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Walk With God Ministries


14 10月

うなじのこわい民   坂 達也  2010年10月14日


うなじのこわい民 坂 達也  「うなじのこわい民」という言い回しは、出エジプト記32:9の他にもくりかえし出てくる聖書独特の御言葉で、明らかにイスラエルの民を指しています。その意味は「神(キリスト)のくびきに素直に架かることができない」、「頑固に神の言うことを聞かない民」ということなのですが、英語ではstiff-neck(首の硬い)と言います。 律法は人を殺す  さて、2コリント3:6に「神は、わたしたちが新しい契約に仕えることができる者にして下さいました。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」と書かれています。    旧約聖書では「文字」といえば、石の上に神ご自身が文字で書かれてモーセに渡した「律法」を指します。パウロもここはその意味で書いたのでしょう。つまり「律法は人を殺し、霊は人を生かす」のです。  この文章では「文字に仕える者」と「霊に仕える者」とが対比されておりますが、それで思い浮かぶのは、Ⅰコリント 15:46に書かれている「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」という御言葉です。これを当てはめてみれば、最初(旧約の時代)は「石に書かれた律法に仕える者」が、後(新約の時代)の時代には「霊に仕える者」すなわち「同じ律法を、石ではなく心に書かれる(神の)霊に仕える者」ということが出来ると思います。つまり、最初は「目に見える肉の形のもの」、後に来るものは「目に見えない霊のもの」である訳です。  石に書かれた律法といえば、神は二度、二枚の石の裏表両面にご自身の指で文字で書いた律法の書をモーセに渡しております。最初のセット(二枚)は神ご自身が石も造られ、それにご自身で文字を書かれたという大変貴重なものでした。  モーセはそれを抱えて急いで山を降りたのですが、そこではイスラエルの民がアロン以下「金の子牛」を作ってその前でドンチャン騒ぎをしていました。その光景を見て、烈火のごとく怒ったモーセは、その貴重な二枚の石の板を地面に叩きつけて粉々に壊してしまいました。考えてみれば本当にもったいない話です。  ところがその前に、神は、山のふもとで民が子牛を作って祝っていることを知っていて、烈火のごとくモーセに怒ってみせたのです。興味あることにその怒り方の形容(32:9)がモーセの怒り方(32:19)とまったく同じ原語“charah”で形容されております。これから分かることは神とモーセは心が一致していることです。  このへブル語を英語では “wax hot”と訳しておりますが、まさに「烈火のごとく」なのです。突然、金の子牛を作って踊り出した民に対してカンカンに怒った神は「うなじのこわい民」と叫んだのですが、これを見てモーセは神の怒りをなだめようと一生懸命でした。とにかく神はモーセに直ぐ山を降りて民のところに行けと命令しました。  ここで再び石の話にもどりますが、貴重な石の板をモーセが叩き壊したのを見て神が怒るかと思えば、何もとがめず、改めてもう1セット造ってくれたのです。但し二度目は、同じような石を二枚、今度はモーセが作って持って来なさいと言われました。「あなたが壊したのだから今度はあなたが石の板を作って持って来なさい」というのは当然であって、それが罰といえば罰であったかもしれません。  でも私はモーセが石を叩き割ったのを見て、神はにやりとされたと思うのです。なぜなら、モーセは分かっていたのです。石の上に書いた律法は何の役にも立たない、むしろ害になることを。そんなものは叩き割れ!なのです。本来、律法は「心に書きいれるもの」だからです。あるいは、石を心に置き換えれば、律法を心に刻めないような「石のような心」stony heartであるなら(イスラエルの民の心はそうでした。)そんな心は叩き割って取り除けという意味であったかもわかりません。  エゼキエル書36:26に「 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、・・・」とある通りです。   書かれた御言葉は人を殺す  ところで上記の「文字」letterという原語は「律法」lawという意味と「書かれた御言葉」 scripture という意味の両方に取ることができます。新約の時代に生きる私たちにとって「文字」と言えば「律法」よりも、むしろ「書かれた聖書の御言葉」と取った方がより重要な教訓になるように思えます。    それはどういうことかと言いますと、新約の時代に住むクリスチャンは書かれた文字の御言葉を何度も読んで慣れ親しむのはいいのですが、傾向としては、頭で読んで理屈はこねるが、本当に心に刻み込まれていない聖書の読み方をしていないかと言うことです。