08 11月
私たちは神の同労者
ビル・ジョンソン
すべての願望desire には父がいる
英語のdesireと言う言葉を分解しますとdeがofで sireがfatherですから、all desire is “of father” 「すべての人間の願望は父のもの、父に属する」と覚えておかれたらよいと思います。となると、私たちのすべき質問は「私の願望は神からのものか?」である前に「私は誰と親しく交わってきたかcommunion?」であるべきです。私たちは神と親しい交わりが持てると同じように、敵とも親しい交わりの関係が持てるからです。
数年前に私はある人からひどく侮辱を受けたことがあります。それを思い出した時、神がその人を裁いてくれたかどうかに考えがいくのであれば、その人に仕返しをしたいと言う願望が私の心をかき立てます。どうしてでしょうか?それは、私が苦々しく思うことの父と交わってきたからです。そのような願望は、私の心の中でその父の子どもとして存在してきたのです。
悪と交わることが私たちの心に悪い思い(願望)をつくりだすとすれば、神と交わりを持つことが、私たちの心にどれ程永遠の思いと究極的に神に栄光を返したいという願望をつくりだすと思われますか。これで気がつくことは、このような願望は命令されて出てくるものではないと言うことです。それは神と交わりを持つから私たちの心にそのような思いが出てくるのであって、これらの願望は神との交わりの関係によって生まれてくるものです。
この本を書いた主な目的は、クリスチャンが神と本当に親しい交わりを持ち、その交わりの中で生まれた願望で生きることをみなさんにお教えし、そのよな生き方をお勧めしたいからです。多くの信者は、自分の願望(欲望)というものの価値をうんと割り引いて、あまり値打ちのないものと考えています。そして、自分が神にすべてをささげていることを実証しようとし、自分の欲望はすべて自動的に否定し排除しようとします。それは確かに宗教的にアッピールします。しかし、自分をなくそうとするセルフレスなアプローチが行過ぎると、「自分のしたいこと」が神の御心である場合(神から来たもの)でさえも否定しようとします。こうして実際に、神とは、信者に夢とそれをかなえる力を与える父であるという事実を否定してしまうのです。
多くの人は、神の御国に入ることと神の国での生き方との違がよく見えていません。私たちは「自分の思いではなく、神の御心がなされますように」と言いながら、まっすぐで狭い道を通って御国に入ります。入り口は一つイエス・キリストです。真のいのちを見つける唯一の道はキリストにあり、自分を完全に主に差し出して中に入るのです。
しかし救いの狭い門を通って入った後の神の御国の中での生き方は全く違うのです。この中に入ってからは、主は私たちに「わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼ばない・・・あなたがたを友と呼びました。」(ヨハネ15:15)と言われるのです。そしてその意味において「何でも欲しいものを求めなさい。あなたがたのためにそれがかなえられる。」(ヨハネ15:7)と言われたのです。
ここでの強調点は「何でも欲しいもの」にありますが、確かにイエスの言われることには重要な前提があることをよく理解しなければなりません。さもなければ、キリストを信じる信仰告白をさせることによって、もっと多くのセルフィッシュな人を造り出すことになりかねません。
十字架がよみがえりの前に来るように「自分を捨てて主の御心に従う」ことが「神が私たちの欲しいものをかなえてくださる」ことの前に必ず来なければなりません。
しかし、そのことの強調のし過ぎは別の危険性を生み出します。「自分を捨てること」を強調し過ぎると、クリスチャンは自分の願望が全く叶えられない者であると誤解されてしまい、それでは、この地上において私たちが真のキリスト(の福音)を正確にかつ効果的に伝え広めることが出来なくなります。
いのちの木
箴言13:12に「・・・望みがかなうことは、いのちの木である。」とあります。これはソロモン王が書いたと言われますが、まさにこの世で「望みがかなった」ことの例としてソロモンの右に出る者はいないでしょう。ソロモン王は「思っていた(心に願っていた)すべてのことを見事に実現した。」と2歴代誌7:11に書かれています。勿論、ソロモン王の人生の後半で彼が神に不従順な生き方をしたことの結果から学ぶことも出来ますが、それ以上に、彼の最初の頃の神への従順な生き方を喜ばれた神が、彼の望みのすべてをかなえられたという事実からこそ、私たちはより意義深い教訓を学ぶことが出来ると思います。
