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Walk With God Ministries


09 06月

聖霊による新しい力を得るには  坂 達也   6月9日


聖霊による新しい力を得るには 
―2008年のペンテコステの日曜日に際して―

イエスがヨルダン川でヨハネからバプテズマを受けた時、天が開いて聖霊がイエスの上に下りました。イエスはこの地上での御国を打ち立てるミニストリーを始めるに先立って、父が聖霊を送って下さることによって力を得られました。

イエスが昇天された後、使徒を含む120人が心を一つとして、アパー・ルームに集まって熱心に主を待ち望みました。そしてペンテコステの日に聖霊が下り、キリストの弟子たちは大いなる聖霊の力を得ました。その使徒たちを通して、ものすごいリバイバルが起きたのです。
又、このペンテコステの日に事実上、御国の教会が誕生したと言うことが出来ます。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒行伝1:8)
それ以来二千年間、主は地域と時に応じて、聖霊の力を私たち教会に下され、それによって世界中にリバイバルが起きました。  

今フロリダ州レイクランドの一教会の集会(タッド・ベントレー師による)から端を発した「いやしのアウトポアリング」(噴出、発露)は、サウス・カロライナ州のリック・ジョイナー師のモーニングスター・ミニストリーを始め、世界中に飛び火しつつあり、私の知っている限り、オレゴン州でもこのハワイにもその火が燃え始めました。これは明らかに、神が聖霊を下されることによって起こるリバイバルの前触れと言って差支えないと思います。

私たち世界中に散在する、力のない弱い教会は、今こそ聖霊が下って得られる力、第二、第三のペンテコステを必要としているのではないでしょうか。
もし、レイクランドに起りつつあるリバイバルが、世界に広がることを主が初めから意図されているとすれば、多くの人が「私もそれに参加したい」、「どうしても火を持ち帰りたい」「乗り遅れるべきではない」と言う思い(一見人間的な感情のようですが)を持つのは、あるいは主のご計画であるのかもしれません。
総てのことは主がなさっておられるのですから、本当に主から示されたと信じる人は、ぜひ信仰を持って燃える火元を訪ねて下さい。ついては、私はそのような人が真の火付け役、真の聖火を運ぶ人になるために、次のことを申し上げたいと思います。

それは、この「リバイバル的な出来事」を私たちは単に「現象」として捉えてはならないと言うことです。それでは、どう捉えたらよいのか―それは神が起されるものすごいサイン&ワンダーを、現象としてだけ見るのではなく、それをされているのは誰であるかをはっきり認識し、火を起こされている天の父と御子をもっと近く寄って見つめるということです。これはちょうどモーセが燃えているが燃え尽きない柴を見て、それをもっと見ようと近づいたのと同じです。

エリシャはエリヤに二倍の分け前を要求しました。それに対してエリヤは、私が取り去られる時にあなたが私を見ることができれば、それがかなえられるとエリシャに言いました。(2列王記2:10)その後一台の火の戦車と火の馬が現われ、二人を分けましたが、エリヤはたつまきに乗って天へ上って行きました。
このたつまきと言うのは、ちょうどイスラエルの民をエジプトから荒野へ導いた「雲の柱」と同じで、主の臨在を表しています。タッド・ベントレー師のフロリダでのミニストリーにおいても、そこには毎夜濃厚な主の臨在が満ちていると言われます。
エリシャは、主ご自身が来られてエリヤを天に取られるのを見ていました。戦車と火の馬に目を奪われるかどうかがテストされましたが、エリシャはあくまでエリヤを見つめていたのです。

それはヨハネ14:12でイエスが「…わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」と言われ、主イエスが父のみもとに昇天されるのを弟子たちが見ていた(使徒1:9)ことに通じると思います。

