Archive for the ‘坂達也からの今月のメッセージ’ Category:
24 11月
ダン・ポッター師と超弦理論
坂 達 也
この二週間に渡って、私はDon Potter 師のメッセージをお伝えして来ました。ポッター師は、礼拝音楽の専門家として、主に音楽、特に音の振動数(周波数)とかチューニングについてお話しされましたが、常日頃主の御声を聞きたいと願っている私にとって一番心に響いた、と言うより気になったのは、彼が引用したロマ書10:17-18の御言葉でした。
彼が引用したのは英語の詳訳聖書 Amplified Bible でしたが、それによりますと(私の拙い日本語訳ですが)「17信仰は〔語られたことを〕聞くことから始まり、聞くことは〔救世主ご自身である〕キリストご自身の唇から発して語られた説教のメッセージを聞くことです。18でも、こう尋ねましょう。『はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。』確かに、聞こえたのです。〔聖書-詩篇19:4では〕『その声は〔自然物すべてのものが共鳴して聞ける神のメッセージとして〕地球の全地に響き渡り、世界の果てまで届いたのです。』」となっています。
私はこの英語のAmplified Bible(詳訳聖書)を読んで、その思い切って意訳している部分はすばらしいと思いました。しかし、一つ気が付いたことがあります。
それは18節ですが、Amplified Bibleでは「その声は〔 自然物すべてのものが共鳴して聞ける神のメッセージとして〕地球の全地に響き渡り、世界の果てまで届いたのです。」 と訳しています。この部分が詩篇19:4から引用されていることは、他の聖書もみな同じで定説になっていますから問題はないとして、私がオヤと思ったのは〔括弧〕の部分です。それには〔 自然物すべてのものが共鳴して聞ける神のメッセージ〕と書かれており、この解釈はどこから来たのかに私は疑問を持ったのです。そこで詩篇19:1-4を調べてみて分ったのですが、新改訳では、詩篇19:1-4は「1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。・・・」と訳されておりますが、ここでの3節「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない」の意味が少々理解に苦しむような文章であることに気が付きました。特に「その声も聞かれない」とあることが奇異です。そこで英語の注釈書を色々調べてみた結果、私なりの結論としては、4節最初の「その呼び声」とは、創造者キリストが語られた声には違いないとしても、その「声」は人間の耳には聞こえない声であり、又人間の話す言語とか説教の話し言葉ではないとしか解釈出来ません。
そうであるとすれば、一体キリストは何を語られたのか―それはもしかして、宇宙全体のすべての被造物が理解出来る「声」すなわち、被造物が造られている物質を構成する最も小さくて、これ以上分割できない素粒子とか量子と呼ばれる素材のレベルで聞こえ、且つメッセージとして理解出来る「サウンド」-音の波、振動、音響-ではなかったかと言うことに気が付いたのです。
そして、キリストの御声のサウンドが語った内容は、創造者ご自身が、創造の主旨を被造物全部に説明されたのではないかと思うのです。その説明には当然ながら最初に造られた人間が、悪魔に唆されて罪を犯すこと、それによって全被造物が巻き添えになること(ロマ書8:20-22)、しかし創造主自らが人間として生まれ、十字架の死を通った後によみがえり、信仰を持つ人間を救うこと、そして全被造物もその救いに与ることを説明されたと思うのです。つまり創造者のキリストご自身が「キリストについて」の福音をすべての被造物に語られたと解釈出来ると思います。
さてそこで、これから私がなぜそのことに気が付いたかをご説明したいと思います。
すべての被造物は音として振動している
物理学では宇宙のすべての物質を構成するそれ以上分割出来ない最小の素材を「素粒子」とか「量子」と呼んでおります。その量子論の最先端を行く理論に「超弦理論」とか「超ひも理論」と言われるものがあることを皆さんも御存知かと思いますが、私は前から、分らないままにその理論に非常に興味を持っておりました。
この理論によれば、宇宙にあるすべての物質を構成する最小基本物質は、僅か10の-35乗メートル と言う小さな「振動しているエネルギーの糸(ひも、あるいは弦)」であると言うのです。それは輪になったループ状のものと開いた一本の短いひも状のものと二種類あり、この二種類のひもが振動して、ちょうどバイオリンの弦のように、振動数の異なるあらゆる波を出し、それが今まで固体物質と思われて来た素粒子の本質の一つであると言うのです。従って数百種類ある素粒子が一本の振動する「ひも」とか「弦」に例えて説明出来ると言う訳です。しかも超弦理論は、この宇宙は10次元世界まであると言い、「霊の領域」と言う高次元空間の存在を物理学的に示峻しています。
と言うことは、宇宙はこの弦のようなひもが振動して奏でる異なる波長で出来ている「音の一大シンフォニー」であるとして捉えられると言うのですから、これは聖書のコンセプトに非常に近いと言えないでしょうか。
すなわち、天とこの地上にあるあらゆる物質は、最初にイエス・キリストが創造されただけでなく、今もすべて振動して生きている、そしてそのエネルギーをイエス・キリストが永遠に補給しておられる、と考えられるのです。ですからすべての物は素粒子・量子レベルで意思を持ち、聖霊により神とのコミュニケーションを受けていると考えられるのです。
私はこれが「創造者の神がすべての被造物をどのようにして造られたのか」と言う創造の根本原理に触れていることに前から非常に興味を覚えて来ました。聖書は神イエス・キリストがすべてのものの創造者であることを多くの箇所で示していますが、特にキリストが具体的にすべての創造を「言葉で言い表す」ことによって造ったことは、上記のロマ書10:17,18以外にも下記の聖句に書かれています。
ヘブル 11:3 「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」【新共同訳】(ヨハネ1:1-4も御参照下さい。)
又、ヘブル書 1:3には、 御子(キリスト)は「その力あるみことばによって万物を保っておられます。・・・・」と書かれており、へブル 4:12では「神のことばは生きていて、力があり・・・」とも言われております。
そして「わたしたちは見えるもの(物質世界)ではなく、見えないもの(霊の世界)に目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(二コリント 4:18新共同訳)と書かれていることにも大いに興味がそそられます。
