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01 12月

神はアメリカのクリスチャンの失敗を世界に示しておられる       坂 達也          2012年12月2日


神はアメリカのクリスチャンの失敗を世界に示しておられる

 

坂 達也

 

 

今回のアメリカの大統領選挙とその結果を見せることによって、神はアメリカのクリスチャンが持つ信仰の体質を露にし、さらに抜本的に信仰の本質そのものを問われたように思います。これはアメリカのクリスチャンだけの問題ではなく、全世界のクリスチャンに対する警告と戒めに他ならないと思います。

 

 

クリスチャンは指導者のために祈ることを忘れている

 

すべて造られたものは創造者の神の支配下にありますが、こと地球に関しては、その支配を神は人間に委ねたと言う基本的事実を忘れてはならないと思います。(創世記1:28)しかしそれはあくまで、人間が神のエイジェントとして管理責任を持っているということであって、総責任者はあくまで創造者の神ご自身です。そこで人間は、神の子供として、常に神に頼って、神の知恵で管理支配を実行するように造られているというのが聖書的事実(真理)です。

 

地球上におけるすべての管理責任を直接的には人間に任せている以上、神は、人間を無視して勝手に直接支配をなさいません。しかし人間自身の持つ能力と知恵は不完全で限られていますから、万能の神の知恵が絶対に必要です。それを承知の神は、人間に「上に立つ管理責任者に神の知恵が与えられるように、わたしに祈れ」と命令しています。そしてこの命令を知っているのは、聖書を信じるクリスチャンだけですから、クリスチャンにはそうする大きな責任があります。従って、これをわきまえたクリスチャンが祈れば祈るほど、神は「人間の許可と要請を受けて」責任管理者たちにそれぞれ一番よい、必要な「神の知恵」を自由に与えることが出来るのです。

 

 このことはクリスチャンが一応過半数を占めるアメリカにおいてだけ適用される「祈り」では勿論ありません。むしろ、日本のようにクリスチャンが全体の5%以下の国では、「この祈り」が、より一層必要かつ重要です。なぜなら、管理責任者がクリスチャンでなくとも、神はこの祈りを聞いて下さるからです。この人間の祈りに応えて神が指導者に知恵を与える「システム」は、被造物の管理責任において神と人間がうまく連携プレイ出来る、実にすばらしい神の知恵であると思います。

すなわち、僅か数パーセントであっても、クリスチャンが総意で「上に立つ責任者に神の知恵を与えて欲しい」と真剣に祈れば、神は喜んでその祈りに応え、クリスチャンでない政治家であっても神の知恵を授けることをなさるはずです。近来、世界中で偉大な指導者、政治家が出て来ない理由は、クリスチャンが「上に立つ人のために祈る」ことをしなくなったからではないでしょうか。

日本でも間も無く重要な選挙が行なわれます。神は、日本の僅かなクリスチャンが日本国のために今真剣に祈ることを期待しておられると信じます。クリスチャンが一致して祈り、投票し、その結果を感謝して、更に祈り続ければ、日本の国(の政治)は大きく変わると信じて疑いません。

 

 

アメリカのクリスチャンがしたこと

 

今回の大統領選挙で、神はアメリカのクリスチャン(教会)をテストされたと思います。クリスチャン有権者は、二人の候補者のどちらかに投票するか、或いは棄権するかの三つの選択肢がありました。一方の候補者である現役の大統領オバマ氏は、反キリスト、クリスチャン迫害者で、堕胎、同性結婚に賛成するという、聖書的には全くの「悪しき者」―リック・ジョイナー師が言う歴史上最悪の大統領です。しかもこの四年間の政治経済の実績は決して良くありません。それに対抗する共和党候補のロムニー氏は、異端と言われるモルモン教徒ですが、モラル的には神の基本的信条である同性結婚、堕胎に反対しています。神を愛し、聖書的な生き方をしようとしている人です。しかも今一番必要な経済に経験豊かなビジネスマンです。(この評価は個人差があるでしょうが)そして最後の選択肢は両者を共に嫌って棄権するかです。

 

日本のクリスチャンの皆さんは、もし投票するとすれば、どちらに投票しますか。恐らく「うーん」と考え込まれるかもしれません。アメリカの多くのクリスチャンがそうでした。結果的に見れば、今回の選挙で二千五百万人のエバンジェリカル・クリスチャンがオバマ氏に投票したと推定され、その上棄権した人が何百万人もいたと言うのです。従って今回はアメリカのクリスチャンの考え方と態度によって、事前の予想に反してオバマ再選が決まったと言えます。その大きな理由は、ロムニー氏がモルモン教徒であることに原因していると考えられます。それを嫌って、オバマを選んだか、あるいは投票を棄権したのではないでしょうか。

しかし棄権した人、あるいは、オバマ再選を選んだ人のどちらのクリスチャンもクリスチャンとして基本的な問題を残したのです。

 

 

プライドから来る偏見とさばく心

 

聖書をよく勉強しているクリスチャンなら「信仰の本質は愛であり、愛は赦すこと、人をさばかないことである」ということを知らない人はいないと思います。しかしそれは、教義上あるいは聖書の「頭の知識」として知っているのであって、実際にそれを心から実行している人は残念ながらかなり少ないと思います。