リバイバルを起されるのは、総て父と子と聖霊による神の救いの御業であることを忘れてはなりません。聖霊が下って主が顕著にご臨在される時、一度に多くの人が倒れたり、震えたりします。そして一度に多くの人がいやされたり、救われたりするのですからマス・プロダクションであり、人間的に見ればこれは確かに顕著な「現象」に見えることは否めません。しかし、実際にはいかなる救いのみ業であっても、あくまで神と人間とのパーソナルな関係においてなされるのであり、個人的に起ることとして捉えなければならないと思います。
神は人間と違い、一度に何百人の人に同時に個人的にお話が出来る方です。その意味でリバイバルはあくまでも個人ベースで起っていると見るべきでありましょう。

十字架についた父の愛、ひいては、実際に肉の形で私たち個人のために死んで下さったイエスの愛は、人間一人一人をとことん個人的に愛する愛です。概念ではありません。父にとって、人間一人一人がかけがえのない、愛して止まない息子であり、娘です。そして、父の愛を受ける人とは、父に「選ばれた人」であるのです。

私は今回の春の日本旅行で色々なメッセージを取り次がせていただきましたが、その中心となるものは天の父の愛についてでした。
父の一人子である小羊イエスが、私たちのために約二千年前に十字架でほふられたことはクリスチャンなら誰でも知っている事実ですが、その前に有史以前から、天の父ご自身が「ほふられた小羊(父)」であることを黙示録13:9「地に住むも者で、世の初めからほふられた小羊…」(新改訳*別訳、英語欣定訳等)と言う聖句から説き起こしました。
何故なら、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができない、父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19)と書かれてあるからです。御子は父が「十字架にかかった小羊」そのものであることを見て知っていたからご自身も同じようにされたのです。

「先ず自分に死ぬ」と言う十字架にかかった父の愛(の御性質)こそが、総ての宇宙の創造の原動力となりました。父は総てを子のため、私たちのために、とてつもなく大きく、とてつもなくすばらしい宇宙(究極の天国・パラダイス)を創られたのです。

私たちがその燃えるような父の愛のリバイバルの火を運ぶ人(今回のリバイバルだけでなく、将来 においても)であるならば、その人が先ず聖霊に触れられてキリストに似た愛の人に変えられる必要があり、神はその人を圧倒的な聖霊の臨在の中で取り扱われ変えられると思います。

その意味において、火を運ぶ人にとって気をつけねばならないことは、あくまでその人は「へりくだる人」でなければならないことです。リバイバルが起っている現場に行けば、その人は濃厚なご臨在の中で、神から大きな聖霊の「油注ぎ」を受けます。
確かに私たちは何をするにも神からの油注ぎが必要です。この油注ぎは主の命令を実行するための特別の力です。しかし、それ故に持ち帰ったところで火が点くとしても、その燃える火が大きくなるにつれ、自分にそのような特別の力「能力」があると受け取ってしまう危険性があることです。それがプライドとなった時に過去において多くのリバイバルは止まりました。リバイバルが起ったところでは、往々にしてそれが終わったあとの状態は、リバイバルの前よりも悪くなると言われます。

主の元で主に従って働く私たちには、重ねて言いますが、絶対に「へりくだり」が必要です。それは父の十字架の愛を運ぶ私たちが、イエスがされたように、先ず自分自身を十字架につけなければならないことを意味します。

主のいやしは、リバイバルの時でなくても身の回りで多く起こっています。又、過去においては多くの場合、いやしの賜物をいただいた人を通して起されました。しかし、イエスに育てられた使徒たちがあれだけのいやしの器になれたのは、彼らが単にその賜物をいただいたからではないと思います。彼らの内に愛が成熟し、イエスに似た者となって十字架の愛と憐れみの心を持つようになったから、彼らは永続的に人を癒す器として用いられたのであると思います。