これで分ることは、もし超弦理論が正しいとすれば、三次元の世界で「見えるもの」は、目に見える単なる物質・固体・粒子で出来ているのではなく、波の性質を合わせ持つ振動するひも状の振動物(それはほとんど見えない10-35乗メートルしかない)と言うのですからそれを「目に見えないものからできている」と言って正しいと思います。
参考までに私の調べたことを御報告しますと、量子論では、すべての素材が粒子であると同時に「振動する波」の性質を持つことが実験で分ったそうです。しかも代表的な素粒子である電子の場合、その電子を観測しようと実験すると、現われる電子の波は消えてしまうと言うのです。まるで電子には心があり、観測されていることが感知できるかのようです。電子は非常に奇妙な性質があり、究極的には「誰かが見ていない時にしか現れない電子の波は、私たちにとっては存在しないのと同じ」とさえ説明されております。その量子論の研究が進み、今まで「真空」と考えられていた空間が、実は完全に何もない真空ではなく、無数の粒子や反粒子が突然生まれたり、消えたりして「ゆらいでいる」あるいは、波として存在するが「粒子としては実質、見るまでは存在しない」と言う不確定な状態であることが判明したと言うのですから「この奇妙な性質」の発見こそ大変な物理学的成果であるのではないでしょうか。
以上をまとめてみますと、天とこの地上にあるあらゆる物質は、すべて振動していて生きている、そのエネルギーをイエス・キリストが永遠に補給しておられると考えられ、すべての物は意思を持ち、聖霊により神とのコミュニケーションを受けていると言えそうです。そのことが次の聖句からよく窺えると思います。
イザヤ 55:12 「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」
歴代上16:31-35「 天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ。国々にふれて言え、主こそ王と。32 海とそこに満ちるものよ、とどろけ/野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 33 森の木々よ、喜び歌え/主を迎えて。主は地を裁くために来られる。34 恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに。35 祈って言え。わたしたちの救いの神よ、わたしたちを救い/諸国の中からわたしたちを集め/救い出してください。聖なる御名に感謝をささげ/あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。36 イスラエルの神、主をたたえよ/世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。主を賛美せよ。」【新共同訳】
しかし残念なことに、この超絃理論は30年も前から提唱されて来ていますが、それを証明する実験的証拠を得る手段が今のところないので、あくまで仮説の域を出ていないようです。あまりにも微の微の世界であるからでしょうか。しかし私はダン・ポッター師の話を聞いて、「超弦理論」こそが神の創造の基本を解明する可能性を充分持つものであることに改めて眼が開かれました。従って、この理論が科学的に正しいと証明出来るように神が科学者を導かれることをこの際心から期待し、お祈りしたいのです。そして、その時が刻々と迫って来ていると信じます。
440と432のチューニングと超弦理論
正直なところ、私には音楽におけるチューニングが技術的にどう言うことなのかを本当には理解出来ておりません。しかし、交響楽団の演奏を聴きに行くと、演奏が始まる前に必ず全員がコンサートマスターの出す音に合わせて、それぞれの楽器をチューニングするのを見慣れていますから、交響曲の演奏等では特に楽器のチューニングすることがいかに大切であるかはよく分ります。
それで気がつくのは、もし量子のレベルですべての素粒子が超弦理論で言うように弦のようであると言うなら、創造者の神とは実に音楽を好む、美しい音を聞くことが大好きな方であると言うことです。特に私たち神を愛する者が、いつも心から神を感謝し声を上げて賛美するのを聴くことを、創造者は何よりも楽しみにしておられるのではないでしょうか。
本来、宇宙に存在する被造物全体が、人間を中心に心を一つにして美しい音色のすばらしい交響曲を奏でる目的のために造られたのではないかと言うことに、今回改めて気が付かされました。それは神学とか理屈ではありません。神が真に愛の創造者の神であり、被造物をこよなく愛して下さる、一方被造物もお互いに愛し合い、労わり合って、すべてに命を与えて下さる神を常に喜び感謝し、褒めたたえる、そしてそのすべてのものが一致して奏でるハーモニーこそが至高の永遠のいのちであると言う気がします。
賛美を何よりも好むダビデが心から次ぎのように歌っていることからも、そのことがよく分ります。
詩篇 148
1 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
2 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。
5 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。
6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
7 地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。
8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。
9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。
10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。
11 地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。
12 若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
13 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の
上にあるからだ。
14 主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラ
エルの子らの賛美を。ハレルヤ。
