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Walk With God Ministries


12 08月

主のご臨在と共に生きる      坂  達 也   2014年8月12日


主のご臨在と共に生きる

 

坂  達 也

 

 

私は今、この二、三年程休んでいた「創造者の神とイスラエル」(仮名)と言う本の原稿を仕上げることに集中しております。祈っては、主から示されたことを書いて行くのですが、ある時、突然主が「おられないこと」に気が付いて慌ててしまいました。そして何か必死で主の臨在を「感じさせていただく」ことをお願いしたのです。

 

私にとって、ものを書いている時ほど主の臨在と油注ぎを必要とする時はありません。と言いますのは、私は元々書くのがとても遅く、特に最近は年のせいか、益々書けなくなっているからです。そして願わくば、私の書くことのすべてを、その一語一句まで主の「ことば」をいただいて、その通りに書かせていただくことが私の切なる願いです。

憐れみ深い主は、私の願いに答えて毎日私に必要なことを示して下さいます。それには確信があり心から感謝しております。

しかし、私の信仰の至らなさから、いただいたものを書いているつもりでも、それを書いているうちに、つい自分で勝手に書いているのではないかと言う不安が出てきます。そんな時、主が傍にいて下さるという、出来れば圧倒的な「臨在感」が欲しいのです。しかしそれがない時は、まるで母親を見失った小さな子供のように一瞬不安な気持ちになってしまいます。

勿論、そう思うのは私の間違いです。主は、私が自分の感情で主の臨在を感じようが感じまいが、必ず私と共にいて下さることは確かな事実ですし、それは私も充分に心得ている積もりです。又、不安を持つことも信仰で生きることの一部であることも承知しています。

 

さて、そんな時に思い出したのがモーセの言葉です。モーセの生き方は私にとって座右の銘、いつも感銘し、励まされております。出エジプト記33章で、モーセは主のご臨在がどうしても必要であることを主に嘆願しました。

モーセはその時、主から「あなたは上って行きなさい。しかし、わたしはあなたたちと共には行かない。」と言われたのです。その理由は、大変な罪を犯した民に対する怒りからでした。そこでモーセは神にとりなすために「臨在の幕屋」に一人で入りました。

 

モーセは主に「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。・・・ 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。・・・」これを聞いた主はモーセの要請を受け入れて「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう・・・わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」と答えられました。

 

主とモーセの関係は本当にすばらしいですね。「 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と書かれています。本当にモーセほど主がご好意を示し、主の信任を得ている人はいませんね。神とモーセは「・・・口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。・・・」とも言われます。

 

ここで主ご自身が「彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている」とモーセを称えているところが一層すばらしいですね。私はモーセほど主の栄光を仰ぎ見ている人はいないと思います。しかしそのモーセが、主から「あなたと共に行く」と約束されたにもかかわらず、それだけでは満足せず、重ねて「どうか、あなたの栄光をお示しください」と主にお願いしています。

すると、主はこの申し出も受け入れて下さいました。そして、主は仰せられました。「わたし自身、わたしのあらゆる善 (goodness) をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」(出エジプト33:19)これは実に深いことばです。

ここで主がモーセに見せたかった「主の栄光」とは「神のすべての愛、めぐみ、あわれみ」であったのです。それは外見上のまばゆく光輝く「栄光」以上に、主の内面のすべてを表す「愛・あわれみ」と言う霊的な栄光でありました。

 

それと、モーセが主の栄光を見せて欲しいと言ったのは、主の言われた「ことばでの約束」を少しでも疑ったからではありません。その御ことばを聞いたモーセは本当にうれしかったと思います。しかし、彼はもっともっと主のことばを聞きたかった、もっともっと主の栄光を見たかったのではないでしょうか。すばらしい主の臨在―その中で主の御ことばを聞けば聞くほど、もっと聞きたくなりませんか。そして主の栄光の姿を誰よりも見ているモーセこそ、もっともっと主の栄光を拝したかったのであると思います。

モーセが心から主の臨在を願ったのは、主がいつも傍にいて下さるのでなければ、彼は神から与えられた仕事を忠実に遂行することは不可能であることを強く感じていたからであると思います。

私はクリスチャンとしてモーセに与えられた仕事ほど辛い仕事はなかったと思います。人間が神から受けた命令の中で最も厳しい、最も報われない、耐えることが不可能なほど辛い仕事でした。彼は神の民イスラエルを引率してエジプトを出て、彼らを約束の地まで届けるのが仕事でした。彼は自分を全く無にして超人的に主に仕えました。朝から晩まで立ち続けて民の言うことを聞き、民を指導しました。そして民が主にそむくような事があるたびに全身全霊で主にとりなしたのです。その民は結局40年間荒野をさまようことになりましたが、最初から最後まで神にそむき逆らい通しでした。(申命記9:7、24)そんな民の第一世代が荒野で死に絶えるのを見届けるのが彼の仕事であったのです。

しかも彼はその仕事が報われない仕事であることを知っていたのです。彼は、主が大半のイスラエルの民を救われないようにするために、神が初めから民に「悟る心」と霊的に「見る目」と「聞く耳」を与えずに「かたくな」にするご計画を持っておられることを知っていたのです。(申命記29:3、ロマ11:8))それはパウロが言うように、救いが異邦人に先に及ぶために、自分の民を救われないようにしたからです。(ロマ書11:11)

こんなやりきれない辛い仕事が他にあるでしょうか。彼はそのような仕事に40年間耐え続けました。それでも彼は不忠実で不平ばかり言う民を愛し、その民のためなら自分の名を「いのちの書」から消し去ってもらってもよいとまで、主に嘆願しました。(申命記32:32)私はそのようなモーセの犠牲的な愛に本当に頭が下がります。

ここまで主に仕えたモーセにとって唯一の慰めとよりどころは主ご自身のご臨在であったと思うのです。主がいつも傍におられることを感じ、主のお話を聞き、必要な時に主の栄光のお姿を見ないではやっていけなかったと思います。

 

しかし、このようなモーセでも最後に一つだけ主に逆らう罪を犯す時が来ました。それは水源地区のカデシュに着いた時、そこにはいつものようには水がなかったので、民はモーセとアロンに逆って彼らをののしりました。モーセは烈火のように怒りましたが、二人は会見の天幕の入り口で主の前にひれ伏しました。主は「杖を取れ。会衆を集めて、彼らの前で岩に命じれば岩は水を出す。」と言われました。しかし、モーセは長い間の民に対する堪忍袋の緒が遂に切れたのか、岩に向かって話すかわりに、民に向かって「反逆者たちよ」と叫び、主から言われて持ち出した杖(多くの奇跡を起こさせた権威のある杖です)を振り上げ、性急に怒りをもって岩を二度打ってしまったのです。水は出ましたが、彼は初めて主の命令に背いたのです。

前にも同じことが起きましたが、その時は主に言われた通りに岩を杖で一度打って水が出ました。神はモーセのこの一つの罪のために、彼とアロンが約束の地を目の前にしながら、神は彼らを入れなかったのです。

 

