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Walk With God Ministries


22 09月

霊的成熟について     坂 達也      9月22日


霊的成熟について

 霊的成熟とは英語でspiritual maturity と言いますが、この成熟という言葉からは成熟したワインを思い起こさせます。ワインといえばその成熟の度合いによって限りなく絶妙な味がするものと言われます。そして、それを味わうためには人間は喜んで高い値段を払うようです。
私の高校の同期の親友から聞いた話ですが、彼がアラブ圏にある有名なゴルフリゾートを訪れたとき、夕食にワインを勧められました。その泊まったホテルの高級レストランでのことでしたが、ワインについて色々説明を受けた後で、うっかり注文したのが桁を間違えて1ボトル百万円以上するものであったことに気が付き、すぐキャンセルしたそうですが、何も注文しない訳にいかず、結局20数万円するものを一本注文して賞味したそうです。味はと聞くと、「なるほど美味しかった」という満足げな答えでした。世の中には数百万円もするワインが存在し、産油国アラビアの富豪たちの中にはそれを毎日のように賞味する人たちもいるようです。

 私たちはキリストを信じ受け入れた後洗礼を受けてクリスチャンになります。それによって「救われた」ことに間違いはありませんが、クリスチャンの中には自分が霊的に生まれ変わったことを真に理解せず、いつまでも肉的なクリスチャンのままでいて何の不満も感じていない人が意外に多くいることに気が付きます。この人たちを称してベービー・クリスチャンと言いますが、この霊的なベービーは、自分が天国行きの切符を手に入れたことで安心し、事足れりと思っているとすれば、それは大変お気の毒な話であるとしか言いようがありません。
 なぜなら、ベービーとは最初は母親の乳か牛乳しか飲めず、食物としてそれしか知らないからです。しかし、成長するにつれ段々世の中にはもっともっと美味しいものがあることが分かってきます。それと同じで霊的に生まれ変わった私たちが霊的な成熟をするにつれて、霊の世界においても、それこそ底なしの深淵に例えられほど無限に美味しい味わいとそれを喜ぶ至高の世界があることを知らないのです。

 クリスチャンが霊的に成熟することとは、私たちがキリストによって満ち満ちた状態となり、完全なる大人になることであると思います。(エペソ4:13)それをコロサイ2:9-10では、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。…」私たちの愛するこのキリストとは、最高にかぐわしい薫りを放ち、最高の甘美な味を与えてくれる値段のつけられないようなワインよりももっとすばらしいのです。
 雅歌1:2-4に歌われています。「 あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、 あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。」私たちは主の花嫁、主が引き寄せてくださることを熱望し、主の後を追います。主が言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15:4)これは主との深い交わりの関係に入ることを意味します。

 真の救いとはこの状態に入ることではないでしょうか。そのためにパウロは私たちに「…いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」(ピリピ2:12口語訳)と言われます。
 創造主は人間が血のにじむような努力を重ねた結果、やっとプロの芸術家とかスポーツ選手になれるように造られました。この世でクリスチャンでない人たちが努力に努力を重ねた結果で名を成し、名人芸に達するように造られているとすれば、クリスチャンだけが努力もしないでイージー・ゴーイングに霊的成熟に到達できると考えているとすればそれは大変な間違いです。

 それでは私たちは何を努力すればよいのでしょうか。それは上記の雅歌が教えてくれています。私にとって恐れおののいて努力することとは、主に飢え渇き、徹底的に主を追い求めることです。そして、その方法は「何もしない」と言うことなのですから至極簡単です。誰でも出来ます。ただ主のために時間の無駄をすることです。主の前に無心になって座り、じっと主が現れ、主が語って下さるまで何時間でも待つことです。毎朝少なくとも一時間から二時間それをすることがそんなに難しいことなのでしょうか。石の上にも三年と言いますが、これを三年と言わず、半年も続ければ、あなたに霊的成熟の成果が現れ始め、あなたは一度その「主との親密な交わり」と言う甘美な味を味わったら、止められなくなります。もっともっと欲しくなるからです。終末の今はそのシーズンであると信じます。(終わり)


