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12 01月
WWGM 2016年の計画
坂 達 也
新しい年2016年を迎えました。皆様の中には今、新年がどのような年になるかを、抱負と期待をもって熱心に主にうかがっておられる方もおられるかと思います。そこで私たち WWGM としても年頭に当たり、下記の通り、先ず今年の計画を皆様にお分ちさせていただきたい、そのためのお祈りとご協力をお願い申し上げる次第です。
今年は、私が80歳を迎える一つの節目の年であるのですが、私がクリスチャンに新生してから40年が経ち、新年はいよいよ次の40年目を踏み出すという新たな信仰の思いで膨らんでおります。(但しそれが肉の思いでないことを吟味しつつ)昨年迄はまさしく先週のメッセージでダッチ・シーツ師が云われるように、私たちも試練と忍耐の中を通されながら主から「待つ」ことを学んで参りました。一つ云えることは、私たちはそれから決して逃れることを望むのではなく、再臨の日迄、主が私たちへの愛のゆえに私たちそれぞれに必要な信仰の厳しい訓練を賜ることは、私たちが神の子であるかけがえのない特権であり、私たちの望むところであることです。
しかしながら、今年が今迄と少し違うのは、今年からより多くの人たちに、それぞれに必要な「打ち破り」と、信仰で待って来たことを実行に移す「カイロス・タイムのよい機会」を主が与え始めて下さるという期待を感じていることです。
そこで私たちの今年への予測と計画は下記の通りです。
(1)新年は、世界各地で益々激しくなる戦争とクリスチャン迫害、そして経済破綻が起こる間をぬって、リバイバルが起こり始める気配が期待されます。すなわち、世の中がいよいよ暗くなり、その暗闇の中で私たちが主の栄光を輝かせる機会をいただくということであり、それを逸することのないようにお互いが一致協力する年であるように思います。又、この世には既にものすごい大量な情報が氾濫し、多くの人々はそれに肉的に麻痺されていますが、これから益々「反キリスト」「偽使徒・偽預言者」からのメッセージが流されることを覚悟しなければならないと思います。
そのような中にあって私たちWWGMのミニストリーが、その氾濫する情報源の一つで終わることなく、より霊的で的確な主のメッセージをお届けするために一層の霊的努力をしなければならないと覚悟しております。そのために、今年は、真のリバイバルが起きようとしている場所を厳選して訪ね、そこで主の動きを起こしている中心人物たちを個人的に知り、その人たちのメッセージをお伝えしたいと願っております。これには皆様からの背後の祈りのサポートが絶対に必要です。
(2)次に、過去十年来の計画として準備をし、何度も書き換えながら本日に至った私の「創造者の神」についての本の原稿を、今年完成させ、年内までに出版する計画です。就きましてはその出版の前段階として、マルコーシュ出版のご好意により今年の一月号から雑誌「ハーザー」に少なくとも最初の部分を連載させていただくことになりました。雑誌での題名は「創造者の神と量子論ー見えるマクロの世界と見えないミクロの世界の探求 」ですが、最終的に出版する本の題名は未定です。ご興味がおありの方はぜひハーザー誌をご覧下さい。
私はクリスチャンになって以来、キリスト教の神が「創造者の神」であると言う事実が私にとって他の何よりも重要で、圧倒的な関心事でありました。そしてその神が「人間を創造した究極の目的がどれ程偉大であるか」をすべての人間に知らせねばならないという強い思いを主からいただき、それが私に「与えられた使命」のような格別の思いを持って参りました。
ところが、聖書を通じてそれを人々に説得するとなると「どうせ宗教の話しだろう」位に取られがちで、もう一つ説得力がないことを40年のクリスチャン生活でいやと云う程経験しました。そこで私は、全知全能の創造者が全創造をされたのなら、神こそ最高の科学者であり、その神の創造を人間の科学で的確に説明・論証出来ない訳はないと思い立ったのです。
そのような私は元々文科系の人間でしかないにもかかわらず、とっかかりとして宇宙物理学の分野を平易に書いてある科学書の幾つかを読み始めました。そのような本を眺めているうちに、アインシュタイン以降の物理学者が行き着いた「量子論、量子力学」が「霊の世界」の解明に大きな貢献をしていることに気が付いたのです。それだけではありません。ほとんどが未信者である科学者の皆さん自身が「目に見えないミクロの世界」の素粒子物理学が、従来からのマクロ世界の物理学とは全く異質で、その「訳の分からない奇妙な微粒子のふるまいが霊の世界であること」を完全には理解しきれないでいることが分かって来たのです。そして私はクリスチャンにこそ聖書に書かれている創造の真理を科学者に理解出来るように説明する義務があると信じるに至りました。つまり、科学者と神学者(霊的に成熟したクリスチャン)が共同で霊の世界の「力学」を解明することを主が望んでおられることであると信じます。
そして、ある意味でそれ以上に重要なことは、聖書に書かれている真理ーたとえば「信仰の働き」「聖霊の働き」「イエス・キリストの誕生から十字架に掛かり全人類のために死んで天によみがえられたプロセスの意味」ーが科学的に納得がゆく説明・証明されるなら、それこそが、未だ霊のことはよく分からない、経験していない「頭のクリスチャン」にとってどれ程の福音となるか、それが私を興奮させたのです。そこで私はここ数年間、ない頭をしぼり多少でも理解した物理学の知識が聖書の霊的理解に役立つと信じるに至り、本を書き始めました。それをご理解いただくために、WWGMの次回のメッセージでその具体的な例を述べさせていただきます。