そのような聖書の読み方は「人を殺す」と言うのです。  とどのつまり、私たちは旧約の時代のイスラエルの民と同じで「うなじのこわい」「キリストのくびきに素直に架かることができない」「頑固に神の言うことを聞かない民」になっていないかと言う問題提起です。いかがでしょうか。残念ですが、それがどういう意味かも分からないクリスチャンもいます。  私がクリスチャンになりたての頃、今から35年以上前のことですが、私が大変尊敬していたクリスチャンの鏡のような人がワシントン州のタコマという処に住んでいました。彼は地元新聞社に勤める傍ら、時間と機会があれば公園であろうが道端であろうが、見知らぬ人に声をかけて優しくキリストを語り、多くの人を導きました。教会には夫婦で熱心に奉仕し、仕事の関係で一時タコマに住んでいた私たちにも大変よくしてくれました。  その後25年程経って、私たちが仕事を止めミニストリーに専念し始めたとき、真っ先に毎月の献金してくれていたのですが、その年の暮れに突然手紙が来て、「実は私たち夫婦は数年前に離婚し、私は、今全く教会にも行っていない。あなた方に献金して来たのは長年の親友であるからで、今は一人住まいで経済的に余裕がなくなったので献金はこれで打ち切るので申し訳ない。」という長い手紙でした。  これは私のクリスチャン生活の中で最もショックを受けた事件でした。あれ程熱心に模範的クリスチャンとして奉仕してきた人が「クリスチャンを辞める」ことは全く考えられなかったのです。その人は大変優しい誠実な人柄なので、私が彼は霊的な人であると思い違いをしていたのでしょうか。長い間、肉でクリスチャン生活を過ごして来たのでしょう。その人は努力してクリスチャンをやり続けたのです。霊は人を生かすが、律法は人を殺す、いや、肉が中心の努力のクリスチャン生活は人を殺すのです。本当に聖霊にゆだね、聖霊に生かされていなかったのです。 私たちは旧約聖書から本当に学んでいるか  1コリント10:11に「これらのことが彼ら(イスラエル人)に起こったのは、戒めのためであり、それが(旧約聖書に)書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれています。「これらのこと」とは40年かけて荒野を渡った大部分のイスラエルの民は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされた、と言う事実(10:6)です。  律法をイスラエルの民に与えた神は、律法を守ることを口にするときは、必ずと言ってよい程「御声を聞いて従うこと」を真っ先に教えられたことを思い起こして下さい。神がくどいように言われたこの「御声を聞いて従うこと」こそが、「文字は人を殺す」から「霊は生かす」に変える働きをするのです。今でもそうであることに変わりはありません。  一つ質問があります。異邦人クリスチャンは律法を守らなくてよいのでしょうか。多くのクリスチャンはそう思っています。しかし、へブル書8:6-10(口語訳)にはこう書いてあります。  「ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。 ところが、神は彼らを責めて言われた、/「主は言われる、見よ、/わたしがイスラエルの家およびユダの家と、/新しい契約を結ぶ日が来る。 それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、/わたしも彼らをかえりみなかったからであると、/主が言われる。   わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立て/ようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう。」  キリストが律法の完成者であり、私たちクリスチャンはそれを完全に行う者にならねばならないのです。新約における神の方法は「わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、/彼らの心に書きつけよう。」です。これが「文字は殺す」危険性のある律法的な生き方において「霊が私たちを生かす」唯一の方法なのです。   クリスチャンである私たちは、本当に聖霊に示され、導かれながら聖書を読んでいるでしょうか。特に旧約聖書を含め、聖書全体を「文字」として単に頭だけで読み過ごしているとすれば、イスラエルの民と同じように、この世という荒野でクリスチャンの大部分も、あるいは滅びる可能性があるという戒めです。  私たちも「うなじのこわい民」になってはならないのです。これが終末の教会への重要な警鐘であることを十分に心してください。(終わり)
20 09月