私もこの二、三年、日本の教会を廻るに際して、何とか癒しが起ることを願って主に祈り続けて来ました。それはいやしの賜物を下さいという祈りからではありませんでした。私たちが「キリストの弟子」として成熟するにつれ、主の愛の力の発露の管として主が用いて下さる「弟子」になりたいからです。今回の旅行でも各地で信仰によって癒しを祈り、信仰で確かにいやされたと信じ、その確信をもって今でも感謝し続けております。

そこでペンテコステの時のように圧倒的な聖霊の力が下る条件とも言うべきものは何であるかを考えてみたいと思います。

イエスが地上での宣教を開始された時、イエスはあくまでも父の全き御心のみを行う決意をされておりました。もう一度その御言葉を引用します。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができない、父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19)そして、総てにおいて父を見上げ、父の指示を待ちました。そのイエスの上に目に見える形で圧倒的な聖霊が下りました。
そして、使徒の時代のペンテコステの日に、主だけを待ち望む使徒たちの上に大いなる聖霊の炎が下りました。

イエスが弟子に教えられたことも、極論を言えば、この「愛する父に忠実な者となること」だけであったと言えます。
聖書は初めから終わりまで「神の御声に聞き従う」という忠実性を要求しております。そのためには私たちは主を見上げ、主の指示を待たねばなりません。自分のアイデアとか考えで事を運んではならないのです。
それが「日毎に自分の十字架を担ぐ」あるいは「自分に死ぬ」ことの意味であり、キリストの真の弟子であるクリスチャンとは「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)を実行する者になることです。

そのような主に個人的に飢え乾き、待ち望む人を今主は真剣に求めておられます。これがペンテコステの聖霊が下る条件であると信じます。

それ故に、主を見上げ主の御心を行うことだけを願って止まない人の上には、必ず個人的に、あるいはリバイバルと言う形を通して、これからは波状的に聖霊の大いなる「油注ぎ」が下ると信じます。何故なら主の忠実な働き手が「父のビジネス」を実行するには、その特別な「圧倒的油注ぎ」が絶対に必要であり、今こそ働き手を必要とする、大いなる最後の収穫の時が迫っているからです。

私は今アメリカを中心に起り始めているリバイバルの前触れが、その昔使徒たちの上に下ったような激しい聖霊のアウトポアリングに発展するかどうかはまだ分かりません。しかし、必ず来ます。何度も何度も段々激しくなって、最後の頂点では今までのリバイバルをはるかに越えた「聖霊の圧倒的働きの時代」になると信じます。

よみがえりの主が昇天するのを見た使徒たちのように、私たちも霊的に主を見ることが出来ます。今こそ、彼らのように主を見上げ、主を熱心に待ち望もうではありませんか。(終わり)

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04 06月

フロリダ州レイクランドでのタッド・ベントレー師の癒しの集会について  坂 達也 6月4日


フロリダ州レイクランドでのタッド・ベントレー師の癒しの集会について

大阪堺市鳳の関西ハレルヤチャーチ小山良子先生より下記のすばらしいコメントが寄せられましたのでぜひ皆様にお分かちしたいと思います。

『 坂先生のHPに記載された「フロリダ州レイクランドにあるイグナイテッド・チャーチ(千人収容)で始まったタッド・ベントリー師による癒しのミニストリー集会」・・4月よりゴッド・TVでライヴ映像が流されていましたので注目していました。やはりそうでしたか!主は素晴らしいですね! ……

私もゴッド・TVを観ながら、主がなせる御業に感激し、興奮し、感動しておりました。ベントリー師は御霊の導きに委ねてミニストリーを行われますが、実は、野外でもたれたある日の集会のことが私の心に残っています。その集会は会場全体を包み込むような、それまで以上の深いご臨在で満ち満ちました。いつものようにベントリー師はステージの中央に出てこられたのですが、そのままメッセージも語れず、癒しのミニストリーも始めることができませんでした。幾度も涙をぬぐいながらそのまま更に深いワーシップへと導かれたのです。この日の癒しは格別なものとなりました。主が喜んで訪れて下さったのですから当然のことかもしれません。