(3)私たちは1995年秋にヘンリーグルーバー師夫妻を日本に紹介し、その後の10年間はグルーバー師と共にその同労者として年に二度日本を訪問し、各地の教会を訪ねて参りました。又、2005年以降はグルーバー師とは別行動を取り、私たち夫婦でのWWGMミニストリーを本日迄、毎年日本にうかがって教会訪問を続けて参りましたが、最近は訪問する教会の数も減って来ておりました。
しかしこれからは、前述の新しい角度から聖書を科学的真理として説くことによって「信仰がすべてであること」と「霊的になる」ことの重要さと必然性、更に、クリスチャンは神の超自然の力を信仰で大いに実用的に用いることが可能であることを、全国の出来るだけ多くの教会に伝えたいという新たなミッションへの情熱をいただいております。
既に昨年秋に来日の折、2−3の教会を訪ね、上記の量子論を引き合いに出し恐る恐る聖書の真理を新しい見地から話させていただきましたが、かなりポジテイブな反響を得ましたので意を強くしております。従って、新年は以前に増して各地を廻らせていただきたいという希望を持っております。
それは、最後のリバイバルでは先ずクリスチャンとその教会をリバイブしなければならないと信じるからでもあります。従ってカリズマ系の教会だけでなく、むしろそうではない教会でお話しをさせていただきたいのが私の願いです。
(4)最後は、昨年11月3日付けで、私の日本旅行から帰った感想として述べた提案を具体化推進することですが、日本で今一番必要な霊的メッセージを私たちの教会のベンジャミン•ロビンソン牧師とか私たちを含む陣容で、アメリカからビデオ通信で配信したり、あるいは、日本に来て講座を持つとか、日本の教会とタイアップする可能性を検討し、出来るだけ早い時期に実現することです。
以上ですが、これを実現させるためには私たちに新たな資金が必要となって参りました。そこで思い至ったのは、この10年余を通して私たちが多くの時間を費やして奉仕させていただいているWWGMからの献金がほとんどゼロに近い状態であることです。その理由は下記でご説明します。
又、他の収入源としては過去二十年間(最初の10年間はグルーバー師夫妻と共に、その後の10年間は私たち二人でのミニストリーとして)日本の各地の教会を訪ねるミニストリーを通していただいた謝礼献金があります。しかしながら、最近の二年程は訪問する教会が減っており、その際いただく皆様からの献金が旅費代をカバーするのがやっとと云う現状です。勿論そのような旅行が出来るだけでも大変な祝福をいただいている訳ですから、主を通して私たちを親しく迎えて下さっている日本の教会の皆様には心から感謝していることに変わりはありません。しかし状況の変化に伴い、私たちは今年から、積極的な意味で、皆様に献金のお願いをさせていただくことに決意しましたことをお伝え申し上げます。
そこでWWGMへの献金に関して当初からの事情をご説明致しますと、先ず私たちは過去において一切皆様に献金をお願いしたことがないことです。唯、最初WWGMを立て上げた出発の際に、次のように私たちの献金に対する考えを述べさせていただきました。それは今でもWWGMの見出し頁の上部左端に小さな字で私たちのミニストリー紹介の欄がありますが、その最後に下記の通り書かせていただいております。
「私たちは原則として皆様に献金をお願いしておりませんが、私たちのミニストリーをサポートするように主から特別に示された方からは喜んで受けさせていただいております。」と記し、その後で献金を送られる場合の銀行口座番号等を付記してあります。実際にこの趣旨は今でも私たちの主にあっての建前であることに変わりはありません。しかし、今年からは、積極的に皆様が私たちのミニストリーに参加して下さり、いわばパートナーとして私たちのミニストリーをサポートしていただくことをお願いする ー これについて主にこの一年間程祈って参りました。そして主からの許可として、今回家内と私の二人が一致して心からの平安を得ましたので、今回皆様にご提案させていただくことになった次第です。
従って私たちのミニストリーを同労者としてより積極的にご支援いただける方(すなわち主がそれを許される方々)には、どのような形でも、又いかなる金額でも結構ですので、献金のお願いをさせていただきます。方法としては一定額を毎月(自動)送金していただくか、あるいは主に示されるままに、不定期に献金をしていただいても結構です。私たちの経済の一切を主と皆様に謹んでお委ね致します。尚、私たちが必要としている献金の希望目標額ですが、月々合計10万円を皆様からご支援いただければと願っております。
又、本の出版に際しても資金が必要です。これに関しても、とりあえずは皆様にぜひお祈りいただきますようお願い申し上げます。
私たちへの献金の振込先:
ゆうちょ銀行 記号番号 12120−78497141 バン タツヤ
尚、ご送金の際は、どうぞ皆様のお名前と金額をEメールで私たち宛にお知らせいただければ幸いです。私たちのメール・アドレスは tatsuyayumiko@gmail.com です。ご質問があればどうぞこのアドレスにメールを頂戴したくよろしくお願いします。
郵送の場合は外国で申し訳ありませんが下記へチェックでお願い致します。
