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14 12月

御国で必要な全き信仰の祈り(2)   坂 達也  12月14日


御国で必要な全き信仰の祈り(2) 

坂 達也

悪魔との戦い

 これからは、いよいよ終末の終盤の時代に入らんとしている。最近マイク・ビクル、リック・ジョイナー等が黙示録12:9にある「 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は……地上に投げ落とされ……その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」と書かれていることが実際にこれから起こらんとしていることを強調し、又警告した。
それは12節に続く。「12 このゆえに、もろもろの天と、/その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、/お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」

これからしても地上での悪魔の最後のあがきが、どれほど強烈なものとなるかは想像に余りある。いよいよ悪魔との最後の戦いに私たちが望まねばならないのである。この時のために万軍の主は御国の戦士である私たちを「全き信仰」を持たせる訓練をして来られたのだ。
 それはヨシュア記で語られている約束の地における「聖戦」と同じ最後の大「聖戦」がこれから繰り広げられようとしているのである。
御国とは約束の地と言ってよい。その約束の地に渡ったイスラエル軍はヨシュアの指揮の下で、カナン人、ヘテ人等七つの土着の強敵を相手に戦い、これをことごとく制覇した。それには「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)という神からの御ことばによる霊的な士気の高揚を必要とした。しかし今の私たちにこそ霊的な高揚が必要である。何故ならそれは前述したように、悪魔との対決は決して肉では勝てないからだ。

 二、三日前に、これから就任するアメリカのオバマ大統領が暗殺される夢・ビジョン・ことばをこのところ多くの人が見ていること、しかも暗殺によって大暴動が起こるビジョンを見た人も多いことをリック・ジョイナーが取り上げた。

オバマが当選したことは人種問題を克服するための画期的前進である。人種問題RACISMは単にアメリカだけの問題ではなく、世界的な問題である。特にナチズムは第二次大戦をピークに人間の歴史を揺さぶったが、あれこそ悪魔の牙城の一つであるとリックは言う。その通りだ。
悪魔はオバマによってその人種問題の牙城が崩されるのを放置しておく訳がない、故に大きな巻き返しをかけてくるだろうことを教会は予期して、今真剣に祈るべきである、とリックは言う。

そして彼は、今後オバマに対する暗殺・暴動などの具体的な企てに関して主からビジョン・夢・御ことばによって啓示を受けたと確信できる人は、関係当局に必要な処置を依頼するために、ぜひモーニングスターに知らせて欲しい、と世界中の人に呼びかけた。

私はこのような呼び掛けを今まで聞いたことがない。まさに御国の時代に移行しつつある事を痛感した。クリスチャンが世界の政治とその治安にいよいよ参加するのである。神からの啓示はそのために絶対に必要な情報と指示の武器なのだ。それだけではない。このところ、経済危機の問題だけでなく、世界に大きな艱難の時代が来ることを預言する人が増えていることを付記しておきたい。



 さて、ここで「主の祈り」について、先回のメッセージを書いた後に、二つの強調すべき点が示されたので、今回それを先回と同じテーマの続(2)の形で付け加えさせていただくことにした。

 それは主の祈りの最初の部分である「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」(マタイ6:9)と12節の「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」についてである。


