ニューヨーク移転のお知らせ ー 写真追加 2012年7月1日
ニューヨーク移転のお知らせ ー 写真追加
先回の記事に下記の写真を追加させていただきます。最初のものは私たちの初孫の入浴姿です。
次に私たちの家族で撮った写真です。ソファに座っているのがホノルルから参加した娘と私たちで、床に座っているのが息子夫婦と孫と彼らの愛犬です。その下の写真は私たちの住むことになるアパートの入り口辺りを撮ったものです。
ニューヨーク移転のお知らせ ー 写真追加
先回の記事に下記の写真を追加させていただきます。最初のものは私たちの初孫の入浴姿です。
次に私たちの家族で撮った写真です。ソファに座っているのがホノルルから参加した娘と私たちで、床に座っているのが息子夫婦と孫と彼らの愛犬です。その下の写真は私たちの住むことになるアパートの入り口辺りを撮ったものです。
ニューヨーク移住のお知らせ
坂 達也
先日6月初めに10日間の日程で、私たちホノルル在住の家族三人はニューヨークに住む私たちの息子夫婦を訪ねました。主な目的は、彼らの間に3月末に生まれた男子、私たちにとっての初孫に会いに行くことでした。
息子夫婦が名付けた初孫の名前はマイロ、下記は彼の写真です。
実はこの息子夫婦が出産前の一月にハワイに来た時に、彼らは共稼ぎで日中は子どもの面倒を見る人がいないと言うことで、私たちに子守に来て欲しいと頼まれておりました。これに対して家内もしばらく返事を保留しておりましたが、二人で祈った結果、私たちがニューヨークに少なくとも一年間移り住むことがはっきり主の御心であることが分りましたので、行く前から移ることを決心しておりました。
そんな訳で今回の訪問は移住のためのアパート探しも目的の一つでした。息子夫婦も狭いアパート暮らし、そこに私たちが同居することは無理と言うことで、できるだけ近いところにアパートを探すことになりました。
場所はマンハッタン島の東南下部にあり、チャイナタウンに歩いて数ブロックと言う、買い物に便利、それでいて比較的静かな住宅街です。そこはニューヨーク独特の古いレンガ建ての高層アパートが立ち並び、大きな樹木に恵まれた公園も散在します。都会のど真ん中に住むにしてはまずまずな場所という印象を受け、私たちも気に入りました。
日曜日には早速家族で同じローアー(下部)・マンハッタンの西側に位置する例の9・11で崩れ落ちたツイン・タワーの直ぐ近くにある教会にバスに乗って出掛けました。息子夫婦が今参加しているところです。惨事が起こった時はツイン・タワーだけでなく周りのビルも被害を受けたのですが、その被害を受けて最初に再建築されたモダーンな高層ビルの40階にその教会はありました。「リバー」という名のその教会は、若者中心の60人程の集まりでしたが、ウォール街が真下にあり、建築中のツインタワーも直ぐ傍に見えていました。ハドソン川、イースト・リバーという二つの川に挟まれ、ニューヨークの東と南の地区が一望に見えるという圧倒されるようなすばらしい景観でした。
ハワイの田舎住まいから、いきなりニューヨークのど真ん中に移り住むことになり、そこで最初に礼拝した場所が、アメリカ経済を動かすウォール街とツインタワーを含む世界でも有数な高層ビルの立ち並ぶ場所ですから、私は思わず神を見上げて祈りました。アメリカ経済が間も無くこの地区から崩壊するかもしれないという時期にこの地に送られて来たことに対して深い感慨を覚えました。
私は今、家族が親しく寄り添って生きることの大切さをひしひしと感じています。私たちの場合、二人の子どもが育って立派に自立している後の年寄りに何ができる訳ではありません。しかし私たちが未だ責任を果たさねばならないことが一つあるように思います。それは神に頼って生き、神と共に歩き、神に訓練される生き様のよい手本を示すことです。
パウロは「私に見習いなさい」と言っておりますが、私たちが家族に残す遺産があるとすれば、キリスト者として信仰で生きるそのよい模範を残すことであると思います。勿論彼らのために毎日祈ることの大切さは言うまでもありません。
