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Walk With God Ministries


16 08月

8月3日「今週のことば」         リック・ジョイナー師  


8月3日「今週のことば」

 

                リック·ジョイナー師

 

 

 私が非常に親しくしている人の中には、その人を見なくても、その人の声を聞いただけで、直ちにその人であることが分かります。同じように、私たちは常に主の御声を聞いて、主と非常に親しい関係になっていれば、主の御声を聞いただけで、直ちにそれが主であることが分かるようにならなければなりません。

 

  私の友人であるフランシス·フランジパンが好んで「私たちはマニュアル(手引書)ではなく、『エマニュエル』(神が私たちと共にいる、という意味)に従うように召されている。」言うように、私たちが、イエスについての単なる原則ではなく、イエスに従う人生の道を歩むためには、この真理を理解しなければなりません。私たちの「真理」は、私たちをご自身との個人的な関係に招いてくださったお方です。

 

        (だからといって) これは、私たちが神の書かれた言葉である聖書への献身と敬意を損なう(軽視する)ものではありません。御言葉であるイエス様が、悪魔の挑戦を受けたときに「聖書にこう書かれている」という言葉に立脚されたのであれば、私たちが聖書を知り、それに立脚する必要があるのは当然のことです。しかし、聖書は、私たちと主ご自身との関係や、主が私たちを導くために遣わされた主の霊との関係に取って代わるものではありません。

 

         聖書が重要であるのと同様に、イエスは、私たちをすべての真理に導くために本(聖書)を送るとは言わず、そのために御霊を送ると言われました。教義は主の書かれた言葉の中で確立されているので、主の書物は重要であり、私たちはできる限りそれを知りたいと思いますが、聖書は聖霊の代わりになるものではありません。聖書であっても、聖霊と一緒に読まなければ、いわゆる “死語 “になってしまいます。同じ言葉でも、聖霊によって読まれると、いのちを与える天のマナとなります。私たちが道を歩むときに必要なものを与えてくれますが、道そのものは私たちが従わなければならない人です。

 

         私たちが人を認識する方法には、主なるものに「顔」と「声」の2つがあります。しかし、手を見てわかる人はどれくらいいるでしょうか。しかし、どれだけのクリスチャンが、神の手、つまり神が自分に与えてくれるもの、あるいは自分にしてくれることだけで神を知っているでしょうか。ヨハネ10章で主は、主の羊は主の声を知っており、主の声を知っているから主に従うのだと説明されました。旧約の下でも、イスラエルは主の戒めに従い、主の声に耳を傾けるように繰り返し言われました。自分たちの生活に様々な指示が与えられていても、主の声を知り、耳を傾けなければなりませんでした。

 

        今日、多くの敬虔なクリスチャンは、聖書があるので、もはや神が私たちに語りかけたり、預言をしたりする必要はないと信じています。もし結婚式の日に、夫が「彼女に期待することをすべて書いた本を書いたから、二度と話をしなくていいよ」と言ってくれたら、花嫁はどんな気持ちになるでしょうか。それはどんな関係なのでしょうか?

 

         このような聖書に反する教えによって、彼らは主ご自身の代わりになったのです。このような人たちは、Ⅱテモテ3:5に書かれているように「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」ということです。

 

         すべての人間関係の質は、その人とのコミュニケーションの質(方法、深さ)によって決まります。

 そこで主は、私たちが主の前で正しく生きるための第一の方法として、先ず書いた聖書を「教義」として与えて下さいました。従って、その聖書を尊重すべきなのは当然です。しかし、それだけでは十分ではありません。真に親しい深い関係に入るために主は、マタイ4:4で「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。』と書いてある。」と言われました。その意味は、私たちは、単に過去形の昔「出て来た」言葉だけではなく、現在形の主の口から「出て来る」言葉によって生きなさいと云うことです。

 

         主の御名は現在形の「私はある I am」であり、過去形の「私はあった」や「私はなる」ではありません。生きておられる主を知るためには、現在形で(常に会話しながら)主を知らなければなりません。主は「生ける神」であり、私たちは聖書に書かれているように、主の行動や人間への対処の歴史を知りたいと思いますが、主との関係は継続した現在形でなければなりません。

 つまり、私たちは「ナザレのイエス」にも感謝していますが、イエスはもはやナザレのイエスではなく、天地のすべての支配者と支配権の上にある「王の王」です。私たちは今、この方をそのように知らなければならないのです。

 

      [ジョイナー師の後書き] 今年の終わりまで、この「今週のことば」は、私たちがどのようにして主を知り、主とともに歩み、主の声を知り、主の顔を求めるように命じられているかに焦点を当てていきます。(終わり)


31 07月

苦難のさなかをゆくとも   ーー迫害前夜に生きるキリストの弟子          バジレア・シュリンク


苦難のさなかをゆくとも

  ーー迫害前夜に生きるキリストの弟子

 

               バジレア・シュリンク

 

 