ソロモンの物語から創世記(エデンの園)にあるいのちの木とアダムとエバが持っていた永遠のいのちとの関係が思い起こされます。ここでキリストを信じる者がいのちの木によって「すべての望みがかなえられる」経験をすることが書かれています。キリストにおいて「すべての望みがかなえられる」ことの味を知った人は、永遠のいのち(を生きること)の前途perspectiveとそれが意味するアイデンティテイーが見えてきます。自分を捨てること、個人的トランスフォーメーション、自分の望みがかなえられること、という三つのプロセスが、私たちがキリストと共に永遠に支配するための訓練の場となるのです。
ヨハネ16:24で主は、私たちの望み(祈り)をかなえたいと言うお気持ちから「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。
道理で今の教会には喜びがありません。私たちの回復された心で祈る私たちの祈りが、地上において私たちが参加する神のご計画をあらわすのです。そして、その祈りが神によって聞かれて、かなえられる時に私たちに喜びが来ます。特に、神の超自然の力を必要とする祈りの場合には、それがかなえられた時の私たちの喜びは大変に大きいはずです。
喜びに満ちたハッピーな人たちと一緒にいることは楽しいことです。ですから、イエスは罪人たちの友達仲間であると言われ(ルカ7:34)彼の周りにいる人たちと大いに喜び楽しんだことがうかがい知れます。いつも毎日、イエスは一緒にいる人たちと、祈りが天の父によってかなえられる日々を過ごしたのですから、その喜びは特別に大きなものであったのです。イエスの喜び方は極端なものであったと言われますが、主の喜び方は、「叫び、飛び上がって喜ばれた」と書かれています。
そのようなイエスの近くにいるだけで喜びに満たされるのです。イエスを懐妊していたマリヤが近づくと、バプテズマのヨハネは彼の母親の胎内で喜び踊りました。
マルコ11:24に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と書かれていますが、私たちは祈っているときに神の臨在に満たされます。そのような臨在の中で浮んで来る願望に私たちは心を留めるべきです。主と深く交わっている時に何かが起こり、主が私たちの夢想したり願ったりする能力にいのちをくださるのです。主のご臨在に出会うことによって、私たちの心は新しくされ、その完璧にされた心のキャンバスの上に主が絵を描かれます。
神の地球におけるマスター・プランを具体化するために、私たちは神の同労者(一緒に働く者)co-laborersになるのです。私たちの持つ夢は神から独立したものではありません。むしろ神ゆえに存在するのです。神はご自身のご計画を設計し、それが「天で行われるごとく地でも行なわれる」ように私たちに示され、私たちがそれを実行して実現に至らせるのです。
私たちが主とより親密な関係を持つようになると、私たちの人生で起こることの大部分が、私たちの願望が実る結果として起こるようになります。それは単に天からの具体的な命令を受けてそれに従った主への従順の結果から起こることを超えたものです。神は私たちの望みとか願いを建上げていくことを好まれる方であるからです。
このクリスチャンのデスティニ-(究極の生き方)は、イエスの血潮が私たちにそのような生き方を可能にしてくださったずっと以前にダビデによって下記のように言い表されました。
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:4) (終わり)
[訳者注:このメッセージはビル・ジョンソン師の著書Secrets to imitating God「神に似る者になるための秘訣」から抜粋要約したものです。]
20 09月
神の臨在(続) - ブラザー・ローレンスのこと
坂 達也
