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28 05月
今月のメッセージ : ペンテコステのお祝いとピアース師の預言に関して
坂 達 也
先日ペンテコステ(五旬節 shavuot)の日をお祝いしました。このユダヤ人が祝うshavuotの祭りの由来は、ご存知のように、モーセがシナイ山上でこの日、神から律法を受け取り、又ふもとに立った民は初めて神に直接お目見えしました。従ってこの日は、事実上イスラエルの国が立(律)法国家として正式に誕生した日と言えます。そしてこの日はモーセに率いられた民がエジプトを出た過ぎ越しの日から数えて50日目に当たります。
一方多くの国のクリスチャンは、同じペンテコステ(五旬節)の祭りを「聖霊降誕の日」としてお祝いします。その日はイエス・キリストが復活された日から数えて50日目に、イエスの弟子たちの上に聖霊が降誕した事実(使徒行伝2:1-4)を記念してのお祝いです。その日はキリストの直弟子である使徒たちが、イエスから約束されていた聖霊をいただき、クリスチャンが正式に誕生した日とも言えます。
すなわち、最初はイスラエルの民が神から律法をいただいて旧約の時代が発足し、次にイエス・キリストが来られた後に、キリストの弟子たちが聖霊をいただくことによって新約の時代が発足したと言うことも出来ます。
さて、イスラエルの民に律法が渡された後、神はヨシュアにこの律法を「あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされたているすべてのことを守り行なうためである。」(ヨシュア記1:8)と申し渡しました。ここで神はイスラエルの民に「昼も夜も」律法のことを思いながら毎日を行動するようにと言われたのです。そうであれば、神から聖霊を与えられてキリストの弟子となった新約時代の私たちクリスチャンは、ヨシュア記風に言えば、「あなたの心から聖霊を離さず、昼も夜も常に聖霊を思い浮かべ、聖霊と共に歩かねばならない。聖霊の指示するすべてのことを守り行なうためである。」ということにならないでしょうか。
と言うことは、私たちは、もはや単に律法を守りながら自分の肉の力で生きるのではなく、内住の聖霊(キリストの霊=キリスト)に従って自分の人生を聖霊に委ねて生きていただく、あるいは聖霊と共に「よみがえりのいのち」を生きることになるからです。――この二つの生き方の間には天と地ほどの大変な違いがあることに気が付かねばなりません。イエス・キリストの十字架の死とよみがえりによって、律法(旧約の時代)が聖霊(新約の時代)に取って替えられた意義は、まさに前述の通り、クリスチャンにとって、最も基本的なライフスタイルの変革を意味することを私たちはしっかりと自覚する必要があると思います。
さてこのshavuotの日にちなんで、先週お伝えしたように、チャック・ピアース師が大変力強いメッセージを教会に向かって手紙として書かれました。そのメッセージの中で師は次のような二つのテーマでの主からの預言を紹介しております。
(1)供給のサウンド(音)を解き放つ時に入れ―ペンテコステが来た!
(2)アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言
そこで今回私はこの二つの預言に関して私自身の理解を申し上げて、それが少しでも皆様の参考になれば幸いです。
供給のサウンド(音)を解き放つ時に入れ―ペンテコステが来た!
そこで先ず(1)における主からの預言を改めて見てみたいと思います。
「わたしは、あなたがたが自らを他人に与えるという賜物を具えてあなたがたを創造した。だから、与えることを差し控えてはならない。差し控えてはならない。今日わたしはあなたのうちに貯蔵してある油田に、わたしが手を伸ばしてその閉じ栓を開けるからだ。あなたの内には蓋を開け放出すべき油田が蓄えられている。もしあなたがそれを喜んで与える気持ちがあるなら、わたしは喜んでその閉じ栓を開けて噴出させよう。あなたが未だ見たことがない、あなた自身が人々に与えるために(神が初めから)秘蔵してあるものを放出させて与える時が来た。あなたが(ふんだんに)与えられるように、あなたをどのようにわたしが造ってあるのかを、あなたにあらわそう。」
私はこの預言を読んで大いに興奮しました。なぜなら、ここで主が言われていることが非常に画期的であり、且つ、私たちのクリスチャンとしての経済観念を根本的に変えねばならないほど重要であるからです。そこで何が重要であるかに就いて下記に書いてみたいと思います。
- 律法の時代は「自分中心」の時代であったのが、、聖霊の時代に生きる私たちは「他人中心」の時代に入ったこと。この間に主の十字架の御業が行なわれ、主が最初によみがえられたこと(first fruit)が私たちのすべてを変えたのです。
- その「よみがえりの時代」において私たちは、聖霊によって無限の「いのちの供給」がいただけるようになり、自分のことは全く心配する必要がないこと。従って、その聖霊による「無限の供給」を、御国の目的に沿って他人とこの世のために、ふんだんに供給し、それがキリストの御国を立ち上げるための基礎となる経済コンセプトであること。
ここで、私は5月22日から23日にかけて次のような、ピアース師への預言の「理解」の啓示を主から受けたことをご報告致します。
3. 御国に生きるクリスチャンである私たちは、今は未だこの世で生きているのですから、御国に対して献金をすると共に、この世の税金を払い、この世の人々を援助しなければならない。そのことが師の二番目の預言である「アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言」と関係していることです。
4. 御国の献金システムは一般的に旧約の時代の律法に定められた「十一献金」が基本ですが、新約の時代では「十一献金」はあくまで最低線の数字を示したものに過ぎず、本来、新約の時代では「制限なく与える」―それも多ければ多いほど望ましい―と言うのが主イエスのお考えであること。ピアース師はそれを上記(1)の預言でうながしていると思います。又、十一献金以上の献金と人助けをすることが「呼び水」となって、神が私たちの中に蓄えておられる無制限な油田の閉じ栓を開けて下さること、それによって「無限の供給」が噴出するのです。
5. ついては私はマラキ書3章に導かれました。(皆さん、ぜひ三章全体をこの際改めてお読みいただきたいと思います)特に3:8―10で「 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」
私は今まで何十回とこの聖句を読みましたが、今回初めて開眼されたように思いました。大概のクリスチャンは十一献金をしていないこと。一般的に「献金」だけでなく「税金」も出来るだけ払わないで済ませたいと言うのが、現代人のメンタリティーとなっていること(特にアメリカでは)。しかし「御国の経済」の考え方は全く逆で、クリスチャンこそ率先して献金と税金を多く払うべきであり、払わねば〔損する〕こと。なぜなら、それによって神の無尽蔵なリソースを引き出すことが出来るからです。その無尽蔵な財源を使って、膨大な借金をなくし、国の財政を立て直し、これからの国とその民の繁栄を実現する。これこそ無尽蔵な神のリソースを持つクリスチャンの仕事であること。「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」と、主が言われる意味はここにあることに気が付いたのです。十一献金の責任を少なくともクリヤーしてそれ以上にもっと多くの献金をすることの重要性を改めて認識しました。