 クリスチャンの基本は十字架にあります。パンデミックに見舞われている今の時代は、まさに苦難の最中にあり、マザー・バジレアさんは次のように言われます。

 「激しい迫害や私たちへの絶え間ない攻撃、憎しみに対して、私たちは自分の力で耐えることはできません。苦難に耐える力は、すべてキリストの内にあるのです。もしキリストと一つになっているなら、私たちは勝利を得、パウロと同じようにこう叫ぶことができます。「何ものをも『私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない。』と。(ロマ書8:39)共に主の力によって圧倒的な勝利を得る者となりましょう。」

 

その時代をどのように生きるかは、主が言われます。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23−27)

 

 

罪に打ち勝つ

 

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」(1ペテロ5:8、9)

 

 この世での短い人生では、私たちクリスチャンを待ち受けている試練を克服できるかどうかにすべてがかかっています。苦難と迫害という試練に耐えることができるでしょうか。

 その結果が私たちの永遠の運命を決定するでしょう。サタンの狙いは私たちを敗北させ、命の冠を奪い取ることです。サタンの戦略は、私たちの苦しみを恐れる心、卑怯な心、反抗、誤った愛着や人への恐れといった私たちの最も弱いところを攻撃することです。

 迫害が臨む時、私たちがどれほど真剣に自分の罪を取り上げ、どの程度罪と戦い、克服できたかが明らかになることでしょう。もし仔細なこの世の出来事や「今日」の喜びや悲しみに心を奪われて「明日」を忘れたなら、私たちはその結果を刈り取ることになります。「明日」には迫害が訪れます。イエスの贖いを信じ、罪に対して真剣に戦うことによって、前もって自らを備えない限り、だれひとり、この試みに耐え抜くことはできません。

 聖書は私たちに、絡みつく罪を捨てるように(ヘブル書12:1)命じています。それには戦い無くしては打ち勝つことはできません。

 それは私たちが口論好き、支配欲、嫉妬、身勝手、不誠実、欲望を満たしたいといった自分中心の罪をそのままにしておかず、それらを心から憎むときだけに打ち勝てるのです。・・・

 すなわち、キリスト教の知識を知ることよりは、キリストの弟子として生きることが大切です。神の御心とは何でしょうか。それは私たちが聖なる者となることであるのです。(1テサロニケ4:3)

 

 キリストの苦難にあずかる特権

 

 「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(ピリピ1:29)

 

 クリスチャンに対する大きな迫害が近づいています。恐らくその規模は今までになかったほどのものであり、だれをも恐怖に陥れることでしょう。洗脳、強制収容所、投獄、精神病院、拷問、殉教が脳裏に浮かびます。しかし、この苦難はすばらしい秘密があり、その他の苦悩とは全く違ったところがあります。それは「キリストのための苦しみ」であるということです。

 私たちが苦しむのは、ある概念のためでも、あるいは大衆によって偶像化された罪深く、死すべき人間のためでもありません。また私たちは、民衆を惑わし、恐怖政治すら行う支配者のために苦しむのではありません。何千という人たちがそのような指導者に従い、どのような犠牲おもいとわず、命すら惜しいとは思わずに尽くしてきました。そして結局は自分たちがだまされていたことに気がつくのです。

 しかし、クリスチャンである私たちは迫害が訪れても、イエス・キリストのために苦しみ、命すら投げ出す特権が与えられています。イエスはいと高き主であり、賛美を受けるにふさわしく、威厳をもって統べ治められる方です。

 

 このようにして使徒パウロはイエスのために苦しむように召されました。御国のために「選ばれた器」であったパウロについて主が語られました。「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使徒行伝9:16)

 初代の殉教者に限らず、現代の殉教者もイエスを信じるだけでなく、主のために苦しむことがどんなにすばらしい名誉であるか気づいています。パウロはイエスのために苦しむことは恵みであり、特権であると考えていました。(フィリピ1:29)殉教者は、大抵この世のものではない喜びに満たされていました。なぜなら、彼らの心はイエスへの愛に燃え、御名のために辱められ、苦しみに遭うことを名誉に思う気持ちに圧倒されたのです。彼らにとってイエスの御名は、あらゆる栄光と力、知恵と美、そして計り知れない愛以外の何ものでもありませんでした。それは常に彼らの心に優しく響く愛の御名であったのです。

 イエスが彼らにとって最も大切なはじめの愛であったからこそ、近年の殉教者は、かっての殉教者がそうであったようにイエスのために喜んで苦しみ、すべてを神に献げることができたのです。迫害が始まる以前から彼らは、いやしめ、屈辱、失望、窮乏、誤解、侮辱、拒絶、自己否定、犠牲そして最終的には十字架というイエスの道を選んだのです。イエスを愛する人々は、以前から真の弟子としてイエスと同じ道を歩むことを選択し、迫害が訪れる時までには備えられていました。彼らは苦しみによって試された者であり、イエスへの愛に燃えていました。自分の十字架をイエスと共に負えば負うほど、彼らはイエスに強く結びつけられ、イエスへの愛はいっそう強く燃え上がったのです。

