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19 12月

終末の艱難時代が目前に迫る(2)               坂  達 也        2014年12月19日


 

終末の艱難時代が目前に迫る(2)

 

              坂  達 也

 

未だ(1)をお読みでない方は、ぜひ数日前に載せました(1)から先にお読み下さい。

 

さて、ここで黙示録7:9をご覧ください。「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」と書かれています。ここに出てくる「大群衆」の解釈は色々あるようですが、一つだけ確かなことは、後の7:14で「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって・・・」と説明されていますから、数えきれない程のクリスチャンが大艱難を通ることは間違いありません。

大艱難を通って来たこの大群衆は、白い衣(聖さを表す祭司の衣)を着てしゅろの枝を手に持っていました。しゅろの枝は喜びと勝利を象徴します。ロバに乗ってエルサレムに入場したキリストを群衆がしゅろの枝を持つて喜び迎えたこと(ヨハネ12:13)、そして仮庵の祭りでしゅろの枝などを飾って秋の収穫を祝うことが思い起こされます。この大群衆は異邦人から集められた一大ハーベスト(大収穫=リバイバル)を象徴するのかもわかりません。あるいは14:13で「『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。・・・』」と書かれていますから、もの凄い数の殉教者かもしれません。

 

黙示録ではクリスチャンは原則的には「神の怒りの災害」からは守られますが、中には悪魔/反キリスト軍によって殺される人たちも出てくることがはっきりと書かれております。その例が6:9−11とか14:13です。

6:9には「小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。」又、その後6:11で「すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、『彼らと同じく殺されようとするしもべ仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と言い渡された。」と説明されていますから、世の終わりには大勢のクリスチャン殉教者が出ることも間違いありません。

しかし、私たちはそれにひるんではならないのです。なぜならイエスご自身が訓練された初代の使徒、弟子たちは、パウロも含めて、皆キリストの後を追って殉教することを望み、喜んで処刑されて死んで行ったではありませんか。殉教の死を遂げることはクリスチャンにとって最高の栄誉であり喜びであるのです。

 

獣の名の刻印

 

私たちクリスチャンの信仰はこれからいよいよ徹底的に試されます。はっきり申し上げて「なまぬるい信仰」しか持っていない者は、主によってその化けの皮が完全に剥がされる時が来るでしょう。黙示録13:15−17にこう書いてあります。

「・・・その獣の像を拝まない者を皆殺させた。また、・・・すべての人々にその右の手かその額かに刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、誰も買うことも、売ることもできないようにした。」

ご存知のように、ここに出て来る獣とは、世界を統一する程強大な政治権力者であり、その獣がやがて世界中の個人財産を支配し、すべての人に何らかのクレジットシステムの刻印を受けさせ、それがなければ誰も物の売買が出来なくなると考えられます。そして聖書にはこの悪魔の刻印を受ける者はたとえクリスチャンであっても、永遠の地獄の苦しみを受けると明確に書かれています。(14:9−12)これがこの世を支配する悪魔の究極の野望であり、神はこうなることを許されるのです。

現在の世界通貨は曲がりなりにもアメリカのドルがその役目を果たしていますが、アメリカの国力とドルの価値が凋落の一途をたどる現在、既にドルに替わる通貨が現実に検討されておりますから、ここまで発展する可能性は十分にあります。そしてこの事態に至れば、すべてのクリスチャンの信仰は、昔起こった「キリシタンの踏み絵」と同じように、神に付くか悪魔に付くか、白か黒かがはっきり問われるのです。

「私は神をそこそこ信じているので、地獄に行かずに、天国の片隅にさえ入れてもらえるならそれで満足ですよ。」と冗談まじりに言うクリスチャンがこの世の中には大勢いることを私は知っております。残念ですが、そのような信仰のクリスチャンが踏み絵の前に立たされたら、恐らく多くの人が「刻印がなければ食べることも出来ないのなら神様は大目に見て下さるでしょ。」と言って、安易に刻印を受けてしまうのではないでしょうか。そうならないためには、今から真剣に神を畏れ、神だけを頼り、すべてを委ねる信仰の訓練が必要であると信じます。主は天からマナを降らせ、必要に応じて一人分の昼食を何千人分に増やされる神です。

 

勝利を得る者は・・・」

 

数日前のある朝、私は主からいきなり「黙示録を一度何も詮索しないで通読して見なさい。」と言われましたのでそうしました。すると今までは「ここはどう解釈するのか」と言う疑問に引っかかってその疑問のことだけが頭に残って終るのですが、今回通読してみて初めて、黙示録に書かれているメッセージの全体像が見えて来ました。細かい事は抜きにして、主が本気で望んでおられることは、私たちの信仰が「黒ではない、全くピュアーな白になる」ことです。ですから主は私たちが「勝利を得る者」になることをしつこいように言われるのです。

勝利を得る者とは英語で overcomer です。それは敵とその一切の悪に打ち勝つだけではなく、自分の自己中心的な生き方、愛の少なさにも打ち勝つことです。主は黙示録の最初で、七つの教会にそれぞれのメッセージを伝えました。その際に主が指摘する叱責の言葉は、一見非常に厳しいようですが、その実、それを悔い改め忠実に守ろうとする者にとっては、ポジティブな励ましの言葉であることに私は気が付きました。

そして主は、各教会に「勝利を得る者は・・・」とくりかえし言われ、勝利する者には、それぞれに違うすばらしい約束をされました。最初の教会エペソの人たちには「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」、次のスミルナの教会には「けっして第二の死によってそこなわれない」、ペルガモの教会には「隠れたマナを与える。」、テアテラの教会には「最後までわたしのわざを守る者には諸国の民を支配する権威を与えよう。」、サルデスの教会には「白い衣を着てわたしとともに歩く。」、フィラデルフィヤの教会には「わたしの神の聖所の柱としよう。・・・新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」、そして最後のラオデキヤの教会へは「わたしと共にわたしの座に着かせよう。」と申し渡されたのです。

