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Walk With God Ministries


08 07月

時間   TIME        フランソワ フェネロン


時間   TIME  

               フランソワ フェネロン

 

  時間の使い方は、人生のさまざまな季節に応じて変化しますが、どの瞬間にも当てはまる原則があります。それは「時間を無駄にしてはならない。」です。

 

 どの季節にも、神があなたに課したさまざまな仕事があり、あなたは自分の時間をどう使ったかを神に報告する(義務)があります。創造者の神は、あなたの人生のどの時間(瞬間)も「目的のない」ものとして見ることを望まれません。つまり神は、あなたが神から離れて時間を過ごすことを望んではおられないのです。

 

  重要なことは、神があなたにどのように時間を使って欲しいと願っているかを知ることです。このことは、勤勉さや学校教育、優れた知性によって学ぶのではなく、その人の、純粋でまっすぐな心で、常に神に注目し、神に思いを馳せることによって学ぶのです。

 

 また、自分が何かしたいと思うことが、自己愛(自分中心)からの発想であることに気づいたら、すぐにそれを捨てる。ーー それは「何もしないで時間を過ごす」時を含み、また、間違っていると分かっていることをしているのであれば「時間を無駄にしている」ことになる、加えて、一見「良い」ことをしていると思えても、それが神からのものでなければ、やはり「時間を無駄にして」いることになるのです。

 

  あなたは、神の指示を得るために、常に「神の霊」に頼らなければなりません。 神が何を望んでおられるのかはっきりしない時は、もう一度、神に尋ねてみましょう。そして、あなたに対するその時の神の御心をはっきり理解した時、神の御心をする際に神が下さるものすごい力で前進しましょう。自分が神から離れていくのを感じたら、神に心を戻しましょう。

 

  自分自身を救い主の手に委ね、いつも意識して神が望むことをしようとしているなら、あなたは本当に祝福されているのです。ですから、いつも神があなたに何を求めているかを、決して飽きずに尋ねる習慣をつけましょう。

  それぞれの時間に与えられている責任をその都度果たしてゆく、 神はそのためにあなたを準備しています。あなたがすべき唯一のことは、あなたの気性(例えば怒りっぽいとか)、強い意思・意見、その時の心配事など、あなたの様々な肉的な反応のすべてを、完全に神に委ねることです。 また、その時の自分の外的な仕事量に圧倒されてはいけません。

 

  すべての行動において、「神を称える」ことを求めてください。なぜなら、自分の仕事に個人的に没頭する時、自分の全思考がその仕事を中心に回ってしまう危険があるからです。そのような時には、つい仕事で興奮しすぎたり、落ち込みすぎたりします。

 

  他の人と一緒にいる時間は、あなたにとって非常に危険な時です。そのような時こそ、あなたは神の前に留まることを学ばなければなりません。 あなたと他人との会話の中には、しばしば微妙なものが隠されているからです。

  他の人と過ごす時間にこそ、神があなたを用いて、彼らによい影響を与えるお話しをされることが多いのです。 覚えておいて欲しいのは、あなたの言葉は、大きな善をもたらすこともあれば、大きな害をもたらすこともあるということです。

  さて、何もしなくてよい「空き時間」は楽しいものです。しかし、その時にこそ、日頃あまりできない、神との親密な時間を過ごす秘訣を学ぶために、自分の霊的な力を増進する貴重なチャンスでもあるのです。 主をよく知っている人は、そのような空いている時間を楽しみに待っています。(終わり)

筆者・坂 達也の後書き:

 この文章は1テサロニケ5:17にある「絶えず祈りなさい」をいみじくも説明してくれています。本当に私たちは、文字通り「絶えず祈る」=主と霊的交信・実行をする必要があるのです。


25 06月

「神の計画への服従・降伏」  十字架を抱きしめる     フランソワ・フェンロン


「神の計画への服従・降伏」

 十字架を抱きしめる             

            フランソワ・フェンロン

 

            

                                                    紹介と解説:        WWGM  坂 達也

 