私は今回息子たちの助けでアパートを色々見て歩きましたが、そのほとんどが一人の不動産エイジェントが持って来た物件で、彼は本当に丁寧に案内してくれました。ところが、ある物件に私たちの関心が集中して来た最後になって、彼は息子に彼のコミッションは一年間私たちの払う毎月の賃貸料の15%であると洩らしました。私たちはハワイの常識では賃貸料の一か月分を家主側だけが払うと了解していましたし、息子は今までに同じ地区でアパートを三度移っていますが、どの場合も(別の不動産店を通してでしたが)一か月分を支払って来ていましたので、私たちは少々びっくりしました。しかもそのことを最後の最後まで言わなかったことで少々「カチンと来た」訳です。問題はそれに対するリアクトを一番大きな声でしたのが私であったことです。
息子は友人たちに聞いてみるとニューヨークでは15%要求するエイジェントも多く、それも常識になっていると言うのです。私たちは結局どの物件ももう一つということで決めずにハワイに帰って来ましたが、途中で私は、自分がエイジェントに対して(本人にではないにしても)家族の中で一番批判した非に気が付き悔い改めました。イエス様だったら何と答えたか―恐らく値切ったりしないで快く払うと言われたでしょう。イエス・キリストは勿論、そのからだの一部である私たちクリスチャンは決してお金に困っているのでありません。むしろ有り余るほどの財産がある方が私たちの面倒を見て下さっているのですから、必要と思っている人に逆にふんだんに分かち与えるのは当たり前であるはずです。
私は自分がビジネスをしている時の自分中心の考えに基づく「貧乏根性」がつい出て来てしまった、しかも子どもたちの前で誰よりも早くこの世的な思いを口にしたことに恥ずかしくなりました。早速翌日息子に電話し、15%喜んで払う気持ちであることをそのエイジェントに伝えて欲しいと言いました。
その後、息子は自分の引越しを三度世話してくれた不動産店に念のため電話してみると、他によい物件があり、結局その店を通して、彼らのアパートの真前にあって道路に出なくても庭沿いに歩いて行ける同じ系列のアパートに空いたところがあり、見て来てよかったと報告がありました。私たちはすべて息子夫婦に任せると伝え、その1LDKのアパートの持ち主も同意しましたので私たちはそこに決めました。目下その物件の賃貸手続きに入っております。
今回私たちは毎日の出来事とその進展につれて「神に聞く」ことを実行し、子どもたちと共によく祈りました。ある時は最初の方で一度見た瞬間に私がこれは駄目と判断した物件に対して、主からそれを見直すようにと言われましたので、私はそれを家族に告げて再度見に行きました。すると最初の印象とは違って自分でも吃驚するほどによく見えたのです。娘は最初から私の見方が正しいとは見ていなかったようで私が神に言われたことを打ち分けた時、にこにこしながら「私もそう言ったでしょう。」と私の早計ぶりをたしなめられました。
今まで家族で何かを決める時に私の頑固さがネックになったことが何度もあることを家族はいやと言うほど経験しており、私も長年のうちにそれに気が付かされて来ましたので、今回私が出来るだけへりくだって神を前面に持ち出す殊勝な態度を取ったことに対して神は報いて下さったのでしょうか、ホノルルに帰ってから神はすばらしいことをして下さいました。それは、次に最大の難関であるホノルルの私たちのマンションを一年間人に貸す相手を探さねばならないのですが、私たちの状況と要望にすべて応えてくれる理想的な相手が、探す前にポッと与えられたのです。それは全く降って沸いたようでした。
私たちの要望とは、先ず私たちの家具調度品を出来るだけ居ぬきのままでそのまま使ってくれる相手を見つけることです。ホノルルでは期間が一年以上となるとほとんどの場合、自分の家具を持ち出し、すっかり空き家にして貸すのが常識と言われていました。もしそれをしなければ貸す相手が見つからない、あるいはしばらく時間が掛かることになりかねません。となれば、その持ち出す自分の家具を運搬して貸し倉庫に一年入れ、それを又持ち帰らねばなりません。そうとなると、その運搬費と倉庫代で何千ドル、もし捨てて新しく買い換えてもやはり何千ドル掛かります。一方、ニューヨークへ運搬すればそれ以上の費用が掛かります。