前にトッド・ベントレーを擁護し、今も彼と彼の家族の回復をカンセラーの一人として、又親友の一人として助け続けているビル・ジョンソン について紹介したが、そのビルが、ベントレー事件を通しての教訓は、教団・教派の下にいる教会が、今こそ「御国の天の父」の支配に完全に還らねばならないことを強調している。
彼は、ベントレーに対して他ならぬ多くのクリスチャンの仲間たちが、あまりにも大きく執拗に個人攻撃したこと自体を問題として取り上げた。彼は、今まで私たちクリスチャンの教会がやって来たことを次のように指摘する。
たとえば80年代に起こったことだが、ジミー・スワガードとかジム・ベーカーが罪に落ちた時に、アメリカの教会が取った態度は何であったか。当時教会は、罪に陥った彼らを個人的にかばう代わりに、彼らの失敗と罪をもっとあばいて責めて見せ、その人たちを突き放し、自分たちが作り上げて来たデノミネーシャナリズム(教派主義)とその教団は、そのような人たちとは違うことを世の中に認識させることによって自分たちの組織を弁護しようとした。これは人間的な宗教主義者たちのすること以外の何ものでもないのである。
 それはちょうど、自分たちの義と聖さを強調するために罪に堕ちた兄弟を軽蔑し、憎み、裁いたイエスの時代の律法学者と同じではないか。それは律法学者とヘロデ王で代表される宗教と政治という種入りパンなのである。
 もし自分の息子・娘が罪を犯したらどうするだろうか、とビルは問う。「あれは罪を犯した、良くない人間だ」と自分の子供の罪をあばき立て、「それに比べ私たちは違う」と一線を引き、「私たちは彼らと関係ない」と言って済ますだろうか?

 又、ビルはワインスキン(皮袋)とワインの話を紹介した。皮袋とは教会の中身であるワインを入れる外側の皮の部分であって、五役者を含む教会指導運営組織に当たるもの。しかし重要なのはあくまで中身のワインであって、新しいワインに聖霊が働いて美酒へと醸造されるプロセスの間に、中身は熟し膨れ上がるが、それを包む外皮が破れたり、ほころびたりしないでしっかり守り育てる役目をするものである。ところがワインの成熟を指導する教団・教派組織である皮袋が中身よりも自分たちを重要視しているとすれば、それは忌々しき問題であると言うのだ。

今は現在の教会の中からパン種を取り除くシーズンであるとビルは言う。彼は教団・教派的教会組織を完全に父に還すことを叫ぶ!「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。」
 今は父に帰る御国の時代。教会とは元々一人の父の元にいる家族なのだ。人間的デノミネーショナリズムの規律に属するもの
02 12月

御国で必要な全き信仰の祈り  坂 達也   12月2日


御国で必要な全き信仰の祈り 

坂 達也


 イエスは弟子に言われた。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と。(ヨハネ12:24)この「一粒の麦」とはイエスご自身である。その一粒の種が十字架で死なれた結果、多くの実がなった。神の創造の原則(創世記1:11,12)からすれば、イエスと言う種から生まれ育ったクリスチャンと言われる私たちは、皆イエスに瓜二つで似ていなければならない。似ているだろうか。残念ながら似ていない。
しかし今、私たちが御国において、皆イエスに似たものとなる時が来た。イエスとそっくりの者たちとは、即ち、「キリストの花嫁」である。イエスは私たちをご自身の花嫁にするために今、御国において「みことばにより、水の洗いをもって、(私たち)教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせ」ようとしておられる。」(エペソ5:26,27)「栄光の教会」とは「キリストの花嫁」を指す。 

「主の祈り」(マタイ6:9-13)

 マタイ6章にある「主の祈り」は、御国を実現するための祈りであると言うことに、最近改めて気が付かされた。御国とは栄光の花嫁である教会が完成されるところだ。そのために主は私たちにこの祈りを教えられた。従って、主の祈りは終末の教会にとって最も重要な祈りであると同時に、この祈りを実行して行くことが私たちへの至上命令なのである。

 「7. あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。8. あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
9. だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。10. 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。11. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
 12. わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。13. わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(
マタイ6:7-13)
 
 7、8節は前置きであって、祈りの心構えを教えている。9節から祈りに入る。「9. だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。』」

 最初に、天の父をあがめることが、私たち教会が存在する究極の目的であることが示されている。そして御国を完成することこそが、天の父の「御名があがめられる」ことになるのだ。
 「10. 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」
 「御国が来る」と言うことと「御心が天で行なわれるように地でも行なわれる」ことは同義語で、後者が前者を説明する。それでは「御心を行う」ためには私たちはどうすればよいのか。それは旧約聖書が一貫して私たちに教えてくれている。その教えを一言で言えば「主の御声に聞き従う」ことだ。しかもヨシュアとカレブのように「主に従い通した」人にならねばならない。