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21 09月

通訳       坂 柚実子        9月21日


通訳

 人間的に言えば、本当にひょんなことから私たち夫婦はヘンリー・グルーバー師の通訳をすることになったのです。1995年の6月に初めてポートランドの近くの教会での師の集会に行ったのですが、その4ヶ月後にはグルーバー師御夫妻を日本にお連れすることになりました。このスピードは全く不思議な神様の御計画としか言いようがありませんでした。

 当時の泉の森祈祷院での一回目の集会では、主人がグルーバー師の横に立って通訳をすることとなりました。 ところが、主人は頭の通訳のスイッチを入れ忘れ、全く日本語がでてきません。「おまえ、代わってくれ」といわれた私も本当に困ってしまいました。グルーバー師も日本のクリスチャンの前に立つのは始めてで、何を話せばよいのか分からない状態。とにかく、私には難しいお話をされました。見かねた英語のわかる方々が聴衆の中から助け舟を出してくださいましたが、それはもう、通訳者としては惨めなものでした。

 グルーバー師のメッセージのあとのミニストリーの時間も、幸い通訳の経験豊かな方がおられ、その方にお願いすることができました。見ていた私は、「へーえ、こんな風にするんだ、、、」と学んだのでした。それから毎年日本にグルーバー師をお連れするようになりました。グルーバー師もできるだけやさしい言葉で話すようにずいぶん努力をしてくださいました。

 グルーバー師は聖書は欽定訳を使われますが、私たちが使っている新改訳では同じようには訳されていなかったりすることも多く、師も頭を抱えられることがしばしばでした。また、主人も私も通訳をするときは、自分がはっきり理解してから訳したい、と思う性質なので、かえってもたもたと時間をとってしまったりして、聞いている方にご迷惑をかけたことも多いと思います。

 そもそも私の最初の通訳の「仕事」はとてもユニークでした。それは、エドモンド・ブショアというポートランドにある英語学校の先生に頼まれたものです。あるチャーチ・スクールで、先生が沖縄にミショナリーとしていったときは、こんな風に通訳者を使って話をしたということを子供たちに見せたいというのです。私は着物を着てくるように言われました。そして、彼が英語で話すのを日本語に訳すのですが、子供たちは全部アメリカ人ですから、私が何を言ったって分からないのです。つまり間違えてもいっこうに差し支えない「仕事」だったのです。なんか、恥ずかしいような、情けないような気持ちがしたように覚えております。でも、とにかくそれが私の通訳デビューだったのです。

 私たち夫婦はアメリカに長年住んだというだけで、通訳者としての訓練も受けたことがないにもかかわらず、神様が用いてくださっていることを感謝しています。しかし、二人とも歳のせでしょうか、一ヶ月間の通訳はだんだん疲れを覚えるようになり、他に助けてくださる方を祈り求めてきました。そして、今回、いわき市の森 章牧師がお忙しい中を後半の2週間グルーバー師に随行して通訳をしてくださることになり、主のすばらしいお計らいに感謝しております。

 今回グルーバー師は10月1日から11月6日までの予定で日本各地で伝道されます。私たち夫婦は10月16日まではグルーバー師と同行し、その後沖縄に参ります。どうかお祈りください。(終わり)


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31 08月

聖なる儀式   ウォルター・ビュートラー    8月31日


聖なる儀式
                                          ウォルター・ビュートラー

 皆さんの中には、「夜中に目が覚めたり、主から起こされた時、一体何をすればいいのですか?」という疑問を持っている人がおられると思います。イザヤ30:29を見てみましょう。

 「あなたがたは、祭り(holy solemnity 聖なる儀式)を祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。」

 あなたが夜起きて主を仰ぎながらただ座っているとき、それは聖なる儀式となります。主の臨在も、又、何の導きも感じなくても、ただ主をあがめ、主を礼拝して座っているのです。あなたの霊が神を求めながら、静かに座っているのです。心は主をあがめる状態で主を仰いでいます。 それが聖なる儀式です。