Tatsuya & Yumiko Ban 1908 Golden Rain Rd. Unit #1
Walnut Creek CA 94595, USA
(終り)
28 12月
2015年を振り返って
坂 達 也
「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地とのいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。・・・」(2ペテロ3:10−12)
先日私がたまたまこの聖句に目が留った時、一瞬ハッとする強い思いを感じました。それは「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」の箇所です。そこで私は2ペテロ1−3章をはじめから読み直し、使徒ペテロから圧倒されるような特別のメッセージを感じたのです。皆さんもこの際ぜひ2ペテロ1−3章全体を通してお読み下さい。
ペテロはここで主の再臨の日にだけ焦点を置くのではなく、むしろ神のさばきが最初に人間の上に下った時のことに先ず触れております。それは「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾き(創世記6:5)」「地は、神の前に堕落し、暴虐で満ちて・・・全ての肉なるものが、地上でその道を乱していた(同6:12)」という時代でした。神はノアを選んで箱舟を造らせ、ノアの家族8人(一家族)と選ばれた動物と鳥を箱舟に乗せて救いましたが、その他のすべてのものは一度水(洪水)によって全滅させたのです。これはおとぎ話ではない実に恐ろしい話です。私は今の時代が、このノアの時代に段々似て来ていることに身震いさえ感じます。
それだけではありません。ペテロは、その後で「天の万象は焼けてくずれ去る」という人類を含むこの宇宙の「聖くない」すべてのものが最終的に裁かれ、火によって滅ぼされる恐ろしい「主の日」が来ること(10節)を最大限に強調します。しかも、その日は盗人のようにやって来ると警告します。その上でペテロは「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。(11節)」という警鐘を鳴らしているのです。
私はこの「盗人のようにやって来る」は、使徒ヨハネが書いた黙示録3:2、3に書かれている「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人を力づけなさい。わたしはあなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを固く守り、また悔い改めなさい。もし目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。・・」に通じると思います。それによってこの警鐘がどれ程深刻なものであるかを私は感知しました。ここに「なまぬるい生き方をしている」終末のクリスチャンへの厳しい主の警告ー「目を覚ましなさい」「悔い改めなさい」が鳴り響きます。
そこで私はそのような「聖い生き方をする敬虔な人」とは一体どのような人なのかを私なりに思いめぐらす中に、それが黙示録2−3章に7回も出てくる「勝利を得る者 overcomer 」であることに気が付いたのです。皆さん、この7回のそれぞれで、神が勝利者にどれほどすばらしい「ご褒美」を下さる約束をされているかをもう一度確認して下さい。私が心から感じたことは、このご褒美に与れる人とは並大抵の人ではないということです。ですからこそ、私たちが徹底して「聖い生き方をする敬虔な人」になることを、ペテロも、黙示録を書いたヨハネも心から私たちに嘆願しているのです。
勝利を得る者になる
私たちキリストに従うクリスチャンは「征服者以上の圧倒的な勝利者 more than conquerorsでなければならない」とロマ書8:37に書かれています。「勝利者」とは明らかに「戦うこと」を前提にしている言葉ですから、真のキリスト者とは霊の戦いで悪魔に完全に打ち勝つ人でなければならないはずです。皆さんの中にはそれを意外に思う方がおられると思いますが、この戦いの勝利者こそ、キリストの花嫁、真の弟子を指していると私は信じて疑いません。
この世は戦場です。悪魔の支配下にあるこの世のシステムに対してクリスチャンはサタンの力と誘惑に徹底的に抵抗して打ち勝たねばならないのです。それを私たちのために既に成し遂げられたのがイエス・キリストであり、主が先ず圧倒的な勝利者となられたのです。私たちはその主に従うフォロアーですから、主にあって同じように圧倒的な勝利者とならねばならず、それは形だけでなく、実が伴わねばならなりません。それには忍耐が必要です。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マタイ24:13)」と書かれている通りです。
今年2015年のはじめに、私たちの属するリビングホープ・クリスチャン・センターでは、年間の目標として「勝利者になること」というロビンソン牧師のメッセージに続いて、全員でそのことにコミットし宣言致しました。これは大変大きな目標です。その意味する所はメンバー全員が「この世的な生き方をこれからはしない」と決意をすることですから、正直なところ、この世の隠然たる支配者である悪魔に大変な挑戦状を突きつけたのも同然でした。