 申命記8:3では「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」と教えている。ここで「主の口から出るすべての言葉」とは一般にモーセ五書Torahと言われる、神がモーセに語られ記された律法の書を意味している。(私は最近この五書を読むことが今の私たちにとっていかに大切であるかを再認識させられている。)神はヨシュアに「 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」と命令した。(ヨシュア記1:8)

 私たちにとっては、単に律法の書だけでなく聖書全体を夜も昼も口ずさみ、それを実行せよと言う教えである。しかし、それはクリスチャンになるための基礎作りのベーシックに過ぎず、その上に、いつも聖霊が語る生きた主の御声に耳を傾けねばならない。
 主はアブラハム、モーセ、ヨシュアに語り続けた。その指示に聞き従って行動した時に全き主の御心がなされたのだ。ヨシュア記にそれが顕著に示されている。ヨシュアは主から言われたことを実行した時にのみ、敵に完勝することが出来た。
 
 新約聖書でも主イエスは同じ事を強調した。マタイ13章の種まきのたとえのところで、主は「19. だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。...22. 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23. 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:19-23)と言われ、みことばを聞いて悟ることの大切さを説く。又、前述のエペソ5:26では「みことばにより...教会をきよめて聖なるものとする」と約束された。

 次に「11. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」であるが、ここで言う日ごとの糧とは、私たちが毎日必要とする総てのものを意味する。主は既にそれをよくご存知で(マタイ6章25-34)「神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」と保障されているのだから、物質的なものを祈る必要はない。それよりも御国の実現のために主の御心を忠実に行う(それが義の意味)ことを求めよと言われているのだ。

 では何を祈ればよいのか。それは私たちに今日必要な主の御言葉が与えられることを祈り、具体的な指示を啓示の形で仰ぐことである。私たち御国を建て上げる者にとってはこれこそ一番必要なもの、霊的な米の飯である。
 又、私たちが過ごす御国の毎日とは敵との戦いであると言えよう。近代戦争において、上官からの指令なしで戦場で勝手に戦う軍隊はいない。同じように私たちも、御国の王である主から必要な指示を仰ぎ、それに従って動くことが要求されるのだ。

  「12. 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
 天の父に対して 私たちが持つ最大の負い目とは何であろうか。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」と言われる以上、それは神が喜ぶ信仰を私たちが持っていないことではなかろうか。神に従い通せなかったと言う不信仰の負い目である。私たちは不信仰であるがゆえに、人に対しても負い目をつくる。これを私たちは真っ先に悔い改め、主に赦しを請わねばならない。それには先ず、同じように不信仰の結果で自分に負い目のある他人を赦すことだ。これは御国に住む人間の大原則である。

「13. わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(新共同訳)

 私たちにとっての最大の誘惑とは何か。それは主への全き信仰を持たずして、つい人間的な思いと考えで行動してしまうことではないだろうか。人間にとってそれが一番楽なのである。それは人間的信仰という妥協の信仰だ。厳しく言えばそれは信仰ではない。多くの人は神を信じていると言うが、普段は神に聞かずして自分で人間的に判断して行動する。どうしてもうまく行かない時だけ神の助けを乞うが、日頃から神の声に耳を傾けていない人は、神の声を聞こうともしないし、又聞こえない。
 現代のクリスチャンの大部分は、残念ながらこのような妥協した信仰しか持っていないため、結局は神が与えた約束の道を究めることなく、人間的なぬるま湯の教会生活を右往左往し、とどのつまり「荒野を右に左にさまよって終わる」可能性が大きいのである。このような人は荒野で野たれ死にをすると言うのがモーセ五書からの警告である。
 
