなるのです。
偉大な伝道者であるジェシ・デュプランティス師は、彼が悪い事をすると、母親は必ず霊でそれが見えるのでごまかすことができないといつも話していました。彼の母親は絶えず「霊で見張って祈る」ことをしていたのです。その結果、彼は偉大な説教者となり、世界で何十万人もの魂を救ったのです。
耳を傾け学ぶ
子供は絶えずしゃべっているので、ついつい彼らの小さな声に鈍感になってしまうことがあります。しかし、彼らが何を言っているか、どんな風に言っているのかに注意を払うことはとても大切です。
ある日私が息子と話していたとき、彼は神が夢の中で何かを話したと告げました。私は「何で今まで言ってくれなかったんだい?」と言いました。明らかに神は時々夜に息子に語っておられたのを、私たちは知らなかったのです。もし私が彼の言うことに耳を傾けなかったらこの大事な時と啓示を逃してしまうところでした。
子供が経験する夢やヴィジョンに注意を払うのは大事なことです。子供の言うことを「空想」とか「ファンタジー」だと言って取り合わないのはよくありません。神が彼らを取り扱い、預言的未来のために彼らを調えておられることがあるからです。
サムエルが神の声を聞いたとき、エリは三度目にそれを悟ることができました。
1サムエル3:8−10
主が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きてエリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので。」と言った。そこでエリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル、サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。
サムエルに対するエリの対応は、主が呼ばれた時にどのようにすればよいかという知恵をサムエルに与えました。それによってサムエルは自分自身、主との個人的出会いを持つことができ、神の声を自分で知り始めたのです。
個人的に神を知る大切さ
預言的な家族を育てるための次の鍵を見てみましょう。子供は自分自身が個人的に神との出会いを経験せねばなりません。サムエルと同じように、神の声と臨在を子供が知るのは重要です。
両親や祖父母が信じている神を信じ仕えてはいるけれども、神やイエスを自分自身は本当には知らないという友人たちを、私は何人も見てきました。彼らは困難や失望に遭遇すると、往々にして教会から、また神から離れてしまいます。
個人的に自分自身で神を知ることは、その人の中に土台を築き、つまずいたり敵によって道を逸らされたりすることから人を守ります。又、もし子供がミニストリーに入る召しがあるならば、神がその目的にむかって働かれるのを邪魔しないようにせねばなりません。
多くの牧師やリーダーたちは、 子供も自分のように献身してミニストリーをするようにとプレッシャーをかけてしまい、その結果、かえってこどもたちがミニストリーを嫌うようにしてしまっています。神がずっと前に私に言われたのは、私が家庭でリーダーの模範となり、祈りを導き、子供たちのために祈るならば、後は全部神がしてくださるということでした。聖霊はご自分の方法で、すべての状況と時を巧みに組み合わせて働かせ、私たちをミニストリーの仕事へと召してくださいます。
確認のために親が用いられることはあるかもしれませんが、究極的にはそれは聖霊の仕事であり、聖霊が任命することなのです。
「自分を召したのは神であって、お父さんやお母さんではない」と子供が知ることは、彼らが自信をもって働き困難を乗り越える力を与えます。
結論
歴史を通して私たちはパワフルな牧師やミニストリーを見てきました。そのようなミニストリーが何倍にもなったらどうでしょうか。家族が一緒になってパワフルなミニストリーをしたらどうでしょうか。親、兄弟、孫等が、神の秩序に従って歩み、それぞれの召しを果たしながら地上で神の栄光を顕して行ったとしたら、なんと素晴らしいことでしょうか。
これが キリストのからだと世界で次に起こる偉大な霊的覚醒と改革のための重要な鍵の一つであると、私は信じています。
どうか一緒に祈ってください。
「神よ、家庭の中で祭司となり擁護者となる力強い父親を、再び呼び起こしてください。神よ、肉の母親というだけではなく霊の母親になり、あなたのために霊の勇士となる世代を育てあげる母親を建て上げてください。
主よ、幼い子供達に夢やヴィジョンで訪れてください。それによって彼らが幼い時からあなたを心から愛するようになりますように。親の心を子に向けさせ、子の心を親に向けさせてください。
子供たち(個人として、また家族の一員として)の人生を通してあなたが強く働かれるとき、どうか彼らを御腕に抱き、あなたの愛で包んでください!
地域や自治体を揺さぶり影響を与えるために彼らを用いてください。」(終り)
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