あのとき確かにベントリー師はステージ中央に立っておられましたが、その姿勢はミニスターとしてではなく、一人の神を愛する礼拝者としての姿でした。ただひたすら主の御前で礼拝を捧げ続けておられたのです。それは作り上げられたものではなく、ベントリー師の主に対する信仰の姿勢が、そのまま壇上で表されたものだと思います。

ベントリー師のミニストリーには人を魅了するような作り上げたパフォーマンスも、見せ掛けのかっこよさも見つけることはできません。そこにあるのは御霊がキリストを求める人々の上に力強くご自身を現され、主の御業を御言葉通りに成就しておられるという現実だけです。新約聖書「使徒の働き」に、また次の1ページを書き綴っているような気持ちになりました。私は英語が全くできないので残念ですが、それでも霊的にひきつけられ、会場の一員のようになってネットですが集会に参加させていただいています(笑)。主の栄光ある働きを目にできることは大きな喜びであり、次は必ず日本だ!という希望ある信仰に立たされます。ハレルヤ!……』(終わり)


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03 06月

春の日本旅行から帰って  坂 達也   6月3日2008年


春の日本旅行から帰って

今は日本においても「なまぬるい」「通常の」「平穏無事」という時代が終わりつつあることを強く感じました。力のない時代、2テモテ3:5でパウロが言っているような「形だけ敬虔(神のようであること)を装いながら、その実、力がない」時代はいよいよ終わらんとしております。

世の中はますます悪くなって来ました。悪魔があがき始めていることがよく分かります。しかし、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ロマ5:20)とあるように、一方で聖霊がますます顕著に働き始めておられます。

これからは取り残される人、悪魔につかまる人が多く出てくる中で、主を激しく求め、激しく神を愛する者だけが、主を見つけ、主と共に前進する時代が来ております。

聖霊にプロボーク(挑発・刺激)され、聖霊の力によってのみ働く「力の時代」に入る兆候を見ました。クリスチャンが輝き始めたのです。今、見るだけでノン・クリスチャンとはっきり違うことがわかるクリスチャンが出て来ています。

主は今日本に大きく働かれ始めておられることを、各地でひしひしと感じました。多くの方に神が「個人的に」「深く」触れられておられ、神がいかにパーソナルな愛の方であるかがよくわかります。そのような主に今、個人的に飢え乾き、ただただ、ひたすらに主を求める大勢の人たちと今回遭遇しました。これ程励まされたことはありません。

 ある教会をお訪ねすると、教会全体に「赦し、和解、一致」という聖霊の働きが充満しておりました。牧師ご夫妻自らが、先ず夫婦間においてこれを実行し、教会にその模範を示されました。それから端を発し、今は教会全体が輝いて聖霊に満たされていました。主が本当に喜ばれていることが分かりました。真の「へりくだり」がその町にリバイバルを呼び起こしつつあることを見ました。

又、ある教会では二年前に始めたチャーチ・スクールでどうしようもなく悪い子どもであった生徒が二年後に見事に変えられていました。教会のお母様方の愛の奉仕が子どもたちを変えたのです。そして、その変えられて行く子どもたちを見て、教会全体が励まされ、生き生きとした姿に変えられて行くのを今回目の当たりに見て感動しました。

授業後の学童保育をしておられるある教会では、小学生の子どもたちが、思い切って厳しくしつけられ、徹底してマナーを教えられていました。しかし子どもたちは驚くほど素直に言うことを聞くのです。そして満足し、はつらつとしていました。子どもは愛のない家庭で自由に野放しにされたら、どうしていいのか分からないことがこれでよく理解できます。
子どもは愛をもって厳しくしつけるのが本来の聖書的なやり方であることを再認識出来て、本当に恵まれました。今、日本中の子どもたちは真の愛に飢えています。教会にとっては又とないチャンスです。又、増え続ける老人たちを霊的な「姥捨て山」状態に放置してはならないと強く思わされました。