この話から学べることは、モーセがつい腹を立てて、そんなつもりはなかったと思いますが、主に代わって(主の言うこと、やり方に従わないで)自分の権威(杖)で岩を打ったことです。神は確かに杖を取れといいましたが、岩にはことばで命令しなさいと言われたのです。私たちは、特に教職者、あるいはミニストリーのリーダーとして立つ者は自分のポジションとか権威で命令しがちですが、神のパワーはあくまでその時その時に主が語る「ことば」にあることを、いかなる場合でも忘れてはならないと言うことではないでしょうか。これは霊的に高いレベルに達した人たちへの教訓であると思いますが、私たちは高い権威の立場に着けば着くほど、よほど注意してへりくだらなければならないと思います。

 

私たちがモーセのように、いかに主を慕い求める者であっても、いや、そうであればある程、主はこれからもっと多くの艱難の中をくぐらせ、一見報いは少ないような、あるいは、やりたくないような「辛い仕事」を与えられる可能性は充分にあると思います。それは私たちを訓練される愛の主であるからです。そのような時には、主の臨在と脂注ぎだけが私たちを励まし、その時に必要なスーパーナチュラルなめぐみの力を与えて下さると信じます。そしてどんな状況下でも、自分の感情に左右されることなく、忠実に主の御言葉にだけ仕えることの大切さを私たちは学ばなければならないと思います。(終わり)