 その点ヨシュアとカレブが持っていたのは、神への全き信仰であった。民数記13章に、約束の地を目の前にしたイスラエルの民が、これから攻め上がる敵地を偵察するためにヨシュアとカレブを含む12人の斥候を送った話がある。
  第一に気が付かねばならないのは、この約束の地に斥候を出して探らせるという考えは、元々神のものではなくイスラエルの民からの発案であったことだ。(申命記1:19-28)初めからイスラエルの民は神が定めた「約束の地」に向かっていたのであるから、今更斥候に探らせる必要など全くなかった。従ってこの民の申し出そのものが既に神への不信仰の現れであったのだ。
 斥候の旅から帰ってきた12人は持ち帰った大きな葡萄の房を見せて、この約束の土地が肥沃であることを立証した。しかしヨシュアとカレブを除く10人は、そこの住民がアナクの子孫で背が高く、自分たちがいなごのように見えた程強い巨人たちであり、町々には高い城壁がめぐらされていて戦っても到底勝ち目はないと言う報告をした。彼らは相手が巨人なので恐れたのだ。又それを聞いた全会衆は大声で泣明かしたと言う有様で、「戦いは神がなさる」という信仰など吹っ飛んでいたのである。


 誰でも人生の歩みの中では色々な恐ろしい巨人に出くわす。巨人が現れると恐ろしくて前に進もうとしないか、進もうとしても力が出ない。
 霊的に言えば、私たちの敵なる巨人とは悪魔である。人間は長年その下で奴隷となり、悪魔に追従する人間的な考えで生きることにあまりにも慣れ親しんで来たので、クリスチャンになってもそう簡単にそのような人間的な生き方からは抜け出せないのだ。それをよくご存知のイエスはペテロに対して「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と看破し警告した。(マタイ16:23)

 そうである以上、私たちにとっての最大の誘惑は「悪魔に洗脳された人間的な考えと思い」で生きることである。なぜならそれが一番人間的に快適で楽な生き方であるからだ。問題は、私たちはいつも放って置けば自然に「人間的に」なってしまい、信仰がなくなることだ。これが恐ろしいのである。あれだけ神の奇跡を実際に経験しながら、イスラエルの民が巨人を恐れおののいて、約束の地に上って行こうとしなかった原因もここにある。

決断の十字路

 実はその時、イスラエルの民はヨシュアとカレブから「我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださる...主に背いてはならない。...そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。...主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民数14:8-9)という本来の信仰に立ち返るように迫られたのである。

 イスラエルの民はここで信仰で決意する十字路に立たされたのだ。この十字路で彼らには三つの選択のオプションがあった。 一つは神を全面的に信頼して、ヨシュアとカレブの言うように真っ直ぐに強敵のいる敵地へ予定通り乗り込むこと。二つ目は「どう見ても敵が強過ぎるから勝ち味はない」と言う人間的判断から、「いずれにせよ荒野の生活はつらいし、自分のために言うことを聞いてくれない神など置いて、もう一度この世のエジプトに引返そう」と言うオプションである。三番目は、どちらでもなく、そのまま荒野をさまよい続けるオプションであった。

 イスラエルの民は、結局十字路で中途半端な信仰ゆえに「荒野をさまよい続ける」と言うオプションを取った。これは後にヨシュアが「神の道を離れて右にも左にもそれてはならない」(ヨシュア記1:7)と警告した不信仰の路であった。彼らは巨人を恐れたので、どうしても神の命令に従うことが出来なかったのだ。
 クリスチャンにとっては信仰が全てである。総てを神に信頼する「全き信仰」を持つ時にのみ、神のすばらしい約束の地に着けることが保障されていると言う厳粛な事実を、私たちは忘れてはならない。
 
 その「全き信仰」を持とうと思えば、私たちも毎日この十字路の決断を迫られていることを認識する必要がある。そしてその十字路に自分の十字架を立てなければならないのである。それは人間的な自分の思いと考えに死んでイエスを見上げ、イエスの指示を仰ぐことを意味する。そうしなければ人間はどうしても自分の人間的な判断に引きずられてしまうのだ。それしか真の信仰の路を誤らずに歩む方法はない。
 それを知っているパウロは「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」と言った。(ガラテヤ2 :20)