そんなことでニューヨークへは最低必需品を私たちの乗る飛行機の預ける手荷物として許される限度(一人最大22キロの重量の荷物3個まで)1個20ドルで運んでくれる飛行機会社を選びました。それ以外の大きな家具類は現地で息子たちが買って支給してくれるというので助かりますが、本当に引越しはお金が掛かることが今回よく分りました。
私たちは息子の嫁のお産休暇が切れる7月24日までに現地に入らねばならず、理想的にはその日に入居してくれる借り手を見つけなければなりません。神はそのような人を探す前に、娘の不動産の仕事の中から与えて下さったのです。どうしても8月前に出なければならなくて困った家族が出て来たのです。その人たちに娘が私たちの家が空く話をすると飛んで見に来てくれ、一部の寝具だけ持ち込む以外のものはほとんど居抜きで使ってくれる、それが有難いと言う願ったり適ったりの相手でした。値段も娘が提案する「両者に公平な値段」を喜んで受け入れてくれ、私たちにとってもそれは望みの申し分のない値段でした。話は即座に決まりました。
私は神がこの人たちを用意していて下さったことに間違いないと確信を持ったのは、この提示値段が両者が共に感謝する値段で、しかもそれを娘が提案して一言で決まったことからでした。又、私たちが持ち出さねばならないベッドルームの家具とか、その他の多くの調度品等は、私たちの親しい友人の皆さんが快く預かって下さることになり、これもすべて主の導きであることに心から感謝しております。
それに加え、ニューヨークで住むアパートの家主とホノルルの家の借り手が同じ日に快く同意してくれて契約が実質的に成立したことも奇跡のような神のすばらしい御業でした。それが又、私たちの子どもたち二人が両端で契約にこぎつけてくれたのですから、本当に私たちは「神の家族」として、すべて神のお手配で事が運ばれたことに感謝の心で一杯です。
私たちの今回のニューヨーク行きは、神のご計画であり、孫の面倒をみる以上に、ミニストリー的にも特別な任務が与えられることを私たちは予期しております。しかし、たとえそうではなく、単に老いた爺さんと婆さんが孫のためにえんやこらと出掛けて行って親子三代が睦まじく共に住むようにして下さることだけが愛の神様のお取り計らいであるとしても、それこそ最高の祝福と恵みであると心から主に感謝しております。
クリスチャンになる最大の祝福と特権とは、一言で言えば、永遠の神の家族に入れていただき、神と永遠に楽しく暮らすことであると思います。そのために、私たちは神の愛をもっともっと知らねばならないと思わされております。そして神にふさわしい子にしていただくには、神のひとり子イエス・キリストを信じて「神の子イエス」の一部となった私たちが、本当に「キリストに似た者」にならねばならないこと、そのクリスチャンとしての責任を今回ひしひしと感じております。それが私たちの最終的で最高のデステニ-ではないでしょうか。
そのために神は私たち人間に家族を与え、この世で人間が皆、家族として愛し合って生きることを願っておられます。それは神の子になるための最も重要な訓練であると信じます。その目的を持ってこの7月23日に私たちはニューヨークに向けて出発します。
そんな訳で今、家の中はおもちゃ箱をひっくり返したような状態です。もって行くもの、置いて行くもの―倉庫あるいは友人に預かっていただくもの、捨てるものに分ける作業をしております。その後に、補修すべきところの修理作業に入ります。どうぞ皆様、私たちの後に入られるご家族のため、又ニューヨークで過ごす私たちのために今後とも一層のお祈りをお願い申し上げます。(終り)
今年示されていること
坂 達也
数年前でしょうか、ボブ・ジョーンズ師が2012年までに終末の使徒が出て来ると預言したことを覚えておられる方は多いと思います。私も昨年来、今年はクリスチャンが使徒になる年であると言うことを強く示されています。
と言っても私は、「地域のリーダーとなる使徒職」と言うような大げさなことを指して言っている訳ではありません。使徒である資格は、すべてのことを信仰で行動する人であればよいと思っております。すなわち、その人の毎日行なっていることが、すべて神から出たもので、自分に与えられた「神の仕事」を忠実に実行する人であることです。