 イエスはこの上なく私たちを愛し、私たちが御自分の愛にこたえるのを待っておられます。私たちが主を愛し、主の歩まれた道を選び、自らの十字架を負って御自分に従うよう、主は呼びかけておられます。(続く)


22 07月


十字架の向こう側

 

ボブ·ジョーンズ(Bob and Bonnie Ministry )

 

(これは1995年のボブ·ジョーンズのスピーチです。彼は2014年に天に召されました。このお話は何度読んでも面白いので、改めてご紹介します。)

 

最後のバッター「恵み」

 

10年前(1985年)の5月21日、それは、ペンテコステの日でしたが、主が野球の試合のヴィジョンを与えてくださいました。

試合は、悪魔のチームと神のチームとの対戦でした。9回の裏で両チームともそれまで得点がなく、神のチームが9回の裏の攻撃を始める時でした。主が最初のバッターを送られました。その名は「愛」でした。サタンが投球し、「愛」がバットを振りました。愛は常に神を喜ばせ、決して失敗しないのです。(Love never

fails)それはヒットとなり、愛は一塁に走って行きました。主は次のバッターを送られました。それは愛と共に働く「信仰」でした。サタンが投球し信仰がバットを振り、ヒットとなりました。信仰は神を喜ばせ、愛と共に働くのです。信仰も決してしくじることはありません。主は次のバッターを送られました。それは「知恵」という名でした。サタンが投球しましたが、知恵はバットを振りませんでした。サタンは次つぎに球を投げましたが、知恵はよく球を見たのでフォアボールとなりました。神の知恵はサタンが投げる悪球に引っかからないのです。

 

神は今、このように愛、信仰、知恵を私たちの人生に働かせ、私たちを成長させようとしておられるのです。3塁に愛、2塁に信仰、1塁に知恵と、満塁になったとき、主は次のバッターを送られました。「わたしはいま最強のものを送る」と主は言われました。それは今まで見たことのないピンチヒッターで、その名は「恵みGrace」でした。サタンが投球し、恵みがバットを振りました。バットが折れるようなものすごいヒットとなりました。しかし「嘘つき」が外野にいてそれを阻止しようとしました。嘘つきのハエは空中にいるのです。教会の中でサタンは悪いうわさやゴシップをはびこらせ、神の栄光を隠していました。「嘘つき」は「まかしておけ!絶対取るぞ!」と叫びましたが、球は彼のグローブを通り抜け、ホームランになりました。4人の走者は全部ホームインして神のチームの勝利となりました。「4」は聖霊のナンバーです。聖霊の働きがこれから強くなるのです。

 

ゼカリヤ4:7「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運びだそう。」

 

「愛」「信仰」「知恵」は人間の働きです。それは私たちをあるところまでは導いてくれますが、ホームインさせるのは 神の「恵み」なのです。

 

ダビデの油そそぎ

 

詩編89:20「わたしは、わたしのしもべダビデを見いだし、わたしの聖なる油を彼にそそいだ。」

 

今主は、多くのダビデのような者を見いだして油を注ぎ、恵みを解き放ってくださいます。先ずすべての土台である「愛」が心から主を求める者たちに与えられていると信じます。そして「信仰」が強くされ、サタンに惑わされることのない「知恵」が与えられてきました。

 

教会は今まで「神と一緒に(with God)」ではなく「神のために(for God)」一生懸命働いてきました。今こそ私たちが「神と一緒に」働く時です。モーセではありませんが「神が共に行かないならば私はどこにも行かない、何もしない」と決意する時です。今まで私たちは「神の手」を求めて「下さい、下さい、下さい!」と言ってきました。でも神は「そうではなくて、わたしの心を求めなさい」と言われるのです。ダビデは神の心を持っていましたね。「わたしの心を捜し求めなさい。わたしの心の内を捜し求めなさい。」と主は言われます。

 

神の心に何があるかご存知でしょうか?

それは人々の魂です。神は人々の魂を求めておられるのです。イエスは私たちに救いを与えるためにこの世に来てくださいました。そして私たちの長兄として進んで十字架にかかってくださったのです。イエスのいけにえの代価で私たちは贖われたのです。

 

御父は今もこの世を愛するゆえに、今度は「あなた」をこの世に与えようとしておられます。私たちは皆、十字架の向こう側に行かねばならないのです。十字架のこちら側にいた時、あなたは手をのばして「主よ、下さい、下さい!

欲しいです!」と言いました。でも十字架のむこう側に行ったならば、聖なる御霊が復活の力をもってあなたの内に働き始めます。そしてあなたはキリストの性質を持つ、キリストに似た者となっていくのですその時、十字架のもとに来る人たちに必要なものをあなたが与えることが出来るのです。その時、あなたは「受ける者」から「与える者」にかわることが出来るのです。

 

主はみなさんに「成長しなさい!大人になりなさい!」と言っておられます。私たちが愛、信仰、知恵を身につけるならば、神は恵みを注いでくださるのです。その時に決して試合に負けることはありません!

