Archive for the ‘坂達也からの今月のメッセージ’ Category:
07 04月
何故神は、今回のコロナウイルスが
世界を蔓延することを許されたのか(2)
坂 達 也
今週は先週に引き続きパンデミックを起こすことを許す神の目的を聖書から学んでみたいと思います。
恐れは人間を神に向けさせ、しがみつかせる
「恐れ」は人間を神に向けさせ、しがみつかせることを私たちは知っています。その良い例がアブラハムの孫に当たるヤコブです。
彼は双子で先に生まれた兄のエサウを騙して長子の権利を奪いました。又、父のイサクをも騙まして、親からの祝福を独り占めしました。それに気が付いたエサウが400人の部下を連れて、ずる賢い弟のヤコブに仕返しに来ると聞いて、ヤコブは非常に恐れたのです。そこでヤコブは神に祈り泣きつきました。(創世記32:7ー11)
そこで一人になったヤコブに神が送った御使いが現れ、二人は腕ずくで闘い始めました。明け方近くまで闘った御使いが、勝てないと見ると、ヤコブのももつがいを打ちました。こうして自分の力は使えなくなったヤコブはそれでも諦めず、必死に御使いにしがみついて離しませんでした。
神はヤコブを試したのです。ヤコブという名前の意味は supplanter 「騙してでも奪い取る」と言う意味です。すなわち、ヤコブは神の祝福を受けるまではどんなことでもする」男でした。(これについては創世記27:35、37をご参照下さい。)神はヤコブの意図が本物であることを見てとって、ヤコブに新しい名「イスラエル」という名前を与え、最後に祝福しました。イスラエルとはイエス・キリストの名前の一つです。(ホセア11:1、マタイ2:15、イザヤ49:3)これに関しては私の拙書「キリストの弟子」をご覧ください。
私は今回のパンデミックで神は「人々に恐れを持たせ」それによって人々が神であるイエス・キリストに必死にしがみつかせる意図を持っていることに気が付きました。
もう一つの例もあります。それは民数記21:4、5ですが、これこそパンデミックの元祖で最たるものの一つです。
「民は神とモーセに逆らって言った。『なぜあなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物(マナを指す。)に飽き飽きした。』そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。『私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈って下さい。』モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」
これは明らかに神が蛇(サタン)に疫病を起こさせ、人々がそれに感染することを許された。しかし、その救助策として、モーセに「青銅の蛇」を作り、それを旗竿の上高くに上げ(これは十字架上のイエス・キリストを指す)それを仰ぎ見上げる者は癒されるようにされたのです。ハレルヤ!
このことは新約聖書のヨハネ3:14−15で次のように引用されています。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を持つためです。」
そして更に、1コリント10:11で「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれていますから、まさに今それが起こっているとしても不思議ではありません。
又、上記に続いて13節で「・・・あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(終わり)
02 04月
何故神は、今回のコロナウイルスが
世界を蔓延することを許されたのか
坂 達 也
私は今回のコロナウイルスのパンデミックによって、この世で最も大切なことを学びました。それは前にも触れましたが愛と恐れの関係についてです。
1ヨハネ4:18に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とあります。
神は敢えて、私をニューヨークの最も危険地域に置かれました。しかも、私が住むアパートで一人の陽性者が出たのです。高齢者の私は最も危険人物の一人でしたから、正直なところ、私は恐れを感じました。
それによって私の愛は「全きものとなっていない」ことを知らされたのです。そして、上記のみことばの次節4:19に「目に見える兄弟を愛していない者に目に見えない神を愛することはできません。」と書かれていますから、私の心はぐさりと刺されました。牧師の端くれにせよ、教師の立場にある私にとってこれ以上恥ずかしいことはないという思いに駆られました。
そこで私はこの十日ほどの間、一日2−5時間、主に異言で必死になって祈りました。
そこで私は「愛」について改めて学ぶ必要を感じ、たまたま自分が2013年12月17日付で書いたメッセージを少し書き直して下記に掲載させて頂きますのでご高覧ください。
「愛とは何か。」
聖書全体を通じて一番大切な「神からの命令(戒め)」は何でしょうか。イエスご自身の説明によれば、それは「二つの戒め」です。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:37−39)これは神と愛に関する、驚くべきほど究極的なステートメントではないでしょうか。それでは一体、愛とは具体的に何なのでしょうか。
愛の定義は色々言われておりますが、真っ先に思い浮かぶのは1ヨハネ4:7−8です。「 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」
このみ言葉によって愛とは神ご自身であり、神のみが愛の源である」ことが分ります。私たちがイエス・キリストを信じて以来、私たちの内におられる聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれています。(ロマ書5:5)上記のみ言葉でもう一つ重要なポイントは「神を知っています。」ではないかと思います。私たちは神に対し心からの愛があるなら、必然的に神を、単に頭の知識として知るのではなく、親密 intimacy に知る関係に入らずにはおられないのです。
しかし神を愛するとは、「神の律法全体を守ること」が切っても切れない愛の一部であることをクリスチャンははっきり認識する必要があります。そこがこの世一般の愛のコンセプトと異なります。それがヨハネ 14:15に「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」
「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ 15:10)
私たちは、イエスご自身がなさったこと、即ち、律法全体を成就されたこと、そしてそのためにこの世に来られたこと(マタイ5:17-19)を、同じように成し遂げることが私たちの最終目標であり、それが父なる神に対する私たちの愛であるのです。それを可能にする唯一の方法は、イエスが「父の愛の中にとどまっている」ように、私たちも「主イエスの中にとどまり、イエスが私たちの中にとどまる」ことであると思います。
第二の戒め