神の臨在(続) -ブラザー・ローレンスのこと 坂 達也 9月20日


神の臨在(続) - ブラザー・ローレンスのこと 坂 達也 先回書きましたように、私は久し振りにブラザー・ローレンスの本を手にする機会にめぐまれました。英文で95ページほどのこの高価な宝石のような小冊子を一度手にするとそれを簡単に下すことができません。惹き入られて読み進むうちに、再びぜひご紹介したい箇所がありましたので下記に訳してみました。 「ブラザー・ローレンスは、彼の霊的生活の基盤となるものは、神(の存在)を最も高揚された地位の方として心から(愛をもって)崇拝する彼の信仰にあることを私に打ち明けてくれました。このことが彼のこころの奥深くに確立されてからは、彼は日常のすべての行動を、ただ神への愛のために行うことが楽にできるようになりました。神に対する彼のこのような確固(熱烈)たる信仰は神に大きな栄誉をもたらすことであり、主が彼の祈りに答え、より多くの祝福を与えるためのドアをより大きく開くことになりました。」 ブラザー・ローレンスは「クリスチャンが、心のあまりこもらない日ごろの小さな祈りを機械的に繰り返し祈ることで毎日を過ごすとすれば、それは未だ弱い信仰である」と言います。そして、彼の言う確固たる信仰とは一日中一切を主に委ね切ることであると下記のように云っています。 「もし誰かが、自分自身と自分のすることのすべてを神にゆだね・ささげ・手渡す(surrender)なら〔それは神のためにすべてのことをすると決意することですが〕主はその人を、一切のまどわし、ごまかし、迷わすものdeception から守るであろうと言います。そして、主はそのような人が試練の苦しみに長く遭遇することを許さず、それに耐えることができるように脱出の道を備えてくださると言います。(1コリント10:13)」 つまり、そのような毎日を主と共に過ごす人には、神はすべてのことにおいて神の御心で彼が生きれるように導き、守り、平安と喜びの人生が送れるようにされると言うのですからすばらしいではありませんか。 そして、そうなるにはどうすればよいかについて、彼は「一日を通して、主のご臨在と共に過ごすためには、いつも主と話をする(主に話しかける)ことが必要である」とその秘訣を語ってくれます。この本ではブラザー・ローレンス自身が書いた部分と、彼の親友であるヨセフ・ド・ビューフォーが彼の云ったことを書いた部分がありますが、彼の友人はブラザーローレンスはこの「いつも主に親しく話しかける」ことの重要性を主張してやまなかったと言っております。 確かに私たちクリスチャンのうちには主が内住して下さっている以上、私たちにとって最も大事な「お客さま」で「共同生活者」である主にいつも親しくお話をするのは礼儀としても当然です。私は「主と個人的に深い交わりを持つこと」とはまさにこのことであると信じます。 私たちは「信仰が足らない、御声が聞こえない」と嘆くよりも、毎日傍におられる主ご自身に、本当に敬愛する親しい方として、何でも気が付いたことを気安く話しかけ、質問し、お願いする毎日を過ごすことを自己訓練することはそれ程難しいことではないと思います。勿論主に対する愛がなければできません。しかし後は堅苦しく考えないことです。 私の経験から言えば、たとえば私の好きな大リーグの野球、特に松井秀樹選手の出るロスアンジェルス・エンジェルスのゲームをテレビで見たい時は、私は主をお誘いして一緒に見てもらいます。そして、私なりの試合のコメントを主にお話したりします。最も親しい家族の長である父親以上の方ですから一緒に野球を見ることは、時と場合をわきまえてさえいれば、悪いことでも、主に怒られることでもない、むしろ主に喜んでいただける、より親しくなることであると信じるからです。 