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20 02月
三月に起こる画期的な出来事
ダグ・アディソン
物事が明瞭になる
現在、物事がどうもはっきりしないように思えても、どうか心配しないでください。2月のあやふやさは、月末に向かうにつれてどんどんと明瞭になって行きます。3月には物事が明確になリ始め、画期的でポジティブな出来事が起り始めます。2月末には雲が晴れていくのを期待してください。そして3月から4月一杯にかけて神はあなたに励ましを注いでくださいます。
2013年の敵の攻撃はあなたの権威に変る
2013年におけるあなたの苦難、戦いは何でしたか。敵はどのように攻撃して来ましたか。2013年の攻撃が今年あなたの新しい権威の場となります。多くの場合、2013年に敵はあなたをひどくやり込め、あなたに事を断念させようとしたのです。
それでも止めなかった人々に、神は新しいレベルの権威と油注ぎを与えておられます。しかし、今年神からの新しい昇格を受け取るためには一つの鍵があります。それは私たちが人を批判、告発することを止めることです。神はへりくだって人を愛することの出来る人に新しい油注ぎと権威を解き放っておられるのです。
今のための聖書箇所はマタイ7:12です。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
神は 「もし誰かに対してわだかまりや赦せない思いがあるならば、今がそれを捨て去る時です。特にもし自分が正しいという証拠を握りしめているのなら、それを捨てなさい。今は あなたのために神が戦ってくださることを信じるべき時であり、すべての不満や遺恨を捨て去る時です。 不満や遺恨は、あなたが今年昇格できる資格を剥奪してしまうからです。
新しいアイデアと発明
私は今月ある預言的な夢を見たのですが、それは、神は今、新しい戦略、アイデア、発明を天から解き放っているというものでした。夢の中で私は一人の天使の横に立っていたのですが、突然私の手の中にハイテックな傘が現れ、それは私を悪天候から守るだけではなく、内側から人をリフレッシュする細かい霧がおりていました。
この夢の意味は、 創造と発明の霊をもたらしてくれる天使は、それと同時に私たちを外敵から守ってくれるということを表しています。私たちは神に守られますが、それと同時に新しい 戦略と発明は、これからの厳しい時代の中で御国のための財源を生み出すのです。
又、私はひどく厳しい天候、気象の夢を幾つか見ました。神は私たちに「物事がどのように悪く見えても心を騒がせないで、どんな状況の中でも神はよいチャンスを私たちに与え祝福してくださることを信じなさい。」と言っておられます。
神は深刻な飢饉の時に100倍もの収穫を刈り取る戦略方法をイサクに与えられました。創世記26:12に「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」とあります。
スーパーボウルのスコア
今年、アメリカのプロ・フットボールのスーパーボウルは、それほど大したことはありませんでした。(あなたが勝利したシアトル・シーホウクスのファンだったならば勿論別でしょうが)しかし、その最終のスコアに私はとても興味をひかれました。
最終スコアは「シーホウクス43:ブロンコス8」でしたが、それを見たとき、私は力強い言葉でいっぱい書かれた有名なイザヤ43章を読むように神に導かれました。この箇所で神は、困難な時の慰めを与えておられます。それは私たちが神によって徳を備えた者に形造られ、聖霊に従うとき、 人々を新しいものへと導くことが可能になるということです。(イザヤ43:1−2、5−8、18−19)
最終スコアである43対8という数字をイザヤ43:8に当てはめて見てください。「目があっても盲目の民、耳があっても耳しいた者たちを連れ出せ。」
神は人々の目と耳を開けておられます。聖霊の力を全く知らない人々が、神の名で呼ばれる人たちによって導かれるのです。シーホウクスのフルバックであるデリック・コールマン選手は聴覚の不自由さがありましたが、決してあきらめなかった故に聖霊の助けにより多くの新しい権威を授けられました。
イザヤ43:18−19「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、私は荒野に道を、荒地に川を設ける。」
人生という試合で神がチャレンジされることは、私たちの徳が高められていくとき、即ち様々な試煉に合うときを喜び楽しむということです。あなたの心が神によって変えられて行くことは、神のすばらしい慈しみをまわりに表すことになります。イザヤ43章を全部読んでみてください。あなたの人生の中に祈りこむべき神からの約束が一杯詰まっているからです。
人を裁くことを止める
神が何か新しいことを始められる時には、往々にしてその前のムーブメントはそれに対して批判的になります。これは教会の歴史を通して繰り返されて来たことです。神は今、新しいことをされていて、今までキリスト教 Christianity から退けられていた人々を引寄せておられます。「神を必要とする人であれば誰でも裁かずに暖かく受け入れるように」と、私はどこに行っても人々を励ましています。