17 06月

クリスチャンが主の身丈にまで成熟すると何が起こるのか―グラハム・クック師のメッセージより 坂 達也   2014年6月17日


クリスチャンが主の身丈にまで成熟すると何が起こるのか―グラハム・クック師のメッセージより
坂 達也
私たち夫婦は、この春4月初旬から5月末までの約二ヶ月間、日本の各地を訪れる機会を得ました。今回はほぼ2年半ぶりの訪問でしたが、この間に日本の霊的空気がすっかり変わったことを感じて大変励まされました。いよいよリバイバルが起ろうとしていることをひしひしと感じたのです。
さてこの二ヶ月の間に25箇所でメッセージを語らせていただきましたが、それを通して私が強調したことの一つは、「世の終わりの時代は刈入れ、ハーベストの時であり、良いものも悪いものもすべてが完全な成熟度に達する時である」という聖書的な事実です。良いものの収穫とは、聖書に書かれているすべての約束と聖霊の超自然の働きが最高の形で成就し、それが終末の大リバイバルという形で現れるということです。又一方、それは悪魔の「惑わし」の働きも究極の頂点に達する時でもあります。
従って、終末のリバイバルが目指す最終的な目標は、主イエス・キリストの「大宣教命令」(マタイ28:19等)を成就することそのものであると思います。すなわち、教会は救われた者が皆、真の「キリストの弟子」になるように育て上げるべき時が来ているということです。
「キリストの弟子」とは、どのような人のことを言うのでしょうか。それはエペソ4:13,15に書かれています。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する・・・あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」ことが一つとして欠けることなく100%成就することであり、それが真のキリストの弟子であると信じます。
こうした強い思いを持って私たちはアメリカに帰国したのですが、私はその後直ぐにでも日本旅行の報告と感想を書こうとしたのですが、主は別なことをするように私を導かれました。それは私のコンピューターにこの数年間寝ていたグラハム・クック師のメッセージを今訳して出しなさいと言うものでした。主のタイミングが来たと言うことなのでありましょう。そこで早速、そのメッセージを下記の通りに御紹介させていただきます。誠にタイムリーであると信じます。
「成熟した大人」(ギリシャ語でHuios)になること
グラハム・クック (Growing up in Godセミナーより抜粋)
クリスチャンが霊的に子供から大人に成長する過程で、最終的に成熟しきった大人になることとは、その人の内なる人が神のご性質のようになることです。真に神のように誠実で清い性質と品性を持つようになり、それが常に外に表われる言動をする「成熟した大人」(ギリシャ語でHuios)にならねばならないのです。
しかし、そのような霊的成長過程であなたは、聖霊と真っ向から対立することになることを覚悟しなければなりません。なぜなら、あなたの内におられる聖霊の役目は、あなたの生涯を通して「あなたをイエス・キリストに真に似た者にすること」であるからです。
就いては、それに関して皆さんが知らねばならないことがあります。それは、神はクリスチャンである私たちが、この世に生きている間に真に「キリストに似た者」になることしか望んでおらず、それ以下で終わるとは全く考えておられないと言うことです。
そうであれば、私たちはこの世に生きている間にキリストに似た者に本当にならなければならないのです。このことは、単なる概念とかシンボル、あるいは象徴的な話として受け取らないで下さい。主は、実際にリアルにそうなることを意味しておられるからです。
それは実際生活で私たちが人と話たり、人のことを考えたりする時に、キリストに真に似た者として相手に対応できるということです。
しかも、それは相手の人たちがとる言動とは全く無関係です。彼らの言動によって影響を受けそれに反応するのでなく、ひとえに「あなたはその人とどう対応するのか」というあなただけの問題であるのです。あなたという人がどのように外に表れるかだけがポイントです。相手の出方次第(彼はこう言ったとか、こんなことをしたとか)で相手を責める―と言うようなことでは全くありません。なぜなら、御国では人を責めることなど存在しないからです。キリストにある私たちにはもはや恥も罪定めはないのです。又自分が肉的になってしまったことを相手のせいにしたり、状況のせいにしたりすることもあってはなりません。
「どれだけ神から祝福を受けるか」を決めるのはあなた自身でありあなたにかかっています。あなたは「祝福された者」であるはずですが、それはあなた次第であり、あなただけが祝福を受けるための責任者なのです。あなたは主の約束をいただいている人です。しかしその約束を実際に受け取るかどうかはあなた自身の責任です。しかも、それはあなたがどんなに落ち込んでいたり、迫害にあっていたりする最中でも同じなのです。事実、迫害とか苦しみの中を通っていたり困難な目に会っている時でも、神から大きな祝福を受けている時と同じように、すべてを有益なものとする道があるのです。
あなたの内にはどんなことがあっても止めることの出来ない「いのち」が内在しています。勿論、あなたの意志でそれを止めるなら別です。それはあなたが決めることであって他の誰の責任でもありません。
神があなたに与えたいと願っている祝福を、あなたが受け取るかどうかの責任は、あなた自身にあることを学ばねばなりません。神が常に与えたいと願っている祝福に自分から積極的に近づき、主の御計画に沿って日常の生活の中でその祝福を受け取り、その祝福を人々のために用い始めるのです。そうすることによって、あなた自身がキリストのイメージ、似姿となり、それを人々に表すことが出来るようになります。それが霊的に成熟することの最終的段階であり、完全に成熟した神の息子Huiosになることの意味です。
あなたはもはや自分だけが祝福されることはできなくなります。あなたの周りのひとたちは全部あなたから祝福を与えられる可能性が充分にあるのです。あなたが現れると、誰であっても、あなたから祝福を受けることから身を守ることは出来ません。
聖書には「心を尽くし、思いを尽くし・・・あなたの主である神を愛せよ。・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。ここであなたの隣人と言うのは、それがいつであっても、どこであっても、たまたまあなたの傍に立っている人、坐っている人のことです。飛行機の中でも、喫茶店の中でも、仕事の中でも、銀行の中でもです。全くの他人だとしてもあなたを通して神の祝福を受けることから身を守ることができる人はいないのです。主と共に歩くあなたは、他人の人生を変える力を常に持っているのです。あなたがその力をつねに持ち運んでいるからです。それは他の人がすることとか言うこととは無関係です。あなた自身が、一人だけで、あなたの住むコミュニティー全体を変える力を持っているからです。それはあなた次第です。そのような人になることを選ぶかどうかというあなたの意志一つです。
それはあなたがキリストの大使として、どのように人の前、あるいはコミュニティーの前に現れたいかによるのです。人がどれほど酷いか、状況がどれほど悪いとかには全く問題ではありません。あなたが一人の完全に成熟しきったHuiosとしてその町に現れると、その社会を変えてしまうほどの力を持っています。使徒行伝には「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにもはいり込んでいます。」とあります。あなたがやったことが、その後の30年間も「信じられないことが起こった話」として語り草になるのです。あなたはそのような人になる可能性を持ち、あなたがそこを通って行くだけでそのコミニティーを変える人になれるのです。
私は30年前にロンドン近郷のある会社で働いたことがあります。その会社は色々な企業の会社にアプローチして、その会社によい社員を斡旋したり、各種の社員教育のトレーニングを提供する会社でしたが、私が入社した時は全部で24人の社員がいて、私はその24番目の何もよく分からない新米社員でした。
その24人の中には人材をリクルートすることが専門のアドバイザーとか社員教育のエキスパートが多くいました。それとセールス部門があり、そこでは、大中の企業にアプローチして、その会社の業績を上げるためにより良い社員を斡旋したり、社員教育をするプランを作成します。多くの場合全く知らない会社に電話をしてアプローチし、年間契約の提案書を作り、その仕事に対する入札価格を持って交渉に行きます。私はたまたまそのセールス部門に配属されました。
入社後6ヶ月ほどしたある日、突然私の前に社長のジョージが現れ、私にある会社に提出するプレゼンテーションをしてもらいたいと言うのです。私は面食らって、他にもっとよい人がいるでしょうと2,3のセールス担当者の名を上げたのですが、皆都合が悪く、結局私しかいないと言うことで無理やり私がその仕事を担当することになりました。社長はこれはある大会社への提案でこの入札が取れれば大いに助かる、二日後に一緒にその会社に行くからそれまでよく読んで準備をするようにと言われ、大きな提案書類を手渡されました。
二日後に私はジョージと彼のベントレー(高級車)に乗って出掛けました。そして、ロンドンにあるその大会社のビルの最上階の40階にある豪華な社長室に通されました。そこには社長と担当者たちが待っており、こちら側はジョージと私だけ、私はそれまでに経験したことがない程に緊張し、堅くなってプレゼンテーションを行いました。その最後の段階になって相手の社長がジョージに「提案の内要はとてもよかったが、つまるところ一体値段は幾らなんだね。」と聞くのです。それに対して私は提案書の最後に記入されている入札価格を言うだけでよかったのですが、その時、主が突然私に声を掛けられ「グレイ(グラハムの愛称)、わたしを信じますか?」と言われたのです。それを聞いて私は「オーNo! 主よ、今だけは黙っていていただきたかったのですが・・・後にしていただければ・・・」と心の中でうなりました。しかし主は「わたしを信じるか?」と又聞かれます。そこでやむなく私は「今だけは信じたくはないのですが、・・・ハイ信じます。」と消え入るような小声で答えました。すると主は「その値段を倍にしなさい。」と言われたのです。この間に3-4秒掛かりましたが、相手の社長は再び値段を催促して来ました。そこでジョージが私の方を見るので、思い切って私は倍の値段を言いました。それを聞いたジョージは慌てふためき、心の中で「あの男は精神異常のけがあるので、今の値段はどうぞ聞かなかったことにして下さい・・・」と叫んでいるのが私にはよく分かりました。狼狽したジョージは一瞬椅子から落ちそうになりましたが、相手の社長は担当者とその値段について話し合っていたので、ジョージの様子には気付いた様子もなく、にこにこ顔で「この値段は悪くない、契約しよう」と言ったのでした。
そこで話は決まりました。昼食後に無事契約が取り交わされ、ジョージと私は社長室を後にしました。エレベーターの中で二人きりになると、全く気まずい空気になり、ジョージが「一体何が起こってあの値段を言ったのか」と聞きました。そこで私は自分がクリスチャンであること、「倍にしなさい」と言う神の声を聞いたのでそうしたことを告白しました。社長は「神の声を聞いたというだけで、事もあろうに私の会社がこの大会社との大事な契約を反故にしかねないことを分かって言ったのか。」と、もっと気まずい空気となりました。それから車に乗り帰路につきましたが、この間全くの沈黙が続きました。降りる前に私はジョージに「私は首ですか」と聞くと社長はしばらくした後に「分からん。」と答えました。
三日後に昼食を済ませて自分の席にもどると、机の上に分厚い書類が置いてありました。それは新しい別なプレゼンテーション用の書類でした。表紙に走り書きのメモが付いていて、最後のページを見よ」とあったので、その指示に従って私は最後のページを開くと、値段を入れる欄が空白になっていました。(笑い)そこにもう一つのメモが張り付けてあり、それに「あなたの大きな上司に聞いて書き入れよ」と書いてありました。(会場爆笑)そこで私は祈って主に値段を聞きました。その値段と会社の人たちが通常計算する価格とを比べると、主からの値段は会社の出した数字の1.7倍ほどでした。そこでジョージは主からの値段を採用して私にプレゼンテーションをさせたのですが、その仕事も決まりました。その後も二つの仕事を同じ方法で、いずれも高い主の値段で仕事を取ることに成功しました。
そして私は会社での地位が24番目から2番目に昇格され、ジョージは新に私にビジネス・デベロッピング・マネジャーと言う肩書きをくれた上で、大きな個室と私自身の秘書を付けてくれたのです。しかし私はそんな肩書きと責任をもらっても自分だけではどうしてよいのか全く分からず、ジョージに元の地位に格下げして欲しいと頼みました。するとジョージは私の机の上にある電話を指差し、電話帳から適当な会社を選んで電話してその会社から機会を与えてもらい、仕事を取るためのプレゼンテーションをすればよいと助言してくれました。
そして、彼は「私はあなたを格上げして雇っているのではない。あなたがよく知っている『例の人』を雇おうとしているのだ。」と言ったのです。(笑い)
その後大分経ってから、Huiosになるとそのようなことが起るということに私は気が付きました。それはあなたではなく、あなたが一緒に旅をしているお方がそうであるからです。ダニエルが神に属した人であることは誰でも知っています。ヨセフが神の人であることもそうです。
そこで私は主に祈ったのです。月に一度だけ、一つの会社に電話をし、その会社とだけ契約を結ぶという祈りでした。そして後の時間の全部を、自分の預言者訓練学校で教える教材を書くことに費やしました。(笑い)
或る時私は、ロンドンで最も名高い会社のCEOの電話番号を主から教えてもらいました。しかし、そのCEOにはドラゴン(竜)というあだ名で名高い強力な支配力を持つ秘書が付いていて、すべての電話はその秘書を通さずには絶対にCEOには届かないのです。特に見知らぬ人からの電話はまず取り次がれません。主は私にそのCEOに次の火曜日の午後2時23分に電話をしなさいと言われました。その通りに電話をすると、その1分前にその秘書がトイレに立ち、その時たまたまCEOが秘書のデスクの前を通るように主がされたので、彼が私からの電話を取り、私は難なくそのCEOとアポイントが取れました。それを知った秘書は私がCEOに会うために現れると、本当に憎憎しそうな顔で私を睨みつけ、殺し屋を雇って私を殺してやるとまで息巻いたそうです。言うまでもありませんが、その会社と私はよい契約を結ぶことが出来ました。
さて、その頃ジョージは私に、会社にいるすべてのセールスマンを私がトレーニングし、私のやり方で「大きな上司」からの声を聞いて仕事が取れるようにして欲しいと言いました。私はその年にはセールスマン・オフ・ザ・イヤーになっていました。
私がその会社を辞める日に、ジョージは泣き出しました。私は彼にこれからは「私の大きな上司」の仕事にフルタイムで働くことにしたと伝えたのです。私はこの会社を彼らが経験した事がないレベルにまで収益率を上げました。私自身もどのようにしてそこまで成し遂げたかは想像もつきませんでした。あなたがHuiosの域に到達するとそうなるのです。
と言うのは、神は法外としか思えない程あなたと共にいたい方であり、すばらしいということがどんなことなのかをあなたに証明して見せたくてしょうがない方です。又、あなたは神があなたに与えたいと願っておられる油注ぎを決して低く見積もってはなりません。
あなたが完全に成熟した時、あなたは試合をひっぐり返すことの出来るgame changerとなり、あなたが王であり、英雄であり、チャンピオンとなれるのです。誰もあなたに反抗しなくなり、どんな強い反対者に対してもあなたは抜きん出て相手を打ち倒します。あなたが人生から学ぶことは、どのような状況の中からでも浮かび上がり、あなたが占めるべき正しい地位に着けるのです。なぜなら、卓越した神の性質があなたの上に現れるからです。それがHuiosです。あなたはどんな状態からでも栄えることが出来ます。どのような対抗者にもうまく処することが出来るのです。その結果としてあなたが、あなたの隣り近所を、地域を、町を、そしてハドソン•テイラーがしたように一つの国をも変えることが出来るのです。
クリスチャンが宗教的な制度の中に押し込められると、今お話しているようなことは理解できなくなります。宗教的制度は優秀な戦士とかチャンピオンを生み出すようにはつくられていず、単に羊ばかりを育てようとします。そのような羊は人に頼って生きる人たちであり、毎週教会に来て楽しませてもらい、「十一献金をしたから今月の支払いは全部出来るはずだ」と考えて満足して帰ります。こうして教会という企業全体が次の週に向かって進むのです。しかし、あなたが御国の理解と御国の願望を持つコミュニティーに属するとたとえそのコミュニティーがどんなに小さくても関係ありません)そこから多くのチャンピオンと物事の流れを変えていくgame changerが生み出されます。なぜなら、一人の真のリーダはどんな大きな宗教団体よりもベターであるからです。イエスは「わたしを信じる者は、わたしよりもさらに大きな業をするようになる。それはわたしが父のもとに行くからです。」と言われました。主は、私たちが主よりもよくなることを望んでおられるのです。最もよいものが最後に残されているのです。(終)