又、愛の使徒と呼ばれるヨハネは何よりも「私たちが互いに愛し合うこと」を繰り返し強調しました。私たちは、神を愛すること(第一の戒め)に関しては、イエスを信じてクリスチャンになり、曲がりなりにも教会に集っている限り、その信仰の程度は別にして、基本的に神を愛していることを周りが認めてくれますから特に問題にはなりません。なぜなら神が霊的存在で、その人と神との直接の係わり合いが肉的によく「見えない」「聞こえない」からです。ところが「第二の戒め」となるとそうは行きません。周りの人にはその人が隣人とか兄弟姉妹をどのように愛しているかが一目瞭然ですから、直ぐ批判の対象になります。正直に言って「自己中心」から抜け切れない私たちにとって、この「他人を愛する」こと程難しいことはこの世の中で他にはないと思います。その他人への愛の実践 love in action がいかに難しいかを自らの経験を通して克服した人の一人は使徒パウロです。そのパウロが書いた「愛」の章と言われる1コリント13章をこれから御一緒に読んでみたいと思います。分り易くするために、この章全体を三つに分けてみます。
1コリ13:1-13
1-3節「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」
そこで先ず、最初の1-4節で気が付くことは、パウロ自身が「異言の賜物」を誰よりも用いたオーソリティーであることです。そして「預言の賜物」についても権威者の一人ですし、彼こそ聖書の「奥義と知識」に最も長けた使徒であると私は信じます。「完全な信仰」についてもそれが言えます。加えてパウロは「自分の持ち物すべてを与えた」人であり、「自らをいけにえとして差し出す=自らの十字架を担いで主の後を追った」人であることでも誰にもひけを取りません。その彼が「そのようなこと(6つの例を挙げ)をいくらしても、もし『愛がないなら』それらの行為は『何の値打ちもない』」と断言しているのですから、これを読んで驚嘆しない人はいないと思います。
特にクリスチャンとして最もうらやましい「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」とまで明言するのですから、どれだけ愛が大切であるかがお分かりになると思います。
でも、正直なところ私の場合は、このショッキングな記述を読んだ時に一応の驚きは感じましたが、それ以上の感動とか心が揺さぶられるようなショックを感じないで今まで過ぎて来ました。そして、そんな霊的感覚が麻痺したような自分が、同じ自分の中にいることに気が付いて愕然としたのです。むしろ、その事実の方がより大きなショックでした。「なぜなのか」私は自問しました。また「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じる」ことはクリスチャンとしてこの上なくうらやましいことです。私もそれを強く願って来ました。しかし、「愛がなければ」と共に、それが単なる「頭の知識でしかなければ」何の役にも立たないと言うことにも気が付かされました。「なぜ自分はそうなってしまったのか」―その答えは「宗教の霊」にやられて来たからです。そして私の中には、何と大きなプライドが詰まっているかに気が付いたのです。
自ら「パリサイ人中のパリサイ人であった」と告白するパウロが「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じている」ことを掲げて、それが本当に主への愛ではなくて、単に自分のための「知識として知っているのであれば全く何の力もない」ことを喝破しているように思えます。それを経験したパウロであるからこそ、2テモテ3:5で「見えるところは敬虔(信心深そう)であっても、その実(力)を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」と言えるのでありましょう。その点私などは、奥義も知識も信仰もあまりなく、ないゆえに「力のない」のは当然でありながら、それを嘆いて来たのは私のプライドからであることに気が付かされました。
又、そのようなパウロであるからこそ、ガラテヤ 5:6で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰(愛によって働く信仰)こそ大切です。」と言えますし、そんな中を通って苦しんだ結果として、彼は愛の大切さを本当に理解した人になったと信じます。
他人を愛することの難しさ
4-7節「 愛は寛容(我慢すること)であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
さて、この4-7節ですが、ここでもパウロは、驚く程厳しくてリアルな「愛の実像」を描いてくれています。ここに列記された14の「愛は・・」すべて「他人に対する自分の取る態度」が取り扱われていますが、それらは「自己中心」を微塵なりとも許していないことに気が付かされます。他人に対してあくまでも「親切」にし、他人を「ねたまず」人に自分を「自慢せず」「高慢にならない」又、他人に対して「礼儀を欠かず」「自分の利益を求めない」「他人の不正を喜ばずに真理を喜び」「他人を出来る限り信じ」「他人のすべてをよく期待する」―という9つの品性です。
そして残りの5つである「忍耐強く寛容で」「すべてを我慢し」「いらだたず」「うらまず」「すべてを(特にどんな迫害とか虐待に会っても)耐え忍ぶ」―ということが真の愛だと言うのです。
ハッキリ言えば、パウロの言っていることは最後の5つだけでなく、14のすべてが「他人を愛するためにはすべての面で忍耐が伴う」の一言に尽きるのです。それは別の言葉で言えば他人の至らなさをすべて赦すこと―それが愛であることを示していないでしょうか。これこそキリストがこの世に生まれてから最後にゴルゴダの丘に到達する間に出会った人たちのあらゆる罪の苦しみを自ら味わった上で、最後に十字架刑と言う極刑の苦しみの中で全人類の罪のために死んで下さった愛ではないでしょうか。
イエスが自らの一生を通して私たちに示されたのが「御霊の実」のすべてであったと思います。それは「愛、喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。この中のどれ一つを取っても厳しく練られた人間としての最高の品性でないものはありません。中でも一番難しいのは他人に対して常に寛容であるための忍耐と自制ではないでしょうか。
長い間主によって「もうしばらく待ちなさい」と言われ続ける中を、希望を失わず、すべてに自制して、じっと耐え忍んで来られたクリスチャンはたくさんおられます。しかしそのように何の報いもないと思われるような「高い代価」を払って品性を磨き上げられ、最終的に「キリストの香り」を放つ者となるのがレムナントと呼ばれる人たちではないでしょうか。
これはパウロ自身が通った道であるに違いありません。「・・・すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」と言った後で、パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」と1テサロニケ5:14-19に書いています。そこには本当に自分に死んだ姿しかありません。