6. 信仰によって無尽蔵なリソースを引き出せるクリスチャンは、本来ものすごくリッチであるのですから、人に借りを作ったり、人に払うべきものを払はないでケチるような人であるなら、その人は信仰がないと言うことになります。そしてそのような人は全くキリストに似つかわしくないので、神を代表してミニストリーをするにはふさわしくない、と言うことになります。
アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言に関して
次にピアース師の二つ目の預言である(2)アメリカのIRSの税務に関する驚くべき預言に関して私の理解をお伝えします。
先ずピアース師の一行が2005年6月にFederal Reserve System(アメリカ連邦準備制度理事会)の発祥の地であるジョージア州ジェーキル・アイランドに導かれて訪ねた際に主から与えられた預言に関してです。その時の主の預言は下記の通りです。
「サタンは一つの計画を持っている。しかしわたしがあなたたちを今回ここへ招集し、わたしはこの国の経済(政策)の心を正しくシフトすることが出来るようにする。この国にいるわたしの民を捕らえている膨大な借金と税務制度を逆転させる戦略を与えよう。ここにあなた方を招聘したのはこの地で一つの政府(機関・機能)である連邦準備制度が形成されたからだ。この政府機関は違法でつくられ、世界中の政府を支配して来た。あなたがたはわたしの(王国)の政府で成熟して来ているので、この地で民衆の政府機関のコースを変えてシフトさせるべく天からの布告を宣言することが出来る。わたしはあなたを呼び集め今解き放つrelease必要のあることをあなたを通して解き放つ。」と言うものです。
ご存知のように、アメリカのフェデラル・リザーブ・システムとはアメリカ政府直接の政府機関ではありません。にもかかわらずアメリカ政府はこの私的な金融機関を使って、日銀のような国の金融を統制するセントラル・バンクの機能を任せています。ちょうど百年前に出来たこのシステムは、ほとんどのことが秘密にされていて、昔から多くの陰謀説が飛び交っていますが、はっきりしたことは一般には知らされていないようです。従って、もしピアース師の主からの預言がすべて正しいとすれば、上記の記述が真相であり、神はこのシステムをこれから変えようとしておられると言われるのですから、アメリカにとって、いや、世界の多くの国々にとって、この預言は最大の祝福のニュースではないかと思います。
又、アメリカの非常に複雑な税法制度に関しても、詳しいことは私自身が知識不足のため残念ながらこの預言が指す意味をはっきりとは理解できません。従って私が申し上げられることは、神は勿論すべてをご存知で、この国の金融と税制を改革することをピアース師に宣言させているのですから、私は預言を信じ、神の介入を期待してよいと思っております。(終り)
10 04月
霊的成熟について
坂 達 也
私は前回の「坂 達也の今月のメッセージ」(2月22日)の中で次のように申し上げました。
「母親役の教会の最終目標は、エペソ4:13でパウロがこう言います。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」これはすごい御ことばではありませんか。私たちは最終的に完全に育てられ、成熟して、キリストが100%満ちている、キリストと同じ背の高さにまで成長する、と聖書が言うのです。先程も言いましたように、聖書に書かれていることは必ず実現可能であることをお忘れにならないで下さい。すなわち、教会がこのような主の身丈まで達した信仰を持つ完全な霊的成熟者を生むと言うのです。」
私がこのように書きましたことは、間違ってはいないと信じますが、今回はその意味を更に深く掘り下げ、より明確にしてみたいと思います。
先ず、この文章はパウロが「キリストのからだ」教会 を建て上げることについて述べたものであることです。その意味を完全に把握するためには、この節のみならず11節から少なくとも24節までを通して理解する必要があると思います。しかし今回ここでは引用しませんので、ぜひ皆様各自でお読みいただくことをお勧めします。
さてそこで、私たちが最初に見直してみる必要があるのは、私たちが「信仰によって救われた」と言う事実についてです。
信仰とは何か
私たちはイエス・キリストを心で信じ、洗礼を受けて、信仰告白をすることによって、その時点から古い罪だらけの自分に死に、キリストと共に復活して新しく生まれ変った「霊の人間」になりました。そのことがロマ書6:4とかコロサイ2:12等で、まるで既成事実のように過去形で書かれております。そして、私たちは常にその「既成事実」を現在形で生きている――それが私たちの持つ「信仰」の特質であるように思います。R.J.Utley師は、注釈書の中で「信仰者は、御国においては『既になされた』と『未だなされていない』の間の緊張tensionの中で生きるべきです」と言い、その意味を「御国での恩典benefitsのフル・ペイメントの支払いは未来ですが、御国に入る市民権とそのステイタスstatusは既に現在形として獲得しているのです」と説明しています。又、信仰と言うものは、まだ起っていないことを必ずそうなると信じて行動する、つまり将来起こることを先取りすること、とも言われます。
実は、時間とは被造物の一つであって、本来神は時間を超越した空間に(それは一定に流れる時間に拘束されない、まるで時間がないような世界に)住んでおられると言われます。そうであれば、ご自分で決められたことは、即その瞬間にそれが実現しているのです。まるで手品師のようですが、これはとても重要なことであると思います。なぜなら、私たちが最初にキリストに信仰を持った時から、私たちは(自分では全くそんな気がしないのに)キリストご自身に堅く結び付けられ、何物もこの「神の愛から私たちを切り離すことができない」永遠の家族の関係、すなわち「キリストの花嫁」になっていることが、あたかも既成事実として成立しているからです。
そのことを説明してくれるよい例がイスラエルにおける古い時代の結婚の習慣です。イスラエルでは結婚の約束を交わした(婚約)時点で、「夫と妻になった」と公表されます。そしてその後一年ぐらいは別々に住んで性的結合に入らないのですが、時が来たら、夫が妻を迎えに来て、初めて二人で住み始め、名実共に夫婦生活に入ります。もしこの待っている一年の間に他人と性的交渉があれば姦淫の罪に問われ、結婚解消をしようとすれば離婚の手続きが必要とされました。(イエスの肉の両親であるマリヤとヨセフのことを思い出して下さい。)それと同じで、私たちは信仰告白をしたらキリストと正式に夫婦の関係に入ったことを意味します。少なくとも神はそう見ます。しかし、本当にキリストと住み始めるのは、キリストが私たちを迎えに来る再臨の時からです。
又同じように、神と私たちクリスチャンの関係は、キリストを信じると告白した時から、正式に養子縁組が成立して「神のむすこ、むすめ」となり(入籍)、遺産相続を受けられる親子関係に入ります。又、キリストと「一つのからだ」になることにおいても同様で、信仰告白した時点から霊的にキリストに結び付いた「一身同体の関係」に入ることに変わりはありません。この霊的に結び付けられた状態statusを英語ではunion with Christと言います。私たちクリスチャンはもう既に完全にキリストに所属し、キリスト(神)のものなのです。
しかも神は、その(霊的な結婚証明書とも言うべき)保証として、聖霊を信仰告白した時から私たちの霊の中に送り込み、事実上霊的な神との住み込み生活が始まっているのです。と言うことは、もう二度と聖霊は私たちを離れないと保証しておられるのですから安心してよいのです。(2コリント5:5)ですから私たちは、既に内住されている夫、キリストの霊である聖霊にすべてを委ね、聖霊に従って生きるのは当然であるのです。そのステイタスの生き方をパウロがガラテヤ2:20で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と言っています。この状態をヨハネは「わたしたちが神におり、神がわたしたちにいる」(1ヨハネ4:13、口語訳)とも言いました。