    最初に著者であるフランソワ・フェンロン Francois de Fenelon をご紹介します。彼は1651年に生まれ、1715年に63歳で天に召されましたが、特筆すべきことは、同じ時期に、三人の主イエス・キリストとその十字架を愛する著名なフランス人が出ている事です。

 その一人は「霊的な導き」を書いたミカエル・モリノMichaeru Molinos 師、もう一人は 私が特に傾倒するジャンヌ・ガイヨンJeanne Guyon 夫人、それに、フェンロン師を加えての三人です。私はたまたまこの三人の残した著書を持っていますが、いずれも心から「十字架を抱きしめる」ことを最大の目標としていることにおいて共通しています。

  さて、この17世紀後半から18世紀の初めといえば、フランス史上最長といわれる、悪名高いルイ14世の時代と重なります。フェンロン師はこの文章を読まれればよく分かりますが、真に「自分に(魂)死んだ見本」のような愛の人で、ルイ14世の孫息子=彼は手の付けられないような荒々しい気性の激しい子供で=ほとほと持て余したルイ14世は、この子供の養育をフェンロンに委ねました。フェンロンはこの孫息子を見事に教育し、その功績を称えたルイ14世は、フェンロンに対して、当時の法王を通してカトリックの大司教の地位を与えました。しかし、この孫息子はフェンロンが死ぬ3年前に亡くなり、ルイ14世の後継とはなりませんでしたが、彼は死ぬまで、フェンロンを尊敬・崇拝したと言われ、フェンロンもガイヨン夫人もこの孫息子が後継王にならなかったことを大いに嘆いています。

 

 ついては、私自身の3冊めの本の「はじめに」で、私はパウロが書いた1テサロニケ5:16−18に触れ、特に17節の「絶えず祈りなさい。」の意味をご紹介しましたが、その折に、父と子を代表する「聖霊の神」は「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)を引用し、私たちが真のクリスチャンになれば、聖霊が、私たちの心の中に入って来られ、私たちと共に生きてくださり、毎日色々指示して下さることが実現する。すなわち、私たちクリスチャンは、「絶えず祈る」ことによって、すべて主の言われることに従っていれば、たとえ世の中がひっくり返ろうと、安心して「「いつも喜んでいられ、すべてに感謝しておられる」と説明しました。

 

 ガイヨン夫人の「イエス・キリストの奥深い経験をする」という本によれば、

(上記の)「絶えず祈る」ことによって、私たちがどんな状態で、どこにいて、何をしていても、常に神の臨在の中で生きることを経験し続けることができる、と言われます。

 

 ところで、ルイ14世と言えば、ジャンヌ・ガイヨン夫人を悪名高いバステイーユ牢獄に裁判無しで閉じ込められ、そこで夫人は6−8年過ごしたと言われますが、この間にフェンロンはガイヨン夫人と密接に連絡を取り、励まされたと言います。

 それでは以上でフェンロン師の紹介を終わり、以降は彼の書いた「神の計画への服従・降伏ー十字架を抱きしめる」の本文に入ります。

 

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 みなさんが色々なトラブルに陥っている事を、私は本当にお気の毒に思います。しかし、そのトラブルが、神様は必ず皆様のためにお働きになっておられる証拠であることを私は知っています。

 それは、神様があなたを心から愛しているからであり、それゆえにあなたが苦しむのをを惜しまないということを忘れないでください。

神様はあなたを愛しています。それゆえに、イエス・キリストの十字架をあなたの上に置いてくださっているのです。

 

   あなたがどんな啓示を受けようと、どんな感動的な体験をしようと、それがあなたを正しく導くものでなければ意味がありません。

どんな啓示を受けようと、どんな感情的な経験をしようと、それがまさに現実的で絶え間ない「自分に死ぬ」という実践に結びつかなければ、価値はありません。すなわち、自分自身の「自己中心の性質」に死ぬことを、現実的かつ継続的に実践しなければ意味がないのです。残念なことに、苦しみなしに「自分に死ぬ」ことはできません。

 そして、自分中心の性質がまだ少しでも生きているなら、「自分は完全に死んだ」とは言えないことは確かであるのです。

 