25 02月

ボブ・ジョーンズ師が残した最後のことば     坂  達 也                 2014年2月25日


ボブ・ジョーンズ師が残した最後のことば

 

                     坂  達 也

 

ボブ・ジョーンズ師が天に召されました。先週モーニング・スターの教会で行われた彼のメモリアル・サービスの実況を見ましたが、彼と親しかった人たちが次々に壇上に立って彼のことを分ち合われました。最初の二、三の方が彼をエリヤに匹敵する預言者であったと言ったのですが、その瞬間、会場にいる多くの人が感動をもってそのことばに同感している雰囲気が強く伝わって来ました。私にとっても、彼が召されてみて初めて気が付かされた実感でした。彼は本当にすばらしい預言者であったと思います。

 

しかしそれは、いわゆる人に向かって流暢に将来を預言をする「預言者」としてではなく、むしろ彼がどれ程個人的に神と親しい関係にあったかと言う点において私は感銘したのです。正直なところ、彼は話し下手な人であったと私は思います。ものも書きませんでした。しかし確かリック・ジョイナー師だったと思いますが、ジョーンズ師は「神を最も愛した人の一人であったと同時に、神が最も愛した人の一人であった」と言いました。まさに彼は「愛の預言者」と言われるにふさわしい人であったと思います。

 

ボブ・ジョーンズと言う人は、こよなく神を愛し、神と過ごす時間を最も大切にした人であると思います。彼は神からのことばを、まるで恋人が話すことを聞き逃すまいといつも耳をそば立てて待っているような人でした。とにかく彼は、神から話を聞くことを熱心に求め、純粋に神のみ声をいつも聞きたかったのです。ですから神も恋人のように彼を離さず、ひっきりなしに彼に毎日話し掛けられたのです。そのような情熱を持つ彼は、会う人を捕まえては「今朝あなたは神から何か聞いたか、聞いたことがあれば話して欲しい」とせがみました。真に神のみ声にハングリーな人であったことに私は最も感銘を受けました。

 

そのようなボブ・ジョーンズ師はある時、神から間もなく「10億人の人が救われる最後で最大のリバイバルが来る」ことを教えられ、それ以来、それを見るまで自分は生きていたい、それをこの目で見させて下さいと熱心に神にお願いし、彼はそれが許されたと信じて来たそうです。しかしその彼が、84歳の誕生日を祝った後間もなくの先日のバレンタイン・デーに天に召されたのです。彼は召される前の数ヶ月は全身に耐えられないほどの苦しみを経験しておりましたから、最愛の父が愛する子ボブ・ジョーンズに送る愛のバレンタインの贈り物が天に召すことであったのです。それは愛の預言者が召されるのに最もふさわしい日ではなかったでしょうか。すばらしい天への凱旋の贈り物です。

 

彼は、最後は立っていて何もしないでいる時に突然足の骨が折れて倒れたそうですが、全身が朽ちると言うような耐え難い苦しみの中で、弱り果てていたそうです。最後はこれ以上見るに耐えかねた奥さんが、天の父に「彼を召して下さい」と嘆願した程だったと壇上から分ち合われました。彼にとっては示された大リバイバルが来るのを見ないで昇天するのは残念だったと思います。しかしジョイナー師は、ボブの場合はちょうど「主のキリストを見るまでは、決して死なない」と聖霊から告げられていたシメオンが、生まれたばかりのキリストを腕に抱いてから死んだように、ボブも、告げられていた大リバイバルの始まりを一目見てこの世を去ったのだから、リバイバルはいよいよ始まると解釈していました。ボブ・ジョーンズ師の昇天は、私たちが待ちに待った大リバイバルの始まりを告げていると言うのですから、本当に身震いするほどすばらしい時が遂にやって来たのです。ハレルヤ!