 

聖霊を招き入れる

 

聖霊はずっと教会の扉を叩いておられます。人々は「聖霊よ、あなたを尊ぶと言っているグループの中で、あなたが本当に働かれるのを見たならば、私たちの教会にあなたをお迎えしてもいいかもしれませんね。でもまずその人たちが変えられるのを見たいのですよ。」と言います。

私はそれが起ころうとしていると信じます。聖霊に満たされた人々の中で主にある真の愛の交わりが具現化されていくのです。そのようにペンテコステが又現われるとき、それを見た人々は聖霊に心を開くようになります。

 

聖霊があなたに語るのを聞いてください。そうすれば私たちが語るときに、神の言葉を語るようになるのです。

私たちの口から出る言葉も神の言葉と同じように、創造の力を持つようになります。詩編115:16には「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」と書かれています。そして今主は私たちが地を主にお返しするのを待っておられます。「わたしが再び地で働く許可を人々が与えるのをわたしは待っている」と主は言われます。(サタンは私たちの許可を必要としません。彼はどこにでも勝手に無断で入っていく盗人です。)すべてのとりなしの祈り、回心の祈りは、神の介入を許可し招き入れるものです。

 

聖霊は教会の扉を叩いて「入れてください。もし入れてくれれば、わたしはあなたの教会の主となります。そして一人の方、即ちイエス·キリストを顕します。」と言っておられるのです。イエスが教会に来られると、一人の方、即ち御父を顕されます。御父は70年前、非常に嘆かれました。それは進化論が人々に受け入れられ、「人類の父は猿だ」と人々が信じ始めた時でした。進化論が「あなたの父は猿だ」と言ったので多くのクリスチャンも混乱しました。御父はバビロン捕囚のときにされたように70年を区切られました。バビロンは「混乱」という意味ですね。御父は70年間、姿を現されませんでした。今、70年が経ち、御父は再び来てくださいます。私のお父さんは猿ではなく、全能なる神です!私は自分が誰かを知っていますし、御父が誰であるかも知っています。家族なのです。

ずっと前に私は神の御心の真ん中は家族であることを発見しました。御父は家族を大切にする方です。御父が来られるとき家族を大切にされます。ご自分の子供たちがお互いの悪口を言ったり、ゴシップをするのを非常に嫌われます。

 

火のバプテスマ

 

御父は新しい土台を造られます。聖なる霊は愛です。あなたが愛に成長するならば、あなたは聖さにも成長するのです。ローマ1:4に「聖い霊(spirit of

holiness)」とあります。私はどうすれば聖い霊が得られるかを主に訊ねましたが、それは聖霊のバプテスマを受けるのと同じでした。即ち、信仰によって受けるのであり、そしてそれは愛が私のうちで働くときに成長するのです。主は愛という土台を築かれておられ、それは決して壊されることはありません。

 

選ばれる者となる

 

イザヤ48:10に「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩み·苦しみの炉であなたを試みた。」とあるように、主はこの10年間、私たちを試煉という熱い炉で練られました。

 

マタイ22:14に「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。For many are called, but few are chosen. とあるように、すべてのクリスチャンは招待されて、熱い炉に入れられるのです。ある者たちは3週間で、「もう十分だ、ここから出よう。これは思っていたより熱いぞ。私の大事なもの、まだ手放したくないものがどんどん燃えてしまう!」と言って途中で炉から出てしまうのです。人は自分が捧げた分に応じて受けます。ダビデは10年間苦難の炉に中に入っていました。あなたが炉に留まり続けるときあなたは「選ばれる」のです。

 

今御父は、苦難の炉の中から多くの白い石を取り出しておられるのを私は見ます。主はこれらの白い石で土台を築かれます。それは祭司の土台であり、純粋な神の言葉、義と愛で築かれる土台です。

 

火のパプテスマとは聖さの霊であると主が言われました。聖さの霊があなたの生活の中で働き始めると、神の火があなたを燃やし尽くし始めます。私が罪を犯したとき、私は御父から逃げませんでした。かえって私は御父にむかって走っていったのです。そして主が言われることはすべて従いました。もしあなたの足が汚れたならば、天のお父さんのところに走って行き、主の足を掴んでください。神の火があなたの罪をも焼き尽くしてくれるでしょう。(終り)


11 06月

神は私が呼ぶとき答えて下さる     バジレア·シュリンク


神は私が呼ぶとき答えて下さる

 

             バジレア·シュリンク

 

 

 

 詩篇50:15「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたは私をあがめよう。」

 

 この御言葉は、聖書に示されている終末的様相をますます帯び、多くの苦悩が心をむしばもうとする現代に生きる私たちへの、神からの力強い呼びかけです。

 悩んでいる人は誰でも助けを呼び求めます。子供は母親を呼び求め、大人は自分にとって親しい人を呼び求めます。しかし、その助けを求める叫びが聞かれぬままに消えてしまうことを、しばしば経験するのではないでしょうか。自分を愛してくれる人々や、とても親切で世話好きな人であっても、ほかのことに心をうばわれていて、私たちの叫びが聞こえないことがあるかもしれません。