 神があなたにもたらす「自己死」は、あなたの心の奥底にまで突き刺さり、あなたの霊と魂を分断します。

  神はあなたの内面に、あなた自身には見えないものをすべて見ておられ、特に致命的な打撃を与えるべき場所を正確に知っておられます。

 神は、あなたが最も諦めたくないものに真っ直ぐに向かって来ます。痛みは、生命があるところでのみ感じられるものです。そしてこの状況では、その生きているところこそが まさに死を必要とする場所なのです。

 

  あなたの父なる神は、すでに死んでいるものに切り込むことで時間を無駄にしません。もし父があなたをそのままにしておきたいのであれば、必ずそうされるでしょう。父は、あなたの古い罪の性質を 破壊しようとしておられるのです。それはあなたの生きているものに切り込むことによってのみ達成できるのです。

 

 しかし、あなたが最初に神を信じ、自分を捧げたときに永遠に放棄したはずの、邪悪な欲望だけを神が攻撃するとは思わないでください。むしろ、神はあなたが感じている素晴らしい自由の感覚とか、今、あなたに精神的な安らぎを与えているもののすべてを取り去ることで、あなたを試すかもしれません。

 

  あなたは抵抗しますか?それへの答えは絶対にノーです。神のなさる すべてを受け入れるのです。「あなた自身の(魂の)死」を自ら率先して志願してください。なぜなら神は、あなたが神にそれを許す範囲でのみ、あなたが必要とすることがらを神は実行されるからです。神があなたの人生に起こそうとしている霊的な進歩を拒否すべきではないのです。

 

  今、神が喜んで下さるその喜びのために、あなた自身が頼っている神の喜ばないすべてのものを、放棄してください。それは霊的なものを含めてです。

 

信仰の薄いあなたたちよ!何を恐れているのですか?

 自分のよいと思っている力を奪われたとき、神がより良いご自分の御力をあなたに与えないとでも恐れているのですか?

あなたが持っている小さな力をなぜ主は取り去ろうとしているのか、分からないのですか?それは神があなたの全面的な供給者となるためであるからです。

 

 霊的なレッスンは痛みを伴うかもしれませんが、主はあなたの信仰を浄化し、神があなたのために用意した「神の仕事」を完遂するために必要な最もよい完璧な「神の手段」を用意したおられるのです。

  私は、クリスチャンの教会の「なすべき仕事」を前にしてあらゆるこの世的な助けの手段を神が遮断するのを、見て来ました。

 神は嫉妬深い神です。神はあなたに必要な最高のものを用意される方です。

 

  主のご計画に一切身を任せましょう。神は、あなたを連れて行こうとするところに、あなた自身が導かれることを、あなた自身に期待し、それのみをあなたに待ち望んでおられます。

 自分で人に助けを求めるときは注意が必要です。

  神があなたに与えるようにとその人に与えるものしか、彼らは、あなたに与えることができないことを忘れないでください。

   蛇口から水が飲めなくなったからといって、なぜあなたが困るのでしょうか?あなたは今「永遠に流れ出る泉」からふんだんに飲むように導かれているのです。(続く)


25 02月

私たちは「愛することを学ぶ         ためにこの世に送られた」                  坂  達 也


私たちは「愛することを学ぶ

        ためにこの世に送られた」

 

                 坂  達 也

 

 

 先週ご紹介したボブ・ジョーンズという人は大変ユニークな預言者でした。一度悪魔に殺されて天国の入り口まで行き、そこでイエス・キリストに会って、他の死んだ人と同じように「この世であなたは愛することを学びましたか。」聞かれました。彼は一応「Yes」と答えましたが、その後で主から「あなたは地上に帰りなさい。地上に帰って、わたしの(身体である教会の)リーダーたちに影響を与え、10億のたましいを救う準備をしなさい。」= それは「わたしが聖書で与えると約束したすべての賜物を多くの人に数倍増して与えるために。」と言われたのです。

 