 

さて、そのボブ・ジョーンズ師に最も近い関係にあった 一人であるポール・キース・デイビス師が、一昨夜イーメールで特別メッセージを配信してきましたが、そこには彼がジョーンズ師と最後に話した時にジョーンズ師が触れたことが書かれていました。それは、今の時期に最も重要なことは、この世的な誘惑をもってクリスチャンを霊的な妥協compromiseに陥しめようとする敵の罠に絶対注意しなければならないということでした。

 

それを受けてデイビス師が書いている長文を要約しますと、私たちの前の時代に生きた多くの偉大な霊的パイオニヤとか父祖、前走者たちは確かに私たちのためによい道を開いてはくれましたが、彼等は皆、成し遂げるべきことを未遂のまま死んでいること。それは今までに起った聖霊のムーブメントとかリバイバルがいつもフルに実る前に終わっているのと同じであると指摘し、その原因は霊的な妥協compromise(人間的判断と誘惑に負ける)であったと言っております。

 

特にジョーンズ師は今の時代は偽預言者あるいは偽教師が多く出回いると言われ、それへの警告をよくしていました。その原因は民数記22-25章に出て来るバラムのようにこの世的な誘惑に惑わされる人がこれから多く出て来ること、それに惑わされないためには、私たちは常に神のみ言葉に誠実・忠実であることに最大限注意しなければならないと警告しています。特に今は大リバイバルが来る直前で、敵の攻撃は非常に強まっており、これからのリバイバルで用いられる人は余程注意をしなければならないことを強調しています。

 

それについて最近私が、主から強く感じさせられていることがありますので、それをお分かちしたいと思います。それはこの一年ぐらいでしょうか、たとえそれが自分には些細なことと思われても、私が主と同意したこと、あるいは人と約束したことを実行していない時に、主が私の良心に優しくではあってもはっきりと呵責を覚えさせられることです。

卑近な例ですが、今の時期は年度末会計決算の時です。クリスチャンとして前年度に正しく献金しているか、或いは、年一度の納税のための収入・支出の明細を提出する際、主に対して全く後ろめたさの無い公正な申告をしているか、をチェックするのは重要なことです。

その他色々なことで私たちが誰に対しても正しく、公正で、しかも愛をもって対処しているかどうかを、主は私たちのためにいつも見守っていて下さることを私は昨年からひしひしと感じております。

使徒 24:16でパウロが「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」と書いていますが、ボブ・ジョーンズ師は、預言者として、少しでも主の預言をこの世的な誘惑で濫用・悪用していないかどうかを常に厳しく吟味する人でした。この世的な考えとか妥協への誘惑は私たちが気が付かないうちに忍び寄ってきます。ですから私たちも同じように、どのような賜物であっても神からいただいている賜物をいつも神に誠実に正しく用いて毎日を過ごしていることを吟味する必要があると思います。それを知るための最もよい方法は「自らの良心からの責めがないか」を吟味することです。ジョーンズ師はそのきよい良心がなければ神のみ言葉を「大胆に正しく」預言することは出来ないと言います。(1ヨハネ3:21−22をぜひ参考にして下さい。)

 

すなわち、私たちは誰もが「大胆で正しい信仰」で生きることです。そのためには、きよく正しい良心を持つことが絶対に必要です。そして賜物の運用だけにとどまらず、私たちの「キャラクター」そのものが、どれ程「主に似た者になっているか」「主と同じ愛を持ち、正しく生きているか」という霊的成熟度を主は見守っておられることを忘れてはなりません。

 

1テモテ1:19「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」

ヘブル 13:18「私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。」 (終り)


26 01月

2014年への期待 坂  達 也          2014年1月26日


2014年への期待

 

                 坂  達 也

 

新年を迎えてから今までの三週間に、本年に対する三つの預言を既に御紹介して来ましたが、この辺りで私自身が今特に強く感じていることをお分かちさせていただきたいと思います。と言いますのは、私は昨年秋から今年に掛けてかなり多くの預言を読ませていただきましたが、そのどれよりも強く私の心を打ったのは、はっきりした預言の言葉ではなく、モーニングスター・ジャーナル1月号に載っていたダッドレイ・ホール Dudley Hallと言う方の短いメッセージでした。それでは先ず私が要約したホール師のメッセージをお読みください。

 

「パッションを持つ -ダッドレイ・ホール 

 

御子(キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)

コロサイ人への手紙に書かれている生き方を見て、それが熱狂的passionate な人たちの生き様であるという結論に達しない人はいないと思います。現代のクリスチャンのクリスチャニティーに対するカジュアルな(普段着的な)アプローチは、1世紀に生きたクリスチャンの生き方とは全く別なものであり、新約聖書に書かれていることは今の時代のクリスチャニティーとは無縁のもののように思えます。

他の信者の面倒を見るために自分の家と持ち物を売ったり、自分の首を切り落とす権力を持っている権威者の前に引き出されても、堂々とキリストだけが自分が仕える主であると言い切る大胆さを持つ、あるいは悪辣で卑怯な仕打ちをする敵を愛しその悪行を心から赦すことなど、今の時代には考えられないことです。

現代のクリスチャンは、今のこの世的カルチャーの考え方 value system をほとんどそのまま受け入れてしまっているような生き方をしています。イエスがクリスチャンに与え、期待している生き方は、決してカジュアルで何気なく暮らす unintentional クリスチャンによっては生きることは不可能です。イエスの期待に応えるには情熱 passion が必要です。

 

人間の体内に情熱を起させるのは心から怒りを覚えるか、それとも愛によるか、そのどちらかです。この世の中の不平等に義憤を覚えて革命を起こした人たちはおりますが、聖書には人の怒りは神の義を実現するものではないと書かれていますから(ヤコブ書1:20)イエスに仕えるための燃えるようなエネルギーと動機を与える情熱 passion となるのは愛です。

イエスは、御父の愛に全面的に信頼を持ち、何が起こってもひるむことのない不動の信念によってすべてのことに立ち向かいやり遂げられました。その確信は日頃から御父を深く親密に知る知識から来ています。まさに主を深く知ることは主を愛することであると言う真理です。

 

私たちに主に対する全き信頼が必要な時には、主は、その必要を充たすために、主ご自身を私たちに表して下るので、私たちは、その時私たちに必要な主のお考えと見方=「主の状況展望 perspective 」を得ることが出来るのです。こうして私たちが神によって示される慈愛、うるわしさ、神の望んでおられることを一目でも(霊的に)見ることが出来る時はいつでも、私たちの内に熱烈な情熱が一段と輝き炎え上がるのです。」(要約終り)