この七つの教会へのメッセージは私たち終末の教会全体に宛てられた主からのメッセージであると私は信じます。

 

又、黙示録1:3に「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。」と書かれています。この書には、上記の言葉に続いて、他に6カ所で「・・・幸いである。」と言う祝福のことばが出て来ます。

確かにこの黙示録は恐ろしいさばきの書です。しかし何度でもくりかえしますが、神に忠実な者でありたいと心から願う者にとっては、むしろやる気と勇気がいただける、大変大きな祝福の書であるのです。なぜなら、本当に真剣にそれを望む者を神は決して見放しません。必ず助けて下さる神であるからです。

 

ヨシュア記と黙示録

 

モーセの後を継いだヨシュアは、イスラエルの民を引率してヨルダン川を渡り、約束の地に入りました。そして、そこに住む敵と戦って多くを「聖絶」し、その地をイスラエルの各部族に相続地として分け与えました。

一方終末の教会である私たちも、今既に霊的にヨルダン川を渡ったか、あるいは渡る直前に来ております。究極の目標は、この世を、そこに住む住人を含むすべてのものを「聖別」し「永遠のキリストの王国」を打ち立てることにあります。そのために今、私たちはそれぞれが受けた約束の地において敵を完全に「聖絶」する仕事に取り掛かっているのです。

 

一昨日の朝、再び主は私に今度は「ヨシュア記」を読みなさいと言われました。そこで読み進みながら改めて気がつかされたことは、約束の地に入ってすべての事をなさったのは主ご自身であることです。先ず洪水時期のヨルダン川の急流をせき止め、民を渡らせました。次に最初の敵であるエリコの堅固な城壁を崩れ落させ、この町をイスラエルの手に渡しました。又、ギブオンでは太陽を天の真上で丸一日停止させました。これらはすべて前代未聞の神にしか起こせない大奇跡です。そして神ご自身が戦って敵をことごとく民の手に渡されたのです。それによって主は民に「敵を聖絶する」とはどう言うことかを徹底的に教えました。特にエリコに大勝利した後、小さな部落アイで敗れたこと、その敗れた理由を私たちは教訓として肝に銘ずべきです。

 

一方、終末における私たちの戦いもまさにその通りであることが黙示録を見ればよく分かります。私たちは戦いに参加しますが、本当に戦われるのはすべて主ご自身です。それが神のやり方であるのです。この世の中から敵を完全に聖絶・駆逐し、そこに住む主の民を聖別して「真の神の民」となるように聖めるのはすべて神がなさるのです。

そうであれば、私たちは一体何をすればよいのでしょうか。それは「主の御声によく聞き従い、主のすべての命令を守り行う」ことです。(申名命記28:1その他)それが出来なかったゆえに、モーセに率いられてエジプトを出て来た初代のイスラエル人は、荒野を40年間さまよった後に、約束の地を見ることすら出来ずに荒野で死に絶えたのです。そのことがヨシュア記5:6に書かれています。

これは1コリント10:11に「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれていることを私たちは十分にこころすべきです。これは聖書の教えの中の最も重要な教えであることを、私たちは決して忘れてはならないと思います。

最後にもう一つ、主がヨシュアに言われた次のことばも、これからの私たちにとって最も必要とする御言葉です。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)

 

終末の艱難時代を迎える私たちに、主がこの難解と言われる「黙示録」を与えられたことの意味を、今私はひしひしと感じております。大艱難を通らせるという最後の「弟子訓練」(これは最後の総仕上げです)は、「踏み絵を踏むか踏まないか」に代表されるような熾烈な試練を受けるのです。もう一度申し上げます。最後の時代に生きるクリスチャンは人間史上最も恐ろしい経験と試練の中を通されます。しかし、だから、主は言われるのです。「恐れるな。強くあれ。」と。そして「わたしがついているのだから。」と励まされます。

真の神への信仰とは「クリスチャンは主の御声に聞き従ってさえいれば、その結果殺されようが、どんなに苦しめられようが、どう転んでも、絶対に損はない。むしろ苦労の中を通れば通る程、祝福は大きい」というものです。ですから、リック•ジョイナー師が天国で聞いて来たと言われるように、既に天に召されている信仰の先輩たちは皆、この最後の時代に生きる私たちが「うらやましい」と言い、固唾をのんで私たちを見守り、祈ってくれているのです。(終わり)


15 12月

終末の艱難時代が目前に迫る(1)           坂  達 也     2014年12月15日


終末の艱難時代が目前に迫る(1)

 

            坂  達 也

 

2014年もいよいよ年末が迫って参りました。この時期に今年一年間(あるいはここ数年間)に世界で起こっていることを振り返って見ることは、大きな意義があるように思います。最近私がひしひしと感じることは「いよいよ終末の時代に入った」ということです。そう感じるのは私だけでしょうか。

 

「収穫とはこの世の終りのことです」とマタイ13:39に書いてあります。

収穫とは英語でハーベスト、すなわち、成熟したものを刈り取ることです。但し、成熟するのは良いものだけでなく、悪いものも成熟します。と言うことは世の終わりには、良いものの実りの収穫である大リバイバルが起こると同時に、悪いものも成熟の頂点に達しますから、これも刈り取らねばなりません。そのことがどのようにして起こるかーーそれが詳しく書かれているのが、使徒ヨハネによる聖書の最後の書「黙示録」です。

 

