06 04月
テンプル・マウントの外に神殿が位置していたことを発見した新たな研究
2007年2月11日 WorldNetDaily.com より© 2007 WorldNetDaily.com
1866年に英国の探検家によって作られた地図と、ユダヤ教のミシュナの一節を用いて、イスラエルの考古学者でヘブル大学の教授であるジョセフ・パトリッチ氏が、ユダヤ教の神殿が建っていた正確な位置を突き止めたと発表した。神殿は古代に2度建設されたが、2度とも破壊されている。
この神殿は紀元前10世紀にソロモン王によって建てられ、その後バビロンから帰還したユダヤ人によって紀元前5世紀に再建されたが、多くの学者はその神殿があった位置は現在イスラム教の岩のドームが建てられている場所であるといっている。しかし、ジョセフ・パトリック教授はその推定は間違っており、正確な位置を示す考古学的な証拠があると言う。
西を向いているエルサレムにあるテンプルマウ
ントの上に位置するドーム・オブ・ロック
パトリッチ教授によると、神殿や外庭、部屋や門はもっと南東に向いていて、現在のテンプル・マウントに斜に、しかももう少し東よりに建っていたという。これは、神殿は東向きで、現在のウエスターン・ウオール(西の壁)にもっと近かったと主張する他の学者たちの意見とは異なっている。
しかし、この違いこそが、アブラハムがその上で息子イサクをいけにえにしたとユダヤ人が信じ、イスラム教徒はモハメッドがそこから天に昇ったと信じている「ロック(岩)」の上には昔の神殿が建てられていなかったという理由であると、パトリッチ教授は述べている。
パトリッチ教授の神殿の位置についての研究は、1866年に英国の技師であったチャールス・ウィルソン卿が、パレスチナ・エクスポレーション・ファンドのために研究した資料に基づいている。ウィルソンは現在のテンプル・マウントの下のいくつかの古代貯水槽を地図に表したが、その一つに、ローマ帝国によって紀元70年に破壊された神殿の痕跡が保存されていると教授は言っている。
ウィルソンによって地図に表された貯水槽は、幅は約4.5メートル、長さ52メートル、深さ13.7メートルで、テンプル・マウントの南東の隅に位置していたが、南東に面していて北と南にも溝が伸びていた。
北東に面している第一世紀に存在した神殿のパトリッチによる復元図。ヘブル大学の好意によるもの。(スケッチはリーン・リトメーヤー)
「今までテンプル・マウントにある貯水槽の位置とそのユニークな形が、祭壇と聖所の位置と形に由来していることを思いついた人は誰もいなかった。」とパトリッチ教授はYネットニュースに語った。
教授によれば、この貯水槽だけがテンプル・マウントで発見されたユダヤ教のミシュナに書かれているものと一致していると言われる。ミシュナは紀元3世紀に編纂されたラビの口伝集で、神殿の庭にあった祭壇で祭司たちが行った毎日の清めの儀式といけにえの務めについて書かれている。
祭司たちは、いけにえをささげるために祭壇への斜面路を登る前に身を清めなければならなかったが、その清めの水は、貯水槽から水車の原理を使って運ばれ、洗盤に汲まれたことが、ミシュナには記されている。
左図はパトリッチによる第一世紀の神殿の復元図。図中、八角形をしたものがドーム・オブ・ロック。図面は上の方向に向かって東向き。
パトリッチ教授は、水車と洗盤があった位置は、ウィルソンの地図にある南東に向いているこの巨大な貯水槽から割り出すことができ、さらにそこから祭壇や神殿そのものの位置も分かると信じている。
パトリッチ教授は、神殿は他の学者たちが推定している位置よりももっと南と東に寄っていて、テンプル・マウントの東と西の壁に対して直角ではなく斜めに建っていたと結論づけている。また、そうだとすればドーム・オブ・ロックにある「岩」は神殿が建っていた敷地の中には入っていないことになる。
パトリッチ教授は、自分の研究は全くアカデミック(学術的)なものであり、政治的意味合いが配慮されたものではないと言っている。(終わり)
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