正直なところ、多くのクリスチャンは「異端」というレッテルを張られた信仰団体に対して、必要以上に神経過敏になっているように見受けます。自分はそうではないと思っていた私自身も、よく考えてみれば、モルモン教に対して偏見を持ち、頭から否定して「さばいていた」のです。そのことを今回ジョイナー師とジョーンズ師の対談から学び、本当に悔い改めました。その「さばいていた偏見」はどこから来ているのかと自問すれば「自分はキリストを信じているから、それ以外の人とは違う」という高慢さから人を見下していることに私は気が付かされたのです。

 

私はクリスチャンであると偉そうな顔をしてはいるが、本当に「キリスト者」と言って恥ずかしくない者になっているのか―と問われれば答えはノーであることに気付いたのです。

多くのクリスチャンはキリストの教えがどれ程厳しいものであるかを本当には自覚していないのです。一つの例を挙げれば、マタイ7:21-23で、イエスが「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われたことです。主は続いて「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 と言われました。「預言をし、悪霊追い出しが出来て、奇跡をたくさん行なった」クリスチャンと言えば、相当年季の入ったリーダー格のクリスチャンではないでしょうか。その人を主は「不法をなす者ども」、すなわちクリスチャンではない者として「わたしから離れて行け。」とおっしゃるのです。

確かにベイビークリスチャンの時は、子どものように唯イエスを救い主と信じれば主は喜ばれます。しかし、十年二十年も経ったクリスチャンが、「業」をすることは憶えても、個人的に親しく主を知る関係に入らず、「キリストのような人格になる」霊的成熟が見られないようでは、上記のように厳しく「不法をなす者」と叱責されるとしたら、そのクリスチャンは果たしてモルモン教徒より上と言えるでしょうか。

愛の神である主は、キリストを救世主として見ていない「間違った教え」に騙されているが、神を愛し、聖書的な生き方をしようとしているモルモン教徒と、一方、キリストを信じると言うだけで、いつまで経っても弟子になろうとしない「なまぬるい」クリスチャンを比べて、本当にどう見ておられるでしょうか。恐らく主にとっては、大同小異、比較にも値しない、どちらも愛しておられ、どちらも同じように真の救いが必要な人たちとしか見ておられないと思います。私はそれに気が付いた時、自分だけはよいと言う高慢な態度に恥じ入りました。

 

アメリカのクリスチャンは、今回の選挙で大半以上が真のクリスチャンではないことがこれで判明したのです。主は敢えてクリスチャンが勝手に判断して投票することを許され、その結果がよく見えるようにされたのであると思います。今回オバマに投票した人、あるいは棄権したアメリカのクリスチャンが、もし皆主に喜ばれる真の成熟したクリスチャンであったとすれば、彼らはオバマに投票しなかったでしょう。又、棄権もしなかったはずです。すなわち、言い換えればかなりの差でロムニーが当選したはずです。

 

 

しかし主は偉大な計画を持っておられる

 

 

私たちの主は「すべてのことを働かせて益としてくださる」神ですから、今回の選挙結果も主はすばらしいご計画の一環として用いてくださると信じます。主は選挙が終わった後に、少なくとも二人の預言者にそのご計画を啓示されました。一人はリック・ジョイナー師、そしてもう一人はGOD TVを創立したアレック夫妻の夫人ウエンディー・アレック師を通してでした。この二人の預言は既にご報告の通りですが、それを要約すれば、

 

1.先ず第一に、主はアメリカのなまぬるいクリスチャンの実態をあばいて知らせ、それがアメリカの凋落の大きな原因の一つであることを示された。

2.神への信仰を基にして建国されたアメリカの背信と神離れは遂に来るところまで来た。もう人間の力では回復可能なティッピング・ポイントを超え、後は神の手に委ねるしかない。すなわち、神による「国全体のリバイバル」を祈り求める以外の方法はない。

3.そのためにはアメリカのクリスチャン(教会)が目覚め、心から悔い改めて主に祈り求めよ、と主は言われる。

4.そして再選したオバマ大統領の改心と救いを祈り、同時に大統領がすべての国政において主からの知恵を得るようにクリスチャンが一致して祈らねばならない。

5.そうすれば神は大統領に必要な知恵を与え、彼を通して国を回復する。

 

と言うことが二人の預言の主旨です。

 

神は曲がりなりにもクリスチャン国であるアメリカを捨てないと信じます。しかしこの国にはもっと厳しい裁きが来るでしょう。しかし、神の裁き(艱難)は、愛する者を懲らしめて立ち直されるために神が与える愛の鞭であることを忘れてはならないと思います。そこに希望があるのです。

リバイバルとは神がアダムを誕生させた最初の計画に返り、それをリバイブ回復させることであると信じます。それは地球上に、神の御心に従って、神の子イエス・キリストとそのからだである教会(私たち神の息子、娘)によって王国を打ち立てることに他なりません。それが私たちの地上でのデスティニーであると信じます。アメリカ合衆国の誕生もその一つの型でありましょう。そして世界にリバイバルを起こし、世界をキリストの王国として成就させる、最後のプロセスがいよいよ始まろうとしています。世界的リバイバルには世界を揺るがす大艱難が伴って来ます。そして真に悔い改めた、そのために準備されたクリスチャンの精鋭戦士だけが神に用いられて主と共に最後の勝利をもたらします。

 