しかし、その黙示録に入る前に、世の終わりに起こることを適切に説明してくれている箇所にマタイによる福音書24章がありますので、それを先ず、手短に見てみたいと思います。この福音書に書かれていることが、実は今非常に現実味を帯びて来ているように私には感じられます。例えば6−13節には次のように書かれています。

「戦争と戦争のうわさとを聞く・・・しかし、それは起らねばならないが、まだ終りではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。・・・あちこちに、ききんが起り、また地震が起こる。すべてこれらは産みの苦しみの初めである・・・人々は、あなたがた(クリスチャン)を苦しみにあわせ、また殺す・・・わたしの名のゆえにすべての民に憎まれる・・・多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合う・・・多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わす・・・不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える・・・ しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 

その後の21−24節に次にように書かれています。

「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起る・・・もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められる・・・キリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとする。」

この部分はいわゆる大艱難 Great Tribulation と言われる最後の三年半の期間です。そして、その後にキリストの再臨があることになります。それが29−31節に次のように書かれています。

「・・・その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れる・・・地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見る・・・彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」

 

さて終末の時代の推移として現時点がどの辺りかと言えば、今は上記で言う「産みの苦しみ(艱難)の初め」に位置していると思うのですがいかがでしょうか。

 

以上は前置きでしたが、これから「黙示録」に入りたいと思います。皆さんは既に黙示録を何度もお読みになろうとされたことと思いますが、奇異で耳慣れないことばが仰々しく書かれていて何かよく分からない、一言で言えば複雑多技で難解な書であると思いませんか。

一つはっきりしていることは、世の終わりには前述の通り、悪魔とその業も成熟することです。その長年の悪魔の非情きわまりない悪行が頂点に達する時点で、神はその「実」を刈り取って火で焼いてしまう、すなわち、この世の悪いもの一切に対し最終的なさばきを宣告し、それを処分すると言う劇的な壊滅の「幕開け」であることです。この「さばき」は大変厳しく、そのプロセスは壮絶、これ以上ない恐ろしい惨事になることがこの黙示録で詳しく書かれています。

但し誤解してはならないことは、この「神のさばき」はあくまで悪魔とその業の実りに対してであって、神を信じ神に従う者へのさばきではないことです。

 

ところがこの世の中は、人間が罪を犯すようになって以来、悪魔が支配して来ましたから、悪魔の業が成熟すると言うことは、この世の中が考えられない程ひどく悪くなることです。しかも悪魔は神の国イスラエルとクリスチャンを徹底的に憎み迫害して来たのです。それも頂点に達します。

そんな世の中に神を愛するクリスチャンも生きている訳ですから、悪魔の仕業で世の中が極端に悪くなるにつれ、クリスチャンもその巻き添えとなって、大変な苦しみの中を通らされると言うことを覚悟しなければなりません。この終わりの時代に起こる艱難時代(今までは7年と言われていたが、最近では3年半と言われる)は神学的に「大艱難時代」と呼ばれれています。

 

 

大艱難期前・携挙説と、大艱難期後・携挙説

 

ついてはこの「大艱難時代」をクリスチャンが通るのか、あるいはその前に天に挙げられて通らないで済むのか、昔から大別してこの二説が大きな神学論争の的となって来たことは皆さんよくご存知の通りです。

私の理解では19世紀以前はほとんどのクリスチャンが大艱難を通った後に携挙されると言う考え方を信じていたと言われます。しかし、20世紀に入って以降、大艱難を通る前に挙げられると言う考え方が強くなり、今ではアメリカでも日本でも後者を信じる人が大半であると言われます。皆さんはどちらを信じますか。

 

そこで最近私が気が付いたことは、この二つの考え方がクリスチャンの最終目標である「霊的成熟」を育成するか、あるいは阻むかの重要な分かれ目になると言うことです。その理由を申し上げます。

霊的成長の最終目標とは、クリスチャンが「イエスに似て、イエスに等しい」程、父なる神に徹底して従順な 「息子・娘 Fuios 」 になることです。しかも私たちへの神の期待は、私たちの想像を超えたものであることです。しかしそれ以上に私たちの想像を遥かに超えているのは、私たちに内住する聖霊の力の偉大さです。人間の思いでは、神の力は想像ができないのです。

主イエスは「・・・あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)と言い、「あなたがたのからだを父に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。」(ロマ書12:1)と命令しています。そして、 ヤコブ1:3、4で「信仰が試されると忍耐が生じる・・・その忍耐を完全に働かせなさい。そうすればあなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者 となります。」とまで言われるように、父の要求度は非常に高いのです。神は、私たちに実現不可能なことを要求する方ではありません。聖霊による訓練によって私たちはそうなれる、従って、そうならなければならないのです。実はこの域に達することが大宣教命令でイエスが「あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・」と言われた「イエスの弟子訓練」の意図するものであるのです。そうであるなら、並大抵なことではそうなれないけれども、不可能はないと神が言われるのですから、私たちが一大決意をし情熱を傾注するならば、そうなれるのです。

そこまで覚悟する時、「この大艱難の中をクリスチャンに通らせる」ことが、私たちに最も必要な霊的訓練のための、はっきりとした主のご計画であることが見えて来ないでしょうか。ところが人間の考える神学では、神は罪人に対するさばき(神の怒り)である大艱難をクリスチャンに通らせるはずはないと考えるようになったのです。私はこの考えは終わりの時代に於けるサタンの惑わしであると信じます。

なぜなら、クリスチャンが最後の艱難に会わずに天国に挙げられると言うことになれば、ほとんどのクリスチャンがなまぬるい「肉の思い」を持ったままイージーゴーイングの考え方を変えないからです。少なくとも私は、人間の「罪の思いと言う深い根」は尋常なことでは断ち切れないことを嫌という程味わって来ましたから、それが断ち切られるのであれば、たとえ何度死ぬ目に遭い、最悪の辛い試練を通らせられるとしても私にはそれが必要であると思っています。そして実際に大艱難の中をほとんどのクリスチャンは通されると信じます。そうであれば、今からそのようなへりくだった心の準備をしておく必要があると思うのです。さもなければ、実際に大艱難が来た時には慌てふためくだけで霊的準備不足が悔やまれると危惧します。