私たちは人々を助ける前に 、まず自分の心の中に人を批判し裁く思いがあるかどうかを調べてください、と神に願う必要があります。私は次のような祈りをこのところずっとしています。「神よ、私自身の中にあるものを、敵が私に見せまいとしていることを見せてください。」そして又、「私が他人に対して 持っている良くない思いが心に中にありましたら教えてください。」とも祈ります。人を批判し裁く思いを無くすときに、自分とは異なる人々をも愛して受け入れることが更に出来るようになります。
私たちがそのようにし続けられるように助けてくださいと、共に祈ろうではありませんか。その時に私たちは人を裁かない目ではっきりと見ることができるようになり、多くの人に影響を与える新しい権威をどのように用いればよいかを神に聞く方法を見つけることができるでしょう。(終り)
21 08月
人間の究極の目的—神を愛する
リック・ジョイナー
どのような分野においても秀でることを追い求める人々はおりますが、大抵の人は、その時々が何とか過ごせる程度、そこそこのところでよしとして終わってしまいます。そういう人たちは、「もっと頑張ろう」と決意し、意気込んでしばらくは頑張るのですが、長続きせずに又そこに留まってしまいます。
残念ながらクリスチャンは、信仰に関しても同じように、そのときに何とか満足できる程度で止めてしまうように見えます。黙示録で主がラオデキヤの教会に言われたように、なまぬるい者を主は嫌悪され、「わたしの口からあなたを吐き出そう。」と言われます。これは「自分で勝手に決め込んでことを運ぶ」(presumptionな)やりかたで非常に危険です。人間関係において「無関心」ほど人を侮辱することはありません。私たちが主に対して無関心であるならば、それは大変恐ろしい間違いを犯しているのであり、主は「なまぬるいよりは冷たいほうがいい」とまで言われたのです。
人間の究極の目的は神を愛することであり、人生における究極の成功とは「私たちがどのくらい主を愛する(ようになる)か」によって決まります。主を真に知ろうとする者たちがなまぬるいままでいる事は不可能です。なまぬるい者は「自分は主を知っている」と思うように騙されているのです。私たちは、主を親しく知る(愛する)関係になくても、主の名によって多くの偉大な業をすることは出来ますが、主が警告されたように、大いなる裁きの日に「わたしはあなたを知らない」という言葉を主から聞くことになりかねません。勿論、主は私たちが誰であるかをご存知です。主がここで「知る」と言われているのは、最高に深く知ることであり、最も親密な愛の関係を表しています。
使徒パウロは当時の偉大な競技者たち(競走やボクシング)を喩えに使って、主にある私たちが自分の目標をどのように追い求めるべきであるかを説いています。私は優れたプロのスポーツ選手を沢山知っていますが、その分野でトップになる人たち全員に共通のことがあります。それは人一倍ものすごい努力をすることです。勿論、彼らは運動能力と技術を基礎として持っていなければなりませんが、人一倍努力をするという決意がなければ、決してトップには近づけません。
グリーン・ベイ・パッカーズというアメリカンフットボールの選手であるレジー・ホワイトと私は彼の書斎で話したことがあります。彼のチームメイトの一人も一緒でした。彼らは二人ともオール・プロ・プレーヤーでした。彼らが言うには、試合のために訪れる多くの都市の観客の中には、彼らよりも能力とポテンシャルのある人々がいるに違いない。しかしそのような人たちには、スポーツでトップレベルになるために不可欠な「能力を伸ばしていく努力」が欠けていたというのです。その結果、そのような優れた可能性を持った人たちは、自分が出来たはずのプレイを見るためにお金を払って観客席に座ることになってしまったと言うのです。これはすべてのスポーツや職業において同じことが言えるでしょう。これは残念で悲しいことです。しかし、もしこれ(自分が努力しなかった結果)が永遠に自分の将来の位置づけを決めることになると(気がつくと)したら、それこそどれほど悲しいことでしょう。
マイケル・ジョーダンとバスケットをプレイしたことがある人たちが言っていたことですが、彼は確かに普通以上の能力を持っていたけれども、それで彼が偉大になったのではなく、彼がバスケート・コートに足を踏み入れるたびに出来る限りの努力をするという目標を持ち全力を尽くすという意気込みがあったから彼は偉大になったというのです。これは試合の時だけではなく、練習の時も彼は誰よりも早く来て、一番最後まで練習していたということを含めての話です。
クリスチャンもこれと同じような分類をすることができます。ある人たちはクリスチャンとして何とか通る(と思う)最低限度のことしかしようとしません。次に、大多数の人は「よいクリスチャン」になりたいと思い、キリストにあって学び成長しようと一応の努力をする人たちがいます。そして、主に対して特別の熱意を持ってデボーションを続ける一部の限られた人たちがいます。そのような人たちは常に聖書と参考書等を読んで学び、特別な講師を聞きに出かけたり、主のことを(個人的に)もっと知り主を(深く)経験できるのではないかと 色々な教会やカンファレンスに出かけていきます。私たちはこのような人たちを「主に燃えている人」と呼びます。しかし、生ける神に救われて出会った人が主に燃えないということがあり得るでしょうか?