 ここで二つのことが分かります。一つは、ボブは「地上で愛することを学んだか」と聞かれて一応「学んだ」と答えましたが、それから地上に帰された後に「再婚した奥さんボニーさんから真の愛を学んだ」と答えていますから、真の愛を学ばせる為にもう一度この世に帰されたことになります。

 ボニーさんという奥様は、預言者の妻にふさわしい預言の賜物と、その上、聖書に詳しいという、夫のボブが認めるように「理想的な秘書役」を務めました。そして身体に多くの痛みを抱える夫を最後まで献身的に仕え、支えた「看護婦」でもありました。加えて、それ以上に私たちがあるべき姿ー花婿イエスの花嫁としての「従順」をもって、愛と喜びに満ちて、夫に仕え尽くした「妻」であったことをボブ師は認めたのです。この仲むずまじい夫婦のやりとりの一端は、ユーチューブ「Bob Jones 2012 Shepherd’s Rod」でご覧になれます。

 

  2つ目に、ボブはその愛を基に「10億の人の救い」(世の終わりのリバイバル)起こすためのリーダーを養育するという任務を与えられた」と私は解釈します。こんな人は滅多にいません。

 

 そこで彼は、誰に会っても「主から直接何か預言の言葉を聞いたか」と常に聞き、アメリカの既存の教会の指導者たちだけでなく、世界から集まって来る人、特にこれから活躍が期待される若い人たちに向かっての主からの預言を、死ぬ直前まで、忠実に伝えたのです。

 

 その「10億の人の救い」 という世の終わりのリバイバルが、正に2020年の今年から始まろうとしています。というのはボブの預言の一つに「アメリカン・フットボールのカンサスシチー・チーフがスーパー・ボールに勝ったら、それからリバイバルが始まる。」というのがあり、それが今年つい最近になって実現したからです。このことを預言者ショーン・ボルツ師が「ボブ・ジョーンズ師は、私に少なくとも10回は、神からの預言でそれが起こる、そして、それが起こったら、その年位から、神は、神の 「Apostolic Chiefs 使徒のチーフになる人たち」を起こし始めると語った」と言います。

 

 2014年のバランタインデー2月14日に天に召されたボブ・ジョーンズ師は、真に私たち「主の教会」への「愛の使者」でありました。その愛とは selfless AGAPE の愛です。それはロマ書13:10に「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、、愛は律法を全うします。」また、1テモテ1:5に「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。」と書かれている通りです。

 私たちクリスチャンは、その神のアガペの愛を何としても学びとらねばなりません。その為には、アガペの愛そのものであるイエス・キリストに常に個人的に接し、イエスご自身から直接学び取るだけでなく、それを現実にこの世で実行しなければならないことは明白です。

 

 リック・ジョイナー師は「そのような真の愛を知って、実行している人には人が集まる」と言います。それが「コイノニアの愛」であり、そのような愛の実行者が二人、三人(スモールグループ、多くて十二人)が集まるところに、人が集まる、そのことがイザヤ書60に書かれています。

 「暗やみが諸国の民をおおっている。(現在は、まさにその時代になりました)しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。・・・目をあげて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。(イザヤ60:2−4)

 

 あなたが輝き、地の塩となっているところにはもっと多くの人が集まるのです。そのようなリバイバルが起きると、大きな「既存の教会」にも人は集まりますが、それよりはるかに大きな割合で、コイノニアの小さなグループにこそ、より多くの人が集まる、するとそのグループが直ぐ大きくなり過ぎますから、そこから別のスモールグループが生み出されどんどん分身して行く。それが進めば、大きな既存教会の成長よりも、より早く、より大きく成長して行くーー実は、そのようなビジョンを見たとジョイナー師は言われます。

 

 コイノニアの愛のグループでは、先ず一人一人が直接主からのことばを聞く「霊の耳」を持つ訓練をします。それによって毎日それぞれが個人的に主に直接聞いて、その時に必要な「主の御心」をそれぞれが受け取り、「頭だけのクリスチャン」にありがちな「人間的な思いとか考えの一切をとりこにしてキリストに服従させ、私たちの行動を全て聖霊に委ねる(2コリント10:5)という生き方をし始めると、人がどんどん集まる。その結果が、世界で10億の人が救われるだけでなく、霊的弟子訓練もできて行くのです。