私たちはこの信仰の原点を忘れてしまい、つい古い自分でものを考え、古い自分で行動しがちです。いや、少なくとも私がそうです。恥ずかしい話ですが、私が先回のメッセージを書いた時は「つい、古い自分で書いてしまった」部分がありました。その文章とは「・・・しかし、今の教会の状態からすれば、後三年の間にキリストと同じ身丈にまで霊的成熟する人が多く出るとは、正直なところ、とても考えられないと言う気がします。そう考える方は恐らく私だけではないと思います。」と書いたことです。不可能はない万能の神が最初から計画していることに不履行は絶対にありません。少なくとも私はそれを疑ったことはありません。信仰とはそんなものではないはずです。ですからほんの一瞬でもこんな不信仰なことを書くなら、それは私の古い自分が書かせたことであって、信仰から出た言葉であるはずがないのです。しかし、すばらしい愛とめぐみの主は、その後で、私の不信仰に直ぐ気が付かせて下さいました。それで今、これを書いている次第です。
「キリストのからだ」になるとはどう言うことか
それは繰り返しになりますが、私たちが既に「キリストの花嫁」であるのと同じように、夫であり頭であるキリストの意思に完全に従い、神と共にこれからすべての苦しみと喜びを分かち合う一心同体の「キリストのからだ」として行動することを意味します。しかも頭(夫)であるキリストが、先ず聖霊を送って、私たち(妻)を夫にふさわしい妻、からだになるように教育し、そこまで霊的成熟させると言う「手はず」が有史以前の初めから創造者の神のご計画であるのです。神はご自分の立てた計画と約束は必ず守られます。(神は約束した時に既にそれが実現することが仕組まれていると言った方がよいかもわかりません。)
そして、待ちに待ったキリストの再臨を迎えて夫と同じような「よみがえりの霊のからだ」が与えられ、それ以降は未来永劫にキリストと共に住むのです。
その意味では、たとえ今の教会が、現時点でどのようにキリストに似ても似つかない状態であっても、万能の主にとっては「当初の計画通り」で、全く問題ないのです。今は終末の時代と言われ、これから大きな艱難の時代に入ろうとしていますが、それを通って必要な花嫁訓練を終えて後、夫であるキリストが妻のところに帰って来られるのです。
従ってそのようなキリストにふさわしい子ども、あるいは花嫁になるために、今こそ「わたしたち(キリストのからだの)すべての者が、(頭である)神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」ことが必要であると同時に、それは必ず聖霊によって実現されるのです。それがエペソ4:13の意味するところであると信じます。
私たちは目下キリストにかくまわれて修行中
ここで改めて強調させていただきたいことは、私たちクリスチャンは個人的にキリストを信じて救われても、私たち個人が勝手ばらばらに生きるのではないと言うことです。重要なことは、父なる神は私たちを見ても、私たちがキリストの内部にかくまわれ、今は隠れた形で入っている限り、あくまでキリストご自身として私たちを見ておられるのです。すなわち、私たちが救われるのは、キリストの中に入れていただきキリストと一体となるしかないと言うことです。そうであるからこそ、成長過程で多少の間違いとか罪を犯しても、私たちの罪の身代わりとなられたキリストの中に私たちが入って守られていますから、父は私たちの非は見えないとおっしゃるのです。それゆえに、父なる神は文句なしに私たちをキリストと同じ我が子として心から愛して下さいます。それがコロサイ3:3に書かれている「あなたがたは既に死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」と言う御言葉の意味であると思います。
これで気が付くことは、私を含めほとんどの信仰者が、私たちの主にあっての兄弟姉妹を父なる神の見方と同じ見方で見てはいないと言うことです。私たちは、今は全員が信仰における霊的成熟の途上にあり、未完成で修行のプロセス中にいるのクリスチャンなのですから、その間の罪はキリストによって既に赦され、かばわれていることを忘れてはならないと思います。従って今は未熟なクリスチャン同士が、お互いのあら捜しをしたり、批判し、攻撃するとすれば、そうする人の信仰が問われます。それでなくとも未熟な私たちはこの世の未信者から常に批判の目で見られ、攻撃の的となっているのですから、少なくとも一心同体で共にキリストにあって修行中の私たちの間では、その人を批判したいことは聖霊にお任せして、安心してお互いが愛し合い、赦し合い、励まし合うことこそお互いに一番必要なことではないでしょうか。
ひとりの「キリストのからだ」と言う共同体は、私たちの肉の親子とか、夫婦、兄弟姉妹の関係が、この世だけの一時的な関係であるのと違って、決して離れることのない永遠に共に生きる関係にあります。
ところが残念なことに、今ほとんどのクリスチャンは個人的に信仰が成熟することに重点を置き、他のクリスチャンは、極端に言えば、二の次扱いの「他人」と言う感覚を持っているように思えます。この際、先ずそれを捨てて、前述の通り、クリスチャン同士が真剣にお互いをいたわり、助け合い、励ましあい、導き合うべき時であると思います。そのために今一番必要なものは愛であると思います。私たちがキリストの愛を受け、主を愛し、その愛で互いに愛し合うこと、これに尽きます。
私たちは又、既に自分に死んでいるはずですが、その古い自分でものを考えたり、判断しながら生きようとしていないでしょうか。これが現実に差し迫っている最も重要な課題であると思っております。
主にすべてを聞く
私たちが死んでいるはずの古い自分とかかわりを持たない方法は一つしかないと思います。それは自分で考えて行動する前に、先ず私たちに内在する主キリスト(主の御霊)にどうするかを聞くことです。例えてみれば、私たちの霊の中には、主(の霊)が常駐されている部屋があり、その部屋は常に私たちのためにドアが開かれています。私たちはその部屋(事務所と言ってもよいですし、あるいは社長室と言へば尚分り易いかもしれません)に入り浸り、足しげく出入りするようにドアが常に開けられているのです。ですからそこにおられる主の御霊と親しい関係になり、何事も気安く親しく相談し、すべての指示を仰ぐ間柄になれば、古い自分が介入する余地を締め出すことが出来ると思います。それしかありません。
それに私たちの霊的成熟を達成させて下さるのもすべて主の御霊であることを忘れてはならないと思います。(コロサイ2:19)
エペソ4:21に「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。」と言う御言葉がありますが、この御言葉に上記で私が申し上げたことが書かれていると思います。「キリストから直接お話を聞き」=「キリストに聞き」、「キリストの内(部屋)に入って、いつも直接教えられているべきであると言う意味です。」=「キリストにあって教えられているのならばです。」、「なぜなら、すべてのことの正しい答えはキリストにあるのだからです。」=「まさしく真理はイエスにあるのですから。」
それでは最後に一昨日与えられた御言葉をお分ちして終りにしたいと思います。それは1ヨハネ3:2-3です。
「3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(新共同訳)