 自分の考えを一切十字架につけ、真っ直ぐに見上げる時にイエスが見え、イエスの声を聞くことが出来るのである。その十字架を十字路の真ん中に、前方を頭にするように置く時に、十字架を真っ直ぐ上に登る道が約束の地に到達する正しい信仰の路であり、その方向へ一歩踏み出す勇気と力を主が下さることを私は疑わない。

霊の戦いの本質

 ところでこの「13わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」という祈りは、私たちに「霊の戦い」の本質を教えてくれていることにご留意いただきたい。
 クリスチャンと言っても「霊の戦い」を知らない、あるいは、ほとんどしようとしていない人たちが大勢いる。これは本当に悲しい事実だが、悪魔の誘惑に堕ちて眠らされているからである。
 しかし、その一方で「戦うことこそクリスチャンの本来の姿」とばかりに、勇ましい戦いの歌を歌って空に拳を振る人たちもいる。まるで自分たちで戦うつもりで気勢を上げているようだ。気を付けないとこれも巧妙な悪魔の罠にはまってしまう。

 私たちのために戦うのは神であるとすれば、私たちは神が最も喜ばれることをすべきである。それは戦いを前にして私たちが心を一つにし心から主を礼拝し賛美することである。「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ロマ書12:1)
 私たちが真の霊的な礼拝をささげることによって主が喜ばれる時、主はその場に来られてすばらしい臨在と油がそそがれる。

 確かにクリスチャンは悪魔に対してイエスの権威を使える。しかし、その権威は「天のみこころが地で行なわれる」時に最も効力を発揮する。正しい権威の使い方とは、その時その時与えられる主の御言葉を宣言し、それを忠実に実行することである。
 主から先ず「こう言いなさい。こうしなさい。」という指示を聞き、それを指示通りに実行する時、主が「悪い者から救ってくださる」「だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」(ヨシュア記1:5)ようにして下さるのだ。同時に、主ご自身の御国の御計画が私たちを通して着実に実現して行くのである。

 忘れてならないのは、多くの場合に主は敵を恐れさせて退散させたり、同士討ちをさせて、イスラエルの民は戦わずして勝利を得ていることである。それはヨシュア記を見れば明らかだ。戦いの前に「主はヨシュアに仰せられた。」と書かれていて神からの指示をその通りに行った時には、神は敵をイスラエルに渡されて圧倒的に勝たせ、「主の指示を仰がなかった」時は問題を残した。「霊の戦い」と言うが、本当に戦うのも勝たせてくださるのも主である。しかも主と悪魔では初めから悪魔に勝ち目はないのだ。しかし、悪魔は私たち人間が自分の方法で戦って勝てる相手ではないことは確かなのだ。この思い違いだけは絶対にしてはならない。

 主の祈りにおいて「悪い者から救ってください。」と祈るように教えられても「悪い者から自分で勝利しなさい」とは指示されていない。あくまで「戦われるのは主」であることを忘れてはならないことをこの主の祈りは教えてくれているのである。さあ、今日も御国の民である私たちは、主から教えられた祈りを祈り且つ実践しようではないか。(終わり)


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19 11月

2008年に神の新しい七年サイクルは順調に動き始めた 坂 達也 11月19日


2008年に神の新しい七年サイクルは順調に動き始めた

坂 達也

 神のなさることには、全てに時がありシーズンがあります。旧約聖書を通して教えられることは、七日とか七年毎のシーズン、あるいはサイクル(周期)があることです。特に最近では七年毎のサイクルが改めて強調されるようになりました。七といえば音にもドレミファソラシドという七音サイクルの音階があります。
 ドから始まった音は七つ目のシで終わって次はドに戻って、又新しくドレミ...が始まる。つまりドで始まりドで終わり、同時にそのドで又始まる。その八つ目のドは完成と開始の両面を持っていると言えます。2008年はそのような「ド」の年でした。私はこれを霊的な意味での比喩として考えたいと思います。