そうなるためには、今年こそ「心を尽くし精神を尽くして主の御声に聞き従う」(申命記30;2)ことによって信仰を得て、その信仰ですべてのことを実行することに徹する必要があります。なぜなら「信仰は神の(話す、レーマの)ことばを聞くことから始まる(得られる)」(ロマ書10:17)からです。勿論聖書の御ことばを読むことも大切です。それからその時に必要な御ことばを主は与えて下さいます。
イザヤ 55:11 で主は「わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」
と言っておられるように、私たちは主から出るレーマのことばをいただき、それを信仰で実行すれば、神が私たちに与える使命と主の御心が必ず成し遂げられ、果たされるでしょう。
同時に主は、今既に、私たちの信仰を悪魔を用いてふるい、ゆすぶり始めておられることに気が付く必要があります。それは信仰においても「揺り動かされるものが取り除かれる」ことが必要だからです。(ヘブル12:27)それによって多くのクリスチャンが、自分の信仰に疑いを持ち始めたり、あるいは信仰を失う可能性があります。
さてそこで、最近、私に強く示されていることがあります。それは、父なる神のリーダーたちは、今年からは今までの祈りに費やす時間を少なくとも倍にする、そして一日最低二時間、時間が許される場合は四時間、五時間祈ることです。
実はこの思いは、ホノルル在住の家内の友人から最近いただいたテープを聞くことによって、私にその確認が与えられました。このテープは、Kat Kerrと言う女性の講師が、ハワイで初めての集会(ヒーリング・ルームでの)を持たれた時のものですが、この方はしょっちゅう主に呼ばれて天に行き、神の御座近くで親しく主のお話を聞いておられるそうです。その方が、天国で語られた主のお話をされた最後に、自分は毎晩四時間、主の前に出て時間を過ごすと言われたのです。私は、その方が何でもないかのようにポロッと口にされたその言葉にはっとしました。ブラザー・ローレンスがそうしていたことを思い出し、そうだこれだと思わされたのです。
毎晩4時間主と時間を過ごす――ローレンスはそれで睡眠時間が少なくなっても主が補ってくれると言っていたと思います。すばらしいではありませんか。今天国に行き来している人が増えているようですが、その人たちは主と非常に親しい人たちであることに間違いありません。
そこで早速私は、たまたま遅ればせの新年の三日間の断食をするところでしたので、二日間、一日合計で4-6時間祈ってみました。そして、やろうと思えば出来ることを確信しました。
それで思い出すのがモーセとかヨシュアが言っている律法を心に刻み込む方法です。
「 聞きなさい。イスラエル。・・・ 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。・・・あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」(申命記6:4-9)
彼らは律法をいつも口で唱え、色んなところに書き記して覚えた(まるで学生の頃の試験の日のようです)のでしょうが、今の私たちは、律法の替わりに主の前にできるだけ多く立って、一日中レーマの御ことばを聞くことによって(私たちの意識で聞くと共に、私たちの霊が聖霊から聞き)御ことばで満ちている状態「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」(申命記30:14)でなければならないと思います。
私たちは常に主の思いとご計画を知らねばなりません。それには、主に密着して歩く以上のよい方法はないと思います。
パウロは誰よりも異言で祈ったと言いますが、私たちも本当に主と親密な関係になって常に御ことばをいただかなければ、主が言われる「わたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」器になることは出来ません。これが出来る人が使徒であると信じます。
今年神は、私たちがそうすることを喜ばれるだけでなく、それが出来るように導き、助けて下さり、それが楽しく出来るようにして下さると信じます。