もし創造者の神が音楽家であり、被造物が彼の造る音楽を演奏する楽器であり、同時に演奏者とか歌手であるとすれば、当然ながら楽器のチューニングとか音の調律が最も大事なことの一つであることは当たり前のことではないでしょうか。
神の創造したもの―太陽を含む大自然のすべての被造物の振動音の基調がA-432であるそうですが、そうであるとすれば、それを知っている悪魔は何としてでも人間の弾く音楽のチューニングを狂わそうと努力することは当然考えられます。432が神の音律で440が悪魔が考え出したものとすれば、その差は僅か8ヘルツですが、音調を壊すのはそれで充分のようです。それに気が付かないのは人間だけで、自然の被造物は水も含め皆432と440の差をよく知っていて嘆いているのかもしれません。
又、人間の耳には聞こえないにしても霊的には感じられる「霊の領域の振動数」が二万ヘルツ以上であるなら、その霊的振動を人間に聞かせないようにするのも悪魔の仕業であることはよく理解出来ます。
それでは最後に、ロマ書8章全体、特に19‐23節に書かれている「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。・・・被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。・・・」と言うパウロの訴えが、今回特に私の心に響いて来ましたことをお伝えして、このメッセージを終わらせていただきます。(終り)
29 10月
人生をシンプルに生きる
坂 達 也
シンプル・ライフと言う言葉がありますが、私は新しい年に向かって(ヘブル暦では既に入っています)この言葉を改めて私の生活目標にしたいと思っております。それは毎日をシンプルに主の御心に適った生活をしたいと言う願いからです。この目標はずっと前からのものですが、残念ながら未だ完全には実行出来ておりません。
シンプル・ライフとは何かと言えば、クリスチャンなら誰でもよく知っているマルタとマリヤのお話しに例えるのがこの際一番適当であるように思います。いつも主の御心を知って生きる、―主の御心の中に住む abide in Him ―ためには、マリヤのように常に主の傍にいる以上のよい方法はないように思えるからです。ところが実際には。自分はマリヤを目標にして来たつもりが、やはり、マルタ的に生きてしまっていることに相も変わらず気が付かされております。しかし、そんな自分がマリヤに徹して生きることをもう一度初心に返って試みたい、そのためのカイロスの時を主が具えて下さっておられるという思いを今強く感じています。
主は忙しく仕えるマルタに言われました「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41-42)
私は今までややもすれば多くのことを欲張って「し過ぎる」傾向が自分にはあることは前から知っておりました。勿論私の意図はマルタと同じで、すべて「主のために」出来るだけ多くの事をしたいと言う願いから出ているのでしょう。であるとすれば、それはみな「良いこと」であると言えます。皆さんの中にも、主のために「もっと何かをしなければ」といつも願っている方が多くおられるのではないでしょうか。しかしその思いがなかなか実現しないのは、もしかして、主がそうさせないようにしておられるからかもしれません。
御存知のように、主はそれぞれのクリスチャンにそれぞれに必要な訓練を、シーズンを決めて与えられます。私の場合は、最近、と言うより今年に入ってから「多くのことをすることが、必ずしも主のために生きることではない。むしろ、主が言われた、私にとっては少な過ぎると思える程のことだけを忠実に行なう」と言う訓練の中に私を置かれていることがやっと最近分りました。
ヨハネ15:1、2に「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」と書かれています。
ここで注目したいことは、天の父は実を結ばないものを取り除かれるだけでなく、「実を結ぶもの」すなわち「良い枝」の中からも多くの枝を剪定して取り除かれると言われることです。(口語訳では「手入れをしてきれいにされる」と訳しています。)これはどう言うことなのでしょうか。
私はぶどうの木のことはあまりよく知りませんが、多くの果樹では、たとえよい枝であっても多くの枝を取り除けば、選んで残した数少ない良い枝に特別大きくて、美味しい果実が実ることを知っております。もしそれをしなければ、小さくてあまり美味しくない果実が数多くは出来ても、本当によいものは実りません。特に日本の果物の栽培ではそうすることがよく知られています。
主がよい枝であるにもかかわらず、その多くを剪定されるのは、それら多くの「良いこと」が主からのものではなく、自分で考えた「良いこと」であるからではないでしょうか。
天の父は、私たちが父からいただいた賜物を十二分に使ってよい実をならすことを期待しておられますが、その実の数はそれ程多くはないように思います。主は、能力的にも時間的にも私たちが出来る範囲と言うものを私たち以上によく御存知ですから、私たちが多くのことをし過ぎないように、私たちがしたいと思うこと(枝)の多くを、切り捨てておられることに私は気が付きました。それと私が学んで来たことは、マルタのように、何でも「自分がやらなければ」と気負わないことです。そして主から言われたことだけをする、これが主に忠実なしもべであって、自分で主をさしおいて、勝手にあれもこれもと心を煩わせないことです。それは即ち、主を完全に信頼していない、すべてを委ねていないことをあらわしているようなものであるからです。
そこで私について申し上げれば、今年は主が私たち夫婦を日本の教会を訪れるミニストリーに遣わせない御計画であることがやっと最近はっきりして来ました。これは今までの17年間毎年少なくとも一度は訪ねて来た日本旅行ですから、私たちのミニストリーの最も重要なものであると信じて来ただけに、私自身驚いています。しかし主は、去年からの私たち夫婦の最重要ミッションはニューヨークに来ることであることを何度も念を押されました。
ニューヨークで主に仕えることとは、先ず家内が孫の面倒をみること、私がそれを助けることです。そして家族、特に息子夫婦を霊的に励ますことでした。それ以外のミニストリーとしては、WWGMのインターネット・ミニストリーに、今は時間的に参与出来ない家内に代わって私が今まで以上に専念すること、それに加えて、マンハッタンの街を祈って歩くことです。これだけで確かに私たち夫婦は、時間的にも体力的にも充分に忙しく、これ以上は出来ない限界に来ていることを主は色々な形で示して下さっております。