続いてブラザー・ローレンスの本を見てみましょう。 「ブラザー・ローレンスの心からのゴールは神以外に何も考えないことにあります。しかし、もし彼がある時間、神のことを考えないで時を過ごしていることに気が付いた時に、彼はそのことですぐ腹を立てないようにしました。そして時を待ち、神に自分の弱さを心から告白することによって、前よりももっと自信と喜びを持って神のところに返ることができました。又、その神の臨在から離れていた期間、彼自身が楽しく満足できる心の状態にいなかったことに気が付くのでした。 又、もし彼にあまりよくない考えが頭に浮かんだり、彼がそれに誘惑されそうになるとき、彼は直ぐにはパニックになったり、あるいは誘惑に勝てない自分を不甲斐ないと思わないようにします。なぜなら、過去の経験から、神を呼ぶべき時間が来るまでは慌てないで待ち、正しいタイミングで神を呼ばわることが、忠実なる神の助けが得られることを彼は知っていたからです。その時が来て神に声をかけると、その悪い考えは直ぐに消えてなくなります、とブラザー・ローレンスは言います。 神が一切の面倒をみてくれるという信頼のゆえに、ブラザー・ローレンスが外に出て(苦手で)慣れない商用をしなければならなくなったとき、彼は全く心配しませんでした。神は必要なときにどうすべきかを、刻銘に正しく鏡に映して見えるほど鮮明な絵にして見せてくれることを彼は経験していたからです。彼は前もって心配しなくても、神がいざという時には絵にして見せてくれることを既にかなりの間経験していたのです。このような経験を持つ前の彼は、自分自身の力で前もって対処方法をできるだけ細かく準備して出かけていました。 今は彼のするすべてのことが(神の御心にそって平安のうちに)静かに起こり、それによって、彼はますます愛する主の臨在に近い関係になっていきました。 この世の仕事を忙しくしている時であっても、神とのコミュニケーションを中断せずに神を意識し続ける習慣がついている彼が、たまに神から心が離れるような場合は、神から彼に注意信号の「呼びかけ」が届きます。それは、神が彼の心に神のイメージを溢れさせるのです。それによって彼は神が彼を呼んでいることに気が付かされるのでした。このようなときに彼の心は主の前で火のように燃え、喜びに満たされて、主に賛美の叫び声を上げて歌い、踊りたいような衝動にかられるのでした。 ほとんどの人にとっては、日常生活の忙しい行動が神とのコミュニケーションの妨げとなるところを、ブラザー・ローレンスは、むしろそれを通してより神に親密になると感じていたのです。彼にとって考えられる最悪の事態とは、神の臨在の感覚をなくすること でした。」 ブラザー・ローレンスが上記で言っていることは、あるいはイエスキリストが「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。...」(ヨハネ5:19-20)と言われたことに通じるのではないでしょうか。 主は、ブラザー・ローレンスを通して、人間の私たちにもイエスご自身と同じ生き方が出来ることを示して下さったのであると信じます。 私は創世記6章に出てくるエノクが「神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(6:24)と書かれていますが、神とエノクの関係はブラザー・ローレンスが神と持った親しい関係と同じかそれ以上のものであったと思います。そしてあまりにも親しく、いとおしいエノクを、神はもっと近くに来てもらいたくて天に挙げられたのでありましょう。私たちも神とそれ程の親しい関係になれるのです。そうすれば、私たちもサタンの治外法権の世界で神のみに従って生きる「神の子」となれるでしょう。(終わり) トップへ戻る
31 08月