今は、終末の非常時期に既に入っています。忙しくて祈る時間がないと思う時ではなく、主と時間を過ごすことが世の中で最も大切なことであり、祈ることを自分のプライオリティーの一番にすれば、出来ないことはない、主がそれを助けてくれると思うべきではないでしょうか。(終り)
日本は揺すぶられている
坂 達 也
先月の半ば過ぎでしたが、私たち夫婦は、私の姉の危篤の知らせを受けて、急遽日本に飛びました。残念なことに、到着した時には既に姉は天に召されており(二年前に私たちの前で信仰告白をしておりました)、結果的にはその葬儀に参列することになりました。
姉の夫は大部前に仏教徒として病死していると言う理由で、嫁ぎ先の遺族は仏式の葬儀を主張していたので、私たちの希望した教会での葬儀は叶えられませんでしたが、その代わり、久し振りに仏式の葬儀に参加して少々驚いたことがあります。
と言いますのは、昔と違って今は葬儀業界という大きなビジネスが存在し、複数の業者がそれぞれ立派な教会並みの建物を建て、僧侶の手配から、斎場を含むすべての儀式、加えて送迎から会食まで一貫して請け負うという「葬儀業」が、私の郷里のような地方の田舎町ですら競われる時代になっていることを今回つぶさに経験したことです。
特に彼らによる葬儀で著しいこと(感心したこと)は、弁が立つ立派な一人の司会者が立ち、儀式の進行を丁寧に紹介し、ご焼香の仕方から、手を合わせて何を念ずるか、又、お経を読み、鐘や太鼓、木魚をたたく僧侶をうやうやしくまつり上げ、僧侶とそのお経のありがたさを強調し、この読教によって故人が冥土でいかに祝福されるかを実にうまく解説することでした。
私の印象では、仏式においてもこれだけの説明付きの儀式がなされると、会衆は皆仏教の葬儀の良さ、ひいては自分たちも同じように葬られ、先祖家族の待っている冥土に安心して行ける、死ぬことは怖くない、という見事な錯覚に陥り、多くの人はありがたい気持ちで帰路に着くと言うことでした。ある意味では、クリスチャンの儀式に参列するのと同じぐらいの「宗教的説得力」があると思いました。商売となると、仏教であっても、実に「売り込み」上手になるものだと感心した次第です。そして恐ろしさすら感じたことは、このやり方では、本当の神を知らない多勢の人たちを「広い門」からコンベア・ベルトに乗せて、滅びへの「広い道」をまっしぐらに大量に運び込むという悪魔の巧妙な惑わしの手口でした。
そう思った時に、日本でのクリスチャン宣教の難しさを今更のように感じました。特に日本ではキリスト教の宣教そのものが実に「狭き門」であり、又、実際に多くの場合、一人ずつ未信者の手を取りながら険しい狭い道を共に歩いて導かねばならない、その貴重な「狭き門」のミニストリーにおける労苦と忍耐は並々ならぬものであることを改めて思い知らされました。
葬儀を終えた私たちは、次に念願の東北の被災地を訪問しました。先ずは娘がボランティヤとしてこの五月から奉仕している仙台近郷の利府という所にあるオアシスチャペル(松田牧人牧師)-森郷キャンプ場に到着し、そこで3日間お世話になりながら、南三陸を含む被災の現場のいくつかを見ることが出来ました。
それにつけても、3月11日の東日本大震災の現場に立つた時に、ヘブル書12:26-29に書かれている「あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、『わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう』。この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。」(口語訳)という御言葉が私の心から離れませんでした。
「あの時」とは、イスラエルの民が最初に神に引き合わされ律法をいただいたシナイ山での出来事を指しています。そして「もう一度」とは、直接的には、シオンの山に降り立つキリストの再臨の時ですが、広い意味では、キリストが最初に地上に現れた時から再臨までの間の期間であり、特に再臨が迫った終末の時を指すと考えられます。その神が、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」と言われるのですから、神が震わされる以上、神はそうする目的があり、それがたとえ「さばき」の一つの形であっても、神は良い(正しい)目的のためにことをなされます。その目的が「震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれ」最終的に「震われない御国」を築くことにあると書かれています。