 

 その為に最も必要なものは「主からの知恵」です。例えばリバイバルによって癒しが起こり始めても、その癒しが一時的なもので終わるのではなく、持続させる「知恵」を主からいただくことが究極的な健康保持につながります。あらゆる事態において私たちに最も必要なものは「識別の力」と神の「知恵」であり、その元はすべて「神の愛」から出ていると言われるのです。

 

 従って、私たちがこの世を去る時に、天の門の入り口で「この世であなたは愛することを学びましたか」と主イエス・キリストに聞かれることは、そう言う意味であるとボブ・ジョーンズ師もジョイナー師も言われます。(終わり)


22 06月

生きている殉教者になる ウエイド・テイラー    2013年6月22日


生きている殉教者になる

 

ウエイド・テイラー

 

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

「私は生きている、しかし私が生きているのではない。I live; yet not I」という言葉は、自分を完全に主に明け渡した人ならば、心の奥深いところで共感すると思います。

キリストと一つになることが、 このように高い次元で日常的に実現するためには、私たちは一つのプロセスを通る必要があります。イエスが主の御からだ(私たち)のかしらとしてはっきりと顕され、私たちは透明となって(見えなくなり)、人々はただ主だけを見るようになります。その時、主は私たちの人生を通してご自分のいのちを生き始められるのです。これが終末における「証人」であり、この世に大いに影響を与えるものとなります。

 

使徒行伝1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして...わたしの証人となります。」

「証人 witness」と訳されている言葉は、原語であるギリシャ語では「殉教者 martyr」を表しています。私たちは自己中心の、自分で生きるいのち(生き方)に死ねば死ぬほど、イエスのいのち(生き方)を表すものとなります。私たちはこの証人となるべき者であるのです。私たちがイエスとの個人的関係に入り、自分の意図と目的が主と一つになるときに、私たちの人生を通して主のいのちが人々に見えて来ます。

殉教者として(肉の)いのちを捧げる機会を与えられるものは多くはないでしょう。しかし私たちは皆生きている殉教者になることはできます。 「私は生きているが私ではない I live; but not I」という人生の証人となれるように、神は私たちを デザインし造ってくださいました。

 

いかにして主の証人になるか

 

「神は人をご自分のかたちimageに創造されました。」(創世記1:27)

しかし人は罪を犯すことによって、神のかたちimage(私たちの霊)を失いました。キリストの贖いの業により私たちの霊は回復されましたが、私たちはそれを育み霊的成熟を遂げねばなりません。

 

ローマ8:29「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」

「同じ姿にされる  to be conformed」という言葉は、そのプロセスに私たちが服さねばならないものであることを示しています。

 

ピリピ3:13−14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえれたなどとは考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前にものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」とありますが、この「上に召してくださる神の栄冠を得る press toward the mark for the high calling of God」という機会を与えられても、すべてのクリスチャンがそれに応答するわけではありません。それには条件があり、私たちのあがないに反対する敵によって強い攻撃を受けるからです。しかし、私たちがひたむきに前のものに向かって進み続け、すべての反対を押し切るならば、私たちは「勝利者 overcomer」となるのです。

 

創世記2:7「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生き物(living soul)となった。」

主はアダムの中に「(複数の)いのち」の息を吹き込まれました。それは人が地上のいのちと天上のいのちという二つのレベルのいのちで生きるように創造されたからです。原語ではここの「いのち」という言葉は複数です。人は「形造られ」(soul)、次に「息(spirit)を吹き込まれ」ました。人は神に依存して生きるように造られたので、見守られ保護された環境の中に置かれたのです。

アダムが「依存する」ことを選びとるためには、「依存しないで独立する」ことを選ぶチャンスも与えられねばなりませんでした。神に依存する状態にとどまることによって、彼の霊は主と交わることができ、それこそが主の意図されたことであり、又、願いでした。アダムが善悪を知る木の実を食べたとき、アダムの「霊」の部分が死にました。アダムの罪の結果として、人はただの「ちり(soul)」となり、はじめに人に吹き込まれた霊の「分与」なしには、誰にも、また何にも堅く結びつくことができなくなりました。 そして創造主の購いの業なしには、人は自分が創造された神の意図、目的には入っていくことはできないのです。