神の臨在 坂 達也 2010年8月31日


神の臨在
 
坂 達也


 今、私たちの親しい人が「お金がいるので家の一室を貸して収入の足しにしたい、でも全く知らない人が同居するのは気がすすまない」と言っています。住宅事情の厳しいハワイでは、自分の家の一室を他人に貸すのはそれ程まれではありません。しかし、赤の他人が家の中をうろうろすると考えただけでも、正直な話、あまりよい気持ちがしないのは私だけでしょうか。
 そこでふと気が付いたのですが、そんな私にも「同居人」がいるという事実です。その人は赤の他人では全くないのですが、一日のうち多くの時間を、私はその人をまるで赤の他人のように無視して、あたかもその人が同居していないかのようにふるまっているという事実です。

 クリスチャンになる最大の特権は、神が私たちの中に来て住んでくださることであると思います。しかし現実には、クリスチャン生活を送っていて、神が私たちんのうちに住んでくださっていると言う実感と喜びを持って毎日を過ごしている方はあまり多くないように思えます。
 クリスチャンは神の臨在のすばらしさを経験すればするほど神の臨在を求めます。そして多くの場合、それは外からくるように思え、自分のうちから来るという気がしないのではないかと思うのです。


 数日前にある方に勧めたい本としてブラザー・ローレンスの小冊子「the practice of the presence OF GOD:神の臨在を訓練する」を久しぶりに本棚から取り出してぱらぱらと見ているうちに、彼が次のように言っているのに出くわしました。

 「神の臨在に常に気が付いている(意識している)ことは大変重要なことであって、そのためには毎日、一日中神と会話をしている必要がるあるのです。」

 と彼は言います。私はこれがクリスチャンのうちに住まわれる神の臨在を指して言っていると思うのですが、これこそ神の臨在を求める人には必須欠くべからざる秘訣であり、私たちクリスチャンはそれを自らを訓練すべきであると、この兄弟は真剣に主張しています。

 続いて彼は、「この世のことをしているときは神と話はできない、と考えるのは間違っています。この世のことに忙しく対処しているときでも、心から愛しあがめる心で「神を見上げている」ことはできるし、それが私たちの魂を霊的に潤い培ってくれている」と言うのです。つまり、何をしていても常に「やさしい主とか父」を心に浮かべ、何事においても親しい神と「一緒にしている」という意識を持っていることが重要であるということです。そうするといつも主と共にいるという喜びに満たされて過ごせるとブラザー・ローレンスは言います。

 救われて2-3年しか経ってないある姉妹が、最近、未信者のご主人と二人でホノルルの中心地にあるお店を出されました。この商売は二人とも初めての経験で、何から何まで分からないことだらけの毎日を長時間働きながら過ごす中で、その姉妹は「すべて主に聞いて、主と会話しながらやっています。」と明るい声で気付かう私たちに答え、その顔は輝いていました。

 私はクリスチャン生活とはこのように生きることなのだと言うことに、今更のように納得が行き励まされました。難しい神学を学ぶことが大切ではないとは云いませんが、それよりも、イエスキリストが実践して見せてくれたこと[子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ5:19)と云われたことをそのまま真似て、私たちも普段の生活の中で実行することが「クリスチャニテイー」なのであって、なるほど「キリスト者」とはよく言ったものであると思った次第です。


 最近私たちは日本へのミニストリー旅行から帰って来たばかりですが、色々な教会を訪ねる中で、主の臨在がある教会とあまりない教会とが、今はっきりして来ているように感じられました。主と本当に親密な関係を持つか持たないか、その差がこれから大きくあらわれるように思えてなりません。(終わり)


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07 07月

イエスの血潮による住まいの大掃除 坂 達也 7月7日


イエスの血潮による住まいの大掃除

坂 達也


科学者であるデービッド・ヴァン・コエバリング氏は、1970年代にレーザー光学を利用した音楽楽器を発明しました。彼は物質には記憶のメカニズムがあることを利用し、シルバー・オキサイド酸化銀のフイルムの上に音を録音し、その音をキーボードから再生音として出させるキーボード楽器を開発しました。 物質には記憶のメカニズムがあることを彼は下記の聖書から引用しています。

「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」(ヨシュア記24:27)

テープレコーダーやコンピューター、或いはカメラで使うメモリー・ステイック、メモリー・カードを見れば分かるように、物質は目の前で起こっている話し声とか映像を記憶することが出来ます。音声だけでなく、すべての光・映像のソースからは光子が放たれていて、それが物質に記録されるからです。
そうであるとすれば、私たちの日常会話とかやっていることは皆、私たちの住まいとか事務所の天井、壁、床、家具等あらゆる備品が見て聞いていることになり、その音声と映像(コエバリング氏はそれに加えて「思い」もと言っています)をちょうどDVDか撮影機で撮った映画のように記憶しています。そしてそれがよいことであればすばらしい祝福となりますが、罪とか悪いことであれば、のろいとなって残り、そこに住む人々に大きな影響を与えるのです。

ここで思い出して下さい。ろばに乗ってオリーブ山のふもとに近づかれたイエスにむかって弟子たちの群が大声で神を賛美しました。それに反対し抗議するパリサイ人に向かって、イエスは答えて言われました。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカ19:40)

「石は叫ぶ」のです。石がそうであるのなら、あなたの家の床、壁、天井も叫ぶことが出来ないでしょうか。あなたがご自宅でいつも神を賛美していれば、あなたの家全体が神を賛美していることになります。
 又、あなたが悪いことを言い、罪を犯しているなら、それを記憶しているあなたの家ではその呪いがいつかは叫ばれることになりませんか。これは恐ろしいことです。