さて、こちらに帰ってからの祈りの中で、これからは、今まで無かったことがどんどん起ることが示されております。異常気象、地震、災害。日本にも大きな地震が起きるでしょう。鳥インフルエンザも近づいて来ました。

私たちは「終末」の敷居をまたぎ、いよいよその「予定表」のうちに入ったのです。ポイント・オブ・ノーリターンの時点が近づいて来ています。
しかし、このような災害の時こそ、主の恵みが大きく現われる時であり、クリスチャンが働くかけがえのないチャンスです。待ちに待った、クリスチャンが光り輝く時が来ました。日本の教会に期待します。お祈りしております。(終わり) 
     

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03 06月

特報: フロリダ州レイクランドで起っている癒しのリバイバル


フロリダ州レイクランドで起っている癒しのリバイバル

 4月2日からフロリダ州レイクランドにあるイグナイテッド・チャーチ(千人収容)で始まったタッド・ベントリー師による癒しのミニストリー集会は、全く予期しないほど膨れ上がり、今では7千人収容できる会場を使ったり、このリバイバル集会のために新たに一万人収容のエアコン付テント会場が飛行場の近くに設置されたそうです。今までに推計14万が集まり、世界40カ国から既に人々が訪れています。
このミニストリーは今全米で注目を浴びており、最近NBCニュースでも報道されました。その様子はGodTVで毎日報道されています。

 ベントレー師はこのリバイバルの特徴は、集会に来た人が主からの栄光の油注ぎを受けて持ち帰ると、主のいやしを世界のどこででも行うことができることであると言っております。イギリスから来たある牧師が本国に帰って集会を開き、最初の夜に100人が癒され、集会は今でも続行されているそうです。
又、集会に来た二人の学生が持ち帰り、リック・ジョイナー師のモーニング・スター・ミニストリーへも飛び火しました。ジョイナー師もめざましいこのリバイバルの働きは真に神の御業であると認めております。
今は全米各地で飛び火した癒しの集会が行われており、このホノルルでもディーン・フジシマ師のラウリマ・ミニストリーにより土曜日を除く毎夜集会が持たれています。

詳しくは又報告しますが、その様子はhighlights@god.tvとか、Sid Roth師のサイト
http://www.sidroth.org を開いてその中のSid’s interview with Todd Bentley<<
を見て下さい。取り急ぎご報告します。  坂 達也


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24 02月

世の終わりに良い麦と毒麦が分けられる 坂 達也 2月24日


世の終わりに良い麦と毒麦が分けられる


1コリント4:5「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」

 最近、私の最初の本である「主を見つめて待つ」の在庫がいよいよ底をついたので、この本の増版を準備することを思わされております。その際に本文で何か変更する部分があるかどうかを調べる意味もあって、もう一度久し振りに読み返してみました。

 そして、一つだけ気になったことがありました。それは三章の「天の御国」で、マタイ13:3-9に出てくる「種蒔きの話」を引用し、「神を信じると告白した人には四つのタイプがあること」を紹介しました。それに続いて、次の「良い麦と毒麦」という副題の中で、別のたとえ話である毒麦(マタイ13:25-30)のたとえにおいて、上記の四つのタイプのうちどれが当てはまるのかを考えてみました。そして最初の三つ、すなわち、「道端に蒔かれる=一旦は信じるが、直ぐ悪魔が来てその種が取り去られる人」「岩地に落ちた=聞いてすぐ信じ喜ぶが、困難や迫害が起るとつまずく人」「いばらの中に落ちた=確かに信じるがこの世のことや富に気を取られ、真の霊の実が結ばない人」がそれに相当する毒麦ではないかという疑問を投げ掛け、とどのつまり、良い麦とは四番目のタイプの人「良い地に落ちた=信じて霊的に悟り、三十、六十、百倍に霊的成長の実を得る人」だけであるという提案をしました。