私たちが悔い改めイエスを自分の救い主として受け入れた時、アダムが失ったもの(霊)が回復され、私たちのうちで機能し始めます。

 

神の栄光を身に纏う

 

第一ペテロ2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」

 

霊的な乳飲み子である私たちの中に回復された霊の部分は、成長、成熟していかねばなりません。購いの業によって「新生」を経験した私たちには、二つの領域に対する 認識、自覚が初めて与えられます。即ち地上(魂の領域)と天上(霊的領域)です。前者は私たちの肉的ないのちのことです。

第一コリント15:49前半「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように...」とあるように、私たちは簡単に地上の領域に対応し、その中で機能することができます。それは私たちの自然な環境であり生活です。しかし私たちの創造は地上の領域で存在するものと言うだけで終るのではありません。「二つのいのち(地上の魂のいのちと天上の霊のいのち)」が人の中に吹き込まれたからです。

そして第一コリント15:49後半「私たちは天上のかたちをも持つのです。」とあるように、私たちは「霊の領域」でも機能するように創造されたのです。しかし、私たちを魂の領域である地上に縛られたままにしておこうと暗躍する敵がいます。ですから、私たちが天上の領域で機能するためには主に依存する者にならねばなりません。そこにおいて私たちは主との関係をますます深めることができるのです。これは本当にすばらしことです。有限なもの(人間)が天の領域で無限な方(神)と親しく交わるのです。霊的ないのちという更に崇高な領域で霊的に成熟することによって、 イエスのいのちとミニストリーをこの世の人々に見える形で具現する「表現expression」に私たちはなれるのです。キリストのからだであるクリスチャンが皆で(ひとりの)イエスとなり、御父の栄光を具現し、神の千年王国を建設していくのです。

 

山上の変貌の際にイエスは、ご自分のうちにあるシャカイナの栄光を表されました。しかしその時はまだその栄光は私たちには与えられていませんでした。今、主の復活と昇天により、幕が裂かれ、私たちが主のシャカイナの栄光の中に入って主と一つになって共に輝く道が開かれました。最早「炎の剣」(創世記3:24)は私たちが主の栄光を経験するための妨げではなくなったのです。

アダムは自分が裸であるのを恥じて主の臨在から隠れたのだと言いました。この「裸」は衣服とは全く関係がなく、主の臨在の中に入り主と語りあうことを可能にしていた「シャカイナの被い」が失われたことを意味しています。

そこで主は彼らに別の「被い」を与えるためにけものを殺しました。それは過ぎ越しの小羊となり、そしてイエスの血潮となりました。私たちはイエスが与えてくださった罪の「被い」の中にとどまり主の赦しを受けることが出来ますが、アダム(私たち)が失った主の栄光で被われるまでには至っていないのです。

 

エペソ1:18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか...あなたがたが知ることができますように。」

多くの人は、イエスの十字架の購いによる救いの被いを受けただけで満足し、居心地よくそこにとどまってしまいます。主は私たちが失ったもの、主のシャカイナの栄光をすべて完全に回復したいと願う人々を求めておられます。

第二テサロ二ケ1:10「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け...」

イエスは栄光のうちに天に上られ、栄光のうちにもどって来られます。主の変貌の栄光を受けようと更に求める者たちは、終末において栄光の主の証人となり、彼らを通して、イエスご自身の大いなる臨在と力がこの世に表されるでしょう。

 

イザヤ60:1−3「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ、やみが地をおおい、暗やみが諸国のたみをおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(終り)


10 01月

栄光の焦点 スタン・スミス 2011年1月11日


栄光の焦点

 

スタン・スミス

 