多くの大悪人が、先ず悔い改め、厳しい試練を通して整えられ、大きく神に用いられる例はパウロだけでなく、この世に多く見られます。オバマ大統領もその一人となることを私たちは祈るようにと主が言われます。日本の皆様、アメリカで起こっていることは人事ではありません。ぜひ、アメリカのクリスチャンのために、アメリカのために、オバマ大統領のためにお祈りください。それによって日本にリバイバルが来ると私は信じて疑いません。(終り)

 

〔尚、このメッセージはハーザー誌へ寄稿した文章の原稿です。〕


07 11月

アメリカの大統領選挙が終わって         坂 達也        2012年11月7日


アメリカの大統領選挙が終わって

坂 達也

 

今回の選挙は、多くの人が言うようにアメリカ史上始まって以来最も重要な大統領選挙の一つであったと思います。そして昨日投票前の予想では、非常に接戦でどちらになっても全くおかしくない状況でした。

私は今回の選挙を出来るだけ冷静に見守って来ましたが、下記の理由から心情的にはロムニー氏が当選するのを強く願っていることを自覚しながらも、どう祈るべきかについては色々な思いがありました。

1.オバマ大統領はクリスチャン信仰を持っていないことが、今までの4年間で明らかになった。彼自身は表立ってではないにしても、明らかなクリスチャンの迫害に通じる反キリスト的政策をゆるして来た。又、自分はアメリカ合衆国のための大統領でありながら、アメリカ人の人権と自由を守る建国の精神をうたった憲法を擁護する自覚が薄いことも明らかになった。そして多くのうそを平気で言う。

2.一方ロムニー氏はモルモン教徒で、キリスト教会から見れば異端。しかしモラル的には現在のアメリカの多くのクリスチャンに比べて、より保守的で聖書的である。又、アメリカ憲法をはっきり擁護する立場を取る「愛国精神」の強い人であり、人間的に信用度は高い。

 

以上の点から、私は宗教の立場は別にして、国家の長としての適格性と責任感を持ち、ビジネスの経験を持つ点でロムニー氏がオバマ氏よりより適任者であると判断しました。

 

私は正直に主に私の気持ちをお伝えし「真理・真実を愛し尊重する」人が選ばれることをお祈りして来ました。しかし、一方で主が私たちには考えられないようなすばらしいご計画をお持ちであることを強く感じておりましたので、いつも以上に「主の御心がなされる」ことを強調したお祈りをしました。

昨夜 私は開票結果が夜通し報道されるのをいつものようにテレビで見るのを避けてベッドに入りましたが、気持ちとしては、もしかしてロムニーが勝つことへの楽観的な思いがよぎる中で、私の霊が悲しんでいるのを強く感じ、オバマ再選が間違いないことを知っておりました。まんじりともしない悲痛な思いで夜明けをむかえました。

 

私は、多くの真摯なクリスチャンが祈って来たにもかかわらず、主がオバマ再選をゆるされたのですから、主はもっと抜本的にアメリカを救うご計画をお持ちであると信じます。

そのために主は、今回は敢えて介入しないで、むしろアメリカ国民の総意が何であるかを国民に知らせ、特にクリスチャンが先ず悔い改めることを望んでおられるのではないかと言う思いを持っております。

 

「悔い改め」と言えば、今回選挙の直前に、巨大なハリケーン・サンデイーが当地ニューヨークを含むアメリカ北東部沿岸を襲い、多大の被害が起きました。そして一週間後の選挙の翌日に、今もう一つの嵐に襲われている最中です。私は今、窓からみぞれ混じりの強い暴風雨が横殴りに叩き付けてくるのが見えます。選挙の前後に災難が二度もアメリカのウォール街を襲い、証券取引が二日間休みとなる前代未問の災害に見舞われる―これは神からの裁きではないかといぶかる人もあるいは大勢いるかと思います。

災害が降り掛かってくることは必ずしも神からの裁きのしるしではありません。しかし、ルカ13:1-4で、イエスは二つの例をとって、災難を受けた人はそれだけ罪深いからではない、と言われた後に「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と同じことばを二度繰り返して言われていることに私は注目します。

少なくとも今回の選挙に関して、主はアメリカ国民に「悔い改め」が必要であることを強調しておられると信じます。

 

 

しかもそれは、アメリカのクリスチャンに対してであると信じて疑いません。ご存知と思いますが、アメリカの人口の少なくとも60%以上が一応クリスチャンと言うことになっています。もしそうなら、明らかに反キリスト反クリスチャンの大統領を再選させてよいものでしょうか。勿論、対抗馬のロムニー氏がモルモン教徒であるからと言う言い訳があるかもしれませんが、モルモン教徒に関しては先々週ご報告したボブ・ジョーンズ師と、リック・ジョイナー師の話の中に出てくる主の預言をご覧下さい。本当に今回の選挙は、今のアメリカのクリスチャンの実体そのものが問われる重要なテストであったと思います。

 

終りの時代には惑わしが多く起こることと、不法がはびこり愛が冷えることがマタイ24章に書かれていますが、今のアメリカはまさにそれが顕著になって来ました。神はイザヤ書60:2の「見よ。やみが地をおおい、暗闇が諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。・・・」ことを計画しておられ、そのご計画は少なくともアメリカにおいては予定通りに進行していることが今回の選挙で確認出来ました。すなわち、神はとことんこの世、特にアメリカがやみに包まれるのを待っておられ、その真っ暗闇の中で主が輝く時を用意されつつあると思うのです。