そして、これこそがあくまで私たちが霊的にキリストの身丈にまで成熟するための訓練です。そのすべてを私たちに内住される聖霊が愛をもって私たちのために日夜して下さっているのです。特に16節の「いつも喜んでいなさい。」17節の「絶えず祈りなさい。」そして18節にある「すべての事について、感謝しなさい。」こそに、他人を愛するために何事にも「耐え忍ぶ」ことを可能にするパワーが秘められており、それがその「秘訣」であり、聖霊による愛の励ましがあると、私は思います。ボブ・ジョーンズ師が言う珠玉のようなレムナントとはこうして生まれて来るのでしょう。
愛は決して絶えることがない
8-13節「8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】
13:8に「愛は決して絶えることがありません。」と書かれています。多くの英語の聖書は love never fails と訳しています。日本語の訳「愛は決して絶えることがない」は確かに正しい訳には違いありませんが、パウロの言わんとする全貌を伝えてはいないと思います。私はそれ以上のもっと強い意味、すなわち「偉大な神の愛に宿る限り、私たちがするすべての愛による行いは、神の御心通りに運ばれ、常に完全に成功する、必ず成就する」と言う意味であるからです。
あるいは「『預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。』しかし『愛があれば』どんなことでも失敗することはない」と言う意味であるとも言えます。だから「神は愛である」とも言えましょう。
私は「神の愛」を本当に理解するには、神の愛とはこの宇宙に存在する「最高次元」―そこに神が住まれる「神の領域」=それが「愛」の次元=として考えるのが一番ふさわしい説明であるように思います。私は物理学量子論の「超弦理論」が宇宙の仕組み、特に霊の領域の存在(それがあることだけは私たちには分ります)を近い将来科学的に説明出来る可能性があると申し上げましたが、その最高次元がこの神の住まいの次元であるのです。そして、すばらしいことに私たちキリストを愛する者は、将来その次元で主イエス・キリストと共に永遠のいのちで最高の人生を過ごすことが約束されているのです。ですから、私たちがどんな艱難を通されても、それは神がなさっておられるのですから私たちのために必ずよい結果を生み、実ることを知っており、すべての神がなさることに喜び、感謝出来るのです。13:9-10では、私たちが今経験していることの大部分が不完全で、一時的、あるいは一部分でしかないと言うことが書かれています。それは三次元の世界の話であり、その「この世」の世界は、神が私たちのために具えられた「愛」という高次元に住むための準備と訓練の場所であるに過ぎないのです。
9−12「私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分でしかないのです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言うみ言葉を通して、今の私たちクリスチャンがどれほど苦労させられ、厳しい忍耐の中を通されていても、それが目的を持った一過性で仮の領域でしかないことを知る時に、私たちは大いに励まされないでしょうか。
そして、この章の最後の言葉が13:13節「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】で終わっております。(終わり)
18 02月
バレンタイン・デーを迎えて
預言者ボブ・ジョーンズ師を思う
坂 達 也
先週の金曜日、2月14日はバレンタイン・デーでした。私は毎年バレンタイ・
デーが来るとボブ・ジョーンズ師が天に召された日であることを思い出します。
そこで2014年の2月14日に天に召された師のために、リック・ジョイナー師が司式をしたモーニングスター教会での盛大なメモリアル・サービス式典(2月21日)の様子をもう一度久し振りにユー・チューブで見ました。
最初に紹介されて、ボブの思い出を語ったのは、カンサスシテイーにあるIHOPのマイク・ビクル師でした。ビクル師は1983年にカンサスシテイーに移り、そこでボブに会いました。ボブはマイクが手を差し出しても握手もせず、いきなり「あなたは24時間絶え間のない、若い歌い手とミュージシャンと共に主を礼拝するミニストリー(今の Ihop )を持つ、そこに世界中からsong birds 歌い手が集まる、そして、イスラエルとの関わり合いを持ち始める。後にハリー・トルーマン大統領が住んでいた125エーカーの土地に移る(実際にイスラエルに好意を持つ大統領はフリーで自分の土地を IHOP に寄贈した)等のことを預言し、それが25年後に実現したのです。
次に高壇に上がったのはポール・キース・デイビス師でした。彼は最初の出会いからボブが全くこの世的でない天の御国のことしか考えていない「変人」である経験を語りましたが、彼はボブと6年間密着して一緒に仕事をした人で、リック・ジョイナー師と共に最もボブと親しかった人の一人です。
そのデイビス師が強調して語ってくれたことで一つ確かなことは、ボブはエライジャ級の預言者であったことでした。以下はメモリアルサービスの時ではなく、デイビス師自身のミニストリーで、ボブが9歳の時に起こったことを、デイビス師が分かち合ってくれたことをご紹介します。(彼のミニストリー:2014年3月4日の録画より)
ボブが9歳の時の話:ボブは向こうから白い馬に乗った大きな男がやってきた。よく見ると馬の足は地に付いていない、そしてシルバー色のトランペットを持っていた。ボブはそれは世の終わりに現れるガブリエルであると信じた。するとガブリエルは馬の鞍の上に乗せていた牛皮でできたマントをボブに投げた。しかしボブは世の終わりが来たのだと思って、拾わずに家の中に駆け込んだ。ボブが39歳の時、ガブリエルが戻って来てマントを再び投げたのでボブはそれを拾った。その時からボブの預言的ライフが始まり、ボブはテクニカラーの幻とか夢を見るようになった。そして私は、ボブが人の内臓に入って行くのを見た。1974か5年に、ボブはホモセクシャルコミュニテイーに起こる病気エイズを預言した。また、その頃大流行し始めた Abortion 妊娠中絶用の錠剤が発売されることの預言を受け、それを訪ねた教会で話した。すると悪魔が現れ, ボブがその話をし続けるなら殺すと通告したにもかかわらず、その直後にその錠剤薬の話を他の人に話した。すると翌日ボブは下腹部が破裂し口に血がのぼったので救急車で病院に運ばれたが、結局診察台の上で死んだ。ボブは天に上り、クリスチャンの列に並んでいた三人の人と共に光の衣を着て順番を待っていた。もう一つの列には大勢の人が、それぞれ生前に仕えたお金、アルコール等に似た着物を着て地獄に落ちて行くのを見た。