 霊的な意味でと言いましたが、ドからドに至った次のドは、同じドであっても一オクターブ違うことにご留意ください。そこではレベルがアップされ、もう一段階天に近いと言いましょうか、霊的に高くなっていなければなりません。その意味で2008年は前の2001年のレベルから一段高いレベルへの移行のプロセスが終了し、同時に、もう一段階高い新しい霊的レベルの領域に入る年であったのです。2008年になって霊的密度が一段と濃くなった、主の臨在と聖霊の充満さが高まっていることを経験した人は多いと思います。求める人には霊的な知識がより早くより易く与えられ、ダニエル書12:3,10にある「 目覚めた人々は大空の光のように輝き...目覚めた人々は悟る。」という終わりの時が来たのです。主との交わりがより深く、喜びに満ちたものになってきました。あるいはエリシャが得た二倍の霊の分け前が私たちにも与えられる時が来たのかも分かりません。より新鮮な新しい風が吹き始めました。本当に2008年になって主の御声がよく聞こえるようになったはずです。

 そしてこれから「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け」(使徒1:8)「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なう」(ヨハネ14:12)時に入るのです。それは「天の御国の時代」に突入し始めたからです。

人間の考えること、やることがいかに不完全であるか

 神は最近、この世の政治、経済、金融システムが、いかに不完全でもろいものであるかを実に見事に暴露されました。それも諸悪の根源はアメリカにあると言わんばかりに、アメリカを震源地とした金融恐慌はあっという間に世界中に広がり、多くの名門の銀行とか金融企業が倒産するという、考えられないような事態を引き起こしました。この金融システムの破綻に次いで株式市場が記録的に落ち込み、ひいては一般の景気が完全に沈没しつつあります。景気が悪くなると、人々は財布の紐を引き締め、先ず買わなくてよいものから買わなくなり、倹約します。
これこそ健全な家庭財政の考え方で、よいことではないでしょうか。しかしこの考え方では現代国家の経済システムは暗礁に乗り上げるというのです。全くおかしな話ですが、人々が無駄な買い物をしなくなると世の中が回って行かないのです。特に元々赤字財政で自転車操業を繰り返す国(アメリカが最たるもの、日本もそうです)は失速して倒れてしまいます。

 なぜ神は今の時期にこのような事態が起こることをゆるされたのでしょうか。それは人間の考えること、やることがいかに不完全であるかという事実を、この際世界中の人間にはっきりと認識させるためであったと思います。しかも神は、教会という霊的な領域においても同じように「人間がやってきたことの不完全さ」を示され始めました。
 
今回の日本訪問で、日本のクリスチャン教会における古い体質、古い伝統が今はどん底に落ち込んでいる兆候の一端を見ることが出来ました。その外的なしるしとして、主に聖霊派においてですが、新聞が廃れ、本が売れず(いずれもクリスチャンの)、神学校にも、いや一般の集会聖会にも昔ほど人が集まらないと聞きました。いわゆるリバイバル、リバイバルと熱狂的に祈り叫び、リバイバルを期待した時代は過ぎ去り、その後あの手この手を模索して試した結果それもうまく行かず、疲れきっている状態にあるように見えました。

 しかし、その一方で新しい体質、新しいものが生まれつつあることも見ることが出来ました。それは若者を中心とした新しい種類のクリスチャンが台頭して来ている姿です。私は、今回見たこのような現象を一言で言えば「世代交代」「世の中が変わる」顕われであると気が付きました。それがいよいよ2008年から加速され、これから益々進行するのです。

 初めに神が地球の統治を人間に任せて以来、人間は人間が築いて来た伝統と慣習によって世界を人間の知恵で統治しようとして来ました。しかし、その時代に終止符をつけ、いよいよ主ご自身が直接治める御国の時代に入る時が来たのです。それはちょうど、幼児に積み木を与えて、自分でやらせようとするのに似ています。幼児は自分だけではうまく出来ないので、最後は積み上げかけたものもめちゃめちゃに壊して泣き出す姿に似ているのかもしれません。人間はやはり神と言う親の助けを借りて一緒に積み上げないとうまく積み上げられないようです。神はそれを人間に今はっきりと分からせようとしておられます。