上記の聖句は、私たちの最終目標である「キリストに似た者になる」ことについて書かれています。ヨハネはこの目標が達成されることを強く望んでおりました。彼は現在の私たちと同じように信仰によって既に神の子になっていることを知っておりますが(この世はそれが分らず認めておりません)、それが具体的にこれからどう言う形で神の子としての特質があらわれるか(特にその栄光が)それは分らないと言います。しかし一つだけ分っていることは、キリストが帰って来られる時に、私たち全員がキリストのすべてをありのままを見ることが出来ると言うのです。
この「ありのままに見る」と言う原語は、その人を、ものが見えるように見えると言う以上に、その人の心の状態(内面)が見える、分ると言う意味だそうです。余談ですが、天国に行った経験のある人は、天国で人と出会う時は、その人に聞かなくてもその人の考えとか思いが分かる(見える、感知する)そうです。
恐らく私たちは再臨のキリストと個人的に向かい合う時、イエスの人となりに心打たれ圧倒されると信じます。この瞬間こそクリスチャンとしての最高のクライマックスの時となることを疑いません。この時に、主キリストがいかに愛に富んだ方であるか、その愛の大きさが分ると信じます。同時に、自分に対して主がどれ程の思いを持って来られたか、又、自分自身がどれ程主を愛し、どれ程個人的に知って来たかも、主ご自身によって明らかにされると思います。
主キリストの人となりを見る時に、自分も同じようにキリストに似た「よみがえりの霊のからだ」に変えられるのです。こうして私たちの心からの望みである「キリストに似る」ことが最高の形で成就します。次の節では、その望みを持つ人はキリストの聖(清)さが分り、自分も聖くなりたいと強く思うことによって自らが聖くなると言われています。これがキリストに似ることの最大の成果であり、それ以降は私たちは決して罪を犯さなくなると信じます。「心のきよい人は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)
主は創世記1:26で「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(新共同訳)と言われました。この神に似せて人間を造る当初のご計画が、キリストの再臨において完全に回復し、最終的に成就されるのです。その日が本当に待ちどうしいですね。(終り)
26 02月
今回は先週に掲載しました坂 達也による「2013年―2015年の3年間への預言」の続きです。もし前回のメッセージをご覧になっていない方は、ぜひ前回の文章から先にお読みいただくようお願いします。
尚、この二度にわたる私のメッセージは、2012年末に行なわれたモーニングスター「ニューイヤーズ・コンファレンス」においてリック・ジョイナー師を中心に、特にカマル・サリーム師とポール・キース・デイビス師が、今年から始まる三年間に関する非常に重要な預言的メッセージをされました。そのサリーム師とデイビス師のメッセージは私たちWWGMの1月20日、27日、2月1日に掲載しましたので未だご覧いただいてなければそれをご覧下さい。これに対して私は前回と今回で、この二師のメッセージの要点を私なりにコメントさせていただきました。
坂 達 也
前回よりの続きーー
2015年秋に何が起るのか(サブタイトル)
サリーム師は一団の人たちがヨルダン川を渡って約束の地に入るのは、今回は天に向かうと言い、デイビス師はそれは教会がこの世からいなくなることを意味すると解釈しておりました。しかし後でデイビス師は、「2015年に何が起るか自分にはよく分らない」とも言っています。
一方、ジョイナー師は「真の信仰を持つ者たちは、津波が来る直前の今の時は、天の御座の主の元で主と共に過ごす時である」と言う意味のことを言われました。それは霊的な意味であって、今はそれほどまで私たちが主と密接な関係に入る時であることを強調されたと私は解釈しております。
少し違うかもしれませんが、私も昔からブラザー・ローレンスのような経験を持つことが夢でした。現に今生きている人で複数回「霊の形で天に行った経験を持つ」人がいます。私が知っている範囲でも、ボブ・ジョーンズ師を始め少なくとも数人はいますから、世界的な規模からすれば、恐らくかなりの人数の方が、天国体験をされているように思われます。中には継続的に経験されている人もいるのです。しかし、それはあくまで、その人たちの霊が天国に上るのであって、肉の形では未だこの世に留まっている人たちです。
聖書にはパウロもそのような経験者であることが書かれています。2コリント12:2-4に「・・・この人(彼自身)は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。・・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」
実際にパウロは「それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知らない」と言っていますから、そのようなどちらともつかない、しかしリアルな経験があり得ることは確かです。
従ってこれから三年間霊的に準備された一団の人たちが、特に2015年の仮庵の祭りに天から召集され、肉体を離れた形であるのか、あるいは肉体のままで行くのかはともかく、集団として天に挙げられる可能性は充分あり得ると思います。
そこで、私がそう思う理由を申し上げたいと思います。実は、霊的に成熟して大人になった複数の男子が、天の御座に引き上げられることが聖書に書かれているからです。下記に、それを見てみたいと思います。それは黙示録12:1-5です。
「1また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。2この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
3また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。4その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
5女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」
この聖句に関して私は今まで20年近く、その意味するところが何であるかに大きな関心を持って来ました。私の調べた範囲では、ほとんどの注釈書がこの12:5に出てくる男の子はイエス・キリストご自身であると解釈しています。しかし、イエス・キリストがマリヤから生まれて来たのは二千年も前のことであり、最後の時代に起こることが書かれている黙示録の流れの中で、突然イエスが誕生して天に引き上げられると言うのは、どう考えてみても無理があると思います。
そこで、そのような一般の解釈とは異なる解釈をしている方にマービン・バイヤーズ師がおられますのでご紹介します。師はユダヤ系アメリカ人で、聖書の霊的学びに関しては、私たち夫婦の最も尊敬するメンターの一人です。
この方の解釈によれば、1節にある「ひとりの女」とは、ひとりと言う単数形であっても、複数の人数を代表する「教会」を象徴的に表していると言います。そしてその女である「教会」は、単数形の一人の「男の子」をみごもっており、出産直前の産みの苦しみと痛みで叫び声をあげました。この場合の「ひとりの男子man child」は、やはり象徴的に、複数の成熟した男子huiosを表しており(但しこれは男性に限らず女性も含みます。)「鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはず」の人たちです。この「鉄の杖を持つ人」のことは黙示19:15に書かれているように、本来はイエス・キリストを形容しています。しかし黙示録2:26,27に書かれている「勝利を得る者」も同じように「鉄の杖をもって諸国の民を支配する」と書かれていますが、この人たちはイエス・キリストでないことは明らかです。そうであれば、彼らは「イエスに似た勝利者」であり、又「神の成熟した子どもたち」を指していると師は言われます。従って、そのキリストの身丈にまで達した「神の成熟した子どもたち」がキリストと共にすべての国々の民を牧すると言う考え方です。