 あなたは手を上げて座っています。 手をずっと上げていると疲れますから、私は肘掛椅子をつかって肘を支えます。一時間、一時間半、二時間、、、と。 もっと長く座っていたことも多々あります。ただ座って聖なる儀式を行うのです。 時には「主をたたえます、ハレルヤ」というような短い言葉が出ることもあります。

 詩篇92:1-3を見てください。これは小さなことのように思えるかもしれませんが、そうではないのです。これはあなたが主にささげることのできる最も偉大なる宝の一つなのです。 人が夜、又は昼でも、じっと座って主を礼拝するのは、主が最も喜ばれることの一つなのです。 何かをお願いしたり、金銭を求めたり、また、癒しを求めたりするのではなく、何も求めないで座っているのです。 ただじっと聖なる儀式をします。これは主にとって非常に価値のあるものなのです。

 私は何週間も毎夜この聖なる儀式を続けました。はじめは主に起こされたのではなく、自分で起きたのです。そして座り心地のよい椅子を用意してそれに座りました。 特別な主の臨在はありませんでした。ただ主はどこにも満ちておられる方ですから、私のそばにおられたのです。   私がいるところにいつも主はおられます。主は天と地に満ちておられるのです。それがわかると聖なる儀式を始めるのはたやすいことになります。

 ある夜、何の音も声もしなかったにもかかわらず、私の霊ではっきりと主が私のうしろから近づいて来られるのを感じました。主は椅子に座っていた私の上に後から身をかがめられました。私は主が私を上から見ておられるのが分かりました。そして、主の涙が私の頭の上に落ちてきたのです。 たくさんではありませんでしたが、数滴の涙を確かに私は感じたのです。これは主が私のしていることを喜んでいる涙だ、ということが御霊によって瞬時に確かな真理として私に教えられました。 それは主の臨在の顕らわれでした。その涙(それは霊的なものでしたが)を私が感じるように主はしてくださったのです。 

 それは、毎晩聖なる儀式のために起きている者に対する主の感謝の涙だったのです。主の感謝の心がどれほど深いかを、主は私に知らせたかったのです。これは聖なる儀式をもって主を見上げる魂に与えられる神を豊かに知ることができる特権の一つです。ですから、夜起きて何をしたらいいか分からないときは、聖なる儀式をはじめなさい。

 「夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。」 詩篇42:8

 祈りをするべきときもあります。けれども私が聖なる儀式をするときは私は願いごとはしません。うっかりして何かを主に願ってしまったときは、私はすぐに「主よ、お赦しください。今の願いを取り消しますから、答えないでください。」といいます。聖なる儀式は願いごとをするときではないのです。 それはまた別のときにすればよいことです。

 しかし、主をあがめる祈りはあります。詩篇141:2を見てください。「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上がりますように。」とあります。これが礼拝の祈りであり、それは香りのよい煙として神のもとに昇っていきます。 あなたは座して霊の中で香を神に焚くのです。

私 は夜主によって起こされるとき、すでに私の心に礼拝の香が燃えているのを感じることがありました。私の中から主に向かって香の煙がのぼっていくのがわかりました。それで私は目をさまし、聖なる儀式のときを持つのです。

 主から起こされるのを待つ必要はありません。自分で起きてみてください。やってみたいと思うならば、いつでもいいですから起きてみてください。「主よ、今から私は聖なる儀式を始めます。ここに座っています。」と申しあげるのです。このことを真剣に、勤勉に続けるならば、あなたの霊のろうそくに火がともり、主の臨在の素晴らしい経験をするでしょう。

 最後に黙示録3:20を見てみましょう。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼と食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。主のノックの仕方はいろいろあります。あるときは歌をあなたに与えて起こされます。又、主の臨在をもって起こされるときもあります。私は主の足音で起きたときもありました。

 「だれでも」とありますから、すべての人にこの機会は開かれています。ですから主のノックに応えて起きてください。主の呼びかけに応えてください。 すばらしい食事が用意されているのです。 主とあなたとの親しき交わりが待っています。それはあなたのろうそくに火をともす儀式となることでしょう。