主は、私たちが出来ないような用事を決して命じられないと思います。むしろ、余裕をあり過ぎるぐらい与えて―それは祈りの時間を充分に取ることを考慮されておられるからと思いますが―主に忠実にしかも丁寧に愛と誠意を持って、決して急がずに出来るだけの仕事量を「これをしなさい」とおっしゃって与える主であると信じます。
最後に、御心を行なうことについて主が何と言われているかを見たいと思います。黙示録3:20に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と主はおっしゃいました。
終わりの時、特にこれからは今まで以上に主は私たちに声を掛けられることがこの聖句から窺われます。ここで主が言われる「食事」とは何を意味するのでしょうか。それについて主は「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ 4:34新共同訳)と言われました。
主は私たちに主の御計画と御心を行なわせるために、私たちに声を掛けられます。そしてそれに応えて戸を開ける人には、主がその人の中に入って来られ「その人と共に食事をし、その人もわたしと共に食事をする」と言われたのです。
食事(食物)とは「父の御心を行い、その業をなし遂げる」ことであるなら、食事を共にする時、話をしない人はいないと思いますから、主イエスは「父の御心」について私たちに語られ、又私たちもそれをどのように遂行するかを主に聞いて、よくコミュニケーションをすることが絶対に必要です。
そして「わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし」と言うことは「主が私たちを使って主の目的を果たす」と言う意味であると思いますが、なさる(食事をする)のはあくまで主であり、しかし主は、主のしもべである私たちを使って主の目的を果たされるのです。一方「彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」は、私たちが主の御心をよく知った上で、実際に行動する(食事をする)のは私たちであることを意味していると思います。つまり主も私たちも同じように「共に食事をする」、即ち「父の御心を行なう」という共通の目的を持つ切っても切れない間柄である(一体である)ことを強調していると解釈したいと思います。
ヨハネは「あなたがたがわたし(主)におり、わたしがあなたがたにいる」と言うテーマを繰り返し述べております(ヨハネ14:20、15:4.5等)が、上記の「わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」の御言葉も全く同じ線でキリストと私たち花嫁の親密な一体の関係を強調しております。(終り)
24 09月
ポール・キース・デイビス師:
終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ (その2)
坂 達 也
「主を見つめて待つ」祈り
私はデイビス師がコンテンプレィティブ・プレイヤー contemplative prayer の実践者であることが分り、大変励まされております。中世のカトリックの修道僧が始めたと言われるこの「祈り方」をぜひ日本の皆様にも実行していただきたいと言う願いから、私は2003年に「主を見つめて待つ」と言う本を書いて出版しました。その本の中で、この祈り方が日本語で何と呼ばれているのか私には分りませんでしたので、私は勝手に「主を見つめて待つ祈り」と言う名前をつけました。
この祈りの特徴は、主の御前に出て、自分からは全く何も祈らず、一方的に主が語られるのを待つことにあります。そのためには、自分の心を無にすることが最も重要なキーとなります。空っぽの心で静かに主を見上げて待っていますと、内住の聖霊と私たちの霊の間で一種の霊的オスモーシス(浸透)と言う現象が起きて、神の霊の命、愛、知識とか、その時に主が私たちに語りたい生きた御言葉が私たちの霊に伝達されると言われます。但し、このプロセスは私たちの魂の活動とは無関係に行なわれます。従って、その間私たちは何も感じないことが多いのですが、ある時は主が語られることを受け取った私たちの霊が、その場で私たちの心に伝える場合もあり、その時はその内容が知覚出来ます。そうでない時でも、主から受けたものはすべて私たちの霊の中に蓄積されると言われます。私はこの祈りを曲がりなりにも一日一時間をモットーに、20年近く続けて来ました。
デイビス師はこの祈りをWaiting on God「主を待つこと」と呼んでいます。師は、これから入ろうとしている今のシーズンへの霊的準備として、個人的に毎日この「主に向き合う時間」を持つことは、特に西洋に住むクリスチャンにとって今最も必要な霊的鍛錬 discipline であると主が語られたそうです。
彼は昨年秋に一定の期間中、一日3-4時間この祈りを実行した時の経験を話していましたが、心が空でまるで鉄のようになった時、目が覚めているのにはっきりとした夢を見ることを経験したそうです。彼は、魂の活動を停止させマインドを静めることは、人生で経験することの中で最も難しいことの一つであることを認めています。しかし師は、もしあなたがこれを一日1時間、一月間続けたらあなたの人生、霊的な生活が一変するでしょうと言います。そして、「空飛ぶわし」の油注ぎがこの祈りをより深いものとしてくれると付け加えております。
主の御顔を拝する
モーセはシナイ山上で40日間、神に対面して神と話した後に麓で待っている民のところに戻って来ましたが、その時、モーセの顔の肌は神の栄光を受けて眩しく輝いていました。会見の天幕に入って神と対面して出て来た時もそうでした。ですから、モーセはその後、主と会見する時以外はベールを被るようになりました。
よく考えてみますと、残念なことですが、現代のクリスチャンでモーセのように主の栄光で顔があまりも輝いているためベールを被らなければならないような人は見当たりません。
出エジプト 33:11に「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」と書かれています。又、民数記 12:8では、神が「彼(モーセ)とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。」と言われました。これを見ればモーセがどれ程神と親しい関係にあったかが分ります。そして、モーセには、彼が未だよみがえった身体ではない時に、既に霊の目でかなりはっきりと主が見えていたと思われます。
ところで主は、上記の民数記12:8で「彼(モーセ)はまた、主の姿を仰ぎ見ている」と言われました。私は「主を仰ぎ見ること」がモーセをして顔と顔を合わせて主と話す間柄にさせた理由ではないかと思うのです。と言うことは「主を見つめて待つ祈り」contemplative prayerを多くすることが、もしかすればモーセのように「主の姿を仰ぎ見る」結果を生み出すのではないかと、私はかねがね思って来たのですがいかがでしょうか。