ところで、黙示録には「悔い改めなさい」と言う言葉が多く出て来ます。それはマタイ伝でイエスが宣教を開始した時の最初のことばが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)と言われましたが、それと同じ意味です。

この言葉の原語は本来「考え方を変えなさい」と言う意味です。終わりの時にクリスチャンに(未信者にだけではありません)とって一番必要な言葉がこれです。人間はクリスチャンであっても、主に聞くことをせず、つい何事も自分で考え、知らぬ間に人間的な罪の考えに落ち込んでしまいます。特に終わりの時には悪魔がクリスチャンを執拗に惑わそうとしますから余計にそうです。それをご存知の主は開口一番「人間的な考え方を捨て、御国の考え方、神の御心が何であるかを常に心しなさい」と警鐘を鳴らして下さっているのです。御国のクリスチャンが常に悔い改める生き方(自分の考え方を常に神の考え方に合わせるライフスタイル)をする必要があるのがこれでよく分かります。(続く)


22 11月

2015年を間近に控えて                坂  達 也  2014年11月22日


2015年を間近に控えて

 

                    坂  達 也

 

多くの人が2015年、16年は大きなことが起こることを予測すると共に「打ち破り」が起こることも期待しています。そこで今回は終わったばかりのアメリカの中間選挙が今後のアメリカにどのように影響するかに関して、ジョイナー師の意見を先ずご紹介し、その後で、私自身が2015年に対して感じていることをお分ちさせていただきます。

 

アメリカの中間選挙が終わって

リック・ジョイナー

 

先日行われた2014年のアメリカの中間選挙は、一言で言えば、現職オバマ大統領(民主党)が国民によって、今までに前例がない程大きな叱責 rebuke を受けるという結果で終わりました。大統領自身が認めるように、彼のやって来た政策は、今回の選挙で圧倒的多数の国民によって却下されたことになったのです。

選挙結果としては、共和党が民主党に対して、下院においては歴史上最大の大差を付けて勝利し、上院においても久しぶりに過半数を制しただけでなく、州知事選をはじめとするあらゆるレベルにおいて圧倒的勝利を獲得しました。

 

exit polls(投票所における選挙後の投票者に対して行う意見調査)で明らかになったことは、投票者は二対一の割合で「国が間違った方向に進んでいる」と言い、それに対して多くの人たちが怒りを感じていること、全体の8割以上の人が「アメリカの将来を憂いている」と答えています。国民が今一番関心を持っている問題は次の通りです。

 

  1. economy  経済 (45%)
  2. healthcare オバマ・ケアと呼ばれる悪名高い国民健康保険制度(25%)
  3. illegal immigration 主にメキシコ人の違法入国問題/移民法(14%)
  4. world affairs 世界情勢(13%)

 

そして選挙直後の現在、アメリカは二つの大きな課題に直面しています。

1)過半数を獲得した共和党が、今回国民から示された圧倒的な要望と期待に答えることが出来るか。

2)民主党のオバマ大統領が、共和党がリードする上下院国会に協力するか、或は対立して自分のやり方をあくまで通そうとするのか。

 

前回全く同じような立場に立ったのは民主党のクリントン大統領でした。彼は、過半数をしめる共和党にうまく協調することによって、国家予算の運営において赤字解消に成功し、国の膨大な累積負債をいくらかでも返済をするという最近のアメリカ史上では稀に見る政治的成果を上げました。これが功を奏し、その後しばらく続いたアメリカの繁栄の基礎を作ったのです。もっとも、それに対する国民の評価のほとんどはクリントン大統領が取った形となり、彼の人気が高まりましたが、国民の要望に応えて実質的に貢献したのは共和党のリーダーシップによるものでした。

 

後二年の任期を残すオバマ大統領は、へりくだってクリントンを見習い、共和党に協調して国民の期待に応えるならば、少なくとも彼の人気は現在の最低の状態から回復に向かい、彼の政治力が歴史に残る可能性は十分にあります。しかし私たちはそれを望んで祈るにしても、オバマ大統領が国民の信頼を失った大きな理由の一つは、彼は言葉ではよいことを言い、約束はしても、実行が伴っていないことにあることを、この際十分に認識せねばなりません。

一方、もしオバマ大統領が共和党と敵対し、あくまで自分の政策を通そうとするならば、2016年の大統領選挙を控えた民主党自体が、今回国民から受けた厳責に対して反省しない大統領から距離を置く可能性が十分にあります。事実、今回民主党が大敗した最大の原因は大統領にあると言う非難が、既に民主党内から出て来ております。加えて勢力を強めた共和党が、今まで大統領として相当な権限逸脱(憲法違反も含めて)を強引に重ねて来たオバマ大統領に対して厳しく批判し、一層厳しく追及するでしょう。そうなると、もしオバマが大統領の持つ議会決議への拒否権 veto を行使した場合に、多くの民主党員が共和党に加担して(議案の再審議で2/3以上の票数を取ることによって)大統領の拒否権を無効にするという事態が起こり得ます。

 

民主党は今回、国民から信用失墜の烙印をはっきりと押されましたが、しかし共和党にしても決して大きな信頼を受けているわけではなく、ここでもし国民の期待を裏切るようなことしか出来ないとすれば、今回得たせっかくのチャンスを台無しにする可能性も十分にあります。大勝利したからと言って、ここで安心してはおられません。

 