アメリカの負債総額は16兆ドルと言われていますが、実際にすべての将来支払う義務の負債を加えると実質200兆を超える数字になり、これはどう逆立ちしても返せる金額ではないと言われます。従ってどちらの候補が大統領になっても、多少最終破産の次期が遅れるだけで、アメリカは既に完全に破産状態にあります。今となっては人間業では絶対に回復出来ないところまで来ていて、後は神に依存する以外に方法はないことが明らかです。それには私たちが心から悔い改めて神に帰るしかありません。

実のところ、私の祈りの一つはオバマ氏もロムニー氏も、個人的にも、又大統領としても、一日も早く真に神に頼る人になって欲しいと言う祈りでした。

 

と言うことで、私は選挙結果には少し人間的に落胆しましたが、それ故に、逆に今年から来年にかけて、神がなさることにより大きな期待を寄せる思いになりました。クリスチャンはいよいよこれかです。今こそ真剣に悔い改め、「自らの十字架をかついで主の後を追う」本来の姿に帰り、愛の人間になることを改めて決意した次第です。(終り)


30 09月

天の故郷を夢みたアブラハムの信仰        坂 達也       2012年9月30日


天の故郷を夢みたアブラハムの信仰

坂 達也

アブラハムは、神からカナンの地を与えると約束されました。しかし、実際にカナンで住んだのは他人から借りた土地で、そこで仮のテント生活をし続けました。アブラハムが自分で所有した土地と言えば、サラが127歳で死んだ時に彼女を葬るためにヘテ人から買った洞穴とその回りの僅かな畑だけでした。こうして彼は生涯を寄留者の旅人として過ごしました。

 

彼は他の信仰者と同じように「信仰の人として死に、約束のものを手に入れることはありませんでした。はるかにそれを幻で見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。彼は自分の故郷のことを思っていましたが、その故郷はこの世ではなく、よりすぐれた天の故郷にあこがれていたのです。それ故、神は彼らの神と呼ばれることを恥とせず、事実、神は彼ら(真の信仰者たち)のために天に都を用意しておられました。」とヘブル書11:13-16に書かれています。

 

彼らはこの世を享楽する人生を追い求めたのではなく、神と共に暮らす天での「永遠の命」を夢見ていたのです。これはキリストを信じる者の特権です。私たちがどの時代に生きようと、この「よりすぐれた天の故郷に常にあこがれれていること」が真の信仰者が持たねばならない「信仰の重要な要素」であると思います。

 

しかしそれだからといって、人がこの地上においてみじめな人生を送らねばならないのではありません。それが証拠に、神は彼とその家族を大いに祝福したので「アブラハムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。」と書かれております。(創世記13:2)

又、晩年信仰を極めたアブラハムについて次のようにも書かれています。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」(24:1)

アブラハムはイサクを与えられてから後に、何と75年も生きながらえました。最後は全財産をイサクに与え、長寿を全うして175歳で死にました。アブラハムはこの世で神から最も祝福を受けた人間の一人です。

 

そこで考えてみたいと思います。先に述べたアブラハムが「よりすぐれた天の故郷に常にあこがれれていたこと」と、神が彼の地上での生涯を豊かに祝福で満たしたこととはどう言う関係にあるのでしょうか。

 

先ず第一に、彼が「よりすぐれた天の故郷に常にあこがれれていた」と言う事は、アブラハムが人間の生きる最終目標(デスティニー)をしっかりつかんでいたことを物語っています。そして、それが彼の信仰を支えたと思います。その目標を楽しみにして生きていたからこそ、彼は現実の人生で、神のことばが実現するまでに長い年数がかかったにもかかわらず、それに耐えるだけの信仰を持ち続けることが出来たのではないでしょうか。

勿論そのように導いたのは神であり、あくまで神のめぐみによってアブラハムは神を信じ続けられたのであると思います。

私はここでアブラハムのような信仰を持てば、この世で必ず物質面で祝福されると言っているのではありません。しかし、愛とめぐみ豊かな神は、アブラハムのような信仰を持つ者をこの世で「天からの祝福」で祝福しないような神ではないと申し上げたいのです。

 

私はそのアブラハムから学んで、不可能はない創造者と共に、今から最高の可能性を追う人生を生きたいと願う者のひとりです。イエス・キリストがそれを可能にして下さると心から信じます。(終り)


28 08月

ヨブ記を読む 坂 達也 2012年8月28日


ヨブ記を読む


坂 達也

 

まさかニューヨークに来て、最初に取っ組むのがヨブ記であるとは驚きました。突然に導かれたのです。しかし、この本ほど読み甲斐のある本もめずらしい。過去に何回も読んだのですが、通読はしても、いつもどうも分からないうちに終わってしまうのです。

そこで今回こそはじっくり読もうと思い、英訳のKJVとデービッド・スターン師のJewish Bible、それに、新改訳、新共同訳を併用して読み始めて驚きました。多くの箇所で解釈が全く違ったり、時に正反対の意味に訳されていることに気がついたのです。特に日本語の新改訳と新共同訳との相違が目立ちました。これでは混乱するのは当然――何故?――どうも原文のほとんどが詩的文体であると言われるせいか、時に簡潔過ぎているからか、又、代名詞が誰なのか(例えばheが神を指すのか、対話の相手をさすのか)その解釈が訳者によって違うことに気付きました。結果として、多くの箇所で解釈に大きな差が出てしまっています。