神は今、どんどんと「オープン・へブン/天が開かれる」という体験を神の民に与えていてくださいます。即ち、イエスのヴィジョンを見る、天使が訪れる、神の栄光にまみえるというような体験です。これらのことは以前にも時々は起こっていましたが、 神は現在、このような体験をもっと頻繁に、そしてもっと多くの人たちに与えておられます。

 

これはイザヤ60:1−2に書かれていることであり、この世が大いなる闇におおわれる時代に神の栄光が訪れるという約束の成就なのです。今の時代のために神が持っておられる目標、ゴールは、教会が光輝くことです。これを実現させるために、神はご自分のより大きな光を私たちの人生の中に注ぎこんでおられるのです。

 

私たちの多くにとってこれは今までになかった新しい体験なので、それを誤って解釈してしまう者も出てきます。天使を見た経験をすると、そこからオーバーな期待を抱いてしまう事もあり得ます。また見当違いな見方をしてしまうこともあります。しかし聖霊の賜物を聖書に基礎をおいて解釈しなければならないことを私たちが学んできたのと同じように、天が開くという体験もそれと同じ扱いが必要であることを私たちはこれから学んでいくことでしょう。

 

私自身が神との出会いを体験してから、私は聖書を新しい目で見るようになりました。それは3、40年前にカリズマ・ムーブメントが始まり教会が聖霊の賜物に対してオープンになった時に私たち多くのものに起こったことを想起させるものです。私たちはそのことが起こる以前に読んでいたのと全く同じ聖書を読んでいたのですが、なぜかそれは新しいもののように思えました。それまで象徴的に受け取っていた聖書箇所が、突然生き生きとして文字通りのものとなりました。

  

今それと同じような感覚があります。聖書に書かれていることは、私たちが思っていたよりも、文字通り真実であることを今私たちは見出しているのです。

 

今ここで私は、一つのなじみ深い聖書箇所が 、今教会で起こっている「天が開かれる体験」という光に照らされるときに新しく異なったものに見えることをお分ちしたいと思います。それは私たちが一つのものだけに焦点を当てることの重要さを語っています。分かりやすくするために、この聖句を4つのポイントに分けて書きます。

 

キーポイント#1:神にあなたのランプを灯してもらいなさい。そうすれば、神があなたを正しい場所に配置される。

イエスは言われます。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」(ルカ11:33)

 

誰がランプを灯すのでしょうか? もし私たちが自分で灯すのならば、それが光る場所に私たちが自分で置かねばなりません。神が灯すならば、神が私たちを配置されます。

 

 

マタイ5:14で、イエスは私たちは世の光だと言われました。ヨハネ8:12では、イエスはご自分は世の光だと言われました。私たちは主から光をもらわなければなりません。主が私たちのランプに火を灯してくださるのです。イエスが燭台の上にランプを置くと言われたとき、その時それを聞いていたユダヤ人たちは神殿の聖所にある7つの灯皿のついた燭台のことを思い浮かべたかもしれません。聖所の火は何世紀も前に神によって与えられましたが、それを燃え続けさせるためには、祭司たちが灯芯を調え灯皿に油を満たすという務めを遂行せねばなりませんでした。

 

私たちのある者は神の火を何年も前に受け、それ以後はその火によって自分が用いられ影響を与えられるような場所に自分を配置する事に時間を費やしてきました。私たちのある者は油が少なくなり、その灯芯はくすぶっています。私たちはバーンアウト、燃え尽きているのです。しかし私たちはレビ人ではありません。私たちは新しい契約の保持者であり、イエスは私たちのランプにもう一度火を灯すことができるのです。それは実際にはどのような事を意味するのでしょうか?