 イエスはこの世に生まれ宣教を始められた時に「御国が近づいた」と言われましたが、今はついにそのイエスの御国の時代に入ったか、あるいは入る直前であると信じます。私がその確信を強めた理由の一つは、多くの使徒的・預言的な人たちがこのところ特に明白に、しかもいっせいに、クリスチャンの使命とは「主の御声を聞いて忠実に従う」ことであることを強調していることです。

 11月4日にアメリカの大統領選挙がありましたが、アメリカの多くのとりなし手がクリスチャンでありながらプロ・チョイス(堕胎賛成)等の反聖書的立場を取るオバマ候補を絶対に大統領にしてはならないと、共和党のマッケィーン候補とその副大統領候補のペイリン氏の当選のために今までになかったほど激しく祈ったと聞いております。にもかかわらず47歳という若い歴史上最も未経験な大統領になると言われるオバマ氏が当選しました。なぜ神はそれをゆるされたのでしょうか。

 私は、主がこれからは直接政治に加わる御国の王であることを今回積極的に示されたように思うのです。若い未経験
16 11月

その後のジュディス・グルーバー夫人と祈りのお願い 11月16日


その後のジュディス・グルーバー夫人

先回グルーバー師夫妻はミニストリー旅行に共に出発すると報告しましたが、その日になって夫人の容態が悪化し、出発を見合わせました。それ以来様子を見て来ましたが、結局旅行に出られるまで体力が回復しないまま、旅行をキャンセルすることとなり、その後自宅で静養しております。グルーバー師も今は出来るだけ傍を離れず、インシュリン注射を助けたりして夫人を見守っております。

 今朝の電話ではグルーバー師も今までにない沈んだ声で、夫人が一進一退の中で体力と共に気力も衰えていること、家の中での歩行もあまりしなくなっている様子を語ってくれました。夫人はしばしば痛みを訴えるそうです。
 皆様、どうぞ主に示されるままに一層のお祈りをお願い申し上げます。坂 達也

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06 11月

ジュディス・グルーバー夫人への祈りのお願い 11月6日


ジュデイス夫人に関するその後の報告

10月14日に来日したヘンリー・グルーバー師は、11月17日までの日本滞在予定を中断し、10月30日アイオワの自宅で療養中の夫人からの緊急の要請により急いで帰国されました。それはジュディス夫人の容態が悪化したからでした。
 
 夫人は今自宅療養中ですが、必要に応じて医師の診療を受けております。当面の問題は肺にたまった液体により肺の半分から2/3がふさがっており、数歩歩くと息が切れる状態であることです。前にしていた注射針でこの液を抜くことを医師は最良の方法と認めず、むしろ薬寮で放出する方法を取っており、少し良くなったと言っています。しかし、問題はむしろ心臓にあり、4箇所クワドルプル・バイパスの手術を早急にする必要があると医師から強く勧められております。そこで夫妻と五人の子供が集まって家族会議を開いた結果、夫人はやはり手術をしないで、信仰で神の癒しを期待する道を選びました。

 そして、明後日から約2週間夫人はヘンリー師と共にミニストリー旅行に出ることになりました。それは家にいるよりも、夫と共にいて、夫の集会に出ることによって主の臨在の中に入る方がより好ましいとの判断からでした。旅行は大型のバンですから、いつでも横になれます。どうぞ引き続きお祈りいただけますようお願いいたします。

 それに併せ、グルーバー夫妻の娘さんのベッキーが子宮ガンであることが(早期)発見され、11月24日に手術を受けることになりましたので、ベッキーさんのためにもお祈り下さい。以上よろしくお願い申し上げます。 坂 達也


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