多くのクリスチャンが旧約聖書に書いてあることは律法主義の下にあるものであり、聖霊が下った後の今の聖霊時代には必要のないものとして、悪く言えば、見下げている傾向があるのを私は本当に残念に思います。ですから旧約聖書をほとんど読まないクリスチャンもいる程です。しかし、2コリント10:11で「(旧約聖書に書かれている)これらのことが彼ら(イスラエル人)に起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とパウロが言っていることに御注目下さい。特に「世の終わりに臨んでいる私たち」こそ、旧約聖書をもっと心して読み、そこから多くの教訓を受け取らねばならないとパウロが訴えているのです。その一つが、主の姿を仰ぎ見続けたモーセの姿です。
モーセに率いられて40年間荒野を歩いたイスラエルの民は、テント生活をしながら移動しましたが、その集団生活の中心に神ご自身が臨在され、民と共に移動されました。この神のための「会見の幕屋」は、初め宿営の外の静かなところに設置されましたが、後に正式な神の住まいとして契約の箱を安置して造られた「聖所の幕屋」に代わり、その聖所は民の宿営テント群の中心に置かれました。
驚くべきことに、この「会見の幕屋」へはモーセだけでなく、神にお伺いを立てたい者は誰でも中に入って神と時間を過ごすことが出来たのです。これは私たちのために神が造られた神と神の民との関係を表す、特に終りの時代に住むクリスチャンに神が示しておられる御国の住まい方の「型」であると信じます。
なぜなら今の私たちには神がもっと近づかれ、私たち一人ひとりの中に入って来られているからです。問題は、そのように神と霊的に密接な関係にあるべき今の私たちが、当時のイスラエル人のように、神を中心として神と共に毎日の生活を送っているでしょうか。そうすることが聖霊時代に生きるクリスチャンの基本であるのです。そのためにイスラエルの歴史が私たちにその型をはっきり示していることを忘れてはならないと思います。
コロサイ 3:1-3 に、キリストを信じる私たちは「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」と書かれております。そうであれば私たちが毎日、主を見上げながら主と過ごす多くの時間を持つことが絶対に必要であることは明瞭であると思います。
そして、その後の3:4に「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(新共同訳)と書かれています。これはキリストの再臨の時のことを指していて、私たちはその時、よみがえりのからだに変えられますから、栄光に顔も身体も包まれていると言うのです。しかし、それではむしろ遅すぎる、キリストの再臨の前の今から、私たちはモーセのように顔が輝いていて当然であると私には思えるのです。
そこで、1ヨハネ 3:2 をご覧下さい。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき(主の再臨の時、私たちはよみがえりのからだに変えられていて)、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(新共同訳)
上記のみ言葉についてデイビス師は、上記の最後の部分「そのとき御子をありのままに見るからです。」を「その時まで私たちは御子を見続けて来た」と過去完了形で解釈していることに私は気が付きました。すなわち師は、再臨の主と会う時だけでなく、その以前から日頃いつも主を見上げる結果として、御霊の働きによって私たちの内側が霊的に変えられて行き、「主に似た者」になっていると共に、主とお会いする時までに、主のより深い内面を見ることが出来るようになっているべきだと言われるのです。
そのことは、2コリント3:18 で「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と言う御言葉が説明してくれます。
又、Ⅰコリント 13:12では 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時(再臨時)には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と書かれていることも参考になると思います。
しかしそれでは、皆様は多分、長い間この祈りをして来たと言う私の顔が、今もモーセのように輝いていないのはなぜかとお聞きになりたいかと思います。その答えは、マタイ5:8に書かれています。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」
正直なところ、今の私は上を見上げても栄光の主の御顔が未だはっきりと見えません。それは私がモーセほど主を見上げていないからであり、その結果として、私の心が未だモーセのようにきよくなっていないからです。ですから、上記に挙げた1ヨハネ3:2の御ことばに続く3:3に「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」と言うみ言葉を私はもっと心掛けねばならないと思っております。
デイビス師は、そのことについて、バプテスマのヨハネが荒野を住まいとし、「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」と書かれていること、彼はイエスご自身がぶどう酒を飲んでいる時に、お酒を口にすることもせず、全くこの世と無縁の生活をしていたことを挙げます。そして、私たちも世にどっぷり浸かる生活の中で、例えば、ゴルフをすることは罪ではありませんが、そのゴルフをして3-4時間つぶす時間に(師はゴルフをします)contemplative prayerをすることを思い立つてゴルフを少し控えるとか、テレビを見るのを控えるとか、何かで自分を自制して、率先してこの世をエンジョイする生活を控えることは「霊的になることに役立つと思います」と言われます。但し宗教の霊からそう言っているのではないことを重ねて断っておられます。確かに霊的な人として知られる人の多くは spiritual disciplineをされていることに気がつきます。
そして、これからの世の終わりの時代に生きるクリスチャンは、格別の自制により「自分を清くする」ことに努力する人が主の栄光から栄光へと変えられ「キリストに似た者」になるとデイビス師は言われています。(終り)
14 09月
ポール・キース・デイビス師:
終末の時代に必要な「空飛ぶわし」の油注ぎ