パウロは「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」とロマ書8:19に書いているように、終末にこの「神の成熟した子どもたち」が現れることを期待しております。そうであればこの「神の成熟した子どもたち」を産んで育てたのが「教会」であると言うことになります。{それがコロサイ1:27で言う「あなたがたの内に(生まれて成熟した)キリスト、栄光の希望」です。)
この成熟した神の子(子どもたち)が「神のみもと、その御座に引き上げられた」と12:5で書かれているのですから、これを文字通り取れば、その人たちが主がおられる天の御座にまで引き上げられることが起こるはずです。
天空の徴
ここで、デイビス師の言われる天空の徴し、特に月食、日食が二年続けて2014年と15年のユダヤの祭日、特に仮庵の祭りに起こると言われたことを思い出して下さい。そのことついては、NASAの資料等で調べても間違いのない事実のようです。
又、主イエスが誕生された時も天に異例な徴が現れたことを併せて思い出して下さい。この二つのことから、あるいはその他の聖書に書かれている多くの天の徴のことも含めて考えられることは、天に異例の徴が現れる時は、イスラエルあるいはイエス・キリスト、教会に関する重要なことが起こることは充分にあり得ると言うことです。
そこでもう一度黙示録12:1を見てみますと、天に「巨大なしるし」が現れることが書かれています。「太陽と月それに12の星を身に着けた」女が先ず現れます。
それ以降にバイヤーズ師の解釈を当て嵌めてみますと、「女」とは「真の教会」で、産みの苦しみの後に、ついに真のイエスに似た、イエスのように鉄の杖ですべての国民を牧する「神の成熟した大人の子どもたち」を産みます。(12:5)その生まれた「神の子どもたち」が天に上げられると言うのですから、私はこの黙示録12:1-5は終末に起こる最も重要な事件の一つであり、無視出来ないと思うのですが、いかがでしょうか。バイヤーズ師の解釈をもっと詳しくご紹介したいと思いますが、今回はこのあたりでとどめます。
しかし、それが文字通り起るのか、あるいは霊的な意味であるのか、それはデイビス師が言うように私にもよく分りません。しかし、もし起るとすれば、それが天に徴が現れる2015年の秋の「仮庵の祭り」に起る可能性は充分にあり得ると思います。
但し、この「御座に引き上げられる」ことが一般に言われる「携挙」ではないことは恐らく間違いないと信じます。なぜなら、天に上げられるこの勝利者たちの一団は教会の一部であって、地上に残る教会が存在するからです。そのことが12:6に書かれています。
そこで、この選ばれた一団の教会がもし一度天に挙げられるとしても、彼等は地上での最後のハーベストに主の軍隊として実際の刈入れにたずさわる人たちですから、もう一度、地上に戻って来なければなりません。それについては、私の知る限り、聖書は触れていないと思いますが、考えられることとしては、黙示録7章と14章に出て来る144,000人がそうではないかと言う可能性です。
その理由は「 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」(黙示録14:4、口語訳)と書かれているからです。「女にふれたことのない者」とは、この世的なものに一切興味がない霊的に純潔をキリストにささげる人たち、と言う意味でしょう。又、「神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者」とある「初穂」が12:5で天に上げられる「神の子man child」を意味するにふさわしい人たちであり、同時に、長男と穀物の初穂は神にささげられねばならないという律法に(出エジプト記13:13、22:19、23:19)マッチするからです。
又、この144,000人がイスラエルの12部族の人たちであるとはっきり書かれている点ですが、それは肉のイスラエル人だけではなく、霊的に接木された異邦人のイスラエル人であっても霊的・質的にイスラエルのそれぞれの部族のルーツにふさわしい人である限り含まれる、そして数的にも神は人数制限をしない方ですからこの数字より多くなっても問題ないと解釈出来ると思います。(少なくともバイヤーズ師はそう言います。)
その144,000人が黙示録14:1で「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」と書かれているのですから、これが主と共にこの人たちが最後の刈入れの前にシオンの山に帰って来ることが充分あり得ると私は思います。
但し、以上のことはバイヤーズ師の聖書解釈に私の考えを「一つの可能性」として述べさせていただいたものに過ぎません。(バイヤーズ師は必ずしも12:1-5で、神の子man childが天に上げられるとは言っておりませんし、144,000人がそうだとも明言はしていません。)ですから、私もデイビス師と同じように「よく分りません」と申し上げておきます。
なぜなら、終末に何がいつ起こるかと言う期日の憶測はクリスチャンとして慎むべきであると信じるからです。私は、主が言われた再臨の時を含めた「世の終わり」が来る「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」(マタイ 24:36新共同訳、使徒1:7参照)と語られたことを尊重します。しかしその反面、主はマタイ24:32、33で「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」又、24:44で、「だから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのですから。」と言われるように、時に聡くありたいと願っております。それ故に、今がどんな時であるか、特にこれからの三年間の重要性を皆様と共に祈って正しく理解したいと願うものです。
それに、もし2015年秋にこの選ばれた「教会」が肉の形で天に上げられなくて、この世に残る(但し霊的な形では天に一時的に集められる)としても、それこそこの世にとどまり彼らがイエスの栄光を輝かせるのですから、教会全体にとって彼らは大変大きな祝福となります。
最後に、どうぞ皆様、黙示録12章につきましては、これは聖書に書かれた世の終わりに関する重要な解釈の問題として、ぜひお祈りしていただきたいと思います。(終り)
22 02月
2013年―2015年の3年間への預言
坂 達 也
今回のモーニングスター「ニューイヤーズ・コンファレンス」においてリック・ジョイナー師を中心に、特にカマル・サリーム師とポール・キース・デイビス師が、今年から始まる三年間に関する非常に重要な預言的メッセージをされました。サリーム師とデイビス師のメッセージは私たちWWGMの1月20日、27日、2月1日に掲載しましたのでご覧下さい。そこで私は下記にて、この二師のメッセージの要点を私なりにコメントさせていただきたいと思います。
抜き身の剣を持つ主の前に立つ