ボブの前に並んだクリスチャンのうち先頭にいたのは9歳の女の子で、主はその子に、この世で「あなたは愛することを学んだか。」と聞くと、答えは「Yes」、主は「その通りだね」と言って彼女にキスとしハグをし、天の門の中に入れました。次は少し年老いた婦人で、彼女は主は愛したが、夫を亡くした時に恨みの気持ちを持ち、それ以来、人を愛さなくなったと告白すると、主はそれを認め、中に入ることを許したが、ご褒美は与えられなかった。次の女性は黒人で、彼女の周りには多くの御使いが付き添っていたが、ボブには一人の御使いしか付いていなかった。彼女はエバンジェリストで多くの人を天に送った。主は彼女にキスをして中に迎へ入れた。次にボブの番が来ると、主は彼に「あなたは地上に帰りなさい。」と言い、それに答えてボブが「帰りたくない。私は帰ってもあまり役に立ちません。」と言うと主はボブに「あなたは魂の救いを願うかと聞き、それに「Yes」と答えると、「あなたは地上に帰って、わたしのリーダーたちに影響を与え、10億のたましいを救う」そして「わたしが聖書で与えると約束したすべての賜物を多くの人に数倍増して与える。」と言われた。
ボブ・ジョーンズ師が残した最も有名な言葉といえば、既に上記で紹介したように、人々が死んで天の入り口でイエスの前に立つ時、主は誰に対しても唯一つだけ質問をされる。それは、この世で生きた生涯で「あなたは愛することを学んだか。Did you learn to love?」という質問です。
私はこの質問の意味は考えれば考える程深いと思います。先ず思い出されるのは弟子たちに聞かれてイエスは、マタイ22:37、39で「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せと」という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」その上に、マタイ5:44で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とありますから、本当に「神は愛」以外の何ものでもありません。ジョーンズ師は続けます。「神のなさることのすべては愛という土台の上に建てられている。もしあなたが本当にこの世で愛することを学んだのなら、その神があなたがたにしてもらいことのすべてにおいて従順を尽くしたはずであると言われます。主がそう言われるのは「主と私たちは結婚するように造られていて、そのための準備であるからです。」ハレルヤ!
尚上記マタイ22:40には「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と書かれていますが、私の聖書の「律法全体」の右側には、いつ書いたか分かりませんが「神の御心」という添え書きが、そして「預言者」の右側には「私たち」という添え書きが付いていることに気が付きました。恐らくこの添え書きは誰かが言ったか、書いてあったものに相違ありませんが、そうです、私たち自身が皆「預言者」にならなければならない、そして花婿のすべての言葉を聞いて、それに従順を尽くすことが最大の目標ではないでしょうか。
ところで、ボブ師は前の奥さんが召された数年後に、今の奥さんのボニーさんと再婚しました。そして分かったことは、ボブ師は「あなたは愛することを学んだか。」という質問に対し「私はボニーから『愛することを学んだ。』」とはっきり答えています。何とすばらしいこの世での結婚関係の証しでありましょうか。ボニーさんは、御国のこと以外に何も考えない、頑な一徹に主に仕え、来る人拒まずで人を教え導いたボブ師、特に最後の頃は身体的にこの上ない大きな苦しみの中を通った夫を献身的に尽くしたボニーさんから「愛を学んだ」と証しされたのです。
最後にポール・キース・デイビス師による、ボブが天に召される直前に起こったことをボブ師の証として述べさせていただきます。
ボブは2014年の一月に地元の病院に入院したのですが、その直前のある時彼はベッドから立とうとして立ち上がった途端に足の骨が折れて(カルシューム欠乏症)床に崩れ倒れた。その後衰弱の一途を辿り、召された2月14日の数日前は、ベッドから頭をあげることもできない状態にあった。そんな彼が夜中の2時頃にその病院の事務長室のドアを開け、歩いて中に入って来た。そのドアにはキーパッドが付いていてその支配人(リック師の知り合いのクリスチャン)と秘書しか暗証番号は知らないはずのドアをボブが番号を押して入って来たのです。ボブが入って来たのに驚いていると、ボブはその支配人に主からの預言を伝えたいから書き取って欲しいといい、色々な人への預言を語り出した。支配人は全く知らない人ばかりで、英語で書いたつもりが、後で見ると東洋の言葉のような外国語になっていたというのです。ボブは最後の最後まで主からの預言を伝えることに徹した人であったという驚くべき話。ボブは言い終わって、自分の病室に歩いて帰り、朝の6:22AMに召されたのでした。後で分かったことは、支配人室に入って来た時ボブは「私に触るな。私は未だ完全に霊の身体に変わり切っていないー変わりつつある状態であるからと叫んだそうです。(続く)
11 02月
裸のアダムとエバよ、今こそ輝く衣を着る時が来た
坂 達 也
下記のメッセージは私たち夫婦が2017年の日本旅行から帰って来た時に書いて掲載したものですが、たまたま私は今この記事を読んで、まさしく、これから来る終末の大リバイバルを前にした現在の私たちに当てはまるものであると強く感じましたので今週のメッセージとさせて頂き、最後に本日の私自身のメッセージも加えさせて頂きます。
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三週間にわたる今回の日本旅行を通して感じたことを一言でいえば、今はイザヤ書60:1−3に書かれている時代に入っているという実感でした。
「起きよ。光を放て。あなた(クリスチャン)の光が来て、主の
栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。
しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩
む。···」
「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。」とありますが、それはアメリカだけではなく、日本もそうなって来たことを今回はっきり実感しました。そして世界中にそのやみが急速にひろがりつつあります。
先ず異例な天災が世界を襲っていること。局地的豪雨をともなう未曾有の大型台風とかハリケーン、加えて、多発する地震と火山活動によって世界は膨大な被害を被りつつあります。
一方そのような天災とともに、世界を深いやみの真中に陥しこんだのはテロと言う人災であり、それによる破壊活動も益々激しさを増しています。それは特にアメリカにおける政治の頽廃と、超リベラルなメディヤの挑発による民衆や学生の暴動というテロ行為を引き起こしているだけではありません。北朝鮮とイランによる核兵器実験と言う深刻な挑発行為も、世界中の人心を脅かす大きなテロの一つと言えないでしょうか。
なぜ神はそれらが一挙に起こることを許しておられるのでしょうか。
その理由を挙げるとすれば、神は敢てこの世をとことん暗くすることによって「クリスチャンが輝き出す」ことを、この世の人々に見せようとされているのではないかーということに気が付きました。そして、今回私はそのことを旅の後半で強調しました。これからの終末の時代には真にキリストにつながったクリスチャンが台頭して、そのクリスチャンがそれぞれ個人的に輝き出すことを見て、神を知らない人々が神の存在に目覚める。それだけではありません。その輝きを増す「力あるクリスチャン」が、その国の政治も経済も変えるのです。それが最終的に終末最後の大リバイバルへの引き金となるのです。