 この話を聞いて、「ああ、いいですね。素敵ですね。」というだけではいけません。実行してください。戸を眺めているだけではなくて、戸を開いてください。 そしてダビデと共にこころの中でこういえますように。
「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」(詩篇18:28)(終わり)


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17 08月

神の顕現の臨在 その1 ウォルター・ビュートラー  8月17日


神の顕現の臨在 その1
                                         ウォルター・ビュートラー


  数年前のことですが、主が私にどこかで一人になって主とだけ交わりなさいといわれました。それで、私は一人で祈りと断食をして主と共に過ごす場所を見つけて金曜の午後にそこに行きました。日曜の午後になって、私は祈りと断食で主を求め始めてから48時間がたった、でも何も起こっていない、ということに気がつきました。何も感じなかったし、何のお言葉もいただいておらず、主の臨在もありませんでした。主は確かに私に何かを語られたいのだということはわかっていましたが、まだ何も語られていませんでした。

私は心の中で、「神が語られるには、長い時間がかかるのだなあ。」とつぶやきました。そう思った途端、主がベルが鳴るのと同じほどの鮮明さで、そしてかみそりのように鋭く、私に語られました。 肉の耳に聞こえたのではありませんでしたが、私はその声を確かに聞いたのです。主は「神をせきたてる者は、神には落ち度があると言う者だ。」といわれたのです。

主は、私は主の来られるのが遅すぎるとつぶやいて主を批判した、言われたのです。私は主に謝り赦しを乞いました。 その途端、主を待ち望んで私がこもっていた部屋のドアを通って主が入ってこられました。主を見たわけではなく、声も聞いたわけではないのですが、主がそこにおられることは目で見るよりももっとリアルだったのです。主が入ってこられ、主の臨在が主の後ろについてきました。それは王が王座にむかって入ってきてそれと共に王の長い衣のすそが部屋一杯に広がるような感じでした。

主は私の左側、腕の長さほど離れたところに立たれ、そこに4時間おられたのです。そしてみ言葉から「神を知ること」 について教えてくださいました。主が聖書の箇所を示されたので、私はそこを開けて読みました。するとそれが驚くほど鮮明に解き明かされ、その麗しさ、深さ、意味が分かるのでした。

翌年の夏に、私はタイのバンコックにいたのですが、道を歩いていくと道ばたに蓮のつぼみが落ちていました。それを拾って花びらを指で開いてみた私は、花の内部の美しいデザインに驚嘆しました。主が私にされたのは丁度それと同じようでした。 主がみ言葉を自ら開いてくださり、その美しさと豊かさを見せてくださったのです。私たちが神を知ることとは、神の御心の直ぐそばに行くことです。この「知ること」の中には、神の顕現の臨在を知り、そして個人的に経験するということも含まれています。

6時になったとき、主はドアの方に向きを変えられ、「そして、主は彼を試みるために去った。」と言われ、主の臨在も部屋の隅々から集められて主のあとについて部屋から出ていきました。
4時間にわたる「キリストご自身」から、「神を知る真の知識」 について「個人的に教わる」という経験は、私が期待し待っていたものをはるかに凌駕していました。このとき主から教わったことを100以上の国々に行って伝えるように後に遣わされるようになるとは、そのときの私には全くわかりませんでした。

この主の訪れを後になって人に話すときには、一つ一つの言葉を選ぶのにも私は非常に注意を払いました。 これは絶対に粉飾しない真理であり、起こったままを私の知る範囲でできるだけ正確に思い出しながらお話しします。

主は「主は彼を試みるために彼から去った。」 と言われました。学校で教師は教えたあと、テストをします。 それで私は、主は私を教えてくださったからそのテストをされるのか、と思いました。 私はじっと待っていましたが、何もおこりませんでしたので、もう寝ようと思いました。まだ8時でしたが、私は金曜日からほとんど睡眠をとっていなかったからです。