この記事を読んでおられる人は、多分3番目の部類に入る方でしょう。あなたは神を追い求めておられます。多分朝早く起きてディボーションの時を持ち、主からの新しいマナを求めておられるでしょう。あなたは地の塩、世の光となる召しを真剣に受け止めていて、祈祷会に参加して祈ります。あなたには祈るべきことが沢山あります。あなたが聖書を読み勉強するのはちゃんと目的があるからです。あなたはこれからやってくる史上最大の神のムーブの一部となる人でしょう。そのようなあなたの熱意と努力は必ず報われます。
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クリスチャンが受ける最も偉大な賜物は、霊の飢え渇きです。主を知り主の道を知るために費やした時間と努力は、私たちが思い描く以上に報われようとしています。それに反して、神を追い求めることや主にある自分の目的に関して怠けていた者は、自分の熱意が欠けていたことをやがて大いに悔やむことになるでしょう。しかし、主は恵み深くあられ、もし私たちが自分のなまぬるさを悔い改めるならば、私たちが失った時を取り戻してくださるでしょう。
これから私たちが迎えようとしている時代には、なまぬるいままでいる人たちはやっていくことができません。主のお言葉を熱心に聞いて従うことをしなかった人は、岩なる主の上に自分の人生を築かなかった人です。多くの人はこれから来ようとしている嵐を通りぬけることができないでしょう。岩なる主の上に人生を築いて来た人は史上最大の収穫を刈り取り、終末に主に仕えたものとして永遠に知られるようになるでしょう。
私たちに訪れようとしている最大の出来事は大艱難ではなく、この時代の終りにくる大収穫なのです。今はまさに昔の預言者や義人が見たいと切に望んだ時であり、私たちはこの時代に生きるようにと召されたのです。すべてにまさるこの最大のチャンスを決して無駄にしてはなりません。
これからの時代において、嵐に耐える家を建てるためにもっとも重要なことの一つが、主のお言葉を聞くということです。そのために私たちは主がどのように預言的に語られるかということを学んできましたし、これからも続けたいと思っています。しかし、主が言われることを聞いても、私たちがそれに従わないならば、何の役にもたちません。
もし私たちが主を追い求めることにいい加減であったならば、今こそ真剣になり、他の人がどうであれ、真剣であり続ける時です。やがてすぐに熱心であったことを喜び、浪費した時を残念に思う時がやってきます。今から先は、自分がするすべてのことにおいて、それが喜べるようになる決意をしようではありませんか。(終わり)
20 03月
選びとる(選ぶ)ことは力である
グラハム クック
私たちが向き合わねばならぬ最も不快な真理の一つは、私たちが何かを「選択すること」、または「選択しないこと」が、 人生の上に非常に重大な影響を与えるという事実です。
「選択」はつねに力と関連しています。正しい選択をしなかったとき、又は自分が持っている選択権を使わなかったときは、その力を誰かに(何かに)譲ってしまうことになり、その結果、自分は弱く無能であると私たちは感じるのです。正しい決断をするならば、私たちに更に次の段階の様々な選択肢を与えてくれます。人生に選択は不可避です。ですから、それを生活の一部として楽しもうではありませんか。