日本の国を御国として立て直すのも、最後のリバイバルを起こすのも、主は日本のクリスチャンに期待しておられます。そのために今最も必要なことは「人間的·宗教的になり下がったクリスチャンとその教会」を抜本的に変えることであると私は信じます。そのために私は今回、従来のように教会を訪ねること以上に、個人的に二人三人のクリスチャンの集まりとか、ホーム·チャーチで親密なお交わりをさせていただくことに重きを置きました。なぜなら真のクリスチャンとは、最終的に個人としての主と交わることによってのみ育まれるものであって、マスプロダクションではないからです。(但し、大きな教会では小グループによる弟子訓練が可能ですが、これには大変な指導力が必要です。)
ところで今回日本で、私は初めて「団体としての教会」を離れた、あるいは「離れたいと願っている人々」を総称して「クリスチャンの難民」と形容するのを聞きました。なるほど今、世界中に難民が溢れているように、日本ではクリスチャンの難民が問題になって久しいことを以前から私は憂いておりました。云ってみれば幕末末期に、侍の多くが「浪人」として溢れていたことと少し似ているような気がします。
この問題への対策として今回、私は「クリスチャン個人が光り輝く」ことの重要さを認識しました。クリスチャンが輝き出すことによって、輝かないクリスチャンが明るみに出されます。それが刺激となり、やがてクリスチャン全体の霊性の向上を期待したいと思います。
罪を犯す前のアダムとエバの身体は神の栄光で輝いていた
最初のクリスチャンであった彼らは、裸であったにもかかわらず、身体全体が輝いていて着物を着る必要はありませんでした。しかし、罪を犯すとともに彼らを包む栄光の衣は消え、彼らは自分が裸である事に気付いたのです。そこで神が近づくと彼らは(神の御声を聞いて)慌てて園の木の茂みに身を隠したことが創世記3:8−10に書かれています。
又、シナイ山で神と40日間向き合った後のモーセの顔があまりにも輝いていたので、民は眩しくてモーセを見られなかったことを思い出して下さい。その後モーセは主に向かって叫んだのです。「私にあなたの栄光を見せて下さい!」(出エジプト 33:1) そしてモーセは神の後ろ姿を見て、さらに霊的に変えられました。これは新約の時代に生きるクリスチャンが最終的になるべき姿の型を示されたのであると思います。
それがルカ9:28、マタイ17:1に書かれています。イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登った時に、祈っておられるイエスの御顔が突然変わり、御衣が白く輝き出しました。そこにモーセとエリヤも現れたのです。
一体何がイエスの身体とかモーセの身体を変えたのでしょうか。
聖霊が私たちの細胞を変える
2コリント5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書かれています。
私たちがイエスを信じてボーン·アゲインすると、その人は主の十字架の御業により新しく造られた者となり、その結果として、聖霊が私たちの中に住むようになります。これが「新しい創造」です。これによって先ず心が霊的に変えられ、すべての細胞が変革されるのです。超自然の「平安」が身体中の細胞とか臓器に植え付けられ抜本的に変えられることは最近の科学が証明しています。
但しここで重要なことは、「聖霊が私たちの中に住む」といっても、それが本当にあなたの中に住み始めた聖霊が生きて自由にあなたと共に活動していればの話であって、そうでなければ輝き出ないと思います。これがクリスチャンの最大の問題であるのではないでしょうか。本当にあなたが聖霊と共に歩いていれば、あなたは聖霊の衣をいつも纏って歩くようになり、あなたの身体は光り輝き、奇跡がどんどん起こり始めるでしょう。
すなわち、私たちの身体は「新しい創造」によって聖霊の臨在が常に宿り活発に活動するとき、罪のないオリジナルの人間にリバイブされ、身体が輝き出る元々のキャパシティーを持つているのです。
ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この御ことばは「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、神の栄光 GLORY とは「神のすべて」の現れ=臨在であり、それがフルに顕われるとき、神の永遠のいのち、愛と力、神の神聖さと公正さ、慈悲、知恵によって、もの凄い輝きが出るのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのですから。
そのためには2コリント3:16−18の祈りが非常に重要であると私は信じます。
「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
この祈りをすればする程、私たちは新しい創造により「主に似たもの」に変革されて行きます。
ここで、暫く前にWWGMでご紹介したキャシー·ウオールターズ師の「宗教的思考は人に重圧を加え、宗教の霊は常に何らかの肉の努力奮闘を生み出す」というお話をさせていただきます。
師は「聖霊は、ご自分のために、あなたに働いてほしいとは望んでおられるのではなく、私たちが神の御霊に自分を明け渡し「どうか私を通してお働きください」とお委ねすることを望んでおられるのです。私たちはただただ自分を聖霊に明け渡し、主が事をされるのです。そうするとすばらしことが起ると言われるのです。
それがピリピ2:13に書かれている「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」の意味です。
願いを起こすのも実現されるのも神(キャシー•ウオルターズ)
人の心を変えることや、御名に栄光を帰す超自然的な事をする能力があるのは、ただ神お一人です。クリスチャンの上に密かにのしかかっている一番大きな重圧を私は「偽りの責任感」と呼びます。この「責任感」は、それが聞こえがよく、道徳的でありうるというところに問題があります。私たちは自分で勝手に「良いと思って」してしまい「自分が何者であり、何者ではないか」を忘れてしまうのです。
よいクリスチャンになり、よいミニストリーをしようと努力をすると、自分にはする力がない事をしようとしてしまいます。私たち自身は誰かを変えたり、何かをさせたりすることは不可能であることを忘れているのです。もしあなたが、あたかも自分が聖霊であるかのように一生懸命になると、しくじります。それは、人の心を変え、真の解放を与えて魂を救うことができるのはただ神お一人だからです。神だけが超自然的奇蹟、しるし、不思議を行えるのです。