私は悪魔からの攻撃が激しくなることを覚悟しました。そして、その通り教会はこの一年大変険しい道を歩んで来ました。私たちは今年一杯で今入っている建物を出なければならないことは年頭から分かっており、あらゆる努力をして新しい場所を探して来ましたが、本日現在未だに次の場所が見つかっていませんーーと書いたところで、念のためと思って牧師に連絡した所、実は昨日「交渉中の日曜日だけリースする場所を3月から借りれることが決まった」との朗報。ハレルヤ!最悪の場合に備えて、新年からは近くのホテルの宴会場を借りる手配がしてあったので、これで何とか3月までつなげます。しかし事務所の場所はまだ決まっていません。それに加えて、色々な事情で副牧師クラスのリーダー二、三名が辞任したり他所に移るという事態も起きており、若い人が中心の私たちの教会の信仰は試されております。しかしひるんだ人、動揺している人は見受けられません。主は今、若いリーダーたちの信仰を猛訓練されており、すべてにおいて主のタイミングは実に見事です。
そこで考えられることは、そんな苦労をするリスクを覚悟してまで「勝利者」になるコミットメントを掲げないほうがよかったのか、ということですが、そんなことは絶対にありません。第一、私たちの教会はミッション・ステートメントに「イエスを実際に顔と顔を合わせて見ることを熱望する」とはっきり掲げてあり(出エジプト33:11参照)これは私個人の熱望するところと一致します。更に「主の栄光を反映する『神の息子と娘』を育て上げ、御国を拡張すること」を目標とすると書かれていますから「勝利者になる」ことは当然のことであるのです。私はクリスチャンの集まる教会はみな「圧倒的勝利者の教会」であることを堂々とこの世に宣言すべきであると思います。
「勝利を得る者になる」ことの定義として、多くの人が1ヨハネ5:4「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」を引用します。確かにヨハネが云うことは正しい定義です。しかし問題は、私たちが真に生まれ変わって「神から生れた者」ーすなわち私たちの肉の性質が神のご性質に変えられた者になっているかどうかです。そのような人は主がその人の中に常に生きている人であり、その人の信仰は「世に勝つに充分な確かな信仰」でありましょう。(1ヨハネ4:4を参照下さい。)
しかし信仰について、この辺りを軽く考える人は「イエスを信じるという信仰さえ持っていれば、それが『勝利者』なのだ」と簡単に片付けてしまい、その場合、多くの人は霊的戦いが必要だとは考えません。もし私たちが本当に悪魔陣営に対して勝利しているなら、例えば「病気の癒し」はどうなのでしょうか。悪魔の支配下で起こる病気こそ私たちが勝利すべき一大問題のはずです。
ところでフランシス・フランジペン師は「神の至高の目的は、私たちがキリストに似た者になることです。もしクリスチャンが『キリストに似た者となる』という確固たる信仰の目標を持っていなければ、どのように霊的になるための努力をしても、それを得る事は出来ません。」と云われます。
「キリストに似た者になること」がクリスチャンの最大の目標であるならー私はそう信じますー新約聖書に書かれている「イエスは彼の所に癒しを願って来る病人のすべてを癒した」とか、マタイ10:1の「イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。」と書かれている御言葉は、私たち現代のクリスチャンには当てはめなくてもよいのでしょうか。これこそ悪霊に対する戦いであり、私たちは圧倒的勝利を得なくてはならない重要な使命の一つであると信じます。なぜなら、信仰は実際に実が実らなければ信仰とは云えないからです。
とは言え厳密な意味で、癒しにおいて全くイエスと同じ事が出来る人は恐らくいません。しかしそれは信仰に於ける建前としての大目標であり、私たちは信仰でその目標を先取りし勝利していなければならないのです。すなわち、たとえそれが今現実完全には出来なくても、私たちがその信仰に達した者として実を実らせる信仰のたゆまない努力をしている限り、私たちは、信仰のプロセスの途中にある「勝利を得た者」と主は認めて下さると信じます。
ここで私個人のことを申し上げれば、私は癒しの賜物をいただいているとは思っておりません。しかし、バプテストの教会で洗礼を受けてクリスチャンになった早い頃から、信仰の書としての古典であるマクスウェル・ホワイト師の「The Power of the Blood」等を読み「十字架で私たちのために流されたイエスの血潮にはものすごい力があり、いのちがある」という聖書の教えを確信し、あらゆる病気とか、悪霊がからむ事態に対してイエスの血潮で覆い、振り掛け、宣言することを信じ少しづつ実行して来ました。その結果の実は確かに大したものではありませんでしたが、それでも時々起こる癒しの実で励まされて来ました。最近は特に家内と一緒に祈ることで力を得、癒しの確信は益々強まって来ています。そして実際に祈ってイエスの血潮を宣言している時に主が喜んでおられることを感じ、しかもその後でその人が癒されなかったことを知っても平安があり、結果に動じなくなりました。癒しのブレーク・スルーが来るのは時間の問題であると信じています。
癒しとは賜物をいただかなくても、イエスの十字架の御業を信じる者には既に力が与えられているのであり、私たちはどんどん果敢に信仰で癒しの祈りを実行すべきであると信じております。信仰とはそう言うものであり、私たちはみなそのプロセスにある者です。有名な癒し手の人が5年10年何も起きなかったという話はよく聞きます。未だ癒しの宣言を実行されていない方はぜひお始め下さい。