私たちが毎日 主を崇め礼拝しつつ生きるとき、「選択」がその礼拝の最も重要なポイントの一つだとしたらどうでしょうか? それは、初めから終りを見ることができ、何億という決断を毎日することがお出来になる創造者の御前に私たちは進み出ることです。それはまた、 ご自分の民の一人ひとりの目をじっと見て、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。(エレミヤ29:11)」と断言されるほどに、正しい選択をすることに確信を持っておられる主と共に喜びながら選択をし生活していくことです。
主は選択することを愛されます。ですから私たちも選択することを愛することが出来るはずではないでしょうか? 主は必ずすべてのことを相働かせて益(good)としてくださるのです。聖霊と共に歩むとは、日常の生活の中で私たちが善(good)となり、善(good)をなす力を受けることです。もし私たちが主と似た者になるべきであるならば、どんな状況にあっても、主のような楽しい気持ちで主がされるような最高の選択をしていかねばなりません。
選択はつねに力が介入するものであり、私たちは毎日、朝、昼、夜、その力を受けねばなりません。私たちは今までにしてきた選択の 力、徳、によって今日という日を生きています。それらの選択のうちのあるものは簡単でしたが、あるものは難しく、又あるものは自然にひとりでに選択されていたようなものもありました。生死に関わるような非常に厳しい選択の時には、 自分の命を吸い取られるほどの代価をまず払わなければならないようなものもありました。
選択によって人生がうまく行ったり損なわれたりします。私たちがどのような者になるか、どのように生きるかということの非常に大きな支配力を「選択」は持っています。自分の選択の結果として 、私たちはある場面における実権を握ることもできるし、或いは成功する権威を剥奪されてしまうかもしれません。力のある者になるのか、力のない者になるのかは、自分のアイデンティティーの選択によって決まります。御国には被害者、犠牲者はいません。いるのはこの世の中だけです。私たちを支配するものは誰もいません。そして、あるお方が私たちを影響力を持つ者にしたいと思っておられるのです。
私たちは毎日、大小の選択をしています。どこに住むか、何を食べるか、何を着るか、何を買うか、家で食べるか、外食するか等は小さな決断であり、取るに足らないことのように思えますが、いろいろなことと関連し影響を与えるかもしれません。
平和、信頼、愛、笑い、優しさ、冷静、喜び、あわれみ、勇気を選び取ることは、私たちの内にある「力を生み出す領域」へと私たちを導いてくれます。そこはイエスの似姿が顕れてくる最初の場所です。その影響力は非常にパワフルです。
その反対に、怒り、恐れ、心配、苦み、恨みを選ぶことは、私たちの旅路を後戻りさせます。又、自分自身の選択や、自分に敵対して誰かがした選択の影響を感情的に克服することができないまま、そこから進めなくなってしまいます。
時として私たちは、他人の罪を責めてしまう選択をしますが、それは実際には彼らの視点に同意する(認めてしまう)ことによって、彼らに(神と共にある)自分の力を譲渡してしまうことなのです。私たちが自分の人生の決定権を譲渡してしまうと、 状況をコントロールする力を捨てることになります。御霊の実の一つは自制です。
自分の思いをイエスの御前でとりこにすることは、自制の始めです。穏やかで喜ばしく安らかな選択を主との日常の親密な関係の一部としてすることは、自制が常に追求するべき目標です。
自制することが私たちが考えるよりも簡単だったらどうでしょうか? 私たちが思うより選択がそれほど難しくなかったとしたらどうでしょうか? 神の慈しみによるチャレンジが、すべての決断がなされる所だったらどうでしょうか?