ここで前述した四つの国民の関心事と要望について触れます。

最大の問題は国の経済に関する国民の憂慮です。政府は、経済の回復に関する一部の指数だけを示して景気はよくなったと強調しますが、多くの国民は政府の言うことを信用せず、アメリカの経済情勢は表面に現れている数字より遥かに悪いと感じています。非常に憂慮すべき経済破綻の大きな地鳴りが今高まっていることを国民はひしひしと感じているのに、政府のリーダーたちは感じていない(あるいは隠している)ーこれが今回の選挙で国民が、政府と大統領に対して下した一番大きな不信任宣告の理由であり、それだけに国民の最大の関心事である訳です。

 

オバマ・ケア  Affordable Care Act (AFC) が、affordable (手頃で支払い可能な値段) ではないことが明らかになって来ました。私たちのモーニング・スターの団体には135人のスタッフがおりますが、政府の言う事を聞いていると、私たちは働いている人数を半分に減らさないとaffordable にはならないことが分かって来ました。多くの中小企業が同じ不満を訴えています。これは現大統領が敢てごり押ししようとしている政策の一つで、もし新しい年の国会で改定案が通らなければ、アメリカ経済の将来に大きな足枷 yoke を加えることになります。

 

違法移民  illegal immigration これは今は三番目にリストされていますが、この問題を早くうまく処理しなければ大変な国家的問題となります。それは国の経済問題に影響するだけでなく、私たちの生活そのものに大きく響いて来ます。これに関連して、メキシコとの国境を越えてテロリストがアメリカにどんどん侵入して来ます。私たちの国境を固く守る(アメリカ入国者を適切に取り締まる)ことは、アメリカが自由国家として存続するかどうかの分かれ目となるーそれほど重大な問題です。

 

外交関係 world affairs  オバマ大統領とクリントン国務長官になってからアメリカとよい関係になった国の名前を挙げて下さい。一つもありません。ロシアとの関係、アラブ諸国との関係(ISISの出現に至る) …….紙面がないのでこれ以上言及しませんが。

 

忍耐への決意

 

小舟の舵をきるのは簡単ですが、大きな航空母艦の向きを変えるには時間が掛かります。アメリカはこの六年間、左に寄り過ぎて来ました。これを正しい方向に舵をとって向け直すのは一朝一夕ではできません。適切な戦略と知恵なくしてただ性急に短期間で方向転換すれば、もっと大きな危険を招く事になりかねません。

結論として言えることは、今回の選挙結果は、アメリカがよい方向に向きを変えて進んでいくモーメンタム(はずみ)を与えたように思われます。しかしそのような時にクリスチャンと保守的な国民は、往々にして安心し過ぎて又寝てしまいます。これから必要なことは、更によいモーメンタムをつけることです。

ヨシュアが最初の敗北を経験した時に必要であった忍耐と知恵が今のアメリカには必要なのです。

ヨシュアが率いるイスラエルの民は、エリコでの戦いで驚くべき勝利を得ましたが、その後で小さな町アイ Ai に対して思いがけない敗北を喫しました。これは驚くべき事実で、私たちに大きな教訓を残してくれました。この選挙は大きな勝利でした。しかしアメリカを元来のコースに戻すためには、未だ始まったばかりの最初の一歩に過ぎません。今は気をゆるしたり、慢心・傲慢になる時ではありません。(以上でジョイナー師のメッセージは終わります)

 

さて、これから私自身のコメントを加えさせていただきますと、現時点のアメリカは、株式市場だけを見れば一見大変なブームで、ドル相場も予想外に高騰していますから、近い将来も含めアメリカの景気は非常によいように見えます。しかし、その表面下で実際の一般消費者の感覚は全く別です。アメリカ国民は今、国の内外に対する政府の対応に深刻な不安感を持ち、それが今回の選挙でオバマ大統領とその政府に対する予想以上に厳しい評価として爆発し表面化したと言えます。

アメリカに未曾有の経済恐慌が迫って来ている、と言う予測が最近出回り、かなりの人たちがそのような記事とか報道を見聞きしていることに気がつきました。その代表的な例として、今年のNYタイムズのベストセラーになったJames Rickards著のThe Death of Moneyが挙げられますが、その他二、三の経済・金融・株式市場の専門家たちによって書かれたものが、新聞、経済誌等で取り沙汰されています。問題にされているのは、既に数年前から懸念されて来たアメリカにとって既に返済不可能な膨大な財政赤字とか、フェデラル・リザーブが印刷して来た1兆ドル以上のドル紙幣の氾濫がドルの暴落を呼び、世界経済が混乱に陥ると言うものです。一方で、ドルの暴落は起こらないという専門家のはっきりした意見もあって、何も起きずに現行のまま続行するかもしれません。

 

しかし、ここで考慮すべきことは、リック・ジョイナー師がこの夏ビジョンで見たことです。それはメキシコとの国境を超えてテキサス州にISISが侵入し暴挙に出るというものでした。それに加えて、彼は「アメリカに軍隊による戒厳令が布かれる時が来る」という預言も以前しています。又、ヘンリー•グルーバー師による預言には、ロシアの潜水艦からアメリカの東部海岸の主要都市に(核)爆弾が打ち込まれるというものもあります。

 

世界情勢に一大事が起こるという点で考慮しなければならないもう一つの深刻な可能性があります。これについては私がこの数ヶ月間どうしても頭から離れないことなのですが、それは皆様よくご存知の2014年と15年の「過越の祭り」と「仮庵の祭り」の日に4回続けて起こる皆既月食 blood moon の意味についてです。

過去においてこれと同じことが起こった年に何が起こったかと言えば、1967年にイスラエル軍隊がエルサレムを奪還しており、その前の1948年にはイスラエルの国が改めて独立しました。となれば、この2014年の仮庵の祭りから2015年の仮庵の祭りまでの一年間に何かイスラエルに大変事が起きると言うことが十分に考えられます。