サリーム師は、2011年に主が「教会をこの世から切り離し、その間に距離を置く」そして2012年には「教会を教会から切り離す」と主が語られた言われました。そして今年2013年から始まる三年間で、切り離される真の教会が徹底的にきよめられ、しわもしみもない状態に主がされると言われます。彼はヨシュアに引き入れられて契約の箱を先頭にヨルダン川を渡ったイスラエルの民の話をし、私たちも今最後の時に来ていて、約束の地へ渡ろうとしていること、主はあなたの十字架を毎日担いで歩きなさいと主が語っておられると言います。そこで私にはイエスが語られた次の御言葉が思い浮かびました。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)この聖句ば非常に厳しいものです。しかし今こそ私たちは、この御ことばを本当によく噛みしめて自分のものとすべき時であると信じます。
剣と言えば、フランシス・フランジペン師は、ヨシュアの前に剣を持って現れた聖なる戦士の姿が、終末に来られる主の姿ではないかと言われ(ヨシュア記5:13)、私もそれに賛同します。「ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。『あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。』」
終末に来られる主はこの世を最終的にさばくために来られます。それはこの世を支配して来た悪魔とそれに従う人間の集団を一括してさばき、切り離すと共にし、主を信じる人たちを主の御国に集める作業です。これを聖書は「地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」(黙示録14:5口語訳)と説明します。この最後のハーベストの時に実るものは、よい麦ばかりではありません。毒麦も実ります。刈り取りを実際に行なうのは「真のキリスト者」の精鋭からなる軍隊です。特に毒麦の刈り取りは、主の指揮の下で、天の御使いに助けられながら行なわれる壮絶な戦いとなります。又、よい麦の刈り取りは終末の大リバイバルですが、これをするにも抵抗する悪魔軍と戦いながら行なう訳ですからやはり闘いが伴います。しかしその前にその収穫のための働き人が選ばれ訓練されます。それがこれからの三年間に行なわれると言うのです。
ところで「抜き身の剣」は私たちの戦いの武器の一つですが、それは肉のものではなく「御霊の与える剣である神のことば」であるとパウロがエペソ6:17で述べています。神のことば生きていて力があります。ですから、私たちクリスチャンが霊的に成熟すればするほど、霊的な剣がどれだけ必要であるかがわかって来ます。
そして主が、終末に生きる私たちを用いて「平和の神は、すみやかに、あなたがたの(私たちの)足でサタンの頭を踏み砕いてくださる」(ロマ書16:20)ご計画をお持ちなのですから、私たちはこの世の王である悪魔に完全に勝利するまでは、主と共に戦わねばならないことをこの際改めて認識していただきたいと思います。
そこで、前に立っておられる主を見た時、ヨシュアは主に向かって「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と聞きました。「剣」は衝突する者同士の闘いを表し、又、その間を分けて切り離すための武器を象徴しますから、まさに今の時代は剣を持たれた主が、先ず働き人の精鋭を選ぶために「教会の中から教会を分けて切り離す」ことにも当て嵌められると思います。
又、聖書には次のようにも書かれています。「かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。』こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:29-31)これはアブラハムの子を産んだ奴隷の女ハガルの子イシュマエルと、自由の女サラから産まれた約束の子イサクのことを指しており、同じアブラハムの家に二人の子どもを相続人として共存させてはならないと言われているのです。つまり、同じ教会の中に肉の子どもと霊の子どもが共存してはならない、肉の子どもを追い出せ」と命令されているのですから「教会」から肉的クリスチャンの「教会」(員)を切り離すことは聖書的であるのです。
従って「切り離して分ける」基準は、私たちが100%肉の人間から、先ず肉のクリスチャンになり、更に100%霊的なクリスチャンに変えられねばならないと言うことになります。それが上記のマタイ10章に書かれている「どんな近親の者(肉の者)より主をより愛し、それどころか、肉の自分自身を完全に捨てて、毎日を主のためにのみ生きる者になっているかどうか」の一点にかかっています。それゆえに、主は「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」と言われます。
これで明らかなことは、私たちが地上のクリスチャン生活の最後に、この一点だけが問われるとしても全く不思議はありません。しかし完全な霊的クリスチャンにならなければ地獄に落とされると言うことではありません。
考えてみれば、私たちクリスチャンはそれが最終目標であることを承知し、覚悟の上で洗礼を受けたはずです。パウロは「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」と言いました。(コロサイ2:12.新共同訳)
勿論よちよち歩きの信仰の弱いクリスチャンがこれを本当に自分のものとするまでには時間が掛かることを、主も充分承知しておられます。しかし、キリスト者たる者、最終的にはそうならねばならないことに変わりはありません。もし、いつまでもそうならない者が出て来るとすれば、そうである者とそうでない者とがはっきり区別される時が来ることを、私たちは当然覚悟しなければならないと思います。言ってみれば、いつか決算の「つけ」が廻ってくるのです。そのことを、残念ながら、多くのクリスチャンは安易に忘れ去り、見逃して時を過ごしていないでしょうか。主は、いつまでたってもそのような「主にふさわしい者にならない者」をこの世的で自分が生きている「なまぬるいクリスチャン」と言われました。(黙示録3:16)主はそのようなクリスチャンを口から吐き出す程にお嫌いであるとおっしゃるのですから、私はその御言葉に身震いを感じます。
よく考えてみれば、「自分の十字架を常に背負って主の後について来る」姿こそ、真に夫に尽くす「キリストの花嫁」の姿です。歌を忘れたカナリヤではありませんが、自分の十字架を忘れたクリスチャンは真のクリスチャンではないと主がはっきり言われているのです。その大きな原因は、クリスチャンになれば誰でも「花嫁である」と言う安易な御言葉の解釈が一般的に通っていることにあるように私は思います。
つまり、キリストの花嫁とは肉のクリスチャンから霊的成熟が実り切って「キリストに完全に似た者、まるでキリストそのものになっているような人たち」であり、それでこそ真の「キリストのからだ」あるいは「キリストの弟子」であると言えないでしょうか。
教会からより分けられる「教会」は勝利を得る者
この世の終りに、剣を持って立っておられる主と出会いその後に従う者とは、教会の中から選ばれた「真の教会」の一団であることが今回、二人の講師によって強調されました。その人たちは背に自分の十字架を負い、手に抜き身の剣を携えている人たちであると私は認識します。その人たちが最終的に悪魔に打ち勝って御国を闘い取る「主に似た」者であり、デイビス師が強調する「勝利を得る者」の姿です。聖書は言います。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」(黙示録17:14 新共同訳)又、主は「勝利を得る者」について、黙示録2:7,11,17,26、3:5,12,21と7回も語っており、特に3:21では「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」と言われていますから、真の教会、キリストのからだ、花嫁、それに加えてパウロがロマ書8:19で言う、単なる神の子どもたちではなく「成熟した神の息子たちhuios」が、主と共に「勝利を得る者」であることに間違いありません。そうであれば、私たちクリスチャンの全員が「勝利を得る者」になることを目指さねばならないと思います。なぜなら、この霊的戦いを通して、神が私たちを霊的に成熟させ、キリストにおいて私たちを完成させるための訓練であるからです。