先回書きましたように、私は久し振りにブラザー・ローレンスの本を手にする機会にめぐまれました。英文で95ページほどのこの高価な宝石のような小冊子を一度手にするとそれを簡単に下すことができません。惹き入られて読み進むうちに、再びぜひご紹介したい箇所がありましたので下記に訳してみました。
「ブラザー・ローレンスは、彼の霊的生活の基盤となるものは、神(の存在)を最も高揚された地位の方として心から(愛をもって)崇拝する彼の信仰にあることを私に打ち明けてくれました。このことが彼のこころの奥深くに確立されてからは、彼は日常のすべての行動を、ただ神への愛のために行うことが楽にできるようになりました。神に対する彼のこのような確固(熱烈)たる信仰は神に大きな栄誉をもたらすことであり、主が彼の祈りに答え、より多くの祝福を与えるためのドアをより大きく開くことになりました。」
ブラザー・ローレンスは「クリスチャンが、心のあまりこもらない日ごろの小さな祈りを機械的に繰り返し祈ることで毎日を過ごすとすれば、それは未だ弱い信仰である」と言います。そして、彼の言う確固たる信仰とは一日中一切を主に委ね切ることであると下記のように云っています。
「もし誰かが、自分自身と自分のすることのすべてを神にゆだね・ささげ・手渡す(surrender)なら〔それは神のためにすべてのことをすると決意することですが〕主はその人を、一切のまどわし、ごまかし、迷わすものdeception から守るであろうと言います。そして、主はそのような人が試練の苦しみに長く遭遇することを許さず、それに耐えることができるように脱出の道を備えてくださると言います。(1コリント10:13)」
つまり、そのような毎日を主と共に過ごす人には、神はすべてのことにおいて神の御心で彼が生きれるように導き、守り、平安と喜びの人生が送れるようにされると言うのですからすばらしいではありませんか。
そして、そうなるにはどうすればよいかについて、彼は「一日を通して、主のご臨在と共に過ごすためには、いつも主と話をする(主に話しかける)ことが必要である」とその秘訣を語ってくれます。この本ではブラザー・ローレンス自身が書いた部分と、彼の親友であるヨセフ・ド・ビューフォーが彼の云ったことを書いた部分がありますが、彼の友人はブラザーローレンスはこの「いつも主に親しく話しかける」ことの重要性を主張してやまなかったと言っております。
確かに私たちクリスチャンのうちには主が内住して下さっている以上、私たちにとって最も大事な「お客さま」で「共同生活者」である主にいつも親しくお話をするのは礼儀としても当然です。私は「主と個人的に深い交わりを持つこと」とはまさにこのことであると信じます。
私たちは「信仰が足らない、御声が聞こえない」と嘆くよりも、毎日傍におられる主ご自身に、本当に敬愛する親しい方として、何でも気が付いたことを気安く話しかけ、質問し、お願いする毎日を過ごすことを自己訓練することはそれ程難しいことではないと思います。勿論主に対する愛がなければできません。しかし後は堅苦しく考えないことです。
私の経験から言えば、たとえば私の好きな大リーグの野球、特に松井秀樹選手の出るロスアンジェルス・エンジェルスのゲームをテレビで見たい時は、私は主をお誘いして一緒に見てもらいます。そして、私なりの試合のコメントを主にお話したりします。最も親しい家族の長である父親以上の方ですから一緒に野球を見ることは、時と場合をわきまえてさえいれば、悪いことでも、主に怒られることでもない、むしろ主に喜んでいただける、より親しくなることであると信じるからです。
続いてブラザー・ローレンスの本を見てみましょう。
「ブラザー・ローレンスの心からのゴールは神以外に何も考えないことにあります。しかし、もし彼がある時間、神のことを考えないで時を過ごしていることに気が付いた時に、彼はそのことですぐ腹を立てないようにしました。そして時を待ち、神に自分の弱さを心から告白することによって、前よりももっと自信と喜びを持って神のところに返ることができました。又、その神の臨在から離れていた期間、彼自身が楽しく満足できる心の状態にいなかったことに気が付くのでした。
又、もし彼にあまりよくない考えが頭に浮かんだり、彼がそれに誘惑されそうになるとき、彼は直ぐにはパニックになったり、あるいは誘惑に勝てない自分を不甲斐ないと思わないようにします。なぜなら、過去の経験から、神を呼ぶべき時間が来るまでは慌てないで待ち、正しいタイミングで神を呼ばわることが、忠実なる神の助けが得られることを彼は知っていたからです。その時が来て神に声をかけると、その悪い考えは直ぐに消えてなくなります、とブラザー・ローレンスは言います。