それでは一体どうすればよいのでしょうか。あなたの家を部屋毎に廻り、床、壁、天井、家具備品の上に記録された一切の悪いこと、罪と呪いの記録をイエスの血潮とイエスの御名によって丁寧にぬぐい去る宣言をすればそれは消されます。これしか方法はありません。これによっても、イエスの血潮がどれ程力のあるものであるか、お分かりいただけると思います。

又、得体の知れない処で作られた土産物、あるいは人からいただいた形見の遺品に至る迄、そのものには生産者とその地の人々が関わる罪とのろいが掛けられ残っている可能性は十分あります。又、遺品の場合はその残した人の良いもの悪いものが記録されていますから、やはりそれも霊的に「きれいにすべき」です。

 ですから皆さんにぜひお勧めします。皆さんは時々家の霊的大掃除をして下さい。又、友人とか家族の人が病院に入院しているような場合は、その病室を訪ね、その部屋全体を小声で結構ですから、イエスの血潮と御名できよめて下さい。そして出来るだけ多く信仰で励ましの言葉、神様のお話をして上げて下さい。教会の人たちと行って賛美をするのも大変よいことでしょう。


ところで話は変わりますが、過去の記憶と言えば、私が最近経験したことをお分ちしたいと思います。しばらく前でしたが、一週間のうちに二、三夜ほど昔の仕事をしている当時の夢を見ました。全く同じ内容の夢ではなく、又取り立てて何かが起こった時を思い出すような夢でもなかったのですが、当時私の事業の末期であった頃の何か重苦しい感じの、どちらかと言えば、とりとめのない夢でした。
三日目の朝でしたか、どうしてそんな昔の夢を続けて見るのかなといぶかしく思ううちに、ハッと気が付いて私は膝まずき、私の事業をしていた時期に私が犯した様々な罪を出来るだけ具体的に思い起こしては、それを改めて悔い改める告白をしました。そして、イエスの血潮でそれら一切の罪をぬぐいさり、赦す宣言をしました。するとその後は、当時のよくない重苦しい夢を見ることはなくなりました。

私は自分の過去に犯した罪とその呪いを取り去る祈りを、思いつく度に時々して来ました。ですから今回私がしたことで特に変わったことをした訳ではなかったのですが、一つだけ新しいことと言えば、私の事業をしていた40年近い期間を一つのひっくるめた期間として、その全体にイエスの血潮の充分なる覆いを掛け、私の心の中できっぱりと整理・清算したことです。

その時期と言うのは、私がアメリカに渡って仕事を始めて約10年後にクリスチャンになり、その後に試練の時期に入ってやがて倒産するに至りました。その事後処理を通して私が神に頼り切るつもりでも全く頼り切れず「人間的に苦しみあがいた」格闘の期間でした。(今はそれを卒業したと言う意味で申し上げている訳では決してありません。)
その当時経験した様々な仕事上の人間関係と仕事の処理の仕方において、自分が犯した様々な罪と自分の至らなさは、既に悔い改め、赦すべき人は赦して来たつもりでいましたので、今では全くと言ってよいほど当時のことは忘れ去っていました。しかし、主は私の中に未だにその頃の罪意識が残っていて、私自身を縛り、完全に解放されてはいないことを気づかせて下さったのであると思います。

過去の悔やむべき思い出は完全に消し去らなければなりません。そのようないやな思い出は、 自分には最早何のトラウマとはなっていないと思っていても、意識下で罪悪感の痕跡が残っているのです。「以前は 自分も悪魔に属していた」と言う私たちの古傷を持ち出してきて私たちの罪悪感を煽り、悪魔の暴力団からは二度と足を洗えないと言う嘘の言い掛かりを付けて脅迫してきます。

これは悪魔の典型的なやり口です。私たちの罪は私たちが考える以上に巾広いもの、そして根の深いものであると思います。
それには、自分の罪は既に完全にイエスの血潮で消え去られていると言う確固たる不動の信仰を持っていなければならないのです。

人間の脳細胞、特に記憶する機能の細胞、いや、あなたの身体全体があなたの過去に起こったこと、見たこと、聞いたことを全部記憶し、それを引き継いで抱え込んでいると
03 06月