私は終末時に起こる神のこの「震わし」は、日本のこの東日本大震災が、大きく地を揺るがす世界で最初の地震であると言う気がしております。そしてその目的は、神が日本を愛するがゆえに、他国に先立って日本人の足元を根底から揺るがしておられると信じます。今回私たちは、日本で震度4前後の地震を福島、東京、沖縄で三度経験し、本当に日本が揺すぶられていることを実感しました。
人間は、自分が立っておられないほど強く足元を震わされると、誰しも恐れと不安をいだきます。特に自分のやってきたことに自信があり、自分が築き上げてきた富と名誉と体制(伝統)にのみ頼って生きてきた人の足元の根底がぐらつく時、その人は恐らく自分の価値観と存在理由に今までにない不安を覚えるのではないでしょうか。
今世界の政治と経済が根本から揺れ動き、モラルの退廃が来るところまで来たと思わない人はいないと思います。人間のやって来たことの総決算として、特に神なしで築き上げてきた「バベルの塔」が大きく震われ始め、崩れ去ろうとしています。しかし、これは神がなさっていることであり、これこそは、人間が創造者の神の存在に気付くために必要な最低条件であると思います。
正直なところ、日本に深く根を下ろして来た神道とか仏教の体制と惑わしの「あの世」観を破壊し、人々をその呪縛から解放するためにはこれしかない、すなわち、天も地も激しく揺れ動かすことによって人間を震い上がらせ、その無知と高慢を根底から砕くことが必要であると私は確信しました。この神の御声による天地のゆさぶりは、これからも益々激しくなって行くでしょう。もっと大きな地震が来るでしょう。そして、それでも分らない人たちには、最後の「火のさばき」がキリストの再臨と共にやって来ることが黙示録に克明に書かれています。
今回の旅行で私たちは、被災地と悲惨な状態に置かれている被災者の姿の一端を垣間見ることができましたが、特に家を失くされた被災者の方々が無責任に造られたひどい仮設住宅に押し込められている状態を見て、日本国民を代表する政府のすることがこれだけでしかなかったのかと言う憤りに近い悲しい思いを持ちました。しかし、神が敢えてそれを許した理由は、私たちクリスチャンが、この不安と悲しみに絶望する多くの被災民に愛の救いの手を差し伸べる時が来たこと、それも二度とない大きな機会であることを感じさせるためであると思いました。
多くの人たちが世界から集まって復興への援助の手を差し伸べ、又、多くの信仰の貴重な働き手が、今も日夜被災地での伝道にたずさわっておられますが、その数は未だ限られており、宣教の働きは本当にこれからなされなければならないことを実感しました。
勿論、私たちの宣教の使命は東北の被災地だけではありません。日本のすべての場所で、同じように迫り来る終末の最後のチャンスを逃すことなく、最大の努力がなされねばなりません。
リバイバルはどのような形で来るのか
10月18日にジェフ・ジェンセン師の記事を紹介しましたが、それによると今30歳になっているか、なろうとしている若者たちが、これから起こる世界的規模のリバイバルに大いに用いられることが預言されております。
今までに起こった最も大きなリバイバルの一つは、英国ウエールズ地方で1904年に起こったリバイバルと言われております。その時に神が用いたのはエバン・ロバーツという20台半ばの青年で、彼を助けたのが何とティーン・エイジャーと子どもたちであったと言われますから、神がこれからもロバーツのようなへりくだった若い青年を用いるのはよく理解できます。
しかし、このジェンセン師の預言を読まれた方々のとっさの感想は、恐らく私と同じで、その年代より年を取ったクリスチャンを神は用いられないのかという疑問であると思います。