 

キーポイント#2:あなたの目はランプである。あなたが何に焦点を当てるかによって、あなたがどれほど明るく輝けるかが決定する。

 

「良い目」とは、単純にただ一つのものを見つめる純粋な目のことです。それは私たちが真心をこめて純粋にイエスに焦点を当てるという意味です。イエスは「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いとからだも暗くなります。」と言われました。(ルカ11:34)

 

何年も前のことですが、私は謙遜になろうと努力しました。しかし、それは勝ち目のない戦いでした。そしてやがて私は自分自身を見るのではなくイエスを見ることを学び始めました。主は謙遜なお方です。主に従っていくうちに私は主のように行動することを学びました。これは助けになることの一つです。

 

しかし、もう一つ私が謙遜について学んだことは、もし私が自分の心のうちを探るならば、謙遜は不可能になるということでした。ある時には私には謙遜がないことがわかりました。それよりもっと悪いのは、確かに自分には謙遜があることを発見しましたが、それを称賛した途端に私の謙遜はもう消えていくことでした。

 

何年も経ってから、私は 信仰に関しても同じことを学びました。自分は本当に信じているのかと自分の心を探ると、信仰は逃げていってしまいます。私が自分と自分が祈っていることの不可能さから目を離し、イエスを見上げると、信仰が自然に起こります。私たちがイエスに焦点をあてると、私たちのからだは謙遜と信仰の光で輝くでしょう。私たちが何かイエス以外のものに焦点を当てるときに、問題が起こるのです。

 

キーポイント#3:イエス以外のものに焦点を当てることは私たちの光を弱める

 

 主にだけ焦点を当てていることは努力のしがいがあることです。間違ったものに焦点を当てるならば、私たちのうちは暗やみで一杯になるでしょう。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」と言われました。 (ルカ11:35)

 

私たちは全員このようなことを経験してきました。ミニストリーのあれやこれやの様々な問題に焦点を当ててしまうと、私たちの灯火は暗くなるのです。イエスに焦点を当てれば、明るく輝くのです。

 

時には霊的戦いをする中で、私たちに見えるのはサタンがしていることだけになってしまいます。私たちはダビデのようでなければなりません。彼は自分の肉の目を巨人に向けていましたが、心の目はヤーウェに焦点を当てることによってゴリアテに打ち勝ったのです。

 

私たちがイエスに焦点を当てるとき、私たちの霊的感覚が開かれます。しかし私たちが他のものに心を捕らわれてしまうとき、それを想像するようになってしまいます。それはちょうど静電気が起こると私たちの(神の御声を聞く)聴覚が妨げられ、曇りガラスを通すと私たちの視覚が曇るのと同じです。神からの指示をもっと明瞭に知るために、あなたの集中力をイエスから逸らすものは容赦なく断ち切ってください。

 

神はレビ人にウリムとトンミムを与えて民を導くようにされました。この二つの言葉は文字通り「光と廉潔 lights and integrities」        

という意味です。光は神が与える啓示です。廉潔は心の潔癖さ、単一さであり、動機の純粋さです。

 

イエスは父からの光と 一つのことを見つめる潔癖さとで生きておられました。主は当時の「宗教の霊に捕らわれた人たち」に抵抗されましたが、宗教家たちの堕落に焦点を当てられることはありませんでした。そうではなく、主は常に父がしておられることだけをじっと見ておられたのです。主は一つのことだけを見ておられたのです。

 

キーポイント#4:神の戦術は私たちをもっと明るい光にし、その光を輝かすことの出来る場所に私たちを配置すること。

 

自分を配置するのは私たちの仕事ではありません。私たちの仕事は主に焦点を当てることであり、そうすれば私たちのからだは光で一杯になります。もしサタンがやって来ても、サタンが「俺のものだ」と言える暗やみを私たちの中に見出すことはできません。

 

「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかり(ランプ)が明るく輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」ルカ11:36

 

私たちはイエスをどのくらいはっきり見ることが出来るでしょうか? どのくらい頻繁に? どのくらい一貫して? これが私たちの明るさを決める鍵でしょう。そしてその明るさによって神が私たちを配置される場所が決まります。神が天を開いておられる今、私たちはイエスに焦点を当て続けることに心しなければなりません。いろいろな現象が起こってくるでしょう。使徒行伝に書かれているようなことが。オープン・ヴィジョン、天使からのメッセージ、大きな奇跡など。それらが起こったときはそれを楽しみ、そこから力を得てください。しかし、それよってあなたがイエスから目を逸らせてしまうようなことは決してあってはなりません。主を見つめることがあなたのランンプを燃え続けさせるのです。(終わり)


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