「神の子」と「人の子」  坂  達 也 6月3日


「神の子」と「人の子」

                坂  達 也


皆さんはクリスチャンとして、自分が「神の子ども」であると同時に「人の子」であることを、どれほどはっきり自覚しておられるでしょうか。
「神の子ども」であると言うことは、文字通り「全知全能の創造主の子ども」と言う意味であり、「自分はそのような力と権威がある神の家族の一員で後継者」であることをしっかりと自覚していると言うことです。

勿論、私がそのように「身構えた」質問をすれば、皆さんも「身構えて」 神学的な建前として「そうです」とお答えになる方も多くおられるでしょう。しかし実質的な話として本当にそれを自覚して毎日を生活しておられるでしょうか。
何故今更そんな質問をするかと言いますと、今、これが真剣に問われる時代に来ていると思うからです。

私たちクリスチャンは,既に神の御子イエス・キリストを信じ、霊に生まれ変わることによって神の子どもになりました。しかしそれはどう言う意味でしょうか。
 先ず「神の子」と言う名称についてですが、英語の場合は単数形の子(息子)である Son of God と書かれます。この単数形の「神の子」は三位一体の神【父と子と聖霊】の二人目の神としての「子」であるイエス・キリストを指しますが、新約聖書ではその意味で37回使われています。通常この呼び名は神としての「ご性質」を表し、父なる神と同等であることを意味すると言われます。

人間は元々アダムにおいて「神のかたちに神に似せて造られた」と書かれていますが、神は人間を少しだけ神に似るように造られたのか、それとも全部似るように造られたのでしょうか。創世記1:26 -27に下記のように書かれています。

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身の形として創造された。」
 
神は元々人間を造るに際して、大真面目で本当に「自分の子供」を造る思いで造られました。ですからアダムを神に似せて造られたのは当然と言えば全く当然です。
アダムがどれほどの権威と力を持ち、どれほど創造者の神に似ていたか、生まれながらの罪人である今の我々には想像もつかないことであると思います。しかし、そのすばらしい力の一端を知る資料として創世記2:19、20があります。

「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが...」

動物とか鳥に「名前を付ける」と言うことがどれほど重要な仕事であるかご存知でしょうか。これこそ三位一体の創造者の神がなさった創造そのものに参加すると言っても差し支えないことであるのです。
被造物を創造するにあたって、神である「子」は、「父」の意図を汲み取り、造るものの全ての特性から遺伝形質とか性格に至まで、その動物の特質の全てを 言い表す言葉で命令し、それを受けて「聖霊」なる神が具体的に必要な細部の構成分子とか原子を組み立てて具体的な「創造」が行われました。

ヘブライ語で表されるユダヤ人の名前はその人の性格とか「人となり」を象徴的に表します。従って名前を付けると言うことは、その人なり動物の性質にぴったりの名前でなければなりません。名前によってどんな性質かが公表されるのです。

三位一体の神は恐らく固唾を飲んでアダムがどんな名前を付けるかを見守ったことでしょう。アダムは「子」であるキリストが創造した動物の性質そのものを象徴するような名前を付けねばなりません。これがうまく出来るかどうかは、最初の人間アダムの出来具合いをテストする重要な機会であったのです。

アダムは的確な名前を付けるために、創造者その人であるキリストがそれぞれの動物をどのような性質に造ったのかを聞いて知る必要がありました。そこでアダムは全てをうかがい、それに対して主キリストは的確に答えて教えられたことでしょう。この霊による質疑応答のコミュニケーションは心と心が密接に通じ合う親密な間柄の人間関係においてなされます。主とそのような関係にあったアダムは神の意向を全て理解した上で、それぞれに適切な名前を付けて発表しました。

父と子と聖霊の神は、恐らく顔を見合わせて満足され喜ばれたことでしょう。アダムはテストに合格したのです。それと同時に、総ての動物は最初の顔見せにおいて、アダムに従属する主従関係にあることを理解しました。この儀式によってアダムは地球上の全ての被造物の上に君臨する権威とリーダーシップを確立したことになります。