私たちはキリストの似姿に変えられています。私たちが主との交わりを選ぶ時、主はその決断に力を与えてくださり、その状況と私たちがキリストに似るように創られることの両方が成就するために、主ご自身が責任を取ってくださるのです。
キリストが中におられるので、私たちは賢明な選択ができるのです。また、それを喜んで穏やかにすることができます。最早自分の力を他人に与えてしまうのを止めるときです。それは神が私たちに下さったものですから、私たちの主との交わりの一部です。(終り)
16 03月
大きな災害に見舞われた日本に与えられた使命
坂 達也
今、日本の皆様は大変な試練の中におられます。特に親族友人で亡くなられた方、被災を受けて家もなく、この寒さの中で多大な困難に遭遇されている方々、被害のあった原子力発電所近辺で放射線被害に脅かされておられる方々等、謹んで心からお見舞い申し上げます。
又、直接の被災を受けていない方でも日本人ならこの国家的惨事で心を痛めておられない方はいないと思います。その意味で、日本国民全員が深い悲しみの中にあり、同時に又、全世界の目が日本に集中されております。恐らくこれほど世界中が日本に集中して関心を抱いた時は未だかってなかったと思います。
私はこの3月に入って霊的な空気が変わったと強く感じておりましたが、3月11日に日本で巨大地震と津波が起こった時、私はいよいよ世界が「終末の時代」に突入したことを強く感じました。日本の巨大な災害が全世界に先駆けて先頭を切ったのです。そして今全世界がこの日本の惨事を人事ではないという思いを持って、刻々と報道される日本の被害状況とその対応の仕方から真剣に学ぼうとしております。これから終末の大天災・人災が世界中に起こり広がって行くことは世界の人たちが感じているのです。
そこで私たちはアメリカの預言者たちが何を言っているかを探し始めました。そして、14日(日本15日)にリック・ジョイナー師のインターネット放送で知ったのですが、22年前にボブ・ジョーンズ師が、日本に大地震が来る預言を主から受けていたそうです。その預言によると、日本に大地震が起こるまでは終末の艱難時代に入らないこと、そしてそれが発端となって、世界的な天変地異が起こり、経済恐慌からアナーキイズム(無政府状態)に発展するというものです。特にアメリカではカリフォルニア州に必ず大きな地震が起こり、それがノースウエスト地区(オレゴン、ワシントン州)に飛び火することが示され、このカリフォルニア州の預言はジョーンズ師だけでなく、ジョイナー師他、数人の預言者も確認しています。
私はこの大災害が引き起こす影響について考えていたのですが、先ず、世界中で株が暴落したり、円が高くなったりしています。私は今、アメリカのメディヤ、特に経済紙に注目していますが、それによれば目下世界中で関心がもたれていることは、日本がこの被害の復興に掛かる膨大な費用をどうしてまかなうかと言うこととその影響についてです。
日本は世界一の借金国ですが、幸いなことに日本が持つ全負債の90%は国民と国の企業が持っていて、その上、国民の貯金率、たんす預金まで含めれば世界でも有数の「金持ちの国」であることです。従って世界一多くの借金はかかえていても、言ってみれば身内同士で借金し合っている状態ですから、よそ様(外国)にご迷惑を掛けずに、自分たちで何とかまかなえる可能性があることです。
但し、そのためには国民がこの際本当に危機感と責任感を持って、先ず国の家計簿の帳尻を合わせることに努力しなければならないと思います。これ以上借金をしないで減らすことです。本当にその気になれば、この災害を機会に、挙国一致し、国民が一丸となって立ち上がり、お互いに助け合い、協力しあ合うことによって、国民全体でこの危機を乗り越えつつ復興出来ると確信します。
日本は一度大戦に破れ、そこから立ち上がった経験を持っています。そしてつい最近まで、日本は世界で二番目の経済大国であると言われて来ましたが、今は衰退の一途をたどっていると言う印象を世界中で強く持たれています。しかし、世界が終末の艱難の時代に突入するに当たって、神が、今回の災害により日本を敢えて一番手に選んだのはそれなりの理由と期待があってのことであると信じます。
終末には大きな地震が来ることが聖書の多くの箇所で預言されています。地震といえば、日本が恐らく世界で一番の地震と津波の経験と古い歴史を持つ国でありましょう。その日本が、天下未曾有の大災害にどう対処するか、それに伴う経済復興政策においても、後に続く世界の国々に模範となる良い例を今回残すことによって、日本が再び世界のリーダーとなることが期待できるのです。既にテレビを通して、日本人があれだけ大揺れの地震の最中に平静に行動し、町が秩序正しいことを見て、世界中が今驚いています。