 あるいはまた、私たちの問題に対して、どうやって助ければよいかわからないこともあるでしょう。

 

 こうした時、主なる神が「わたしを呼び求めなさい!と呼びかけておられるとは、何とすばらしいことでしょう。誰かが「どんな時でも電話をかけてきなさい。相談にのりましょう。私にまかせなさい!と言って助けの手を差し伸べてくれる時、それは私たちにとってどんなに励ましになるでしょう。私たちはその時、あらゆる苦悩と心配事の只中にあっても、安心していられるのです。

 しかしいま、このような呼びかけが天と地を造られたお方、私たちをあがなってくださった主イエス·キリストからなされているのです。主はその愛ゆえに私たちの心が悲しみに満ちていることを、また私たちがあれこれの問題に対処できないでいるのをすべてご存知です。愛に満ちたまなざしで、イエスは私たちの心にあるすべてのことをごらんになります。主お一人が私たちの心をわかって下さるのです。なぜなら、主は苦しみを受けられ、私たちと同じように試みに会われたからです。しかし、それだけではなく、主は、私たちがどのような悩みの中にあっても助けを備えて下さり、すべての問題を解決できる唯一のお方なのです。

 

 

 それでは、イエスという名にはどんな意味があるのでしょうか。イエスとは「神は救いたもう」という意味です。神は助けであり、救いであられます。

  言いかえるならば、主イエスが私たちを助けず、救い出さないことなどあり得ないのです。主のご性質とみわざは、愛と救いによって特徴づけられます。なぜなら、イエスは愛そのものであられるからです。主は、憎しみをもって敵対した人や、主をいやしめ、あざけった人のためにさえも、苦しみに耐えられたお方です。それゆえイエスが私たちを愛して下さっていることを決して疑うことはできません。

 人間の愛は、すべて主イエス·キリストの内にある愛の炎と比較すると、はかない小さな花火でしかありません。イエスが私たちに惜しまず与えて下さるのは、この燃えるような神の愛です。多かれ少なかれ、だれもが悩みの中にある今日、イエスは救いをもたらす神の愛を、かってないほど私たちに体験させたいと願っておられます。

 しかし、主イエスの助けは自動的に受けられるものではありません。イエスは生ける主であられ、その愛を押し付けることはなさいません。主はご自身を呼び求める者にのみ、近づいて下さるのです。それゆえ私たちは、このように主イエスをほめたたえましょう。

 

 主イエス様、

 あなたは「しかり、アーメン」なるお方です。あなたを信じる者はあがない

 を体験します。

 あなたは救い主であられますから、私を罪の鎖から必ず救って下さいます。

 あなたのもとに来る者は決して滅びることはありません。

 「わたしを呼び求めなさい!」と主が招いておられる時、私たちは実際にそ

 うしなければなりません。くり返し起こる災害、殺人、暴力、暴動、戦争の

 脅威、キリスト者に対する迫害といった毎日のニュースの接する時、私たち

 はこれらから思いが離れない、という危険にさらされます。しかしそれで

 は、意気消沈や苦悩、恐れから脱することはできません。イエスを呼び求め

 るとは、いわば「自分自身から飛び出す」ことです。

 

 意気消沈している時、私たちは助けを呼び求めることを始めなければなりま

 せん。そうすることによってのみ、憂うつから脱することができるのです。

 しかし、「主イエス様、あなたはともかくも私を助けてくれるでしよう·

 ···」と祈るだけでは十分ではありません。私たちは確固たる信頼をも

 って、主の御名を呼び求めるべきです。その時何かが起こります。なぜな

 ら、この叫びは神のこころに届くからです。神は助けを求める者はだれで

 も救われる、という驚くべき約束を与えて下さっているのです。

 

 神がご自身の言葉を守られるということを私はくり返し体験してきました。

 主の御名は、「しかり」であり、「アーメン」です。しかしながら、祈り

 が答えられるためには、一つの条件があります。それは主の御名を心から

 呼び求めるということです。そしてこれは、子供でさえ理解し、行えるこ

 とです。

 今日、若い人々の間でも、霊魂や悪魔と接触を持つことがごく普通となっ

 てきています。中にはオカルトの講座さえ提供する学校や大学があります。

 その結果悪魔が勢力をふるってきているのです。これは事実です。イエス

 は生きておられます。しかしサタンもまた、今日私たちが体験しているよ

 うに、現実なのです。だれでもサタンと接触を持つ者は、激しい精神的苦

 悩に陥ります。最初サタンは若者を自分の支配下に入れるために、セック

 スや麻薬を使って舞台裏でこっそりと働いていましたが、今や公然と自分

 自身を現しているのです。

  それゆえ「わたしを呼び求めなさい!」とイエスが招いておられるのは、

 何とすばらしいことでしょう。主はサタンと地獄に打ち勝った勝利者であ

 られます。イエスの御名を求める者はだれでも、あらゆる暗闇の力からの

 開放を体験するでしょう。

 