さて、そこでサリーム師は10人の花嫁の話(マタイ25:1-13)とギデオンの軍隊の話(士師記7章)をして、これからの三年間に教会の中から「真の教会」が選出されることを示峻しました。
デイビス師は、黙示1:13-17から、今は「天の領域」を実際に経験する人たちを生み出すシーズンであると語り、ヘブル書11:32-34に書かれている大きな信仰の人たちが行なったのと同じような奇跡を行なう人たちで、既に存在するその人たちが、これからの三年間にそのような信仰の成熟に達するための訓練を受けた結果、終末の時代に主と共に働く「勝利者」の一団として選ばれると語りました。
又、ジョイナー師は、次の津波のようなリバイバルの最後の大波が来る直前に潮が引く際に、高いところに上がる人たちの話をし、それは天の御座に主と共に着く人たちであると言いました。
とどのつまり、この三師は皆同じことを言っています。
そこで、10人の花嫁の例では、5人が選ばれ5人が失格します。ギデオンの軍隊召集の場合は、初め三万二千人から最終的に三百人に絞られたことの意味をよく考えてみたいと思います。その合格率は決して多くはありません。ご存知のように、キリストはそのことを厳しく警告しています。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)この御ことばを本当に真剣に考えねばならない時がついにやって来たと私は思います。皆さんはどう思われますか。
聖書の話の中に出て来る例話とか、あるいはたとえ話にしても、意味のないお話は一つもありません。極論を言えば、旧約と新約を通じて聖書の預言と例話は、多くのことが終末に起こることへの預言、あるいは教訓として受け取るべきであると信じます。(1コリント10:11)
又、聖書に書かれてあることはすべて実現する、特にイエス・キリストご自身が言われた厳しいお話はすべていつか必ず起ると考えなければならないと思います。私たちはこの世的になって「奇跡が起こらないことにあまりにも慣れ過ぎた」せいか、多くの聖句を頭の知識としては知っていても、それが実際に起ると言う信仰につながっていないと言う気がします。私たちは先ずそのことに気が付き、心から悔い改めることから始めなければならないと思います。
又、信仰とは自分の肉の力で大きくなるものでは決してないと思います。あくまで主にいつも飢え乾き、熱烈に願って、主からいただくものであると信じます。そのように熱心に願う人に対して、主は、主のタイミングと方法で、そのような人の願いを聞き届けて下さいます。
又、「主のようになりたい」とか「主の御言葉を常に聞いて主の御心だけで生きたい」と願うことも同じで、自分の力で出来るものではありません。しかし本当にへりくだって、それを毎日執拗に願い求めれば、主がそうなるための訓練をして下さり、願いは必ず聞かれると信じます。
再臨の前に主は先ず、私たち主の宮-仮庵-に入られる
掲題について、デイビス師は非常に興味深いことを言われました。「神が人々のからだと言う仮庵に入られること、すなわち、神はご自分の選んだ人々をこれから完全に占有され、その人たちの中に完全に住まわれる・・・聖霊は既に手付金として、先ず私たちの中にお入りになられていますが、これから主ご自身が私たち(選ばれた人)の中に入って私たちを完全占拠されるのです。そうすることによって私たちが『祭司』となり、『地上を治める』にふさわしい者『成熟したキリストのからだ=キリストそのもののように』なる」と言われました。
私はこのことを2コリント5:4-9に見ることが出来ます。「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」
パウロが書いたこの文章そのものがすばらしいですね。この文章の前後をぜひお読み下さい。そこで、上記で下線を引いた「その保証として御霊を下さいました。」の「保証」とは英語で言うアーネスト・マネーつまり不動産売買の時に使われる「手付金」のことです。私はそれで思ったのですが、もし私たちが主を信じた時に、神から聖霊を「手付け金」としてもらったのであるなら、早く残りの全額を払って下さる様に主にたってお願いしたらどうでしょうか。
しかし考えてみれば、もし主が初めから私たちの中に100%お入りになるとしたら、肉で罪だらけ、霊的には全くのベイビークリスチャンである私たちは、主の栄光と聖さに一瞬なりとも耐えられないのではないかと思うのです。従って神は、私たち自身が少しずつ聖められて行くに従って「キリストが私たちの中に形造られる」のを待っておられるのではないかと思います。それは女性の懐妊で幼児が母親のお腹の中で育って行くのに似ています。
これと同じプロセスのために、私たちは教会に所属して、教会とその指導者によって霊的に育てられる―「弟子訓練」を受ける必要があるのです。となれば、私たちにとって「教会」が母親であると言えます。そのことをパウロはガラテヤ4:19で「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と丸で自分が妊婦であるかのように形容して言いました。
そして母親役の教会の最終目標は、エペソ4:13でパウロがこう言います。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」これはすごい御ことばではありませんか。私たちは最終的に完全に育てられ、成熟して、キリストが100%満ちている、キリストと同じ背の高さにまで成長する、と聖書が言うのです。先程も言いましたように、聖書に書かれていることは必ず実現可能であることをお忘れにならないで下さい。すなわち、教会がこのような主の身丈まで達した信仰を持つ完全な霊的成熟者を生むと言うのです。
しかし、今の教会の状態からすれば、後三年の間にキリストと同じ身丈にまで霊的成熟する人が多く出るとは、正直なところ、とても考えられないと言う気がします。そう考える方は恐らく私だけではないと思います。そうなると、これからの三年間で急成長して「かなり良い線に達している」霊的クリスチャンを、神が何か超自然な方法で、最後に引き上げることが必要と思うのです。そのために主は、今まで一度も地上を訪れたことのない優れた特別の御使いを用意されていて、その御使いたちを地上に送ることによって、選ばれた人たちの信仰を強めるご計画であると、デイビス師とサリーム師は言われました。
その結果、その人たちは「わたし(キリスト)の行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行なう」(ヨハネ14:12)ことが実現すると言われるのです。
しかし主は、それ以上のことをされると言う気がします。それがデイビス師が言うように、終りの時に主ご自身が来られて選ばれた「ほとんど完成に近い人たち」のからだ(仮庵)の中にお入りになると言うことではないでしょうか。私はマラキ書3:1に書かれている「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所(宮、神殿)に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者(キリスト)/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(新共同訳)と言う御ことばがそれを預言していると信じます。私たちが待望している主が、突然、主の宮である「私たちのからだ」に入られると言うのです。