すると、サタンがドアを通って部屋に入ってきました。私はそのときベッドの横に立っていたのですが、入ってきたのはサタンだとすぐにわかりました。サタンは主が入ってこられたのと全く同じように部屋に入ってきて、主が立たれたところに立ちました。彼のあとについて悪魔的臨在が長い衣のすそのように部屋一杯に広がりました。 その様子は主の臨在が部屋に満ちたのと同じでした。サタンが話し始めたとき、私の中に恐れは感じませんでした。彼の声は肉の耳には聞こえませんでしたが、特徴あるサタンの声を確かに私は内に聞きました。

サタンは「主はお前のところには来なかった。」と言いました。私は大声で「主は確かに来られた。」と応えました。次にサタンは「聖書は神の言葉ではない。」と言い、私は「いや、確かにそうだ。」と応えました。サタンは 「主はおまえに教えはしなかった。」と言い、私は「いや、確かに教えられた。」と応えました。

このような問答のあと、彼は「どうしてお前は神を否定しないのだ?」と言い、私は「なぜ否定などできようか?」と応えました。彼は「なぜなら神はリアルな神ではないからだ。」と言い、私は「神はリアルだと私は知っている。」と応えました。次に彼は、「お前は救われてなどいない。」と言い、私は「私は自分が救われていることを知っている。」と応えました。

このあと、サタンは「お前は祈りすぎだ。」と言い、私は「そんなことはない。」と応えました。サタンはもっと強い調子で、「お前は祈りすぎて気が変になっているのだ。」と言い、私は「私は祈りすぎてなんかいないし、気も変になっていない。」と応えました。

私はベッドの横に立っていたのですが、このような問答がしばらく続きました。すると部屋が回り始めたように感じ、私はどんどんと速度を速めて回るメリーゴーランドの中にいるように感じました。サタンは「 ほら、見ろ、お前は気が変になってきた。」というので、私は「違う、これはただの幻覚だ。 何も動いてはいない。お前が私をだまして部屋が回っているように思わせているのだ。」と応えました。

これは本当に大変な事態でした。部屋の中のすべてのものがぐるぐると回り、私は三角や四角、木や岩、山などの幻覚に襲われました。サタンは、「さあ、神を否定する準備は出来たか?」と聞いてきましたので、私は「絶対に否定などしない。」と言いました。

主が私に教えてくださったことを全面的に否定させようとするサタンの攻撃に対して、私は堅く立って抵抗しました。するとサタンはくるっと向きを変えてドアから出ていきました。そのうしろからは悪魔的臨在が部屋の四隅から集まって衣のすそのようについていきました。再び主
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11 08月

主の親しき友ウォルター・ビュートラーについて  ウエード・テーラー  8月11日


主の親しき友ウォルター・ビュートラーについて 

ウェイド・テイラー



ウォルター・ビュートラー師は私が学んだ聖書学校の教師でした。師は他に類を見ないほどに主イエスを個人的に親しく知り、主と共に歩いた人でした。稀にみるような主との親しき交わりの中での彼の生活は、周りの者にもその素晴らしさがよく分かりました。師が教えている教室に、主イェスはしばしば訪れてくださり、ご自身を顕され、師に教えを受けていた学生たちの人生の上に働いてくださいました。 その一人であった私の人生もチャレンジを受け変えられてゆきました。
師は度々学生たちに、主を個人的、体験的に知るようにと勧めました。師自身のユニークな主との霊的歩みと体験を話してくださり、私たちももっと主を熱心に求める気持ちを持つようにというチャレンジを与えてくださいました。

師のミニストリーにより、私の霊的な歩みの2つの面が非常に重要になりました。 第一は、「主を待ちのぞむ」という質の高い時間をついやすことのはかり知れない恩恵を理解したことです。第二は主の「顕現的な臨在」(Manifest Presence)を体験することが可能であることを知ったことです。師の教えのおかげでこの2つは私の人生の中で現実のものとなりました。

ビュートラー師が教えられた霊的原則は、私の霊的生活に大きな影響をあたえ、私のミニストリーの基礎原則ともなりました。
 
それは「私たちが神のために愛の家を建てるならば、神は私たちのためにミニストリーの家を建ててくださる。」というものです。
この原則は真理であり力があることを私は証言することができます。