ところでここで2ペテロ3章の話に戻りたいと思います。ノアは周りからどんなに嘲笑されても「神を信じなさい」と人々に語り続け、神の指示に忠実に従い120年もかけて根気よく「どでかい箱舟」を事実上一人で造り上げました。彼は聖書の中の数少ない「神とともに歩んだ」人の一人です。私はノアが主の御ことばを忠実に実行はしても決して宗教的な男ではなかったことを何よりも誇りに思い、励まされています。そしてそのノアが造った「イエスの箱舟」に今の私たちも「勝利を得た者」として乗り込むことを堅く信じます。
最後に私自身の2016年のみ言葉を申し上げます。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」アーメン!皆様よいお年をお迎え下さい。 (終り)
24 11月
ブラザー・ローレンスから学ぶもの
ー 主の臨在と共に暮らす習慣を身につける
坂 達 也
昨夜、リック・ジョイナー師のサイトで彼が書いているブラザー・ローレンスの紹介記事を読んで、久し振りに私が最初にブラザー・ローレンスの珠玉のような本に接した頃を思い出しました。ブラザー・ローレンスについて、多くの方は既によくご存知とは思いますが、先ずは、ジョイナー師が書いている彼の略歴をご紹介します。
「ブラザー・ローレンスは1614年にフランスで生まれました。貧しい環境で育った彼は軍隊に入らざるを得なくなりました。そして戦地でのある冬の寒い日、葉が落ちて裸になった木を見ているうちに、彼は著しい救いの体験をしたのです。彼はその時、葉が落ちて死んでいるような木と同じ状態にある自分を感じながらも、神が彼のために生きる希望を用意しておられるのを感じ始めていました。すると突然、神の誠実さと愛が彼のたましいに洪水のように溢れました。彼はその経験は、どこにでもある自分の目の前の現実に、突如として超自然としか思えないような「明晰な思い」が飛び込んで来た、と言いました。
戦地で負傷したローレンスは、除隊後にパリにある修道院で働き始めました。教育を受けていない彼は、そこで調理場の下働きという最もありふれた下等の仕事に就きました。そこで彼は、人生で苦難の道を歩まねば神の恵みにはあずかれないという当時の宗教社会の通念に影響され、人生の失敗者である自分は、世の中の下積みの苦労をしなければならないと思い込んでいたからです。
しかし彼が経験した超自然的な「明晰な啓示」を通して、いつしか彼は、どんなつまらない仕事をしていても、そこに主の栄光を見つけて主をひたすら礼拝することにこそ、主の御国で約束されている最も平安と喜びに満ちた生き方の一つがあることを発見したのです。
しかし「継続的な神の臨在」を経験するに至る迄には、彼は非常に困難で長期に渡る、徒労で報われない献身の毎日を通らねばなりませんでした。しかしその努力が報われる日が遂にやって来たのです。彼はどのようなつまらない仕事をしていても、それに神聖さを見つけ、神に栄光を返すどんな王よりも楽しい毎日を過ごせるようになりました。
そのような彼の平安と喜びに満ちた人生の生き様が、多くの人たちを惹き付け始めました。彼の死後(1691)に、彼が書いた多くの書簡からまとめたものをビューフォーのヨセフと呼ばれる一人の神父が編纂し、それが The Practice of the Presence of God として後日出版されるに至り、以降この本が多くの人に読まれるようになったのです。」
以上の略歴を紹介した後、ジョイナー師はブラザー・ローレンスの経験した貴重な知恵の幾つかに触れておりますので、私はその内の二、三をご紹介したいと思います。
最初にブラザー・ローレンスが云った言葉としてーこれは特に有名な言葉ですがー彼は数人の人が調理場で戦争のように忙しく立ち働いている環境に自分がいる時であっても、それは彼が静かに主の前にひざまずいて祈っている時と全く変わらずに、同じであると言っていることです。その理由を彼は、自分が神をしっかり保有し、あるいは神に保有されているからであると言います。ここで彼は possess という言葉を使っており、その意味は「完全に神に所有されている状態」を指しています。
これこそ主キリストと私たちの関係ー主が私たちの内におられ、私たちも完全に主の内にいる状態ーすなわち、「私たちは完全に主の持ち物」であることを表していないでしょうか。私たちは聖書にそう書かれていますから、そのことを理屈では分かっていても、それが現実にそうなれるという事実をブラザー・ローレンスが証明してくれているのです。
次に彼が云っていることは「主の臨在を感じない、主が隠れておられるような『乾いた状態』にいる時にこそ、私たちは主に対して真に忠実であることを学ぶことが出来るーそのような時にこそ主は私たちの主への愛をテストされ、又私たちが主に対してどれ程の堅い決意 determination をするか、あるいは、主にどこ迄自分を明け渡すこと surrender が出来るかを試すよい機会となる。」と云っています。
又主は、「私たちが主のためにどんなよい仕事をしたかーそれはその仕事の大きさではなく、むしろどれ程愛をもってその仕事をしたかーということに関心を持たれる。」とも云っています。