 

それはともかくとして、この本を神はどのような意図で書かせ、聖書に入れさせたのか、私には非常に興味があります。これを書いたのはモーセとかソロモンと言われますが、ヨブはBC2000年頃、つまりアブラハムと同時期か少し前の時代に実在した人物と言われ、聖書ではエゼキエル書14:14-20で、ヨブの名前がノアとダニエルと同等の「義の人」と言うことになっています。その他ヤコブ書5:11、ロマ書11:35、1コリント3:19がヨブのことに言及しています。

 

神とヨブの関係

 

さて本書を読んで最初に気付かされることは、ヨブという人物が神の大変なお気に入りで、神は彼を当時としては最大限に祝福していたという事実です。その理由を神は「地上でヨブほどの人はいない。彼は潔白perfectで正しくupright、神を畏れ、悪を避けている。」とサタンに説明します。

と言うことは、もしヨブがアブラハムと同時期或いは少々先輩であるとすれば、アブラハムよりもヨブの方がより潔白で正しい信仰の人であると神が言っていることになるのですから驚きます。

 

ここでいう「潔白で、正しい人」と聞くと、神がモーセに示した十戒を中心とする「律法」を忠実に硬く守った人を思い起こさせます。勿論ヨブはその書かれた律法なるものを知りません。しかし、彼はあたかも律法の忠実な実行者であるかのように描かれています。

それにもかかわらず神は突然理由を言わずに、サタンにヨブを襲わせ、神から受けていた祝福のすべてをヨブから取り上げたのです。

 

イエス・キリストとイスラエル

 

それだけではなく、神は、サタンに「命だけは触れるな」という条件付で徹底的にヨブの身体を痛めつけさせました。ヨブの苦しみは肉体の苦痛だけではありません。慰めに来たはずの四人の友人たちが寄ってたかって徹底的にヨブを責めたのですから、これはまさに肉体と精神両面の二重苦です。彼らは「罪を犯す者を神は罰する」という神学的には非常に単純な考え方に基づき(律法的と言えます)「これほどの苦しみに見舞われたヨブは大きな罪を犯したに違いない。神に悔い改めよ。」と迫ります。しかし、ヨブは「そんな罪は犯していない。」と言い張り、ついには「神の前で(天の法廷で)申し開きしたい。」と主張し、それをさせない神に対して不満をぶっつけます。

ヨブは執拗に自分の正しさに固執し、そのために「誰か天で神と私の間を仲介してくれる仲裁者mediatorが欲しい。」と要求します。(ヨブ記9:33)又、ヨブ16:19-21と17:3でも、ヨブは天にいる私の証人(弁護人あるいは味方)を悲痛な叫びとして要請するようになります。

更に19:23-27では、自分を贖う方が後日地上に立たれ、自分はよみがえることを預言します。これはまさに、イスラエルに帰って来られる再臨のイエス・キリストを預言しているのですから、この預言をさせるために神はヨブを起用したのではないかと私には思えるのです。ヨブ記を預言書の一つとして分類した学者が一世紀にいたそうですが、ヨブを預言者と見るのは正しいように思えます。

 

同時に私は、ヨブが「死に目に会う苦しみ」の後、最後に神が「ヨブを元通りにして以前の二倍の繁栄を与えた」ことにも注目したいと思います。これは単なるお伽話とか寓話ではありません。それは、第一に、人間イエス・キリストの出現(十字架の苦しみと死、そしてよみがえり)を暗示しているように思えるからです。

第二に、イスラエルという地上で神が創った唯一の神の国とその選民(イエス・キリストもイスラエル人です)が、長い間瀕死の苦しみと迫害を通ったにもかかわらず国が亡くならなかったというだけではなく、キリストの再臨によって世界を制覇する国としてよみがえることを暗示しているように思えるのです。しかもその時に、キリストを信じるすべての異邦人クリスチャンが共によみがえり、イエス・キリストの王国に合流するのですから、数はともかくとして、イスラエルと異邦人を併せて「二倍」のキリストの王国となって繁栄することを預言していないでしょうか。

 

神は、イスラエルが誕生する前に、建国の父祖アブラハムより優れてはいても劣らない信仰の人ヨブを出現させ、神の国イスラエルが通る道、すなわち、律法が与えられ、それを守るように神との契約関係に入る。しかし、それだけでは不十分であること、人間には救い主イエス・キリストが絶対に必要であることを暗示しながら、キリストと十字架の受難、そして復活を示俊します。すなわち、ヨブはキリストと共に、イスラエルが辿る長い苦しみと迫害の歴史を予告する、言わばイスラエルの「前走者forerunner」としての役割をヨブに果たさせたと、私は解釈したいと思うのです。

 

真に神を知る方法は、神が直接語られるのを聞くしかない

 

ヨブのように罪を忌み嫌い、罪をほとんど犯したことのない正しい人を、何故神はここまで痛めつけたのでしょうか。(神は最後までその理由をヨブに答えていません。)