私の思いに来たことは、エルサレムにおいて第三神殿の建設が開始されることです。これはイスラエルにとっては1948年、67年に起こったことに続いて、それに匹敵する大事件となるでしょうし、第三神殿が建たなければ、世の終わりが来ないことを考えれば、今神殿が建てられることは決しておかしくありません。

しかし、そうなると大変な争いが起こることを覚悟しなければなりません。現在アラブの聖地として Al-Aksa Mosque 寺院が建っているテンプル・マウント Temple Mount 付近で最近新たな争いが起こっていますが、ここにユダヤの神殿が建設されるとなれば、それが引き金となってアラブ/イスラエル間で未だかってないスケールの大戦争に発展する可能性は充分以上にあります。イスラエルを囲むアラブ諸国が一斉に ISISのようにイスラエルに侵略して来るかもしれません。

その結果、世界は前の二度の戦争(48年、67年)の時以上に大きな神の奇跡(イスラエルの大勝利)を見ることになるのではないでしょうか。但し、これが世の終わりの大戦争につながるとは思えません。神殿が建つのには2、3年は掛かると思うからです。(既に色々な資材が用意されていると聞きますが)と言うことは、たとえイスラエルに大きな戦争が起るにしても、その後に又、小康を保つ時期が来ると考えられます。

もしイスラエルに大きな戦争が起これば、必然的に世界中が戦争に巻き込まれるでしょう。そうなった時に、先程挙げたアメリカの経済破綻がむき出しにされ、それが世界経済を揺るがし、苦境に陥ったアメリカにおいてジョイナー師やグルーバー師の預言が実現するような事態に発展する可能性が出て来ます。そして世界情勢は増々緊迫し、終末の聖書預言で未だ成就されていないものが次々に起こる事態に移行して行くと考えられます。

 

私はこのような、下手をすれば必要以上にセンセーションを煽るようなメッセージを今まで努めて書かないようにして参りました。しかし、今回ジョイナー師のメッセージを紹介しなければならないと考えたのは、アメリカの現状そのものが2015年以降の終末の気配を十分に見せていること、それにイスラエルに戦争が起こることを強く感じていることをお伝えしたかったからです。

従って2015年は、今まで長く続いた「いつも通り」の「平和な時代」にいよいよ終止符を打つ年となるような気がします。しかしながら、その一方で最後の世界的大リバイバルがこれからいよいよ本格的に起こる気配も整って来ました。

 

主は既に立ち上がっておられます。と言うことは、私たちクリスチャンも主にあって万端整った霊的武具と装備に身を固め、最後の総攻撃とも言うべきリバイバルへの戦線に参加する時が来ました。

最後となりましたが、2016年にはアメリカ大統領選挙が来ます。その時にどちらの党から出てもよいのですが、若い世代のパッションのあるクリスチャンの大統領が選出されることを心から願っております。そのことを含めアメリカのためにぜひお祈りください。(終わり)


08 11月

私たちは主に嫌われる人になってはいけない          坂  達 也  2014年11月8日


私たちは主に嫌われる人になってはいけない

 

                    坂  達 也

 

この世の中には三種類の人間しかおりません。その中に、主が最も嫌われる人たちがいるのをご存知ですね。そのような人を主は、口から吐き出す程嫌いであると言われます。それは一体誰でしょうか。なまぬるいクリスチャンです。

 

 黙示録三章でラオデキヤにある教会に向けて主はこう言われます。

「15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。16このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」

 

そうです。三種類の人間とは「冷たい」か「熱い」か「なまぬるい」かの人間です。主は「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」と言われます。私は未だクリスチャンになりたての頃ですが、この聖句を読んで直ぐ思い当たったのはコーヒーのことでした。コーヒーは熱いか冷たいかに限りますね。まさに、なまぬるいコーヒーは本当に口から吐き出したくなります。

 

ここで主が言われる「冷たい人」とはどんな人でしょうか。一般的には霊的に全く冷たい人、すなわち未信者を指すと思います。主は未信者に対しては大きな期待を持って接し、嫌われません。可能性があるからです。うまく導いて、真の栄光あるゴスペルを教え、正しく弟子訓練すれば「熱いクリスチャン」にすることが出来るからです。

 

 主は又、「あなたはクリスチャンとして冷たくもなく、熱くもない」と言われているように思いますが、その意味について、私は少し別のことが頭に浮かびました。クリスチャンは冷たいならうんと冷たい、すなわち「自分の肉に死んで冷たい」人間でなければならないことです。

私が最後にクリスチャンの死体に触ったのは、3年程前に亡くなった姉の身体でしたが、死体とはこんなに冷たいものかと驚きました。私たちは生きている時から肉にはこれ程冷たく死んでいなければならないのだと言うことに気がつかされ、そのことをとても印象的に覚えています。やさしい顔の姉の死体が冷たく横たわっている姿を見て、私は悲しみよりも、むしろ姉の霊と魂がこの世のすべての労苦から解放されて、今は主と共に天に召されて喜んでいる姿を頭に浮かべ、冷たい死体にいとおしさを感じたのでした。

 

皆さんは、肉の身体に死にきれずに、未信者と変わりないほど生暖かく、又、霊的にも熱くない「なまぬるいクリスチャン」ではありませんね。私もそうでないように心がけています。

一方「霊的に熱い」とは、原語の「熱い」は煮えたぎる程熱い意味だそうですから、私たちが主イエスに対して「熱烈な愛とパッションを持つ」クリスチャンにならなければならないという意味でありましょう。

 

それでは熱い情熱に燃えるクリスチャンとは具体的にどんなクリスチャンなのでしょうか。

 