最後に「主といつも語り合う習慣を身につけるためには、自分が常に神のご臨在と共にいるかどうかを気遣っていることが絶対に必要である。」と彼は主張して止みません。そして、彼が主の助けを必要な時、彼は必ず主にお願いします。彼の経験では、神が助けて下さらなかったことは一度もなかったと言います。
昔オレゴンの教会にいた時に、希望する人には全員にこのブラザー・ローレンスの The Practice of the Presence of God という小冊子を教会が無料で配布したことを私は憶えています。クリスチャンにとってこの本は、それ程重要な手引書の一つであって、私たちは、少なくとも一年に一度位は読み返すと大変恵まれる必読書であると思います。
実は私は今朝思い立って自分がどういう人間であるのかを確認する思いで、ロマ書6:3−6を読んでみました。「3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテズマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテズマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテズマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。5もし私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストとの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
私たちはキリストを信じてバプテズマを受けた時、新しく「霊の人間」に生まれ変わったことを本当にいつも自覚して生活しているでしょうか。それを忘れて、いつまでも肉のままの人間で生きてはいないでしょうか。
ブラザー・ローレンスは、そのことを私にいつも改めて思い出させてくれる人です。(終り)
03 11月
今回の日本旅行を終えて
坂 達也
去る9月25日より私たち夫婦は、私たちの所属する教会の牧師であるベンジャミン・イスラエル・ロビンソン牧師と共に日本を訪れました。そして最初の10日間の日程を終えたロビンソン師が帰国した後、私たちだけでいくつかの教会を訪問させていただきました。今回はその御報告方々、日本に対する率直な感想を書かせていただきます。
一言で云えば、今の日本には過去になかった程「天が開かれている」ことを強く感じました。霊的空気が一新されています。それを云えば、20年前私たちがグルーバー師夫妻と共に日本を訪れた頃、あるいは最初にマイク・ビクル師の教会から始まった24/7の礼拝と祈りのムーブメントが日本に導入された初期の頃(約10年程前)でも依然として、日本は霊的に非常に重い空気に覆われていて、そのムーブメントは導入不発に終りました。
その頃の私たちは、帰路に着くべく日本の空港から飛び立った時は、その霊的暗雲の圧迫感から如実に解放され、いつもホッとしたことを思い出します。
私は今回日本に来て「その後わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ・・・」とあるヨエル書2:28のみ言葉を何度も思い出しました。特に霊が注がれるのは、信者ばかりではありません。日本のすべての未信者の上にも注がれていることを強く感じました。日本人は今、知ってか知らずか、多くの人が霊的なものに飢え渇いています。
ヨエル書に書かれているこのみ言葉は終末のイスラエル人を指すと言われますが、今はイスラエル在住のユダヤ人だけではなく、世界中に散ったイスラエル人「ヤコブの残りの者は多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。・・・」と書かれているミカ書5:7、8が起こり始めていると信じます。そして私は、日本の国と日本人がこれに含まれていてもよいと思ったのです。
さて、今回私たち三人は最初に福島市にある蓬莱キリスト教会(佐藤経夫主任牧師)を訪ねました。この教会は約10年前にアメリカのカンサスシテイーにあるマイク・ビクル師の24/7のミニストリーを最初に日本に取り入れた教会の一つですが、その後24時間ではないにしろ、ビクル師の唱える「霊的な祈りと賛美」が着実に続けられ実っている教会として、今では日本を代表するすばらしい賛美の教会の一つです。この間にもう一つの柱である「霊的な弟子訓練」が行き届いた結果、現在教会員が200人を優に超す教会に成長し、今後益々発展が期待される教会の一つです。
その後、今回の訪日目的の中心である東京の新宿シャローム教会(稲福エルマ主任牧師、富田慎吾牧師、真島誠牧師)を訪ねました。この教会はご存知の通り、三年前から24/7のミニストリーを始め、今では若い人たちを中心に「24時間の賛美と祈り」を続けるだけでなく、このミニストリーそのものを日本中に広め定着させる役割を、特に富田牧師が果たしつつある姿を拝見しました。現在この教会が日本を霊的にリードする役割を果たしつつあることを知り大いに励まされました。
又、シャローム教会から推薦いただいた二つの若い世代を中心に発展途上にある教会として、東京渋谷にあるキングダム・シーカーズ(久保田文吾牧師)と大阪のエレベート・チャーチ(佐々木拓也牧師)を訪ねました。その理由はロビンソン牧師が38歳というアメリカの代表的な若手牧師であることと、リバイバルへの関心が高いこと。この若い世代が最後の世界的リバイバルの中心的リーダーシップを取ることが期待されているからです。