神は四人の友を送ってヨブと激しく口論させました。その意図は、人間がヨブに対する神の仕打ちをいくら頭で考えて(神学的)論争をしてみても、神の真意と知恵を計り知ることは不可能であることを知らせるためであったと思います。問題はヨブも友達も、神が人間を遥かに超えた存在であるという概念を持っていないため、神のなさることをつい人間のレベルでしか考えなかったことにあります。神を知る唯一の方法は、直接神が話されることばを聞いて知る以外にはないと言う真理をこのヨブ記は教えてくれます。これは、実は私たちクリスチャンに対する重要な教訓であると信じます。

 

他人と比較して自分はほとんど罪を犯したことがないと自負するヨブは、神の自分に対する仕打ちが大いに不満でした。しかし神は最後にヨブの前に現れ、神が全能の創造者であることを直接ヨブにとうとうと語られました。それを聞いたヨブは神に向かって「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は(初めて)知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。―(私でした。)まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。・・・私はあなたのうわさを(人から)耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ記42:2-6)と言って平身低頭したのでした。

 

ヨブは初めて神の御声を直接に聞いて、まるで神にお会いしたように感じたのでしょう。「この目であなたを見ました」と言い、心からへりくだって悔い改めたのです。

又神は、ヨブに必要なのは彼の罪の身代金を払って弁護してくれる方であり、その方が神とヨブの間に立って下さる唯一の仲裁人であることをヨブに啓示されていたのであると思います。ヨブ程の信仰ある人に神が啓示という形で心に語られない訳が無いと思います。ただヨブはそれが啓示による神の御声であることを知らなかったのであると思います。(アブラハムも啓示によってキリストが来られることを知っておりました。)そうでなければ人間がキリストのことに考えが及ぶことはありえないと信じます。

 

クリスチャンがなぜ苦しみを通らねばならないのか

 

ヨブから学ぶことはたくさんありますが、その一つはクリスチャンは「聖なる苦しみ」を通るということであると思います。その最もよい例がイエス・キリストの受難であることは言うまでもありません。

罪の性質を持つ人間は誰でも、この世の中で苦しみに会わない人はおりません。しかしその苦しみのほとんどは、自から蒔いた種の刈り取りで、招いたのは苦しむ本人です。ところがヨブの苦しみは少し違いました。神が与えたのです。それが分らない四人の友は戸惑いの末ヨブをひどく責めましたが、これこそヨブの信仰を本物にするための神のご計画でありました。

ヨブは、ここに限りない神の愛と深い知恵があることを、究極の苦しみを通して最後に理解できたと思います。もしそうではないにしても、ヨブは少なくとも神がどのようなお方であるかを初めて個人的に知るようになったことは確かでしょう。

 

ところで、普通クリスチャンは最初に「自分の罪を悔い改める」と告白しますが、それはむしろごく卑近な罪の悔い改めを指しています。多くの場合、それは肉的・表面的なものでしかありません。勿論救いに導かれるためにはその悔い改めは絶対に必要です。しかしヨブの悔い改めは、かなりの信仰生活をした後で、霊的存在である神を真に知るに至ったときに自分がへりくだらざるを得ない、圧倒的、根本的な「悔い改め」であり、これが彼の信仰を深くしたのではないでしょうか。

 

ヨブのこの深い悔い改めは「聖なる悔い改め」とでも言いますか、クリスチャンの霊的成長には不可欠なものであり、しかもこのような「心からの悔い改め」は回数が多いほどよいと思います。このような悔い改めが重なる度に、その人の信仰はどんどん深まると言っても過言ではないでしょう。私自身を振り返ってみても、クリスチャンになった頃と比べ、最近は事繁く、恥ずかしいほど自分の至らなさと高慢さに気付かされております。

 

「キリストとその十字架の深い摂理は神の知恵であって、神の知恵wisdomを私たち人間は本当には計り知ることができない、神を本当に理解することは人間には不可能である」ということを、知恵の書と言われるこの「ヨブ記」は教えてくれます。同時に又、「聖い人が何故苦しまねばならないのか」という問題も、時に人間の理解を超える神の深い知恵であると信じます。

正しい人でかなりの信仰を持っている人でも、神に愛されれば愛されるほど、神はその人を過酷な試練の中を通されることは、ダニエル書を見ればよく分かります。三人のダニエルの同胞、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが燃えたぎる火の炉の中に放り込まれたのですが、その炉の中に「神の子のような人」が現れて四人で歩いている。そして炉から出て来た三人は髪の毛一本も燃えていませんでした。言うまでも無く、この経験を通じて彼らの信仰は超自然の不動のものとなったことでしょう。

 

終末の艱難時代と大リバイバル

 

この物語は終末のクリスチャンが大艱難の中を通ることを預言していると言われます。一頃は大部分の人がクリスチャンは大艱難時代の前に携挙されると信じていました。その理由はクリスチャンは大艱難という裁きを受けなくて済む、あるいは受ける必要はないということのようですが、本当にそうでしょうか。苦難は必ずしも「裁き」ではないと思います。聖い人でも苦難を通る、いや、むしろ聖い人をもっと聖くするために神は苦難を通らせることが、ヨブの例のみならずダニエルの同胞の例で分ります。

 

特にこれから来る終末の時、私たちは火の中を通るような大きな艱難の中でリバイバルが起こることを覚悟すべき、というより大いに期待すべきではないでしょうか。リバイバルが未曾有の大リバイバルになるためには、ダニエルたちのような超自然の信仰を持った人たちが多く出て、超自然の霊的領域(圧倒的な油注ぎ)が造られ、その中で大きな救いの御業が起こるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 