 今回読み返してみて、私は、これは少々言い過ぎであったかもしれないという疑念に駆られたのです。そして、言い方をやわらかくする、つまりもっと“あいまい”にした方が良い、そのためにはどのように変えるか、その下書きまで書いてみたのですが、同時にこの本は私が書いた本であっても私が書いた本ではない、聖霊様が私を通して書かれたのである以上、聖霊様に聞く必要があることに気がつかされました。そして祈りました。

 その結果、約二週間後に主は次のような答えをクリスティーン・ビーズウォースという方のメッセージを通して下さったので、それをお分かちさせていただきたいと思います。

 ビーズウォースさんは、これから終末に向かって毒麦が良麦から分けられると同じように、闇が光から、偽物が本物から分けられる時代に入っていると言います。これは聖書を通しての神のご計画であり、その型は旧約聖書に見ることができると指摘します。
 
その一つはルツ記に出てくるモアブの女ルツとオルパという二人の嫁の対比です。夫と共にききんのためベツレヘムからモアブに移って来たナオミは、夫に死に別れた後に二人の息子がそれぞれモアブ人の娘を嫁に迎え10年を過ごしましたが、やがてその二人の息子も死んで、未亡人が三人残されました。そこでナオミはユダの地に帰る決心をし、二人の嫁にモアブの母親のところに戻るように強く勧めたところ、オルパはやっと泣き泣きナオミの言うことに同意して去って行きました。しかし、ルツはどうしても姑の後をついて行くといって聞きません。その時ナオミはルツに「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」(ルツ記1:15)

 これに対してルツは「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(16,17節)と答えました。

 なるほど、この異邦人の女である二人はユダヤ人と結婚して10年間本当の神を知り、言ってみればクリスチャンになったと言う事が出来ます。(私たちの立場と似ています。)しかし、事変が起きた時に、真の神を信じる者としてその神のいる国(御国)に留まるか、元の異邦人(この世)の神に戻るか、この二人はそれぞれ10年間の信仰の試練を受けた後に、その真の本心があらわにされたのでした。神は秘めた心の奥を見ておられ、神に懸命にしがみつく人のみが最後に御国に入ることが暗示されています。

 主は十二人の弟子たちにも聞かれました。「あなたがたも離れて行きたいか」 シモン・ペトロがそれに答えて「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と言ったことが思い起こされます。(ヨハネ6:67-69)
 
しかし、毒麦と良麦を分けることに関して、旧約聖書にはもっと厳粛な教訓を見ることが出来ます。その代表的なものはヨシュア記です。

ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、ヨルダン川を渡って約束の地に入ることをゆるされた精鋭のクリスチャンばかりであったはずです。その約束の地にはカナン人、ヘテ人、ヒビ人等七つの屈強な異邦人が生存していました。彼らはその強敵を駆逐して自分の相続地を確立せねばなりませんでした。
 彼らが最初に勝ち取ったのはエリコでしたが、その時神は、この(異邦人の)町とその町の中のすべてのものを主のために聖絶するように命じ、イスラエルの民は聖絶のものに手を出すなと念を押しました。しかし、アカンが聖絶のものに手を出すという罪(この世に対する執着)を犯した結果、次の町アイで早くもイスラエル軍は敵に背を向けて逃亡するという屈辱を味わいました。
 そのアカンに制裁を加え、彼が盗んだものすべてを火で焼くことによって神の怒りは収まり、その後はイスラエルの民の前に主ご自身が闘われることによって異邦人を聖絶する作業は進められました。そしてイスラエルの部族にはそれぞれに安住の相続地が与えられました。

 しかし、ヨシュアはイスラエルの民の中に密かに先祖が川向こう、およびエジプトで仕えた神々を捨て切らないでいる者がいることを知っていたので、「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24
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