坂 達 也
私たちが今生かされている時代が、キリストの再臨をまじかに控えた「最後の時代」であると信じるクリスチャンにとって、聖書の最後に書かれている「黙示録」に関心の無い人はいないと思います。しかしこの「黙示録」は聖書の中で最も難解な書の一つと言われるように、その解釈についての見解は、歴史的に見ても本当に多義多様に分かれております。
その中で私は最近、ポール・キース・デイビス師の考え方に非常に興味を持ち、目下師のインターネット・ウエビナーのシリーズを聞き始めておりますが、その一部を私の考えと共に御紹介したいと思います。
この「黙示録」は、皆さんがよくご存知のように、その著者である使徒ヨハネが、当時のアジア・マイナーと呼ばれる地域(現在のトルコ)に実在した「七つの教会」に向けてこの書簡を送ると言う形で書かれております。
デイビス師はこの「七つの教会」を、キリスト教の約二千年の歴史上において、それぞれの教会が広い意味で「七つの時代」を代表していると言う見解の元に、その区分について詳しく述べていますが、今の時代は、七つ目で最後の教会である「ラデオキヤの教会の時代」であると言います。
そこで、この最後の教会時代の特徴を一言で言い表すならば、それは霊的に「なまぬるい」時代であることです。それは主御自身がこの教会に対して「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」(黙示3:16)と言われたことばに象徴されます。
つまり、最後の時代のクリスチャンは、霊的にあまりにも「なまぬるい」ので口から吐き出したくなるようだ、と主がおっしゃるっているのです。
私自身も、今の時代がラオデキヤの教会のような時代であることに関しては、デイビス師と全く同意見ですが、主が言われるように、私たちは「霊的になまぬるくなっている」ことを抜本的に反省し悔い改めなければならないと思います。
なぜ現存のクリスチャンの多くがそうなったのでしょうか。それは今が最後の収穫の時であるからであると思います。収穫の時とは、良いものも悪いものも実る、すなわち、良いものも究極の形で実りますが、悪魔の働きも究極の頂点に達する時です。ですから人間の不信仰と反キリストの霊が最も強まり、悪魔の「惑わし」が最大限に横行する時となります。そのことは聖書の多くの箇所に書かれています。
黙示3:17、18に、ラオデキヤの教会がいかに惑わされていたかがこう書かれています。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
この「なまぬるさ」に完全に打ち勝つにはどうしたらよいのか、それをポール・キース・デイビス師は「黙示録4:7に書かれている天の御座の中央とその回りにいる四つの生き物のうちの四番目の生き物である『空飛ぶわし』の油注ぎを受けるしかない」と言います。そして一度この油注ぎを受けた人は、いかなる形でも「霊的になまぬるい」状態にいることは絶対に我慢できなくなる、それはちょうど光と闇が絶対に交じり合うことがないのと同じであると言い切ります。
聖書には、その後の黙示録6章で、白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬と言う四つの馬が出てきます。この馬が4章に書かれている前述の四つの生き物とそれぞれ対応していることが分ります。
その四つ目の生き物「空飛ぶわし」が出てくる時が「青ざめた馬」の時です。「青ざめた馬に乗っている者の名は『死』といい、その後にはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」(黙示6:8)と書かれているように、まさにこれからの時代は、世界中が戦争と飢饉と死病で多くの人が死ぬことが預言されている時代です。その中に生きる「なまぬるい」クリスチャンが最も必要とするものが「空飛ぶわし」の油注ぎを受けることであると師は言われるのです。
「空飛ぶわし」の油注ぎ
最後の時代とは、地上における悪魔と勝敗を決する最後の対決、総決算の時です。敵は最後の青ざめた馬を解き放つことを許されます。そのような戦いにおいては、単に人間の知識とか魂のレベルの知恵ではもはや絶対に勝ち目はありません。従って私たちは、鷲のように天の領域まで高く飛び、天の領域に私たちのために用意されているあらゆる霊的な情報と神の指示を得ることが絶対に必要であると師は言われるのです。
この終末に用意されている特別の油注ぎは、単に賜物と言う以上の、霊によるインスピレーション、啓示、夢、ビジョン、解き明かしが与えられ、これ等を通して神との密接なコミュニケーションを得ることが出来るのです。
そこでこの油注ぎですが、それを心から求めるクリスチャンであれば、誰でも得られるものであると師は言われます。勿論、特別の使命を受けている使徒とか預言者は、より多くの啓示が示されるかもしれませんが、基本的には、主を心から信じ、聖霊に満たされ、主の御心を求め、主と親しく交わり、とことんそれを願うクリスチャであるならば誰でもいただけるものであるのです。
ただ私たちは、それを熱心に desperately 死に物狂いで求めなさいと師は言われます。主の賜物にしても、力にしても並みの程度では満足しないで、究極のものを執拗に求めること、そのことが神からの最高の賜物の一つであると師は言います。
もし、与えられない人がいるとすれば、それはクリスチャンとは名ばかりで、あくまで主を親しく知ろうとしない「宗教的な」人たちであると師は言います。なぜなら、主と個人的な親しい関係に入っていない人、主と一つとなっていないクリスチャンは「なまぬるいクリスチャン」であって、主が吐き出したくなる人たちであるからです。
主を熱心に求める人
熱心に心から主を求める人には主がこの特別の「油注ぎ」を与えることが、ラオデキヤの教会に向かって次のように書かれていることからも分ります。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示3:20-22)
今は特別の時です。主があなたのところに来て、あるいは預言者を通して、あなたに御声をかけられるのです。その時にあなたは目を覚ましていて、すかさずそれに答え、あなたの心のドアを開かねばなりません。そうすれば、それ以降あなたは、入って来られる主と親しく話し合い、いつも食事をする親密な関係に入るのです。
ここで大事なことが書かれています。それは主が言われる「勝利を得る者」という言葉です。この「勝利を得る者」と言う言葉を、主は黙示録の2-3章で七回も繰り返しておられることに御注目下さい。その意味は、クリスチャンは最終的に完全なる「勝利を得る者」にならねばならないからです。それには悪霊や病気との闘いに完全に勝利することを含みます。