過去の多くのリバイバルは「偽りの責任感」によって消滅したことをご存知でしょうか。エヴァン·ロバーツは、一九〇四年にイギリスのウェールズ地方で起こった大リバイバルにおいて神に力強く用いられた若者でした。その地は神の栄光で覆われ、酒場やバーは閉店し、多くのスポーツ競技もなくなりました。ロバーツたちは、神ご自身が望まれることを神にしていただき、自分たちは神の邪魔をしないようにしました。神の訪れが町から町へと広がり、神の力がいたるところで顕されました。そして人びとは神と神の臨在に応答したのです。リバイバルが始まって九ヶ月が過ぎたころ、幾つかの町で重い空気が漂い始めましたが、ロバーツのパワフルな油注ぎは持続されていました。
しかし、やがてロバーツは神経衰弱になり、人びとの上に大きな重圧をかけるようになってしまいました。お分かりでしょうか、私たちは自分の力で強制的に誰かを主に応答させることなどできないのです。ロバーツは、勿論よいと思ってしたのだと思いますが、群衆が自分が望んだように福音に応答しないとき、腹を立てるようになったのです。「彼らは御霊を消している!」と言って会場を去ったり、集会を中止したり、人びとを叱責するようになりました。
でも皆さん、ロバーツは聖霊ではありませんでした。人びとがどのように神に応答するかは、彼の責任ではなかったのです。それは聖霊の仕事でした。
ミニストリーをしている人達が、自分が聖霊になろうとすると、ノイローゼや神経衰弱になることがあります。偽りの責任感が働くときには真の自由はありません。それはその人の肉が働くからです。神にしか出来ないことを頑張って努力するならば、あらゆるストレスをあなたは持つ事になるでしょう。
あなたの責任は、神から言われたことをするだけです。人びとがそれをどのように受け取り応答するかは、あなたの責任ではありません。しかしそれを自分の責任ととれば、それはとてつもない責任であり、その重圧があなたの身体にも影響を与えます。もし誰かのために神からある言葉を受けたならば、それを告げるのはあなたの責任ですが、その人が何をしてどう応答するかは、その人と神との間のことであるのです。
聖霊に導かれることが私たちの責任
多くの教会では「人びとの必要を満たすこと」が大切だと教えます。良いクリスチャンなればそうするのが当然といえるかもしれません。しかしイエスがエルサレムやベタニヤ、ガリラヤの町を走り回ったのは、人びとの必要を満たすためではなかった、と言ったら、皆さんは驚かれますか。実際のところイエスは次の3つのことをしただけです。
1.御父が「せよ」と言われたことをした
2.御父が「言え」と言われたことを言った
3.御父が「行け」という所に行った
あなたの重荷を振り落としてください。それは重苦しく、あなたの喜びを盗むものです。あなたが努力奮闘するように仕向けるものです。私は世界中のミニストリーを沢山知っていますが、一つ申し上げられることは、私が知っている霊の領域で最も鋭くシャープな人たちは、最も軽々としています。
重圧 weights =「重い責任を持つこと」はあなたも他の誰をも助けません。自分で重い責任を感じてする重圧はあなたを宗教の領域に閉じ込めるだけです。
常に平安と安息と信仰から働いてください。ヘブル4:10に「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあります。私たちは、わざではなく信仰によって神の平安に入るのです。神こそが人の心を変え、御名に栄光を与える超自然的なわざをされる力を持つ方です。(以上キャシー·ウオールターズ師の話)
最後にここで私たちには大きな問題があることをもう一度申し上げます。それはほとんどのクリスチャンが、ボーンアゲインした自分の内には「聖霊が内住しておられる」ことを頭では理解していていても、現実にはその聖霊と共に生きていないという事実です。ー[もし、本当にあなたが目に見える形でいつも聖霊と行動を共にしているのなら、その聖霊をあたかもそこにいないかのように無視して自分で勝手に行動するでしょうか]ー私も長い間、その聖霊の臨在の実感がなく、なるほど、聖霊は私たちを助けてくれる「ヘルパーさん」と考え、有り難いと思いつつも結局はほとんどの場合、自分で「聖書的に良いこと」を「自分で」選び、それを「自分の方法とタイミング」で行っていたに過ぎないことに気が付かされたのです。
私はここでヨハネ5:19に「···子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」と書かれている聖句を思い出します。イエスは聖霊を通して父がいわれることを耳で聞くだけでなく、それを見て行われたーそれはもの凄い注意力ですーしかし、主がされたことはそれだけです。でもそこがポイントではないでしょうか。
私は最近リッチ·ベラという牧師のお話しをビデオで聞きましたが、彼は驚いたことに「主の御声が聞こえると同時に、それが目で見えるようになった。」といわれるのです。それを聞いて私は、本当にうらやましく思いました。でも私たちも聖霊と忠実に歩むようになるとき、そうなれると信じます。
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本日は、以上のメッセージに、下記のものを加えさせてて頂きます。これは2020年02月02日(前から読んでも後ろから読んでも同じ)のモーニングスターでのリック·ジョイナー師による礼拝メッセージの冒頭で、師が口ずさんだ二言の言葉です。
「イエスは今私たちの中で生きています。そうであるならイエスご自身がご自分の教会を建て上げるのが当然です。!」
これで私(坂)は、荒野を行進するイスラエルの民は、毎朝天から降って来るマナという食物が与えられ、それで一日中生きていたことを思い出しました。それと共にマタイ4:4に書かれている『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」大事な御ことばも思い出しました。
この御ことばは、天からは降って来る「肉のマナ」と共に「霊のマナ」も毎朝降って来る(一日中降って来る)、その「霊のマナ」を私たちクリスチャンは絶対に頂かなければならない。なぜなら、私たちの、元々本質的に生きる命とは霊であるからです。ベテル教会でよく話されるランデイ·クラーク師も、明け方を待たずに二時、三時から起きて主の前に出る、リック師も四時前から起きて主と向かい合うと言います。
すなわち、私たちに内在する主イエスは、私たちに必要な「霊の言葉」をいつも話しかけておられ、そのために私たちの中に入って住んで下さっておられるからです。私たちは、その主の一つ一つの言葉を受け、それに応答しながら生きているのです。
祈りとは、本質的に先ず、主のことばを聞くことであり、それに応答しながら主の御心に沿って生きることであると言って過言ではないと思います。(終わり)
04 02月
天に召された柚実子が残した
皆様への最後のメッセージ
坂 達 也
私は柚実子が昇天した三日後の1月19日(日)に、近くにある日本人教会ニューヨークめぐみ教会にて、折から日本へ旅行中の牧師の代理として礼拝メッセージを取りつがせていただきました。葬儀を前にして取り込み中でしたので、お断りすることもできましたが、実はこの予定は数週間前から決まっていて、しかも私は柚実子からこの日には必ず「このメッセージをして欲しい」というテーマの指示まで受けていたのです。
そんな注文を付けられたことは私の記憶には今まで一度もありません。まるで柚実子は、自分が昇天することを知っていたかのようでした。そこで、私は下記のメッセージは柚実子からの「遺言」として取りつがせていただいた次第です。