ここで非常に重要なことが分かります。それは、最初の人間であるアダムは確かに被造物ではありますが、むしろ創造者側に属する「創造者」でもあると言うことです。「名前を付けて見なさい」と言われ、それが出来たのですから、アダムは神の「仲間」に加えられたのです。名を付けると言うことは創造的行為です。つまりは、人間は創造者になるように造られた唯一の被造者であると言うことです。

それに関連してもう一つ重要なことがあります。それは三位一体の神は、三人で一人の神と言われますが、何故そうかと言えば、御三人の心と行動がものの見事にいつも一致しているからです。お互いの意志と思いがいつもピッタリ通じ合っているのです。私はこれが、神の神たる最も重要なご性質、あるいは特質であると思います。
従って神に属し、神に似る(仲間入りをする)ように造られている人間は、その心と行動において、何としてでも神と一致し、同じでなければならないと言うことになるのです。神が人間に対して徹底的に「神への従順」を要求する理由はここにあります。当然ではないでしょうか。

ところがそれ程神に似ていたアダムが、神に背いて罪を犯してしまいました。その結果として、神との関係が断たれてしまい、「神のかたちとして、神に似せて造られた」性質と特権を失ったのでした。

神学者のアーサー・カスタンス氏によれば「神のかたちに」の「かたち」は英語で image と訳されていますが、この言葉 image は主に同種・同族の「属する関係」を表すと言い、又「神に似る」の「似る」は、英語の likeness で、同じ性質を持つと言う意味であると言っております。

それはちょうどイエスがカイザルの肖像が付いたコインを持って 来させ、「これはだれの肖像 image か、だれの銘か。」と聞きました。人々が「カイザルのです。」と答えると「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」と言われた通り、人間には元々神のイメージが付いたスタンプが押されていたのです。(マタイ22:19−21)

そうであるなら人間は神に属する「子ども」として造られ、しかも性質も似ていると言うのですから、人間は本当にただ者ではないのです。
それを今のように無力で、むしろ全く神に似つかわしくない悪い性格になり下がってしまったのは、アダムが罪を犯した後、総ての人間がサタンの言いなりになって来たからです。

ですから神は、初めから人間が罪を犯すことを見越して、創造の前から「子」であるイエス・キリストを十字架に付けて罪に堕ちた人間を救出ることを計画しておられたのです。そしてイエス・キリストは罪の無い人間「第二のアダム」としてこの世に来られ、十字架の御業によって人間と神との関係(押されたスタンプ)を回復されました。

そのイエスを信じることによって私たちは神の子どもとして復縁し、性質が神に似るようになるために、神から今厳しい愛の訓練を受けております。私たちには、神の子どもと呼ばれる権利とそうならねばならない責任が戻って来たのです。
まさに「私たちが神の子どもと呼ばれるために、———事実、いま私たちは神の子どもです。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(1ヨハネ3:1)です。ハレルヤ! 

処で、救世主イエスは「神の子」Son of god であると共に「人の子」Son of Man とも呼ばれています。特に新約聖書では43回もイエスを指してこの「人の子」と言うタイトルが使われています。その意味は、主イエスの「ご性質」が、神の造られた最初の人間、罪を犯す前のアダムが持っていた「完全な人間」の性質であると言うことです。少なくとも私はイエスを「人の子」と呼ぶ意味をそのように解釈しております。

イエス・キリストは第二のアダムと言われますが(1コリント15:45−48) それを裏付ける聖書箇所としてルカ3:38があります。そこでは「アダムは神の子である」と、イエス以外の人間としてアダムだけが一度だけ単数形で「神の子」と書かれています。
罪を犯したアダムを救い出すために、キリストが第二のアダムとしてこの世に来られたのです。従って、第一と第二のアダム、つまり人間と人となられたキリスト・イエスは同族・同種であると言えます。

私たち人間は、今はまだまだ罪の影響が残る弱い人間でしかありませんが、元々意図されたパワフルな「神の子供たち」に本当になれるのです。いや、そうなるようにこの世に生まれて来たのですから、それが私たちのゴールです。

いつも主の御声を聞いて、主を見上げ、主に従う毎日を送ることは、私たちクリスチャンが名実共に「キリストの花嫁」となって、真の「神の一族」に加わると言うデスティニーであるのです。(終わり)

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