 

 主の御名のちから(という歌)

  

 1.「主の御名のちからわれはあがめん つみのくさりからわれをはなつ

 2.御名が呼ばわれば、やみは去りて、み国のとびらが われに開かん。

 3.主の御名のちから われはたたえん、地獄の支配を うちくだかれん

 4.主の御名はきょうも わが喜び、こころの悲しみ いやしたもう。

 

  私たちにはこのような主がおられるーーこれは何とはかりしれない恵み

 でしょう。死人の中からよみがえり、御父のもとへ帰られて、今や無数の

 天使たちに礼拝されている主イエスは、それで満足されるはずではないで

 しょうか。しかし、主イエスは私たちをあまりに愛しておられるので、そ

 の愛ゆえに私たちの方へと駆り立てられるのです。主は偉大なる大祭司と

 して、神の御座でたえず私たちのためにとりなしておられ、常に魂を救っ

 ておられます。愛ゆえに主は決して休むことなく、暗黒の力から、次々と

 魂を救い出しておられるのです。ーーーこれは何とはかりしれない恵みで

 しょう。私たちは、イエスのこのあがないの力をたんに一度だけではなく、

 たえず新たに必要としています。

 

  私たちはみな先祖から受け継ぎ、私たちの中に深く根づいている罪深い

 性質の特徴、たとえば神経過敏症、不きげん、肉の欲望、うそをつくこと、

 ねたみ、苦々しい思いといった性質を持ってはいませんか。それはまるで

 泥沼につかっているようなものです。そこでイエスは「今わたしを呼び求

 めなさい!」と招いておられます。もし今あなたが呼び求めず、ただ成り

 行きにまかせるなら、あなたはますます深く沈んでしまい、そしてそれは

 自分の責任となります。···

 

  主を呼び求める時、私たちはイエス·キリストーーー「人の子らにまさ

 って麗しいお方](詩篇45:2)、愛をささげるのに最もふさわしいお方

 との、聖なる交わりに入れられます。それは何と幸いなことでしょう。

 主イエスは贖われた者たちの花婿であり、威厳と栄光をおびてこの地上に

 再び来られる王の王であられます。···この暗い時代に、主を求めるこ

 とができるとは、何とすばらしい神からの贈り物でしょう。···すると

 にわかに私の心は慰めと喜びに満たされます。····以上はバジレア·

 シュリンク師の小冊子から引用しました。

 

 (追記)私、坂 達也は、これこそ、まさにクリスチャンの毎日の生き方

 である「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について、

 感謝しなさい。···」(1テサロニケ4:16、17、18)の意味で

あり、特に「絶えず祈りなさい。」(「主からの御言葉を直接いただく」

の意味するところ)であると信じます。ハレルヤ!(終わり)


20 05月

聖書の終末観を知る重要さ(下) マイク·ビクル


聖書の終末観を知る重要さ(下)

 

マイク·ビクル

 

 

神学的にも終末の世代について知ることは重要です。聖書はアダムとイブの時代以来のすべての世代の中でこの世代について最も多く語っています。どうしてでしょうか。主は「それがどれほど重要か、あなたは知っていますか?」と言われるのです。その時代がいかに栄光に満ちているか、そして同時にいかに惑わしに満ちているか、いかにパワフルであると同時にいかに危険に満ちているか、、。このような時代に生きた世代は未だかつでありません。この時代にどのように生きればよいかを示唆できる世代はないのです。

 

驚くべきことに、聖書の150以上の章の主たるテーマは主が帰ってこられる終末に関する記述です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を合わせると89章になります。90章近くがイエスが初めに来られたときの記述です。しかし再臨に関しては150章あるのです。主が再臨されたとき、どのようにリーダーシップを取られるかについてです。終末に関しては興味がないと言われる方に申し上げたいと思います。あなたは福音書のイエスと同じイエスがこの世をどのように治められるのか、興味がないのですか?イエスの地上でのご計画について興味がないのですか?同じ聖書の中の、同じ聖霊が書かれたイエスに関する記述です。どうしてそれを無視するのでしょうか。

 

私は61歳ですが、私の世代を見てみますと多くの人が終末に関して学ぶことを避けています。そしてその結果、若い世代にそれを教えることができていません。それは非常に問題であると私は思います。なぜならば、今私たちは現にその終末の世代の始まりにいると思うからです。一世代がどれほどの長さであるかはわかりませんが、この150章に関して教え始めるのは、決して早すぎることはないのです。今教会ではこれに関して教えるのはポピュラーではありませんが、私はそんなことは気にしません。今20代の人が終末に関して知らないならば、恐れやつまづき、混乱、妥協、背教の危険にさらされるのです。

神の恵みにより、若者に聖書の筋書きを教えようではありませんか。しっかりと計画をもってシステマティックに教えて行こうではありませんか。一回のセミナーとか夏期講習で網羅できることではありません。

 