また、このメッセージは、この地元の教会だけではなく、私たちが今日まで親しくしていただいたすべての教会の皆様に伝えて欲しいという願いを柚実子は持っていたと確信します。就きましては、柚実子のために私が伝えたメッセージを下記に要約しましたので、ご高覧くだされば幸いです。
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創造主の神はすべての人間が生きる
一生の脚本を既に書いて天に保存している
皆さんはこの宇宙に人間を含む全てのものを創造した全知全能の神が永遠の昔から存在することを信じますか。
ご存知の通り、聖書には冒頭で「初めに、神が天と地を創造した。」と書かれていますが、その神が「全知全能の神」であることが、聖書の詩篇139:1−18をお読みになればよくお分かりになると思います。
「あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り私の道をことごとく知っておられます。言葉が私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。たとい私が、「おおやみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされまし た。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計 は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多い のです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」
と書かれていて、その意味するところはこの宇宙にある全てのもの、それはあらゆる目に見えるものだけでなく、目に見えない考えとか思いに至るまでの全てを創造した創造主の神が存在するということです。
私は大学で文学を学び、行く末は小説でも書こうかと思ったこともあったせいか、一人一人顔かたちや性格のことなる多くの人間が、それぞれ生きる環境が異 なるこの世で、人生をどのように生きるかを神がどのように創造するかに興味を覚 えたのです。
神の創造は映画を制作するようなもの
小説にせよ、映画にせよ、作る前に製作のテーマと主人公、そのためのストーリーを はっきり決定してから取り掛かるのが普通です。従って、創造者の神も同じようにして創 造することは容易に想像できます。完璧な神であれば尚更、登場人物も、それぞれの筋書 きも、結末も、全部初めから決まっていて全くおかしくありません。映画の制作では、 原作の物語を先ず選び、それにそって監督は思い通りに物語の進行場面とか舞台装置の小 道具一つまでを綿密に設定し、シナリオを書かせ、選んだ登場人物に自分の納得が行くま でセリフを言わせ、演技をさせ、自分の思い通りのシーンを造りながら物語を進めます。つまり、一本の映画を作るためには、前もって 原作、筋書き、脚本、シナリオ、それに必要なあらゆる小道具迄の詳しい明細が書かれた原本を用意する必要があるのです。
そのことが上記の詩篇139に書かれています。すなわち、神は一人 の人間が生まれる前に、予め、その人が生きる一生の毎日に起こることの明細を書物に記録したものが天の書庫に収納してあると言うのです。この「天にある書」は「デスティニーの書」といわれます。
その他にも、天には多くの書物があることが下記のことばから も分かります。 黙示録20:12、15「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も 御座の前に立っているのを見た。そして数々の書物が開かれた。また、別の一つ の書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書 物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。・・・ いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
これは「天の法廷での裁判」のシーンですが、次もそうです。 黙示録3:5「勝利を得る者はこのように白い衣を着せられる。そして、わた しは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名 をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」 父が裁判官、イエスが弁護人、御使いサタンが告発者であるのです。
天にある書物、いのちの書
そうであれば、皆さん、そのような書物を見てみたいと思いませんか。事実天 に行って、その本が収納されている巨大な書庫を見て来た人が少なくとも三人い るのです。その一人は私たちが敬愛するポール・キース・デイビス師です。彼は 超自然の幻を経験し、天の書庫に案内されてその書物を見て来ました。 そのデイビス師が親しかった預言者として知られた故ボブ・ジョーンズ師も、 ある時、御使いに案内されて天の書庫に収納されている膨大な書物の一つ 「Books of Resume 履歴の書」を見たそうです。彼は先ず自分の履歴を見 ました。そして分かったことは、自分が実際に実行したことはその書に書かれて いることに比べ非常に少ないことでした。
ジョーンズ師は、その中で特に最近のリバイバルに関与した一人の著名な預言 者の履歴を見せてもらった時、彼の生涯の最初の50余年に行った履歴とその後の短い晩年 の履歴を比較して、晩年の方がより多くの霊的成果を挙げていたことに気付きま した。これは一体何を物語っているのでしょうか。 それは、主に愛され用いられる人に最も必要なことは「霊的成熟」であること です。晩年になって、成熟すればする程、主とのコミュニケーションが親しくで きるようになる、そうなれば毎日、主に自分の、主によって初めから決まっているその日すべきことを聞いて知り、そ れにより従って生きるようになったからです。
終末の時代に生きる私たちには特にそれが重要です。主は今、本当に激しく求 める人には、霊の油注ぎをかつてない程、超自然的に加速して下さろうとしてい る時代に入っています。ですから、これ迄は目立った働きをしていない無名の人 でも、激しく主との交わりを求め、霊的成熟に専心する人に主は加速的に 油を注がれ、これから大きく用いられる可能性が充分あるのです。
上記の記述から分かることは、創造者の神がいかに人間を愛しておられ、その 人間のためにこの三次元宇宙と地球環境を先ず造られた。そこに人間を生まれさ せ、出来るだけ多くの人間を「自分の子どもにする」ための厳しい霊的訓練を与 えているという事実です。この書物の存在によって、万能の神がいかに偉大な 「愛の創造者」であるかが明らかです。