 

主にしがみつくヤコブ 

 

私は1月22日の早朝、主の御前に出た時に、前触れもなく突然「ヤコブのように主にしがみついて、主の祝福をいただくまでは主を離しません。」と言う思いがこみ上げて来ました。

そして、天へのはしごを見上げている自分を見ていました。とっさに私は、これこそ今年私がするべきことである、と言う自分の決意を表すものであることが分かり興奮しました。

私たちは皆それぞれに、神からいただきたい賜物を長い間祈り続け、その祝福の約束を信仰で受け取っておりますが、その実現が遅れています。私もそうです。その祝福をいよいよ今年から受け取り始めることは、多くの預言者によって言われております。しかし、唯待っているだけではなく、主にしがみついて受け取るパッションが必要であると言う強い思いが私に与えられたのです。

 

そのために主は、私たちもヤコブと同じように先ず「もものつがいを」はずされる必要があることを語っておられます。もものつがいをはずされたヤコブは、全身全霊で一層主にしがみついて思い切って主と格闘しました。これを見て主は「あなたは勝った」と宣言されたのです。すなわち、自分の肉の力には頼らずに、主にのみすべてを頼る心が出来た時に、私たちはヤコブと同じように戦いに勝つて、主の祝福を受ける用意が整うのではないでしょうか。

 

びっこをひくイスラエル-それは私たちの名だ

 

創世記32:24-31に出て来る上記の話は、私たちと非常に深い関係があります。先ず、ヤコブの前に*主イエス・キリストが現れた(聖書には*「ある人」としか書いてありませんが主イエスを代表する御使いであると言われています。)のは、ヤコブがイスラエルの国境を越えてイスラエルに足を踏み入れる直前の出来事であることです。これは、私たちクリスチャンが今イスラエルと言う名の主の御国 kingdom に霊的に入ろうとしていることを表しているように思います。

次に、*主御自身が現われてヤコブと取っ組み合いをしましたが、ヤコブのもものつがいをはずした後に、尚食い下がって離れないヤコブに自分の名前を敢えて言わせました。そしてヤコブと言う名前が意味する「だまして勝とうとするこの世的にずる賢い」という彼の性格を変え、新しいイエスに似た性格を象徴するイスラエルと言う名前を彼に与えました。イスラエルと言う名の意味は「神の皇太子、神が支配する、勝つ、神と共に支配する God’s prince, God rules or prevails 」です。ヤコブは神の御国に入るために「御国の王であるイエスと共に支配する人」と言うすばらしい名前をいただいたのです。又、イスラエルと言う名はイエスの別名の一つでもあります。(イザヤ49:3、ホセヤ11:1、マタイ2:15、16、出エジプト記4:22等)特にイザヤ43:7「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」を見れば、私たちすべての異邦人クリスチャンの名前もイスラエルであると言えると思います。

 

すなわちヤコブはこの時点で主と出会いクリスチャンになったと私は信じます。それだけではなく、私はヤコブは「キリストの弟子」になったと思います。なぜなら、彼はキリストと格闘すること(霊的に執拗に祈り、主と対話すること)を通して、人間的なずる賢い性質から「キリストに似た者」と言う性質に変えられた状態がここに表されていないでしょうか。それは主と密着して個人的な薫陶を得る弟子訓練を受けることによって、成熟したキリスト者となることを象徴していると思うからです。

そして「びっこをひいている」と言うことが重要です。それは肉に死んでいる(ガラテヤ2:20、コロサイ3:3)ことが象徴されているからです。

 

主に対して熱烈な愛を持っにはどうすればよいのか

 

上記の例でヤコブは主キリストに対する愛をどのように持ったのでしょうか。先ず言えることは、主なる神が、ヤコブに個人的に(御使いとして)現われて下さったことです。これは大変なことであると思います。神とは当時さばきの神として恐れられるのが通常であったと想像されますが、その恐ろしいはずの神が自らヤコブの相手をしてくれ、本当に身近に実際に肉の形で彼と取っ組み合いをして下さったのです。ヤコブは最初は恐れを感じたかもしれませんが、そのうちに、その密接なスキンシップによるもみ合いを通して直ぐに恐れが消え、むしろ主のやさしさ、思いやり、情愛の深さを強く肌で感じ始めたと思います。何をしても神に勝てないことはヤコブも最初から分っていたでしょう。しかし、主が相手になってくれて、安心して思い切りもみ合うように励まされ勇気を得たと思うのです。夜明けまでそれが出来て楽しかったと思います。

いや、もっと言えば、熱烈に神が好きになり、このような愛の神なら自分も心から愛せると確信したかも分かりません。私は、神は個人的に知り合える方であり、それも身体ごとぶつかり、もみ合いまでして下さるお方であるのです。そして、そうする時に神の対する親しさが私たちのうちに猛烈に沸いてこない方がおかしいと思います。

 

しかし、愛のパッションと言へば普通、西洋的な猛烈で熱烈な愛と言う印象を受けますが、聖書で強調されているのは、むしろ静かで堅実ないつまでも変わらない steadfast  な愛であり、この忍耐強さの方がより重要であると思います。そこには長期に渡っての「忍耐強さ」「辛抱強さ」が強調されています

愛の章と言われる1コリント13章には愛の定義が書かれていますが、その中でも「寛容であること(英語では patience=忍耐)」「すべてを我慢すること」「すべてを耐え忍ぶこと」が強調されていると言っても差し支えないでしょう。これらが最も重要な愛の特質であると私には思えます。少なくとも主イエス・キリストから感じられる愛はこのようなものです。キリストほど私たちのために苦しみを耐え忍び、忍耐された方は他におられません。従って私たちクリスチャンが一番積まねばならない徳は「忍耐」です。そのためには時間が必要です。忍耐強さだけは性急・気短では得られるものではないからです。

 

神はなぜ時を遅らせるのか

 

今、暗くて長いトンネルを通っている最中の方は大勢おられます。と言うより、暗さと長さの程度の差はあれ、トンネルとか荒野を通されないクリスチャンはいないと思います。神は最も正確な預言者でありながら、時には、その預言された時を敢えて「遅らす、 delay される」方であると思います。すなわち、神はすべてを見通されている方でありながら、その時を敢えて遅らせる場合があるのです。なぜでしょうか。私はそこに預言の目的があるからであると思います。

預言の重要な目的の一つは、私たちを励ますためです。(1コリント14:3)ですから多くの預言者は「今は何々のシーズン」と言う言い方で時がはっきりしているようでしていない預言をします。いつ「主が帰って来られるか」の期日は誰でも知りたいでしょうが、はっきりした時は聖書には書かれていません。その理由は、もし書いてあれば、極端な言い方をすれば、私たちはクリスチャンとして努力すべきことを止めてしまう可能性があるからです。