その点今一番、国の経済が危ぶまれているのはアメリカです。問題はアメリカの借金は日本の反対で外国に膨大な借金をし、これからも継続して依存せざるを得ない状態にあることです。しかもアメリカの赤字垂れ流し財政は日本よりも深刻な現状です。これからアメリカがもし外国に国債を売って借金が出来ないようなことになれば、借金による自転車操業が止まって一挙に国が崩壊する可能性が十分にあるからです。
そのアメリカに金を貸している最大国は長い間日本でしたが、この数年、中国が日本を少し追い越しました。しかし、その中国が一昨年からアメリカの国債を買い控え始めたのでアメリカが大慌てをしました。そして今、日本はこの災害によって今後アメリカの国債を買う余裕がないどころか、手持ちの国債を換金せざるを得ない事態となれば、いよいよ追い込まれるのはアメリカです。これでアメリカが転ぶ可能性が充分にあるとジョイナー師は言っていましたが、もしかすると、本当に世界経済恐慌に陥る引き金となることが危ぶまれます。
そのような情勢下、世界に対して日本の持つ責任は大変大きく、今こそ、ここしばらく貧困して来た政治と経済政策を、国民全員が悔い改め、お互いに批判しけなし合う代わりに、一致協力する体制に入るべきであると思います。いよいよ日本は物質的にも霊的にも世界に先駆けて「非常事態」に入ったと信じます。
そして今こそクリスチャンが立ち上がらなければ、いつ立ち上がるのでしょうか。何のために私たち教会は今までお互いを訓練して来たのでしょうか。人数の問題ではないと思います。主にあって、一人のクリスチャンが一つの町を救うことが可能であることは私が申し上げるまでもありません。
いよいよ闇が濃くなって来ました。世の終わりには自然現象で多くの異常事態が起こることが預言されていますが、加えて、
戦争が増す。
物質主義、人が利己的になる。
罪を犯す者が増える。
信仰から離れる者が出る。
より大きな悪魔の力が働く。
反キリストによる政治・経済・宗教の世界統一の動きが激しくなる。
国において、社会において、教会においてリーダーシップがなくなり、混乱する。
あらゆる面でモラルの退廃、愛が冷える。
クリスチャンの迫害が激しくなる。
等のことが起こることは皆さんよくご存知の通りです。しかし世の中が暗くなればなるほど、私たち主を代表する者が、主の栄光を大きく光り輝かせる時です。教会の皆様、いよいよチャンス到来です。その意味においても、日本の教会が世界に先駆けて終末のリバイバルの先頭に立ち、世界をリードすることを大いに期待します。
最後に、今私が特に示されているみ言葉があります。それは私たちクリスチャンは、先ず自分の家庭と家族を愛し、身辺を主にふさわしいものとすることです。
「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を 捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。」(一テモテ 5:8、口語訳)
日本の皆様、心よりお祈り申し上げます。(終わり)
26 01月
これからの時に備える
リック・ジョイナー最も(霊的に)高度なクリスチャン生活を送るためには、聖書の深い理解が必要であると共に、深いデボーション(主の御声を聞きもっと深く主を知る)がそれに伴っていなければなりません。私たちが今年学ぼうと決意したことはこの二つのことであり、この二つを達成できたならば2010年は非常に成功したといえるでしょう。
以前にも述べたように、書かれた神の御言葉と神から直接受けるメッセージや啓示との間には矛盾は決してないことを私たちは知っております。 神は偽りのない方であり、又、変ることがない方であると聖書は私たちに告げています。ですから書かれた神の御言葉(聖書)は、すべての預言を正しく判断するための基盤として私たちが信頼すべきものです。神からの預言やメッセージは決して聖書に書かれていることと矛盾はしないはずなのです。
西洋的な考え方は縦の論理を基本にしています。そして、それはしばしば私たちがすべての事に関して原則を作るように強く働きかけます。時にはそれは良いことであり有益ですが、しかし時にはそれがつまずきとなり私たちを 真理から遠ざけてしまうことがあります。勿論、基本的な原則の中には、 私たちが健全な聖書の信仰の道をはずさないように助け、また、私たちが聞いたものが 主の御声か、そうではないかを見分ける能力を与えてくれるものがあります。これに関してはまた詳しく述べたいと思いますが、真理を知り、神の御声を知るために一番大切なこととはそれらの原則(を知り、追うこと)ではないことも私たちは知るべきだと思います。(何故なら)真理とは「人、あるお方」であり、単に事実・真実ではないからです。