 私たちクリスチャンはビル・ジョンソン師が言われるように、「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。・・・」(マタイ6:9、10)と言う「主の祈り」をこれまで祈り続けて来ました。しかし、主は今、私たちがただ祈るだけでなく、実際にその祈りを実現する人になることを期待しておられます。つまり誰かが天で行っていることを地でも行うーそれを実際に行動に移すことをしなければなりません。そして今、その時が来たのです。ご存知の通り、今そのような天から持ち込んだ色々な奇跡がどんどん起こっています。

 

天の御国(高次元)では、日常誰でも超能力を使うことが出来、病気の人はいません。必要なものはすべて充たされる世界です。(主の祈りに「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」と言う祈りがある通りです。)

又、天にいる人だけでなく、地上のクリスチャンでも、霊の力を働かすことの出来る人は、どこへ行くのも望めば一瞬にしてぱっと目的地に行けます。これを瞬間移動 translationと言いますが、聖書では地上でそのような奇跡がなされたことが書かれています。その実例として、ピリポの場合:使徒8:39−40、イエスの場合:ヨハネ6:21があります。現に、この世のミニストリーでこの超能力を利用している人がおりますが、一瞬にして無料で世界中どんな場所にでも移動できるのですからすばらしいではありませんか。

 

 それと共に霊の世界では複数の場所に同時にいることが出来ます。その例としてエペソ2:5、6に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」と書かれています。

ここで、私たちはイエスと共に既に天の御座についていると書かれていることにご注目下さい。いや、それは霊の形でであって実際に肉の形では地上にいるではないか、と反論されるかもしれませんが、実はその通りです。霊で生きているクリスチャンは、肉と霊で二つの場所に同時に存在出来るのです。聖書には「見えるもの(一時的)にではなく、見えない(霊の)もの(永遠に続く)にこそ目を留める」と書かれているように霊の世界、霊のものにこそ真の永遠の力が具わっているのですから、私たちが既に霊的にイエスの中にあって天の御座に今もイエスと共に座しているという事実を信仰で確信しているならば、それが可能なのです。事実今、天と地の間を瞬時移動して往復し、天で主にお会いするだけでなく、既に天に召された多くの人に会って来た人がどんどん出て来ています。

 

私は、実はこのところ、今真剣にそのことを心から願い、毎日主に「顔と顔を合わせてお会いしたい、お話したい」と心熱く嘆願している最中です。これはクリスチャンとして必ず聞かれる願いであり、主の方こそ私たちがそう願い出るのを待っておられる、当然実現する願いであることに気がついたのです。

 

 なぜかと言えば、私たちクリスチャンは第一に「主の花嫁」であり「主のからだ」として既に主の中で生きている、主が私たちの中に生きている、と言う「一体」の関係にあると聖書にはくどい程書かれているではないですか。そんなのっぴきならない関係にあるとすれば、特に、私たちがキリストの花嫁であるのなら「花婿である主に未だ一度も顔と顔を合わせてお目にかかっていない」などと恥ずかしくて言えないと、少なくとも私は思います。いや、夢の中とか、幻で主とあった人は多くおられると思いますが、私はモーセのように、主と本当に顔と顔を見合わせてお会いし、親しくお話ししたいのです。

 

そこで、主にお会いするには、天に私を呼んでいただくか、あるいは私のところに主が来て下さるかのどちらかですが、私は今両方お願いしております。

と言うのは、私たちが「御国をこの地に来らせる」と言う最も重要な役目の一つを仰せつかっているのであれば、天の御国の王であるイエスが、この終末の一番大事なときに王自らがもっと頻繁に地上に出て来られるのは当然でありましょうし、一方、私たちも誠実なビジネスマンのように業務打ち合わせのため足繁く天に出張するのは当たり前ではないでしょうか。

 

最後にもう一度申し上げたいことは、主にこのことをお願いするためには、主に対する熱烈なパッションを持つことが絶対に必要であると言うことです。主の花嫁になる最も大事な資格は、主を熱烈に愛し「毎日会わずにはおられません」と叫ぶ人になることではないでしょうか。そうなるためには、決して「なまぬるいクリスチャン」であってはならないのです。ですから主は、なまぬるい人を口からへどのように吐き出すと言われるのです。

私たちがなまぬるいクリスチャンになってしまったとすれば、その最大の原因は、私たちがあまりにも宗教的に育ち、あまりにも頭のクリスチャンで過ごし過ぎて来たからであると思います。その結果、私たちはいつまで経っても「力のない能力の低い肉の人間」のままで甘んじて生きることに抵抗を感じなくなったのです。私は今、自分がそうであったことを心から反省し、悔い改めております。そして激しく主を求めております。

 

考えてみて下さい。私たちクリスチャンの一人一人に聖霊が内住して下さっていると言う驚くべき事実を、皆さんはどう受けとめておられますか。聖霊は、私たちがこの地上で天の超能力を最大限に発揮するように、私たちを助けるために来られたのです。私たちはもはやか弱く能力に劣る「肉の人間」ではありません。聖霊の助けを借りれば、イエスが「わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行う」(ヨハネ14:12)と言われるような超能力を持つ霊の人間に生まれ変わったのです。

人間が神から受けた恩恵の中で、イエスの十字架の御業と並んで、イエスに信仰を持つ人間それぞれに、助け主として聖霊を賜ったことほど偉大な賜物は他にありません。クリスチャンはそのことの意味をもっと魂の奥底から認識する必要があると思います。創造者の神のなさった創造行為で、これ以上に大きな奇跡、又、これ以上に大きな神の愛と恵みが他にあるでしょうか。(終わり)