しかし一方で今回は、今迄リーダーとして活躍して来られた多くの中年から老年のリーダーの方々も、老いて益々盛んに若い世代を力強く指導しておられることを知りました。このように年長者と若手が一つとなって、これから主が起こされる最後の大リバイバルにおいて日本が世界の先駆けとして用いられ、そのリーダーシップをとる意気込みを感じ、又見ることが出来て、大変勇気づけられた次第です。
日本の教会の現状
しかし日本全体を見る時に、残念ながら日本では今、真の霊的なメッセージが語られていないように思います。率直に云って、日本のクリスチャン信徒は総じて霊的な飢餓状態にあるように思えます。多くの教会は形だけの聖日礼拝を守ることに精一杯で、霊的な食物を提供するという教会ミニストリーにおける最も重要な義務を怠っているように見えます。すなわち、今の日本の教会には真のリーダーが枯渇していて、キリストの教会としてあるべき真のリーダーシップがほとんど存在していない・・・そのように思えるのは私だけでしょうか。
現に日本では各地で、自分が行きたいと思う真に霊的な教会がないという理由で、教会に行っていない人、あるいはそのような教会があればそこに移りたいという希望を持っているクリスチャンが大勢いるように見受けました。今回は特にそれを痛切に感じました。そうであるとすれば、それにはどうしたらよいのでしょうか。
私たちの今後の計画
そこで今私たちは、下記のような二つの企画を話し合っております。
その一つは、ロビンソン師による日本でのミニストリーとして、来年から日本で真の霊的リーダーを育てるためのセミナーを開くように導かれています。その点彼は、既にアメリカに於いて、具体的にそのような牧師訓練のためのインターネット神学校を建て上げており、実際にそのための特別修養会等を開くこと等によって、牧師養成の具体的な効果を上げている実績があります。
もう一つの計画は、日本人向けにインターネットを通して私たちによる一つの「霊的な教会」を建て上げることです。これは私たちのミニストリーWWGMの一環として前から構想を練っていたものです。
それは毎週インターネットを通して生中継(あるいは録画DVD)によって、私たちの教会 LHCC での礼拝音楽の実況とメッセージをお届けすると共に、その後で、実際に少なくとも月に一回は私たちのこちらの教会と日本各地で参加を希望する「私たちの家の教会」をスカイプ等で結び、オンタイムで祈りと癒しのリクエストに応じることが出来るようにする。加えて、年に数回は実際に私たちが日本に出向くか、あるいは希望者にこちらに来ていただいて、個人的面談、カンセリングと交わりのための集会を持つというアイデアです。
このアイデアは、勿論「地方教会」としての完全な役割を果たすことは出来ませんが、出来るだけそれに近い形で、それに代わるものを、たとえ微々たる力しかない私たちでも実現出来る可能性があると思っておりますがいかがでしょうか。それには最近のめざましいインターネット技術を駆使する必要がありますが、いずれにしても、実現不可能ではないと考えております。
最後に、今回の旅行を通じて、私たちWWGMのミニストリーが私たちの予想以上に多くの方々に読まれており、毎週のメッセージを心待ちにしておられる方々が大勢おられることを知り、大変励まされました。心から御礼申し上げます。
それでは皆様からの忌憚のないご意見をお待ちしております。(終り)
06 09月
主が最も嫌われるのは「生ぬるいクリスチャン」であること
坂 達 也
私は最近、この世の中、それも特にクリスチャン国であるはずのアメリカにおいて、どうして世の中のモラルと、それを律するはずの政治が、ここまで頽廃してしまったのかに大きな疑問を持って参りました。
と言うのは、50年以上アメリカに住んで来た私には、しばらく前迄は全く考えられないような事態に今のアメリカが変わり果てていることがどうしても信じられないのです。それに、これはアメリカだけの話ではありません。世界中でそのモラルの退廃が起こっています。
今のアメリカでは堕胎を公然と許すどころか、最高裁判決で、公に同性結婚の権利を認めるだけでなく、それに反対する行為 ー 同性結婚の司式を拒否する牧師とか、同性婚結婚式に出すお祝いのケーキを作らないお菓子屋さんは罰せられる ー と言うのです。
又、民衆の政治に関する不信感はつのる一方です。最近の世論調査では、アメリカの国会議員と国会政治への信用と人気は、何と20%台に迄落ち込んでいるそうです。それに対照的なのが、共和党大統領に立候補した毒舌家のドナルド・トランプ氏の人気です。他のほとんどの共和党立候補者からどのように批判されようと、又ミディヤからどのように叩かれようと、むしろ叩かれれば叩かれる程、彼の人気は上がる一方です。しかもそのトランプ氏を追い上げているのが、クリスチャンの医師として大変尊敬されてはいますが、政治のプロでは全くないベン・カーソン氏(黒人)です。口だけうまい政治家よりも、世に認められるだけの実績を持つ実業家に政治も任せた方がまだましだと言う世論でしょうか。
そこで私は主に、上記の疑問と共に「どうして主はアメリカがそうなることを許されたのか」を聞いてみました。すると主は、その責任はクリスチャンと教会自体にある、クリスチャンがあまりにも「なまぬるいクリスチャンのままであること」を当然のように許しているからである、とおっしゃいました。しかも主は、それを放置しておられるのではなく、むしろ、とことんクリスチャンがそれに気が付いて一刻も早く目覚めるのを待っておられると言われるのです。(アメリカの政治家にも両党議員にかなりのクリスチャンがいるのですが、その人たちが生ぬるいということにもなります。)