私たちがオレゴン州に住んでいた頃、子供を連れて車でカリフォルニア州によくバケーションに行きました。その道程が長いことは分っていても子供たちは「後どのくらい?」と何度も聞きます。目的地に近づくに従ってその質問の間隔は短くなります。それに対して私たちは色々な言い方で子供が希望をもって辛抱できるように励ましの答えを与えて納得させようとしました。―そんな経験を持たれた方は大勢おられると思います。つまり預言は「もう少しの辛抱だ、頑張れ」と言う神からの励ましのメッセージでもある訳です。

 

時が遅れるのは私たちの責任

 

私たちクリスチャンの最終目標は「イエス・キリストに似た者になること」、別な言い方をすれば、私たちが神の愛を受けて「愛の人間になること」というこの一言に尽きると思います。しかし、私たちが本当に「神の愛」の人間になることとは「霊的に成熟する」ことを意味します。霊的に成熟するためには長い時間を掛けて「寝かせる」必要があることを私たちは知っております。そのよい例がワインです。本当によいワインを造るには、先ず自然の形でよく熟したぶどうからワインを醸造しますが、その一応完成したとも言えるワインを、尚も理想的な環境の下で寝かせれば寝かすほど深いこくのあるワインに成熟して行きます。中には何十年、何百年も掛けたワインから、とても美味で値段が付けられないほどすばらしいものが出てくると言われます。

私たちの内にはぐくまれる「神の愛」はこの高価で絶妙に成熟した「味」のワインに例えることが出来ないでしょうか。クリスチャンとは、私たち自身が、どこを切っても完全に漬かった「神の愛」の香ばしい香りを放つ漬け物になっていなければなりません。それは一夜漬けでは決して出来ないのです。と言うことは、私たちクリスチャンを成熟させるプロセスにおいて、神の時間表が遅れる一端の責任は、私たち自身の気短さ、性急さにあることを私たちは十二分に心得なければならないと思います。主は私たちを心から愛するがゆえに、少々時間を遅らせても、私たちの霊的成熟が充分に熟すまで待たれる愛の神です。

 

今年、神は素早くことを運ばれる

 

しかし、主はなさるとなれば、今年は事を思いの他素早くなさることが充分に考えられます。すなわち、今までとは違うテンポで事を運ばれる可能性が高いですから、常に主を見上げて、いつでも受けて立てるだけの心の準備をしている必要があります。

そのことを私たちは新年早々、既に経験しつつあります。と申しますのは、私たちの息子夫婦とその子供(孫)が仕事の関係でこの2月初旬にニューヨークからサンフランシスコに移住することになりました。ついては私たち夫婦もニューヨークを間もなく出ることになりますが、ハワイに戻るのかサンフランシスコに移るのかは、今のところ未定です。又、日本を訪れることも祈っております。詳しくは後日御報告しますが、取り急ぎ私たちの家族のためにお祈りいただけますようお願い申し上げます。(終り)


17 12月

愛について         坂  達 也            2013年12月17日


愛について

 

                           坂  達 也 

 

聖書全体を通じて一番大切な「神からの命令」あるいは「戒め」は何かと言えば、それは「神を愛する」ことではないでしょうか。申命記6:5に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と書かれています。しかし、イエスご自身が来られて、その戒めにさらにもう一つの戒めを加えて、最も大切な「二つの戒め」とされました。マタイ22:37-40にそれが次のように書かれています。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが(これをもって聖書全体を指す)、この二つの戒めにかかっているのです。」これは神と愛に関する、驚くべきほど究極的なステートメントであると信じます。それでは一体、愛とは具体的に何なのでしょうか。

 

愛とは何か

 

愛の定義は色々言われておりますが、私たちにとって最も関心があるのは聖書が何と言っているかであると思います。そこで真っ先に思い浮かぶのは1ヨハネ4:7−8です。

「 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」

このみ言葉によって「愛は神から出ている」ことと「神は愛である」ことが分ります。すなわち愛とは神ご自身であり、神のみが愛の源です。私たちがイエス・キリストを信じて以来、私たちの内におられる聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれています。(ロマ書5:5)上記のみ言葉でもう一つ重要なポイントは「神を知っています。」ではないかと思います。私たちは神に対し心からの愛があるなら、必然的に神を親密に知る関係に入らずにはおられないはずです。

しかし神を愛するとは、単に心からの愛情とか情愛のリレーションシップを持つことだけではなく「神の律法全体を守ること」が切っても切れない愛の一部であることをクリスチャンははっきり認識する必要があります。そこがこの世一般の愛のコンセプトと異なると私は思います。そのことが下記のみ言葉にあらわれています。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ 14:15)「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ 15:10)

私たちは、イエスご自身がなさったこと、即ち、律法全体を成就されたこと、そしてそのためにこの世に来られたこと(マタイ5:17-19)を、同じように成し遂げることが私たちの最終目標であり、それが父なる神に対する私たちの愛であるのです。それを可能にする唯一の方法は、イエスが「父の愛の中にとどまっている」ように、私たちも「主イエスの中にとどまり、イエスが私たちの中にとどまる」ことであると思います。

以上のことを次のみ言葉がまとめてくれます。「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(2ヨハネ 1:6)

 

第二の戒め

 

又、愛の使徒と呼ばれるヨハネは何よりも「私たちが互いに愛し合うこと」を繰り返し強調しました。

私たちは、神を愛すること(第一の戒め)に関しては、イエスを信じてクリスチャンになり、曲がりなりにも教会に集っている限り、その信仰の程度は別にして、基本的に神を愛していることを周りが認めてくれますから特に問題にはなりません。なぜなら神が霊的存在で、その人と神との直接の係わり合いが肉的によく「見えない」「聞こえない」からです。ところが「第二の戒め」となるとそうは行きません。周りの人にはその人が隣人とか兄弟をどのように愛しているかが一目瞭然ですから、直ぐ批判の対象になります。正直に言って、「自己中心」から抜け切れない私たちにとって、この「他人を愛する」こと程難しいことはこの世の中で他にはないと思います。その他人への愛の実践 love in action がいかに難しいかを自らの経験を通して克服した人の一人は使徒パウロであると思います。そのパウロが書いた「愛」の章と言われる1コリント13章をこれから御一緒に読んでみたいと思います。分り易くするために、この章全体を三つに分けてみます。

 

1コリ13:1-13

1-3節「1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

 

そこで先ず、最初の1-4節で気が付くことは、パウロ自身が「異言の賜物」を誰よりも用いたオーソリティーであることです。又、「預言の賜物」についても権威者の一人ですし、彼こそ聖書の「奥義と知識」に最も長けた使徒であると私は信じます。「完全な信仰」についてもそれが言えます。加えてパウロは「自分の持ち物すべてを与えた」人であり、「自らをいけにえとして差し出す=自らの十字架を担いで主の後を追った」人であることでも誰にもひけを取りません。その彼が「そのようなこと(6つの例を挙げ)をいくらしても、もし『愛がないなら』それらの行為は『何の値打ちもない』」と断言しているのですから、これを読んで驚嘆しない人はいないと思います。

特にクリスチャンとして最もうらやましい「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」とまで明言するのですから、どれだけ愛が大切であるかがお分かりになると思います。

 