言うまでもありませんが、そのリバイバルのきっかけを担当する若い年代のクリスチャンを霊的に育て上げ、助けるのは、他でもなく私たち中・高年のクリスチャンです。その意味では今30歳のクリスチャンと私たち高年者は一体で主にあっての同労者です。特に、物凄い数の新しいクリスチャンが生まれて来る時に、そのおびただしい数のベービー・クリスチャンの面倒を誰かが看なければなりません。しかし、今の全クリスチャンのうちの、本当に霊的な面倒がみられるマチュアーなクリスチャンの数は限られており、迫り来る大リバイバルへの充分な対応はとても出来ないとリック・ジョイナー師は指摘しています。
私は、神が今まで一方的に起こされた種々のリバイバルと同じように、これから最も大きなリバイバルが起こされるという預言を確かに信じるだけでなく、それを大いに期待します。確かに使徒行伝には、一日に三千人、五千人の未信者が救われたことが書かれています。それにたずさわった使徒たちもイエスに心から献身した若い青年たちでした。
しかしその聖霊が起こされた一大リバイバルを経験したペテロ、ヨハネ、パウロたちの書いたものを読んで分かることは、彼らにはリバイバルが来るという浮ついた考えはみじんもなく、彼らの終末に生きるクリスチャンへのメッセージは非常に厳しいものであると言うことです。彼らは、キリスト者が罪から遠ざかり、聖く生きて、どこまでも、いや、殉教の死にまでも主と聖霊に従って生きる必要性だけを強調し戒めています。それはパウロが自らを「今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」(2テモテ4:6)と言っている通りです。キリストの使徒たちは全く自分に死んで、主に仕えました。それ以外の何物でもありませんでした。
エバン・ロバーツは若いながらもそのような主の器でした。主に自分の命を捧げて従い通す第二第三のロバーツを主は今求めているのです。そのことこそが新約聖書において最も強調されているだけでなく、旧約聖書でもイザヤが預言しています。(イザヤ書66:2)
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」
この一点に関しては年齢に関係がないと思います。主は常にそのような「キリスト者」を求めており、そのような人が特にこれからの時代に用いられることは明白です。
そのために、今神はクリスチャンをこそ、信仰の根底から震おうとしておられます。「震われないものが残るために、震われるものが取り除かれ」る時が来るからです。いや、既に来ているのです。そして、そのように主のためにのみ生きるクリスチャンからは、最終的に肉のものがみな廃れ、「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。」(イザヤ 60:19 新共同訳)とあるように、物としての光すら取り除かれ、神の霊的な光のみがあなたを照らし、その光があなたから光り輝く時が来ようとしているのです。
震われないものとされたあなたが未信者に接する時に、神を知らないその人たちが、あなたから神の光が輝いているのを見て、神を信じるようになる時が本当に来るのです。それはリバイバルが起こる起こらないに関係ありません。私たちがどこに行こうと、その行く先々で私たちが未信者に親しくリーチアウトする時に、相手があなたにキリストを見て信じる、そのような宣教の実が間も無くどんどん起こるようになることを期待したいと思います。(終わり)
日本のクリスチャンに期待する
坂 達也
2011年は早くも半年以上が過ぎ去りました。今年と来年は色々な天災・人災が起こると言われて来ましたが、その予想は今のところ外れておりません。本当に思いがけないことが世界中で毎日のように起こっています。
特に日本は3/11の大震災以来、その被災の大きな痛手の中で、復興に立ち上がっておられる訳ですが、福島の放射線被爆のように将来への明確な見通しも立たないような深刻な事態になっており、その復興のプロセスが遅々として進んでいないことへの焦りを感じておられることはよく分かります。しかし私にとって気になることは、政治的、経済的に、いやクリスチャンの見方においてさえも、日本は今あまりにも悲観論一色で覆われているように思えてならないことです。
一方アメリカでは、日本以上に政治・経済の混乱と政治家への不信が高じて、既に手遅れの状態、国が破綻するのは時間の問題であるかのような極論まで聞こえて来ます。