多くのクリスチャンが「主を心から信じていればそれでよい。悪魔との闘いとか、癒し手にならなくてもよい」と言いますが、そのような人は、主が最終的に期待しているクリスチャンではありません。
特に師は「今の時代に病気が癒されないで死んで行くクリスチャンがあまりにも多いことに私は耐えられない、クリスチャンなら皆病気から癒されるのは当然であり、そのような癒し手たちがこれからどんどん現われる」と言います。なぜなら、クリスチャンがそうならなければ、天で主と共に主の御座に着くことが出来ないからです。主は、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。」とおっしゃっています。
私は最近このデイビス師の言うことに特に注目しているのですが、師はものごとを、特に聖書に書かれていることを、今の時代においては曖昧にせず、言うべきことはきちんとはっきり教えるべきであると言います。さもなければ、本当の真理をはっきり教えないばかりに、よいクリスチャンをも惑わす結果になりかねないからです。
その一つの例として、師は、「キリストの花嫁」になる人は、「しみもしわもない」完全にきよくなることを目標としているクリスチャンであって、クリスチャンであれば皆が「キリストの花嫁」になれるのではないことをはっきり指摘すべきであると言います。終末の時代には、たとえ人間的な常識では不可能と思われることでも、聖書が約束していることはすべて、必ず実現すると師ははっきり言っています。そのために神は、そのような「完全な」人になりたいと死に物狂いに望み、真剣にそれを目指す人を求めておられるのです。このようなクリスチャンが、最後の時代に出て来る良い方の究極の域に達する人たちです。
私自身も、過去においてそのことに触れたことがありますが、例えばエペソ4:13-16に書いてある「 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」を例にとってみれば、パウロが大真面目に言うように、ここに書かれていることは、主が来られる前に必ず実現すると信じて疑いません。しかし多くのクリスチャンは、その域に達するとは思いもせず望みもしないので、その領域に達しないのではないでしょうか。
そのような「完全におとなに成熟した神の息子・娘たち(ギリシャ語で fuios )」がこれからの御国で主に用いられる人々です。そのためにこの「空飛ぶわし」の油注ぎが不可欠であることを師は何度も強調しています。そして、そのような人のために、天には特別のドアが開かれていて、いつでも天に入って行ける時が来ると言われます。
間も無くこの世に帰って来られる主の元で効果的な御国の働きをするには、「神が何をされているのか」を知り(ヨハネ5:19,20)、天の「御国の見方を知る」ことが肝要であり、主と一致していないのでは決してよい仕事が出来ないことは明白です。本当に「なまぬるい霊」に打ち勝つにはこれしかないのです。
「空飛ぶわし」の油注ぎは「霊的に見る目と、聞く耳と、それを理解する心を」与えるものである、と師は指摘します。
この「霊的な目と耳と、心」を持つか持たないか、あるいは与えられるか与えられないかは、神への信仰に関して、聖書を通じての最大の課題の一つであると私は信じております。この問題については、旧約、新約聖書を通してモーセ(申命記29:4)、イザヤ(イザヤ6:9,10)、イエスご自身(マタイ13:13、マルコ4:12、ルカ8:10、ヨハネ12:40))パウロ(使徒28:26、ロマ11:8))を含む、少なくとも八回も取り沙汰されていることから見てもその重要性が理解できます。特にイスラエルの多くの民にそれが与えられなかったことが問題となっているのですが、デイビス師は、終末の最後の時代のクリスチャン(全部ではありません)にそれが与えられると言われるのです。(続く)
04 08月
マンハッタンを祈って歩く
坂 達 也
皆さん、世界で最初にPrayer walkをした人は誰であると思いますか。
はっきりした形でそれをしたのは、アブラハムであると思います。創世記 13: 14-17で神はアブラムに次ぎのように仰せられました。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。・・立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
神は、地球上で唯一の神の王国となるイスラエルのために「約束の地」を定め、その中心に位置するべテルの辺りの小高い丘の上にアブラハムを立たせました。そして「見渡せる全部の土地を永久にあなたとあなたの子孫(私たちクリスチャンも含んでいます)に与える」と宣言されました。そしてアブラハムに最初に命令したことが「その地を縦と横に歩き回りなさい。」であったのです。これは「約束の地」を神の御国にするための聖書にある最初の歩行であったと思います。
神はアブラハムをイスラエルの父祖として選ばれ、彼は信仰の父と言われました。神はそのアブラハムに地を歩かせて、アダム以来人間の犯した罪で汚れ呪われている土地を聖め、神の御国として悪魔から取り返す redeeming the land をさせたのでした。これで「祈りの歩行」が神の王国を打ち立てるために必要欠くべからざる最も重要な仕事の一つであることが明らかです。
どのように縦と横に歩いたのか、聖書に詳しいことは書いてありませんが、これこそ、まさに私たちのしている縦と横の通りを歩く「祈りの歩行」の元祖であることは確かなようです。
私は、今年に入ってから私たちの住むニューヨーク市のマンハッタン島を祈って歩いております。この地を歩くことが私に課された重要な主からの任務 assignmentの一つであると認識しておりますが、一日1時間半から2時間(それにそこまでに行く往復のバスと電車の時間を入れると3時間から4時間になります。)の歩行が非常に楽しく、身体が疲れるどころか、かえって主から力をいただいております。
今年の正月過ぎに島の南端にあるファイナンシャル地区から始めて、現在はセントラルパークの真ん中より少し上の辺りに達し、ほぼ60%程の道のりを終えたところです。今は少し足を痛めてこの一ヶ月ほど休んでおりますが、今年中には全島を歩き終える予定です。
私たちは息子夫婦が行っているRiverという名の教会に今属しております。この教会はウォール街に近く、例の2001年に旅客機が衝突した事件で爆破されたワールド・トレード・センターの跡地に新しいツイン・タワーがの建設中ですが、その直ぐ隣に建てられているオフィスビルの40階を日曜日だけリースをして礼拝を行なっています。
このビルの40階から展望する景色は実にすばらしく、そこからマンハッタンがほぼ全景見渡すことが出来ます。