ちょっと考えてみてください。私がある人の声について説明したら、あなたはそれがどのようなものかを確実に知ることができますか? 例えば、私の妻の声がどんな声かを言葉で表現するには、何か誰にでも当てはまるような一般的な表現を使うしかないのですが、たとえそうして説明したとしてもとても難しいことであると思います。妻の声を聞いたことのない人が、私の説明する表現だけで彼女の声が分かってしまうことはとても考えられません。しかし大勢の人が話している中に妻がいたとしたら、私は彼女の声を直ぐに聞き分けられます。どのようにして? それは私が彼女とずっと長く暮らして来たからです。それと同じように、私たちが主の御声を本当に知る唯一の方法は主と共に時を過ごすことなのです。
他人を認識する方法は実のところ二つしかありません。顔か声です。特別変った特徴があれば別ですが、 ただ手や足を見るだけであなたが認識できる人が何人いますか? そうです、私たちは人を顔か声で認識するのです。ですから、聖書の御言葉は私たちが主の御顔を探し求め、主の御声を知ることを強く勧めているのです。
私は聖書を何度も読み、主がどのように人に話されたかを深く研究しました。しかし、私が主の御声を知ったのはその研究によるのではありません。私が神の声を認識するのは、 妻の声を聞き分ける時のように耳に聞こえる声のトーンによるのではなく、霊的なトーンによってですが、神の声は宇宙の中でユニークな霊的トーンを持っています。聖書が教えているように、宇宙には多くの声があり、それぞれがユニークです。それではどうやって主の御声を聞き分けることができるのでしょうか? それは主を知ることによってです。
勿論、主はご自分の声を他のものたちが決して真似ることができないような特出したものにすることはお出来になります。そうすれば私たちは主の御声を他のものの中からいつも認識できるわけですが、主は私たちのためにそうなさいませんでした。主の御声の霊的トーンを知るためには、私たちは主の御こころと御思いを知らねばなりません。主ご自身を(個人的に)知らねばならないのです。これは私たちが主を求め主との交わりが深まることによって知ることができるものです。真の弟子ではない人たち、つまり真に主を求めていない人たちは、主の御声を聞き分けることができません。
これが 「小(子供の)羊(lambs)は羊飼いの声を知っている」ではなく「(おとなの)羊(sheep)は羊飼いの声を知っている」と主が言われた理由です。子羊は自分で主の御声を十分に知り、他の声と区別が出来るようになるまでは、自分よりもっと成長している羊の後に付いて行く必要があるのです。
私は昔、ある人が中東地方の丘に座っていた時の話を読んだことがあります。彼は三人の羊飼いが水飲み場に、それぞれ自分の羊の群れを連れて違う方向からやって来るのを見ました。彼は羊の群れが同時に水を飲めば、みんな混じってしまって羊飼いたちはそれぞれの群れを区別することが出来ないだろうと思いました。思ったとおり、羊たちは水飲み場につくと混じりあい、どの群れに属するものかわからなくなってしまいました。
しかし、羊飼いたちは少しも心配する様子もなく、互いに話しをしていました。羊がみんな水を飲み終わると、羊飼いたちはそれぞれの道を進み始め、歩きながら歌を歌い始めました。沢山の羊の中で大混乱が起こりましたが、小さな羊の流れがそれぞれの羊飼いの後ろに付き始め、やがてすべての羊はそれぞれの群れに分かれていきました。すべての羊は羊飼いの声を知っていて他の声と区別ができたのです。どうしてでしょうか? それは羊たちは自分の羊飼いとずっと過ごしていて、彼が歌う声を聞いて きたからです。私たちも主の御声をこのように知り、この世にある他のすべての声と区別できねばならないのです。主と共にいることに代われることは何もありません。
今年のデポーションは、私たちの根をもっと深く聖書の中におろすことであり、主の真理を深く愛して求め続けることです。また、主にもっと近づくことによって主の御声を知ることを追い求めることです。私たちがこのことにずっと集中して求め続けるならば、この2010年は私たちの人生の中でもっとも重要な年の一つとなることでしょう。これからの時は、私たちが真の弟子として、こうした基本的な訓練をどれほど真剣に追い求めて来たかどうかに掛かっていると言って差し支えないでしょう。(終わり)
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