でも、正直なところ私の場合は、このショッキングな記述を読んだ時に一応の驚きは感じましたが、それ以上の感動とか心が揺さぶられるようなショックを感じないで今まで過ぎて来ました。そして、そんな霊的感覚が麻痺したような自分が、同じ自分の中にいることに気が付いて愕然としたのです。むしろ、その事実の方がより大きなショックでした。「なぜなのか」私は自問しました。又、「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じる」ことはクリスチャンとしてこの上なくうらやましいことです。私もそれを強く願って来ました。しかし、「愛がなければ」と共に、それが単なる「頭の知識でしかなければ」何の役にも立たないと言うことにも気が付かされました。「なぜ自分はそうなってしまったのか」―その答えは「宗教の霊」にやられて来たからです。私の中には、何と大きなプライドが詰まっているかに気が付いたのです。

自ら「パリサイ人中のパリサイ人であった」と告白するパウロが「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じている」ことを掲げて、それが本当に主への愛ではなくて、単に自分のための「知識として知っているのであれば全く何の力もない」ことを喝破しているように思えます。それを経験したパウロであるからこそ、2テモテ3:5で「見えるところは敬虔(信心深そう)であっても、その実(力)を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」と言えるのでありましょう。その点私などは、奥義も知識も信仰もあまりなく、ないゆえに「力のない」のは当然でありながら、それを嘆いて来たのは私のプライドからであることに気が付かされました。

又、そのようなパウロであるからこそ、ガラテヤ 5:6で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰(愛によって働く信仰)こそ大切です。」と言えますし、そんな中を通って苦しんだ結果として、彼は愛の大切さを本当に理解した人になったと信じます。

 

他人を愛することの難しさ

 

4-7節「 4愛は寛容(我慢すること)であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

 

さて、この4-7節ですが、ここでもパウロは、驚く程厳しくてリアルな「愛の実像」を描いてくれております。

ここに列記された14の「愛は・・」は、すべて「他人に対する自分の取る態度」が取り扱われていますが、それらは「自己中心」を微塵なりとも許していないことに気が付かされます。他人に対してあくまでも「親切」にし、他人を「ねたまず」人に自分を「自慢せず」「高慢にならない」又、他人に対して「礼儀を欠かず」「自分の利益を求めない」「他人の不正を喜ばずに真理を喜び」「他人を出来る限り信じ」「他人のすべてをよく期待する」―という9つの品性です。そして残りの5つである「忍耐強く寛容で」「すべてを我慢し」「いらだたず」「うらまず」「すべてを(特にどんな迫害とか虐待に会っても)耐え忍ぶ」―ということが真の愛だと言うのです。

ハッキリ言えば、パウロの言っていることは最後の5つだけでなく、14のすべてが「他人を愛するためにはすべての面で忍耐が伴う」の一言に尽きると思います。それは別の言葉で言えば他人の至らなさをすべて赦すこと―それが愛であることを示していないでしょうか。これこそキリストがこの世に生まれてから最後にゴルゴダの丘に到達する間に出会った人たちのあらゆる罪の苦しみを自ら味わった上で、最後に十字架刑と言う極刑の苦しみの中で全人類の罪のために死んで下さった愛ではないでしょうか。

イエスが自らの一生を通して私たちに示されたのが「御霊の実」のすべてであったと思います。それは「愛、喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。この中のどれ一つを取っても厳しく練られた人間としての最高の品性でないものはありません。中でも一番難しいのは他人に対して常に寛容であるための忍耐と自制ではないでしょうか。

長い間主によって「もうしばらく待ちなさい」と言われ続ける中を、希望を失わず、すべてに自制して、じっと耐え忍んで来られたクリスチャンはたくさんおられると思います。しかしそのように何の報いもないと思われるような「高い代価」を払って品性を磨き上げられ、最終的に「キリストの香り」を放つ者となるのがレムナントと呼ばれる人たちではないでしょうか。

これはパウロ自身が通った道であるに違いありません。「・・・すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」と言った後で、パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」と1テサロニケ5:14-19に書いています。そこには本当に自分に死んだ姿しかありません。

そして、これこそがあくまで私たちが霊的にキリストの身丈にまで成熟するための訓練です。そのすべてを私たちに内住される聖霊が愛をもって私たちのために日夜して下さっているのです。特に16節の「いつも喜んでいなさい。」17節の「絶えず祈りなさい。」そして18節にある「すべての事について、感謝しなさい。」こそに、他人を愛するために何事にも「耐え忍ぶ」ことを可能にするパワーが秘められており、それがその「秘訣」であり、聖霊による愛の励ましがあると、私は思います。ボブ・ジョーンズ師が言う珠玉のようなレムナントとはこうして生まれて来るのでしょう。

 

愛は決して絶えることがない

 

8-13節「8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】

 

13:8に「愛は決して絶えることがありません。」と書かれています。多くの英語の聖書は love never fails と訳しております。日本語の訳「愛は決して絶えることがない」は確かに正しい訳には違いありませんが、パウロの言わんとする全貌を伝えてはいないと思います。私はそれ以上のもっと強い意味、すなわち、「偉大な神の愛に宿る限り、私たちがするすべての愛による行いは、神の御心通りに運ばれ、常に完全に成功する、必ず成就する」と言う意味であるからです。あるいは「『預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。』しかし『愛があれば』どんなことでも失敗することはない」と言う意味であるとも言えます。

 

私は「神の愛」を本当に理解するには、神の愛とはこの宇宙に存在する「最高次元」―そこに神が住まれる「神の領域」=それが「愛」の次元=として考えるのが一番ふさわしい説明であるように思います。先回、私は物理学量子論の「超弦理論」が宇宙の仕組み、特に霊の領域の存在(それがあることだけは私たちには分ります)を近い将来科学的に説明出来る可能性があると申し上げましたが、その最高次元がこの神の住まいの次元であると思います。そして、すばらしいことに私たちキリストを愛する者は、将来その次元で主イエス・キリストと共に永遠のいのちで最高の人生を過ごすことが約束されているのです。ですから、私たちがどんな艱難を通されても、それは神がなさっておられるのですから私たちのために必ずよい結果を生み、実ることを知っており、すべての神がなさることに喜び、感謝出来るのです。

 13:9-10では、私たちが今経験していることの大部分が不完全で、一時的、あるいは一部分でしかないと言うことが書かれています。それは三次元の世界の話であり、その「この世」の世界は、神が私たちのために具えられた高次元に住むための準備と訓練の場所であるに過ぎないのです。

 

9私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分でしかないのです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言うみ言葉を通して、今の私たちクリスチャンがどれほど苦労させられ、厳しい忍耐の中を通されていても、それが目的を持った一過性で仮の領域でしかないことを知る時に、私たちは大いに励まされないでしょうか。

 

そして、この章の最後の言葉が13:13節「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】で終わっております。

 

さて次回は、私たちが真に神と愛の関係に入ることを阻止しようとして攻撃してくる悪魔の策略の一つである「宗教の霊」とかその他の悪霊の働きに就いて触れる予定です。(続く)


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