これからの時代には、同じ「火のかまどの苦難」ではあっても、全く別の形で来るように思われます。例えば、政治と経済の完全崩壊による暴動、飢饉とか、未だかって起こったことがないような自然災害、あるいは過激派イスラムによる迫害・弾圧と言ったような艱難です。しかし間も無く来るそのような「大艱難」を恐れる必要は全くありません。何故なら、火の中をくぐるような苦しみを通る時こそ、私たちの傍に「神の子のようなお方-主イエス・キリスト」がぴたりと付いていて下さるからです。神は艱難をくぐらせることによって、私たちの信仰を完成させて下さると信じます。

 

キリストに似た者になる

 

私たちクリスチャンはイエス・キリストの後を追い、キリストに似た者になるのが最大の目標です。パウロがそれを熱心に薦めます。そのパウロも十二使徒も皆、迫害と苦難の中を通りました。そうであるなら、私たちクリスチャンが人間キリスト、あるいはヨブのような究極の苦しみの中を通されても不思議はないように思います。

 

その「死に至るような苦しみ」の意味するところは一体何なんでしょうか。私にとってそれは「人間は肉の自分に死ななくては、真の霊の人=キリストに似た信仰者にはなれない」という意味であると信じています。それはガラテヤ2:20を生きるためです。

そして「自分に死ぬ」ということは、私たちクリスチャンは皆洗礼を受けたときにそう宣言していることを忘れてはならないと思います。(終り)


13 08月

ニューヨークへの旅路     坂 達也       2012年8月13日


 

写真は私たちの新しいマンハッタンのアパートから見える夜景です。

左の高いビルはエンパイヤー・ステート ビルデイング です。

その下の写真は私たちの住むアパートです。

 

ニューヨークへの旅路

坂 達也


7月23日の夜の飛行機でホノルル空港を飛び立った私たちは、シアトルで乗り継ぎ、翌日夕刻にニューヨークに着きました。
私たちにとって今回のニューヨーク移住ほど、それが主の御心であることがはっきりと示されたことは、私のクリスチャン生活を通して未だかってなかったように思います。

先ず、6月初めに娘と三人でニューヨークを下見に訪れた時、家族全員が心から一致し移住が本決まりとなりました。早速、ニューヨーク側で息子たちがアパートを探し契約に持ち込む手続きを開始し、一方、ホノルル側では住まいの家具・調度備品・衣類等の整理に入りました。友人にもらっていただくもの、預かっていただくもの、ニューヨークに持って行くもの、そして残りをホノルルで安くてよい貸し倉庫を見つけ、そこに搬入することが主な作業です。それが終わると家の中の補修と清掃が必要でした。
加えて、私たちが出た後にタイミングよく留守の一年間を借りてくれる相手を見つけねばなりません。下手をすれば1-2ヶ月空き家になる可能性が十分ある中で、月の途中での引越しにもかかわらず、引き払った翌日に入居する借家人が娘を通して見つかりました。主は総てのことを絶妙なタイミングで、とんとん拍子にことを運んで下さり、まるで「早くニューヨークに行きなさい」と主から急き立てられるかのようでした。

この数年間主は「ことを急いでなされる」と感じて来たことが多い中で、私たちは「神の御心とご計画に沿って行動すれば、すべてがうまく行く」ということを今回改めて経験させていただいたのですが、神のコンベヤーベルトに乗っかっているだけで、やっているのは自分ではないということを身に沁みて感じました。神の恵みが現れる時(マニフェステーション)私たちは大きな祝福と喜びに浸ることができます。皆様もそのような多くの証と経験をお持ちでしょうが、それは本当にすばらしい信仰の励ましになります。
そこで今回私たちが受けた一連の神の恩恵の一例として、そのクライマックスとも言うべき最後の出発の日、空港で起こったことをお証したいと思います。

私たちは、それぞれ機内持ち込み用の非常に重いスーツケースと手提げバッグを一つずつ抱え、それ以外にチェックインする荷物が計6個、これはかなり大きなサイズの段ボール箱をテープと紐で梱包したものですが、その中の二つは多分限度の50ポンドを超える重さであったと思います。
私たちは空港の出発ゲート前まで大型のバンで送ってもらいましたが、そこで荷物を下ろしてからチェックイン・カウンターまで、この10個の荷物をどのようにして運ぶかが第一の問題でした。それを助けるために娘が自分の車で後をつけて来てくれていたのですが、その娘も先ず車を駐車場に入れねばならず、なかなか現れません。
ところが全く思いかけないことが起こりました。車が停まった直ぐ後ろに大きなカートを持ってポーターが、まるで私たちの到着を待っていてくれたかのように立っていたのです。そんなことはめったにありません。合図するとすぐ敏速に計10個の荷物を大型カートに移し替えてさっさと検疫を通関し、それから私たちの乗るアラスカ・エアーラインのチェックイン・カウンターに向かいます。私たちの乗るエコノミークラスでは大勢の人が並んでいましたが、ファースト・クラスの受付にはたまたま客が誰もなく、ポーターはそこに直行してくれたのです。この間ポーターは私に、少なくとも二つの荷物が重過ぎることをそっと耳打ちしてくれ、お望みなら何とかしようと言いますので私はよろしくと答えました。カウンターの係員はこれも私たちを待ち受けていてくれたかのように笑顔で迎え入れ、敏速に切符の手続きをしてくれました。持ち込み荷物6個については規定通り1個20ドル計120ドルの支払いも終えました。(アラスカ航空を選んだのは一人3個まで手荷物以外の荷物を1個20ドルで運んでくれるという利点があったからでした。)
通常であれば、荷物はすべて一個一個計量され重量オーバーの場合は1個につき50ドル超過金を取られます。(これは航空会社にとって貴重な収入源です。)しかしそのポーターは、係員と暗黙の了解があるのか、荷物を計りもせずにさっさと荷物のコンベヤーベルトに載せ、自分で荷物のタッグを作って貼り付け、半券を束にして私たちに渡してくれ、アッと言う間にチェックインが終わりました。そこで私はそのポーターを傍らに呼びそっとお礼のチップを払いました。あまりにもあっけなく手続きが済んでしまい、周りを見回しても娘の姿が見えません。そこで、私たちは機内持ち込みのスーツケースをガラガラ引っ張って駐車場の方へ引返すと、娘が借りた館内用カートを持ってようやく現れました。渡りに船とそのカートに手荷物4個を載せ、私たちは旅客通関ゲートに向かいました。