私はその教会の場所から、アブラハムのように、マンハッタンを北と南、東と西のほとんどを見渡した後に、自分がアブラハムの子孫の一人として、この地マンハッタンを私たちの王国に取り返すはっきりとした意図を宣言して歩き始めました。
御存知の方も多いと思いますが、マンハッタンはかなり整然とした碁盤の目のように縦横の道路がはっきりしており比較的歩き易い街です。
しかし、ここで再び創世記を見てみたいと思います。と言うのは、アブラハムより先に最初に「神と歩いた人」は、アダムを除けばエノクであることが書かれてるからです。創世記5:24によれば、エノクは三百年神と共に歩きました。勿論この「歩く」という行為は霊的な意味として解釈されていますが、彼は神と名実(肉と霊)共に地の上を「歩いた」最初の人であると言えるかもしれません。そうであれば、それがどこであるかははっきりしていませんが、エノクが歩いたところはアダムの罪によって汚された地ののろいが聖められていたことになります。
重要なことは、三百年神と共に歩いた後にエノクは「神が取られたので」いなくなったと書かれていることです。この「取られた」あるいは「移された」と言う原語は、70人訳聖書Septuagintによれば英語のtranslate 或いは transformと言う意味のギリシャ語が使われています。
このことに就いては、6月に御紹介した「信仰について」(1-2)でリック・ジョイナー師が触れています。「信仰が私たちを変えますtransform。エノクの信仰が彼を天に移したのですtranslate。終末の時代に生きる私たちは今、信仰の成熟によって、エノクのように天の領域にtranslateされる時代に入ったのです」と師は言います。師は(1)の終りで「それは私たち(の霊的成熟)が天の領域と同じレベルにまで追いつくと言うことです。私たちは常に主と共に歩き、主と共に生きているはずです。」と書いています。
私たちの「祈りの歩行」の主目的は、私たちの住む地域を肉の形で歩くことによって御国に変え、御国の領域を広げることにありますが、理想的な形としては、歩行者が神との関係においてエノクの域に達することではないでしょうか。毎日を霊的に主と共に歩み、主と共に生きながら、御国を取り戻す歩行をするのが最も望ましいと思います。
しかし、やはり究極の「祈りの歩行」をした人と言えばイエスご自身であると思います。イエスは「すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」とマタイ9:35に書かれています。これこそ御国に於ける最高の祈りの歩行であると言えないでしょうか。
イエスは又、12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊どもを制する権威を授けた後に、彼らを遣わし「行って、『天の御国が近づいた。』と述べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊をおいだしなさい。」(マタイ10:1、7-8)と命じていますから、この「宣教歩行」こそが、これからの時代の究極の歩行であると信じます。これに関してですが、ある時私が歩いていますと、この宣教の御業をする「祈りの歩行」が「・・・天の御国は激しく攻められています。激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12) に通じることが示されました。私たちは12弟子と同じように、これから主より権威と力をいただいて、本格的な激しい「宣教歩行」を実践する時が近づいて来ていると感じております。
マンハッタンの歩行で示され、学びつつあること
私は今マンハッタンを歩きながら、主から「祈りの歩行」の重要性を再認識させていただいています。
中でも特に最近示されたことの一つは、肉の歩行をしながら、それが「主を見つめて待つ」祈りを実行するよい機会であることです。
事の起りは、最近忙しくて早朝「主を見つめて待つ」祈りをする時間が少なくなって来ていることに私が危機感を持っていることを御存知の主が、ある時、路上で私に「2時間の歩行をする間中、わたしを見上げて祈りながら歩きなさい」と言われたのです。それ以降、本当に歩きながらでも、主が色々と語って下さるようになり歩行が一段と楽しくなりました。そこで歩いている最中に語られたことを、忘れる前にすかさず持ち歩いている携帯電話にメモとして吹き込んでおくことを始めました。
土地ののろいを断ち切る
御存知のように、私たちが行なう「祈りの歩行」の主要点は、イエスの流された血潮をその土地に実際に充当することを宣言して歩くことです。それによってその地が癒され、きよめられ、それをサタンの手から取り上げることが出来ます。(その地が正式に王国に返還されたことを天の法廷で承認されます。)
私の最近のやり方は、交差点の街角に立ち止まり、私の立っている地と周りの建物に向かってイエスの血潮を降り注ぐことを宣言します。
それは、イエスの血潮によって、この地で今までに犯されて来た過去の一切の罪の呪いを断ち切り、そこに生活する人々を今までサタンの闇の世界に縛って来た枷 yokeから開放します。それと共に、イエスが地上にお帰りになるまでに犯される将来のすべての罪とその呪いも、今ここに置くイエスの血潮によって赦されるように血潮が街を覆うことを宣言します。これによって街が御国に変えられます。
その後で、私はイエスが十字架上で叫ばれたことば「父よ。彼ら(ここに住み生活する人たち)をお赦しください。彼等は何をしているのか自分でわからないのです。」をイエスを代表する者の一人として心の中で叫びます。
又、私はその通りと、その周りの土地と建物、樹木等一切のものに「イエスの福音Good Newsを住民と歩いて通る人たちの心に語り伝えなさい。」と命令します。するとある時、「同時にそのGood Newsを聞いてそれに応えない人は、それ程遠くない将来にそのめぐみが閉ざされることも警告しなさい。」と言う御声が聞こえました。
先日ダッチ・シーツ師が「これからはすべての力が強くなる時、メガ・パワーの時代」とチャック・ピアス師の集会で語っているのを聞きました。「そうだ、イエスの血潮の力、その叫びの力も物凄く強くなる時だ」と私はメッセージを聞きながら思いました。
私たちは今激しく攻める者として町々を巡り歩き、イエスの血潮の力によって福音 Good Newsを伝え、あらゆる癒しを行ない御国を奪い取り返す時が来たと信じます。皆さんもそれぞれが与えられている地域を、癒しの御業をしながら主と共に歩かれることを大いに期待しております。(終り)
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