神が一切の面倒をみてくれるという信頼のゆえに、ブラザー・ローレンスが外に出て(苦手で)慣れない商用をしなければならなくなったとき、彼は全く心配しませんでした。神は必要なときにどうすべきかを、刻銘に正しく鏡に映して見えるほど鮮明な絵にして見せてくれることを彼は経験していたからです。彼は前もって心配しなくても、神がいざという時には絵にして見せてくれることを既にかなりの間経験していたのです。このような経験を持つ前の彼は、自分自身の力で前もって対処方法をできるだけ細かく準備して出かけていました。
今は彼のするすべてのことが(神の御心にそって平安のうちに)静かに起こり、それによって、彼はますます愛する主の臨在に近い関係になっていきました。
この世の仕事を忙しくしている時であっても、神とのコミュニケーションを中断せずに神を意識し続ける習慣がついている彼が、たまに神から心が離れるような場合は、神から彼に注意信号の「呼びかけ」が届きます。それは、神が彼の心に神のイメージを溢れさせるのです。それによって彼は神が彼を呼んでいることに気が付かされるのでした。このようなときに彼の心は主の前で火のように燃え、喜びに満たされて、主に賛美の叫び声を上げて歌い、踊りたいような衝動にかられるのでした。
ほとんどの人にとっては、日常生活の忙しい行動が神とのコミュニケーションの妨げとなるところを、ブラザー・ローレンスは、むしろそれを通してより神に親密になると感じていたのです。彼にとって考えられる最悪の事態とは、神の臨在の感覚をなくすること
でした。」
ブラザー・ローレンスが上記で言っていることは、あるいはイエスキリストが「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。...」(ヨハネ5:19-20)と言われたことに通じるのではないでしょうか。
主は、ブラザー・ローレンスを通して、人間の私たちにもイエスご自身と同じ生き方が出来ることを示して下さったのであると信じます。
私は創世記6章に出てくるエノクが
「神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(6:24)と書かれていますが、神とエノクの関係はブラザー・ローレンスが神と持った親しい関係と同じかそれ以上のものであったと思います。そしてあまりにも親しく、いとおしいエノクを、神はもっと近くに来てもらいたくて天に挙げられたのでありましょう。私たちも神とそれ程の親しい関係になれるのです。そうすれば、私たちもサタンの治外法権の世界で神のみに従って生きる「神の子」となれるでしょう。(終わり)
トップへ戻る
18 11月
新たに増版発売中
「主を見つめて待つ」 Contemplative prayer
- 霊に目覚め・神の声を聞く方法 - 坂 達也 著
2003年4月27日発行・2008年5月1日第二版発行
120ページ・定価 900円+税
推薦文
「クリスチャニテイーはリレーションシップである(P-106)と著者が定義しているごとく、「イエス様との個人的人間関係を深めたい」と願っている方々に、本書は大きな手がかりを与えてくれます。それはただの理論としてではなく、著者自身が主から受け取り、日々実践している主との深い交わりの秘訣を、御言葉の霊的理解と共に本書は鮮やかに解き明かしています。」
新城教会 牧師 滝元 順 「『主の御声を聞く』必要性を強調する本書には、終末迫る昨今の日本の教会に対する主からのメッセージが記されていると信じます。御言葉からだけでなく、著者の長年の実践から、非常に具体的な方法が記されており、霊性の訓練のための貴重な実用書でもあります。多くの方が読まれ、実践されることをお勧めします。」
蓬莱キリスト教会 牧師 佐藤経夫 本書のご注文を希望される方はメールにてご一報ください。新刊 「キリストの弟子」 - 教会の完成を目指して - 坂 達也 著
(A5版 約240ページ) 定価 1500円+税
2008年1月より日本全国のキリスト教関係書店にて発売開始されました。この本の購読にご興味のある方はご一報ください。トップページに戻る