ところで今朝、久し振りにマダム・ガイヨンの本を手に取りました。そして、私の目に飛び込んで来たのは、「モーセと燃える柴の中に立つ主との出会い」に関する彼女のメッセージでした。モーセは柴が燃えているのに「燃え尽きていない」ことに気が付き、いぶかしく思いました。ガイヨン師は「この炎は主の愛そのものです」と言います。
モーセはその時羊飼いとして羊の群れを連れてホレブの山に来ていました。主は羊飼いです。主は羊である私たちを、燃える炎のような熱烈な愛で愛されます。そして、その愛を、「主の羊飼い」でもあるクリスチャンの私たちの中に入れられますが、その激しい愛の炎は決して柴である私たちを焼き尽くさない、神の愛とはそのような愛であると師は説くのです。
主の愛は、私たちがどんなに未熟で、人をさばく行為をし続けたとしても(それは神のさばきを受けるに充分値します)決してその愛を消すことなく、忍耐をもって私たちを愛し続けてくださいます。ですから私たちはクリスチャンでいることが出来ます。これは何とすばらしい主のめぐみでしょうか。
主はモーセをイスラエルの民の羊飼いに任命する前に、モーセの前に現れて、この教訓を先ず示されたのでした。そして主は、いぶかるモーセの質問に答えて「ここ(神の山)に近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と言われました。(出エジプト3:5)
ガイヨン師は、「あなたの足のくつ」とは神の愛以外のあなたの持つ人間的愛 affectionのすべてを意味すると言い、神の山を主と共に歩む「主の羊飼い」である私たちは、先ずそれらのすべての人間的愛情という靴を脱ぎ捨て、あなたの内に燃えるものは唯一、見返りを期待しない無私、無条件・無償の「神の愛」だけにならねばならないと言われています。これが真のリーダーになる条件であるのです。
そこで、はたと気が付いたのですが、モーセと燃える柴に関するガイヨン師の説く「熱烈な無償の愛」と「クリスチャンが生ぬるいか、熱いか」とは密接に関係していると言うことでした。今は終末の時代です。そうであれば、主からラオデキヤの教会に宛てたメッセージが、今こそが問われる時代であると信じます。
「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであって欲しい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15、16)
ここでお断りしておきたいことは、クリスチャンがどんなに「宗教的」に熱心になっても、「なまぬるい」ことには全く変わりはないと言うことです。むしろ、クリスチャンが宗教的に熱心であればある程、その人は、宗教的に正しくない相手のあら探しに熱心になりがちです。そこにおいて、私が最初に述べたモーセが見た炎に燃えた柴が、実は燃えていない、そこに真のキリストの愛があると申し上げたことが問われると思うのです。
なぜなら、真にキリストの愛に満たされている人は、無条件で、すなわち相手がどのように悪い場合でも、それを真っ先には問わず、性急に批判せず、さばかずに、やさしく愛し続ける愛に燃えている人であり、そのような人こそ、むしろポジティブで建設的な意見を出して人を引っぱって行く人、そのような人こそ最高に主の愛に似た「激しい愛のパッション」を持つ「熱いクリスチャン」であると思います。
私たちは時に、クリスチャンとして「人がどうあるべきか」を宗教的に知り過ぎているが故に、特に家族とか、教会内での親しい人間関係とかで、「相手を赦せない」「黙っているべきではない、一言言うべきだ」と考え、相手を「さばく」誘惑に負けてしまいます。そうであるなら、その人こそ人間的な「生ぬるいクリスチャン」です。なぜなら、そのようなクリスチャンは未信者のこの世の人々と全くと言ってよい程変わらないからです。そんなクリスチャンに、主は「天の御国を地に建て上げる」仕事が任せられるでしょうか。
この「相手をさばいてしまう」誘惑を押さえるには、先ず主の愛をもっと多くいただいて、その主の溢れる愛で隣人を愛することを実行することです。誘惑に負けて「言いたいこと」をつい口に出すと、自分の柴は燃えないかもしれませんが、相手のクリスチャンの柴に火をつける、つまり相手を「傷つける」結果になりかねません。
私が申し上げるまでもなく、今は何をさておいても、先ず家族が、そして教会員同士が完全に赦し合い、主の愛に満たされて、一致・和解する時ですね。それによって、主の家族である皆が真にひとつ心になり、増々熱心に主だけを見上げ、主に従い、天の御国を、天の人間関係を地にもたらそうではありませんか。今はクリスチャンこそが、国の政治・経済とか社会のすべての面で、主と共に世に打ち勝つ最終的な「勝利者」とならねばならない時です。
これから、いよいよ「火で洗練された金をわたしから買いなさい」(3:8)と言われる時に入ろうとしています。それは燃えるような愛で満ちた熱烈なクリスチャンになることであり、よもや「生ぬるいクリスチャン」にとどまる、あるいはなり下がることだけはないようにしたいと願うものです。(終り)
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