また、終末に関する聖書を知る重要性は預言的な理由もあります。今がどのような時代であるかに関してイエスは幾つかの出来事を示しておられます。主は「あなたがこれを見たとき、終末の世代にいることを知りなさい。」と言われました。クリスチャンは自分がその世代にいることがわかるということです。使徒たちもいくつかの終末の出来事を挙げています。旧約の預言者たちもいつくか挙げています。100以上の事柄がありますがそのうち2つだけを述べたいと思います。

 

マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされて、それから、終りの日が来ます。」ここで「すべて国民

all the nations」と言われているのはギリシャ語ではエスノスで、エセニックグループ、すべての民族ということです。世界には3千以上の民族がありますが、ミッション活動のリーダーたちは、福音は3千すべての民族に歴史上初めて2020年までに伝えられるであろうと言っています。いままで2千年のあいだ、そのように言われたことはありません。イエスはそれが起こったあと、終りの日が来ると言われたのです。これは非常に重大な終末のしるしであるにもかかわらず、キリストのからだの大部分は「それはいいね。」くらいにしか捉えていないのです。

 

次に、使徒2:17に「終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」とあります。教会時代の最初の200年は聖霊を受けることは当然のことでしたが、その後1800年間は聖霊は片隅に追いやられていました。1920年頃には百万人くらいの人が聖霊を受けていましたが、その50年後には6千万人となり、使徒行伝の時代以来はじめて聖霊を受けることが標準的なこととなったのです。それと「福音がすべての国民に伝えられる」こととが重なっているのは、決して偶然ではありません。イエスが言われた終末のしるしの殆どすべてのものは、世界的にどんどんと加速し増大しています。すべての事柄が揃ってきているのです。キリストのからだの一部はそのことに注目していますが、全く無視している人達も大勢います。

 

次に社会的な終末のしるしを二つ挙げたいと思います。まずイスラエルの民が祖国にもどったということです。1948年のことです。イスラエルは殆ど2千年のあいだ国がなかったのですが、聖書はイエスの再臨の前には彼らが祖国に帰っていることが条件だと言っています。1948年まで聖書教師たちはそれに関して「何のことがわからない。」と言って、そのようなことが起こることはあり得ないと考えていました。ところが突然一日にしてイスラエルは国家となったのです。これは世界に衝撃を与えましたが、一番驚いたのは聖書教師たちでした。「聖書の言葉は文字通りだったのだ!」と衝撃を受けました。私たちは歴史上かつてなかった時代に生きているのです。聖書の預言はイスラエルが再び建国されるまでは成就されなかったのです。でも今はそれが起こる可能性のある時代です。これは全く新しいシーズンが始まった合図でした。

 

マタイ24:33に非常に重要なイエスの命令があります。これはただの招きではなく命令です。「そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」「これらのこと」とはイエスが終末のしるしとして語られた事柄であり、実際に今世界規模でそれらが起り始めています。それらを見たときには再臨が近いことを「知りなさい」というのは、ぼんやりとではなく、確信をもって知りなさい!という命令です。そして34節で「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代(generation世代)は過ぎ去りません。」とあります。一世代は百年続くかもしれませんが、もっと短いかもしれません。そして36節に「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」とあるので、聖書教師たちは「その時は全く予測できない」と解釈してきました。しかしイエスは、もしあなたが終末の世代に生きているのならば、それを知りなさい、と言われました。日と時はわからないけれど、その世代は分かるのです。イエスが終末に起こることとして示された事柄は、すべてではないにしても殆どすべてが現在起こり始めています。今、聖書の筋書きに注目する時ではないでしょうか。父の世代が子の世代に教え、子が次の世代に教えていく時ではないでしょうか。多くの者は今聖書の筋書きを教えられていません。その結果は混乱と恐れと惑わしに陥り、つまずいてしまいます。そして大いなる背教が起こるのです。そのようなことが皆さんや皆さんが導いている人たちに起こらないようにしようではありませんか。

 

ダニエル11:33に「民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。」とあります。これは終末の聖書的筋書きを理解している人たちは多くの人を教えることができるという意味です。多くの人とは、何百万、何千万の人だと思います。人々の中に聖書ではどう言っているかを明確に知りたいという飢え渇きが爆発的に起こるのです。その時聖書教師が必要となります。歌い手、ミュージシャン、本を書く人、映画を作る人、ソーシャルメディア、説教者が必要になります。勇敢に聖書が言っていることを様々な手段で伝える人達です。この1、2年、様々な声が巷で騒がしくなってきました。これからの10年、15年はますます混乱してくることでしょう。世界規模で本当の理解を求める飢え渇きが起こります。神は「思慮深い人たち、理解する人たち」を起こされています。私はそのような人たちを「先ぶれのメッセンジャー」と呼びます。神はアジアにおいてそのような人達を起こされています。アフリカで、ラテンアメリカでも、いろいろなミニストリーを起こされています。私たちのミニストリーも他のグループと交わりながら、神が聖書を通してそれぞれに示しておられることから学びあっています。すべてを理解しているグループはありません。お互いが必要なのです。