12 09月

主の栄光を見上げつつ、主と同じ姿に変えられる 坂 達也 9月12日


主の栄光を見上げつつ主と同じ姿に変えられる


          坂  達 也       2014年9月12日


最近主から特に強く示されている御言葉があります。それは2コリント3:18です。但し、日本語訳の新改訳と新共同訳では一番重要なことが抜けている点を先ず指摘致します。それはどちらの訳も「鏡のように主の栄光を反映させながら」(新改訳)、あるいは「鏡のように主の栄光を映し出しながら」(新共同訳)と訳してはいますが、肝心な「見上げる、見る」
Beholding as in a mirror the glory of the Lord という言葉が抜けています。


そこで口語訳を見てみますと、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(二コリント3:18 口語訳)となっており、「見つつ」が適切に訳されています。
このみ言葉が今の最後の時代にいかに大切であるかということを今回は強調させていただきます。

なぜなら、ヨハネ17:22-24に「22またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。・・・・・24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったもの(私たちクリスチャン)をわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが(いつも)見るようになるためです。」と書かれているからです。

上記から分かることは、第一に私たちは既に主の栄光を与えられていることです。すなわち、私たちは霊的には神の御子と同質であるのです。そして、主の栄光の力とは、ものすごい超能力の力であることを真に理解し確信し、納得する必要があります。それによって、私たちは今、その力を信仰で行使する時代に入ったのです。


次に、主が父に願ってそれが許されているように、私たちは今既に天の御座に主と共に座っているという事実をはっきり認識することが、今の私たちにとって最も重要なことの一つであるからです。主の栄光が与えられていなければ、私たちは主と共に父の右座に座ってなどおられません。私たちに主の栄光が与えられているということは、私たちはすること、なすことすべて主と同じになれると言うことであり、信仰でそうならなければならないのです。
言ってみれば、私たちには既に住まいとしてこの上ないすばらしいセカンドハウスを持っているのです。皆さんは、その天の別荘をいつも訪ねて主と共に過ごす時を楽しんでおられるでしょうか。私たちクリスチャンのそれぞれが「主の住まい」であるならば。主の天の住まいは私たちにとっての「住まい」であるはずです。

その天の住まいに行くことが、すなわち、私たちが「主を見上げ、見つめ、御顔を拝する」ことでなくて何でしょうか。それだけではありません。最近は霊の身体で天に行った人や、時々行ったり来たりしている人は意外に多いようですよ。

私たちが主の栄光を既にいただいているのなら、この世にない超自然のパワーを既にいただいていて、例えば、この三次元+時間の世界における「距離」は超越できるのです。ピリポが一瞬にして別の町に移されたように、私たちは天に瞬時に行ったり、あるいは地上で一瞬にしてある地点からある地点に移動できるのです。イエスが水の上を歩いて来て弟子たちの小船に乗り込んだら、あっという間に向こう岸の目的地に着いた―イエスが用いたその力が私たちにも使えます。

モーセはホレブの山で、水も飲まない40日断食を二回も続け、昼夜主を見上げて過ごしました。彼ほど主を見上げて時を過ごした人はいないと思います。そのモーセの顔は主の栄光が反射して輝いていました。まさに2コリント3:18に書いてある通りです。ですからこそ、モーセは内から変えられ(トランスフォームされ)何にでも耐えられるような、完全に自分に死んで主に100%仕える超人になったと思います。私たちもそうならねばなりません。そのためには主をもっともっと見上げればよいのです。

主に似た者になる

私たちの最終目標は「主に似た者になる」ことです。ところで、この主に似た者になるという言葉ほど曖昧で、誤解を招く言葉は他にないと思います。「似た者」とは「どれだけ似れば」よいのですか―恐らく宗教的な人たちは、私たち人間が全くキリストのような人になることはできない、そうなれると口にすることすら神への冒涜、不遜であると言うかもしれません。
しかし、上記の聖書に何と書いてありますか。「父と子、と私たちが一つとなる」ことが書かれています。一つとなると言うことは完全に同質、同じものが一体となることではないでしょうか。それには父と子は同質・完全一致であっても、私たちは多少でも、いやかなり「似てさえいればよい」のでしょうか。そうではないと思います。全く同じものにならなければならないと思いませんか。


そんなこと不可能だと思わないで下さい。確かに人間の力では不可能でしょう。しかし全知全能の神に不可能はありません。聖霊が私たちをそのように変えて下さると言うのですから、それに逆らわずに素直に信仰で信じれば、そうなれると主が言われるのです。
この2コリント3:18で「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と書かれている部分は英語で to the same image of
the Lord で imageのギリシャ語はstrong #1504 eikonです。この場合、特にキリストと「同じイメージ」と言うのは
「似ている」というより 「全く同一」という意味のようです。

さて最後にもう一つ次の聖句をご覧下さい。
1ヨハネ4:15 「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日(これから来る終末の時代)にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

最後の下線部分の英語は because as he is, so are we in this life.です。ここでも私たちがキリストの在り姿と私たち一人ひとりの在るべき姿が全く同じであることを主は期待しておられることが分かります。しかもそれが「この世にあって」の話であることにご留意下さい。

以上のことから明らかなことは、私たちが主を心から愛をもって見上げる時、あるいは、御顔を拝することによって、私たちの内的な資質が主と同じ資質に変えられるということです。そうであれば、後は私たちがどれ程真剣に、熱烈なパッションを持って主を見上げ、追い求めるかに掛かっています。
ついては、主が一つだけ嫌われることがあります。それは、なまぬるい者、なまけ者は、主が口から吐き出したくなる程嫌われることです。

私たちは心から「・・・恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」とパウロが言うように、主を益々愛し、賛美しつつ、毎日出来るだけ多くの時間を「主を見上げて、見つめる」ことに費やそうではありませんか。(終り)


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