ビュートラー師は広範囲にわたって海外でのミニストりーを行い、「主の顕現の臨在」と「神の導き」について1974年の亡くなる直前まで教えられました。

あるペンシルバニアのペンテコステ派聖書学校にビュートラー師が訪れたときの一学生の記録をここに載せます。

「神の祝福だけでなく神ご自身を求めたウォルター・ビュートラー師の思い出」

ウエスタン・ペンシルべニア聖書学校の学生たちは興奮で騒然としていました。ウォルター・ビュートラー師が来週この学校に来るというのです。私は彼の話を聞いたことがなかったので、上級生たちがこんなに興奮するのなら、素晴らしい人に違いないと思いました。

 とうとうその当日となりました。 会堂は一杯になりました。学生だけではなく、遠いところからも人々が詰めかけていたのです。

   彼が話し始めると、今まで私が聞い話とは何か少し違うことに気がつきました。彼がイエスについて話すとき、イエスについての大量の情報を提供するのではなく、あたかもイエスが彼の友達であるかのように話したのです。このことが私の興味を引いたので、私はもっと注意深く聞くことにしました。彼の話す話はただの話以上のものだということがわかってきました。それは彼が友達イエスと一緒にした冒険談の数々だったのです。

彼は彼の友達(イエス)のことを教えるために世界中に出かけていきました。通常一人で旅行をしましたが、神の臨在がいつも伴っていたので、実際のところ一人ではなかったのです。彼とイエスがロンドン行きの飛行機に乗って大西洋上空を飛んでいたときの話です。二人で愉快な旅をしていたのですが、イエスが急に「ウォルター、今度はピラミッドのところで会うからね。」と言われていなくなるのがわかりました。彼はロンドンに到着すると、すぐにエジプト行きのチケットを買い、エジプトに行き、ピラミッドのところで腰をおろしました。 すると、彼の友達(イエス)の臨在を感じました。間もなくエジプト人のビジネスマンが彼の横に座りました。主が彼をエジプトに呼ばれた理由はこの人だったということが彼にはわかりました。彼がこの人に友達のことを話し始めるのに時間はかかりませんでした。エジプト人は、「主は私の友達にもなってくれるでしょうか?」と聞くので、彼は喜んでイエスを紹介しました。そして、また飛行機に乗って旅を続けたのです。友達と一緒に。

ビュートラー師は、彼が友達と一緒にした冒険談をいくつか話してくれましたが、一つの話を忘れることができません。彼があるときバンコックの飛行場につくと自分のスーツケースがありません。彼はモテルに行き、そこで飛行場からの連絡を待ちましたが、なんの連絡もありません。彼はまた飛行場にいってコンベイヤー・ベルトのあたりを見回しましたが、ありません。もうなくなってしまったとあきらめて、必要なものを買うことに決めました。その場を去ろうとしたとき、突然主の臨在を感じました。 主はそこを立ち去りたくないのだ、と彼は感じました。もし、主がここにとどまりたいのなら自分もいなくてはならないと、彼は思いました。彼は友達の臨在を感謝し礼拝しました。深い礼拝をささげていると、彼のスーツケースがベルトにのってきました。 別の飛行機の荷物にまぎれてしまっていたのです。

友達の話をし終えると、彼はとても変わったことをしました。彼はゆっくりと会衆に背を向け、じっとそのまま立っているのです。こんなことは見たことがない、と私は思いました。誰も動きませんでした。聖なる静寂がその場を覆いました。 沈黙がしばらく続きましたが、突然一人の女の人が泣きながら立ち上がり、会衆の前で自分の罪を告白し始めました。信じられないことでした。ビュートラー師といえば、彼は彼女が告白を終わるまで会衆に背を向けたままでした。彼女が終わるや否や、他の人が立って罪を告白し、そのように次々と人々が立って自分の罪を告白したのです。ついには私も立ち上がりました。主の臨在が満ちていました。それは厳かであり、憐みに富み、愛にあふれていました。 やがて静かさが戻ると、彼は会衆の方に向き、彼の友達を愛してくれてありがとう、と私たちに感謝を述べてから壇上から去っていきました。(終わり)


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