 

ここに来ておられる皆さんも「理解している人」になることができるのです。何故ならば聖書は誰でもそれを求める人にはその理解を与えてくれるからです。学ぶには少し時間はかかります。ミニストリーでは様々な働きがありますが、それと同時に終末に関する勉強もして行かねばなりません。私は何万人もの先駆けをする人たちを起こしてくださいと、神にお願いしています。世の中で何が起ころうと、それが神のご計画の中でどのように用いられるかを理解し、恐れず確信をもって信仰生活ができるように人々に教えて行かねばなりません。20代の人も80代の人も神は用いられます。ソーシャルメディアで80代のおばあさんでも発信して世界中の何百万人に教えることが出来るのです。

 

最後に私の体験をお話したいと思います。20年ほど前のことで、IHOPを始める以前のことです。私はカンサスで牧会をしていました。私は教会の祈祷室でイザヤ63章を読んでいました。2、30人がそこにはいました。この箇所はキリストの再臨についてですが、少し変っています。あまり知られていませんが、非常に重要な箇所です。私はこのような霊的経験は40年間で3、4回しかしていないのですが、それは私の人生を変えるほどのものでした。イザヤ63章を読んでいると、聖霊の炎と熱が勢いをもって私を包みました。私は「一体何が起こっているのだ、、、」と思いました。又、聖霊の風が私の周りに吹いているのを感じました。それが一時間ほど続いたのです。何かが起こっていることは分かりましたが、それが何であるかは全く分かりませんでした。

 

イザヤ63:1でイザヤは次のように質問しています。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」

イザヤは2700年前にメシアがエドムからエルサレムに行進してくる幻を見たのですが、それが誰であるかは分かりませんでした。エドムは今のヨルダンです。イエスはヨルダンを通ってエルサレムに来られたのです。その衣は紅く染まっている。どうしてでしょうか。エルサレムは異邦人の国々に取り囲まれて攻撃されようとしていました。イエスは再臨のときのエルサレムを救うために来られます。ダビデより、ヨシュアより、モーセより、エリヤより偉大な方がエルサレムの救いをもたらすために来られるのです。その方は「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」と答えます。

イザヤは「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」と尋ねます。3節でメシアが答えます。「わたしはけものを礼拝するものたちと戦い、わたしの衣は彼らの血で赤く染まった。わたしは人間の酒ぶねを踏んだのだ。わたしは彼らをとり除いた。」そして「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。わたしと共にことをする国はなかった。」と言われました。

すべての異邦人の国々がエルサレムに敵対したのです。イエスは「他のどの国も、どの軍隊もわたしと共に戦ってくれなかった。誰ひとりわたしと共に立つものはいなかった。わたしが裁きをもたらしたとき、すべての者はわたしに敵対した。わたしは一人で彼らをすべて踏みつぶし、それでわたしの衣は血に染まっているのだ。復讐の日だったのだから。イザヤよ。」と言われたのです。

 

私はこの箇所を読んでいたのですが、一時間ほども聖霊の炎と熱に包まれ、聖霊の風が周りに吹いてました。主の言葉が私に来ました。「わたしが裁きのために来るとき、(それは愛を阻むすべてのものを取り除くためです)あなたはわたしと共に立ってくれるのか?」と。それは主から私への個人的な言葉でした。「多くの者はわたしがあわれみと共に正しい裁きをするとき、わたしにつまづくのです。誰もどの国もわたしと共に立ってはくれない。あなたは立ってくれますか。」と語られました。私は泣いていました。イエスとの激しい出会いでした。「主よ、私はあなたと共に立ちます。」と私は申し上げました。「世間からどのように悪く言われようとも、多くのクリスチャンから嫌われても、あなたのご計画に従います。」と。

 

その時祈祷室にいた一人の人が私のところに来て肩を叩き「私はヴィジョンを見ました。」と言いました。私は「今はお願いだから邪魔しないでくれ」と心の中で思いましたが、彼は次にように言ったのです。「主は今あなたにイザヤ63章について話しておられます。私は天使があなたに炎を注いでいるのが見えました。天使の羽根が風を起こしているのも見えました。」私は驚いて何も言えずに彼を見つめていました。非常に強烈な経験でした。彼は「主はあなたに一つの質問をされました。あなたはイザヤ63章の深紅の衣を着たイエスを人々に説きますか。

人々に受け入れやすい説教だけをするのではなく、血染めの衣を着たイエスを語りますか?と主は問うておられます。」彼はそう言ってから去っていきましたが、私はそのまま泣いていました。

 

その日、私は主と契約を結びました。「主よ、私はあなたの裁きがどのようなものであるか、理解はできません。終末に関する150章を理解はできていません。2、3の事は知っていますが詳細は知りません。でもあなたの問いに対して私は『はい。』とお答えいたします。」

 

どうか皆さんも血染めの衣を着た主の問いに「はい。」と答えていただきたいと思います。(終り)


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