そのゲートではいつものように大混雑状態でした。検問の入り口に立っている女性に、私たちは二人ともミニ・マックというコンピューター本体に加えて大きなモニター(それぞれ19インチと21インチ)を持っており、そのモニターも外に出す必要があるのかと聞くと、全部それぞれ別のトレイに載せなさいと言います。私はその他に小型ラップトップ・コンピューターも持っていたので、それらをポケットの中身全部と、上着、靴、ベルトと共に数個のトレイに載せました。これは結構大変な作業でしたが、入り口に立っていたその女性が見るに見かねたのか飛んで来て助けてくれました。身体透視検査の機械を通過後、今度は全開した荷物の中身をスーツケースにもどす際にも、その女性はわざわざ私たちの持ち込んだカートを持って来てくれ、それに荷物をつめ込む便宜を図ってくれました。
超スピードでチェックインと検問通関を終えた私たちは、出発前の構内のレストランでほっとしていると電話が入りました。お見送りを固くお断りしていた一人の方がチェックイン・カウンターに来られ、私たちがいないので今どこにいるのかと言われます。事情をお話してお帰りいただきましたが、私たちが親しくしているその方は、私たちの荷物が多いのを知っていて心配して来られたのだと思います。本当に感謝でした。
搭乗時間となり、飛行機のドアの前まで使用したカートから荷物を下ろした後が又大変でした。機内の後方の席まで抱えながらやっとの思いで持ち込んだ荷物を荷物棚に上げようとしても非力な私たちでは上がりません。親切なスチュワーデスと周りの乗客に助けられやっと席に座ることができました。それに超満員で別々にしか席が取れなかった事態も、私の隣席の方が快く換わって下さり、家内と私は並んで座ることができました。

翌日ニューアークの飛行場に着き、長い回廊を通って荷物の引渡し場まで来ますと、そこには私たちの息子が既に荷物を全部カートに積み上げてニコニして待っていてくれました。これは大変うれしく思いました。前回娘と三人で来たときには、今回より二個少ない四個の段ボール箱を運んで来ましたが、それでも荷物が出てくる荷台から荷物を下ろしカートを探しに行ってそれに積み込み、飛行場を出た外で息子の来るのを長く待ちましたので、今回はその経験を生かして娘が前もって息子に連絡していたようです。
こうして駐車場に駐車してあった車に息子が難なく荷物を積み込み、折からのラッシュ時の街中を楽しい会話をしながらニューヨークの目的地に無事たどり着きました。

私たちは同じ旅行のプロセスを二度したのですが、最初は娘を入れて三人で、しかも荷物も少なかったにもかかわらず、状況的には大変な思いをしました。それに比べ二度目は実にスムースに行きました。しかもその違いは、単に労苦が少なかったというだけではなく、人に助けられた一つ一つの問題解決がとてもわくわく楽しく、助けてくれた人たちとの触れ合いに喜びすら感じたことです。そこにはすべてを支配される愛の創造主の神の「人となり」を感じることができたように思います。
その意味で、自分たちだけでやるのと神の介入があるのとの差がどれだけ大きいか――神が介入されると人間関係と雰囲気が一変することを今回はっきり見たのです。これこそ「王国の人間関係による生き方」であると感じました。

さてニューヨークの新居に移って3週間経ちましたが、神のご臨在と祝福は続いております。ほとんど何もないところから、曲がりなりにも現代風の住まいにするにはこれだけ多くの家財道具が必要なのかと今更ながら驚かされました。細かいものは不足しておりますが、息子夫婦の協力を通して豊かに神から与えられたものに囲まれ、こんなに早く快適な暮らしができるようになったことに驚き、且心から感謝しております。
この物質的に必要なものを揃えてゆくプロセスにおいても、神は、孫も含めた私たちの家族の楽しい人間関係そのものを造り上げて下さっていることをひしひしと感じます。それが神のなさることであることに感嘆し、同時に皆様のお祈りと私たちに対する親しい愛の思いをいただいていることに心から感謝申し上げます。(終わり)


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