なぜなら、最初の人間アダムとエバ以来この世に生まれるすべての人間一人一 人に、神は「こう生きてもらいたい」という熱い愛の思いを込めて、まるでラブ レターのようにそれぞれ個人への「創造の日記」を書かれ、その膨大な「創造の 記録」が天に永久保存されているのです。 そのような書物を誰が書いたか − それがイエス・キリストであることは、ヨ ハネ1:1に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった・・」 から容易に想像できます。 すなわち、イエス・キリストは父なる神のご計画に沿って、すべてを具体的に 創造するに当たり、まるで映画の制作に当たって、制作者と出演者両方に必要な 脚本、台本等が用意される様に、神の創造のために必要な一切のものが書き記さ れたのです。それはあくまで神がその人物にしてもらいたいと期待する「理想的 筋書き」です。
しかし、一方で神は私たちに自由意志を与えているので、その人が自分で勝手に生きた記録も、もう一つの「履歴の書」として天に保管されています。この二つの履歴の書は人間がこの世を去る時の審判の証拠となるのです。ですから最も重要なことは、神が個々の人間のために書いた理想的筋書きとしての履歴の書に私たち人間が「全き 従順」であることです。すなわち神が人間に要求していることは、神のために何かしてもらいたいのではなく、勝手に何もしないで欲しい、むしろ初めから神の役者として、神のシナリオに忠実に従い演じて欲しいということです。理由は、それが最もその人のためになるからです。
その点神の子で人間となったイエス・キリストは、最も忠実な役 者であったことが下記の聖句からよく分かります。役者イエスは「子は、父 ( 監督 ) がしておられることを見て(全てを理解して)行う以 外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさる(監督が示す)ことは何で も、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19) と言い、子である役者は監督が望んでいる演技を霊の目で見て、あるいは監督が実際に やってみせてくれる通りのことを忠実に演ずる責任があることを私たちに示してくれたの です。 また、「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおり に、これらのことを話している・・・」(ヨハネ8:28) と言い、セリフも全て監督か ら教えられた脚本通りに忠実に話すことを実行しました。イエスは監督のお気に入りの最 高のスター俳優です。 映画監督はよい作品を創るために、その映画に関する限り全くのワンマンの支配者で あり、この点は創造者の神と似ています。さて前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ります。
マラキ書と什一献金について
マラキ書3:8ー10「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。それは、十分の一と奉納物によってである。あなた方はのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。ーー万軍の主はお仰せられるーーわたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」
ここで注意していただきたいのは、神が「わたしを試してみよ」と書かれているのは聖書の中で、ここだけであることです。多くの人はこのマラキ書の御言葉を頭の知識として知ってはいますが、その意味を本当に理解している人は少ないように思います。なぜなら、よく考えてみれば、私たち人間は元々神が望む台本通りに生きることが問われているからです。勿論完全にその神の台本に従い通した人はイエス・キリストだけです。しかし私たちクリスチャンの目標はすべての行いにおいてイエスに似た者になることである以上、もしそうでないなら(実のところ誰もイエスのように完璧にはできないのは確かですが)ーそのできない人には上記の御言葉「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか」の保証はないと思います。ところが愛のあふれる神は、私たちがたった一つのことだけでも忠実に実行すれば「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」とおっしゃるのです。それが「什一献金」であり、「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」の真の意味であると私は信じます。
神は私たち人間がこの世で「金がものをいう」ことをよく知っておられ、それで私たちクリスチャンが「出し惜しみ」するかどうかという一番弱いところを試しておられると私は思います。時間があれば、例えばリック・ジョイナー師とか、ジャック・デヤー(Jack Deere ) 師の貴重な体験談をお分ちするのですが、それはまた次回にさせていただきます。私たち夫婦もこの「什一献金」の重要さを十分に体験して来ましたので、その重要性をどれほど強調しても、しすぎることはないと信じる者の一人です。
尚、一つ誤解のないように申し上げたいことは「神があふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」ことと、クリスチャンが「厳しい試練を通る、苦労する」こととは全く別のことであることです。なぜなら、ヘブル5:8-9に「 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、・・」と書かれているからです。父なる神は、自分の「最愛のひとり子」で「神である」イエスですら、この世に送り、人間として苦労させた挙句に、十字架刑というこの世で最も残忍な極刑に処し、それに耐え忍ばせる苦しみを味合わせたのです。また、ヤコブ書1:2−4、12に「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。・・・・試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」と書かれていることも「永遠のいのち」を受けるために必要であることです。
ところで、マタイ23:23で「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中でははるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他の方も(什一献金)おろそかにしてはいけません。」
と言っているのはイエスご自身の言葉であることです。イエスは、新約の時代でも「什一献金」をおろそかにしてはならないと警告しています。しかし什一献金は旧約の律法ゆえに、新約の私たちは守る必要がないと堂々と公言して憚らない聖書学者もいることにお気をつけ下さい。
結論から申し上げれば、聖書は什一献金をすることによって、クリスチャンは少なくとも経済的に神があなたの必要を常に充分に満たしてくれるばかりでなく「神はあふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」と約束されていることです。ハレルヤ!(終わり)
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