そうであれば、私たちがキリストと同じ身丈にまで成熟することは可能ではないでしょうか。と言うよりも、パウロが、ガラテヤ2:20で言っていることが実現することになると信じます。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
2015年秋に何が起るのか (以降は次回に続く)
05 01月
新年のご挨拶
坂 達 也
明けましておめでとうございます。
2013年元旦に私の心に浮かんだ御言葉があります。それは、イエスが言われた「・・わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる・・・」(ヨハネ 14:20、新共同訳)と言う御言葉です。
考えてみれば、「イエスはクリスチャンのうちにいる・・・そして私たちも主イエスのうちにいる(住む)」と言えば、未信者には何のことだか訳の分らないことであると思います。しかし、クリスチャンにとってはこの言葉以上に重要な言葉はないと私は言い切ります。その理由は、先ず第一に父なる神とイエスとの関係がまさにそのようなものであるからです。
ヨハネ14:10で主は「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」と言われ、次の11節で「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」と言われました。
ここで明らかなことは、御父とイエスの間ではすべてが通じあっていて、全く同じ考えと思いで「ことば」を話し、聞き、それを「わざ」として実行しておられると言うことです。
イエスは後日、弟子に15:4で「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。・・・わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とも言われました。これはどう言う意味なのでしょうか。
そもそも主は最初の出会いから、弟子たちをご自分の住まいに招かれました。それは、この世における肉の「かたち」として「住み込み同居の関係」で生きなければならないことを、主は弟子たちに敢えて実行して見せたのです。なぜなら、神と私たちの究極的な関係―それは霊的かつ永遠の関係―では、「神が霊的に私たちの内に住む」ことが不可欠の条件であることを初めから徹底的にたたき込むためであったからです。それが私たち(父の息子・娘)と父との「霊的、永遠の親子関係」であるのです。
実はこのことを、主は弟子たちに更に「大宣教命令」として明確に命令されました。マタイ28:18-20で、イエスは弟子たちに近づいて来て、こう言われます。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
もう一度申し上げますが、イエスの弟子たちは当時、自分の職業も何もかも捨ててイエスの元に走り、住み込んで、一切の行動をイエスと共にしたのでした。ですから彼らにとって「イエスの弟子になる」とはイコール「同居してイエスと共に行動する」ことであったのです。従って、主から「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命令された時、それが「神と同居する関係に育て上げる」意味であることを充分に理解していたのです。私たちは本当にそのことを理解しているでしょうか?
私はクリスマスにあたってフランジペン師の「キリストに似た者になること」の一文をご紹介しました。その中で、フランジペン師は創世記1:27「神は人をご自分のイメージimage にかたどり、神に似せてlikeness 創造された。」を取り上げ、「神のイメージとはキリストである」こと、従って、そのキリストのイメージに似ることが私たちの存在目的であると言われたのです。
私たちは「キリストに似た者にならなければならない」と言う意味はまさに、私たちと主との関係が、密着した「住み込みの関係」でなければならないと言うことです。全クリスチャンをそうなるように育てなさいと言うのが、主からの「大宣教命令」であって、単に信者にすればよいのとは全然違います。
さてそこで、今まで私が言わんとしたことが黙示録19:10に書いてある「・・・イエスのあかしは預言の霊です。」の意味に通じることを申し上げたいと思います。
イエスを証しすることとはどう言うことなのでしょうか。この御言葉は、色々に解釈出来ますが、元来、旧約聖書の預言も含めて預言とは、イエス・キリストを証しすることであり、イエスにすべての栄光を帰すると言われます。であれば、新約の時代でイエスの福音を語ることも預言のうちに含まれます。すなわち私たちクリスチャンは広い意味で皆預言者であり、私たちの言動のすべてがイエス・キリストを証しするのです。
預言とは何でしょうか。「神のことばを言われた通り忠実に人に伝えること」です。そうであれば、イエスこそが最も忠実で最高の大預言者です。なぜならイエス・キリストは「神のことば」そのものだからです。(黙示録19:13)
同時にイエスは父のことばをその通り実行されました。それが「わざ」です。それでは「預言の霊」とは何でしょうか。それは聖霊を指し、その聖霊が私たちの内におられるのです。
と言うことは、イエスはすべて父が語られたことをそのまま語られ、実行したように、私たちも同じようにしなさいと言われているのです。すなわち、私たちもイエスから与えられた預言のことば、あるいは、イエスに関する福音を伝える際に、預言の霊である聖霊により、その時に与えられたことばをその通り忠実に人に語り、必要な「わざ」をすることです。それが「イエスを証しする」ことなのです。最初に引用したヨハネ14:10、11で、「ことば」と「わざ」が使い分けられていますが、ことばを伝え、それがなされるのが「わざ」であることを示しています。
そのために、私たちはキリスト(の霊)と同居する「真の弟子の関係」にならなければ、本当には「預言の霊」で人に福音の話をし、あるいは「わざ」でもって「イエスの証し」をすることは出来ないと思います。私たちクリスチャンはそこまで「自分の中に住まれるイエス」と親密になり、一致していなければならないと主が言われるのです。勿論私などは、まだまだ程遠いと感じていますが、主は私たち誰に対してもに「そうなれるのだからやってみなさい」と要求されておられます。一見出来そうもない私たちを助けて下さる方が万能の神である聖霊です。そうである以上私たちクリスチャン全員がやってみるべきで、これが主からの命令であるのです。実行することによってのみ、私たちは主が期待する信仰に到達出来るのではないでしょうか。
皆さんがよくご存知のように、上記のヨハネ14:10,11はその後に次のように続きます。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。・・・」 (ヨハネ14:12-14)
2013年は「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」と、主が約束され、私たちに期待されていることが実現し始める年となりますようにお祈りしております。そのためには私たちの内におられる聖霊と私たちが一つとなることが今年の最大の課題であると信じます。(終り)
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