そんな時皆さん、思い出してください。創造者の神はこう言われます。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──主の御告げ── 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)
私はこの御ことばに今本当に励まされています。神の思いと考えは人間の思いを遥かに超えていて、神のなさる方法と道は、人間のやることとは大いに違う、それよりも遥かに高いとおっしゃるのです。だから、信じて安心して生きなさいと言われます。
私は前にも書きましたが、日本と言う国の底力を信じています。神は日本を愛し、日本をこれから奮起させ、立派に世界をリードする国にされるご計画であると信じて疑いません。もっとも、その方法は私たちの思いとか考えをはるかに超えたものでありましょう。たとえそれが一時的に相当な荒療治になるとしても(むしろそれを望みますが)、私は大船に乗った積もりで神を信じ、神がどうなさるかに大いに期待しています。アメリカの将来に関しても楽観しています。
これからの1-2年、世界中がもっと大きな災害に見舞われるでしょう。その点、日本が今年、大きな地震・津波の被害を受けた最初の国であったことが、むしろよかったと思います。早く立ち直って、後により大きな被災を受ける国々を助けるように神が日本を用いられるご計画かもしれません。
さてそこで、最近のアメリカで起こった「よい知らせ」の一つをご報告したいと思います。それは去る8月6日にテキサス州ヒューストンで行なわれた「祈りと断食の日」の集会でした。タイミングとしてはこれ以上タイムリーな時はない程、今のアメリカは国家的危機の最中にあります。その中でテキサス州知事リック・ペリー氏が多くの批判者の反対を押し切って、ヨエル書2:12-14に基づく、クリスチャンの政治家が、政治色のない純然たる「国家のために神に祈る日」を呼びかけたのです。前日までは八千人ほどしか参加の意思表示がなかったそうですが、当日になってみると約三万人の人々が大きなスタジアムに早朝からつめかけ、7時間にわたって熱い祈りの時を持ったと言うことです。会場からは1300からのサテライト中継によるライブ・ストリーミングがアメリカ全国に放送され、多くの国民が祈りで参加しました。地元の新聞は、集会はリバイバルの雰囲気であったと報道しています。
この知事は、来年の大統領選挙への共和党候補として出馬することをその後に発表しましたが、この日は、会の途中で単なる一クリスチャンの祈り手として祈りをささげ、「今、神の前には何の政治的アジェンダはなく、あるのは救い(サルベーション)のアジェンダだけです」と訴えたそうです。(会場の外ではリベラル・グループによる反対デモが行なわれていたようです。)
この集会に参加したヨエル・ローゼンバーグ氏の感想は「レスポンスと名付けられたこの集会は、通常の会とは全く違った。私はこのような祈りの集会を未だかって経験したことはない。政治的スピーチはなく、入場料なし、政治的ファンド・レイジングも宗教的ささげものの呼びかけもない、物売りもなく、いかなるエンターテイメントもない、ただ7時間にわたる、心からの悔い改めを以って神への憐れみを請い、御言葉を読み、神に熱烈な賛美をささげる集会であった。」と言っております。
私は痩せても枯れても、さすがクリスチャン国のアメリカだと思い、大いに励まされました。ペリー知事は政敵のオバマ大統領のために誠実な祈りをささげたそうです。この国には神にのみ頼ることを忘れていない国民が未だかなり残っているのを感じます。
借金で首が回らなくなった問題だらけの悩めるアメリカは、今となっては本当に神だけが頼りです。しかし、その神が付いていてくれることに大きな希望があります。
日本でも既に、このような国の復興を真剣に思うクリスチャンが集まり、祈りの集会を各地でなさっておられると聞きますが、さらに一歩進めた全国的レベルの「国の救いを祈る」集会が持たれることをお祈りし、それと共に、クリスチャンが国をリードする時代が一日も早く来るようにお祈りしております。(終わり)