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26 02月
2019年は過渡期の年
ショーン・ボルツ(Bolz Ministries)
この預言は 個人に対するものではなく、非常に広い対象への言葉ですので、自分には当てはまらないと感じる方もあると思います。しかし神が私たちの霊の目を開いてくださるならば、今年神がしておられることを知り、あなたもそこに希望を見出すかもしれません。この預言をどうか心を開いて読んでください。そして神がこの預言を通してあなたに何を言われているのかを聞いてください。預言のことばは、人生を今までと違う角度で深く考える助けになります。もしあなたに新しい方向性が必要ならば、深く考える時間が必要です。人々から預言の言葉を聞き、イエスや人生について思索するならば、イエスをもっと深く知り、イエスがあなたと共に何をしておられるかを知ることができます。
エペソ1:17−18「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか...あなたがたが知ることができますように。」
移り変わりの時
「過渡期、転換期」という言葉は、人間にとってあまりうれしい響きをもっていませんが、今私たちがどのような「時」や「季節」にいるかを知るためにはよく理解する必要がある言葉です。2019年は、国家、ムーブメント、産業、各種グループ、そして個人的にも転換するための力が与えられる年です。この世のメディアは2019年を「近代史上、幾つかの重要な変革のための道備えをした年」と呼ぶようになると思います。
これから数年の間、 「変化と転換」が多くの国で新聞の見出しとなるでしょう。すなわち、リーダーが変わり、CEOが変わり、議長が変わり、主役の俳優が変わるというように多くの変化があります。またキリスト教界においても、世界中のムーブメントやミニストリー、又大きな教会等に新しいリーダーが立てられるでしょう。それは神の息子、娘たちが霊的成長を遂げ、今までのリーダー達が霊の父、霊の母の役目を果たすようになるからです。
今「パウロたち」が起こされています。又、「テモテたち」や「モルデカイたち」が「エステルたち」に力を与えています。バトンの受け渡しがはっきりと始まるでしょう。そして大きな教派や教会、ミニストリーが、主要な任務の大部分を手放し、パワフルな遺産を残すための戦略が立てられるでしょう。どうしてそれが2019年に起こるのでしょうか?
それは、戦略的に神は2020年の為に道備えをしておられるからです。 この転換期に神はキリストのからだの内側に変革をもたらし、それによって外側に実がなるようにされているのです。ですから神が何かを変えようとされる時、私たちはそれを拒んではならないのです。
変革を生み出す転換の時
成長したクリスチャンの中に蒔かれた 「目的の種」が成熟しています。2019年は、堅く立ち、力を受け、配置につく時です。
土台が出来たならば、建物がどれほど早く完成するかを考えてみてください。とても短く感じます。クリスチャンにとって2019年は教会のムーブメント、あるいは教派全体が変化し始める過渡期であり、その後の3年間でキリスト教の全容が大きく変わります。
これまで何十年もの間、神は多くの約束や預言をキリストのからだに与えてくださいました。今それらの約束の成就のために必要なすべてのものを満たすために、神は人々やムーブメントを調えておられます。それは私たちのための神の御計画が更に大きく進むためです。皆さんの中には仕事や職場を変ったり、引っ越しをしたり、交友関係が変わる人があるかもしれません。
また、 神があなたを創造された目的を100%遂行できる場所にあなたを到達させるために、神はあなたの人生を転換させるかもしれません。私たちにとって、すべての変化は常に「ローマ人への手紙8:28の約束」を伴ってやってきます。神は起こることをすべて、特に変化を、私たちと私たちの人生に対する神の意図の最高の筋書きへと導くために用いられるのです。
あなたが人生の新しいシーズンに移って行くとき、適合しない人々や環境は取り去られて行くことを心に留めておいてください。必要でないものが剪定されていくのを嫌ってはなりません。あなたが自分を導くのでもなく、自分で「この道がいい、この方法がいい」と選び取るのでもありません。神ご自身があなたと共にあなたの人生を造っておられるのです。
神はストーリーが持つ力を映画やテレビに解き放たれる
去年12月のある朝、私が目を覚ましたとき、「2019年には
映画やテレビのプロジェクトの才能を持つ者たちが台頭してくる。彼らのプロジェクトは神の創造の力を受けて生れ出るものである。」という強い啓示的認識を受け取りました。音楽界や映画界で、キリスト教のテレビ局や信仰のプロジェクトに革新的な道が新たに与えられます。
クリスチャンが「資金」と「創造力」を与えられてパワーを得ます。そして今まで世俗的なプロジェクトに関わっていた多くの者が、彼らの技術、手腕、能力を信仰のプロジェクトに用いるようにという神からの召命を感じるようになります。制作者、監督、音楽家等の有能な芸術家たちが、プロジェクトを神から直接与えられ、それを用いて「神の愛で作られる世界」を観客に示すようにとの召命を受け始めます。芸能界のクリスチャンが成熟し、キリスト教のエンタテイメントは彼らの能力を越えた超自然的な助けを受けて変革されていきます。そしてパワフルなプロジェクトによって信仰のエンタテイメントの認識が変えられていきます。
戦いが終る
最後に、そして多分これが最もパワフルなことですが、多くの人々のために次の宣言がなされます。これまで人生で最大の戦いに直面してきた人たちや、健康、家族、経済、ミニストリー、仕事等で長い戦いがあった人たちは、2019年にその戦いを終え、神が約束されていたものへと任命されていきます。神がその戦いを勝ち取られ、クリスチャンに勝利をもたらされます。彼らはブレークスルーのために何百回も祈り、又 祈られてきた者たちです。彼らは2019年に解放を見始めます。
それはダニエル10:12で、天使が勝利と共に来て「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」と言ったのと同じです。天で戦いがあり、天使がダニエルのところに来るのが遅れましたが、超自然的助けがやがて来ました。それと同じように、今私たちに助けが届くのです。長い戦いが終るのを多くの人が感じます。
私は「戦いが終ること」を書きたかったのですが、このような広範囲な預言を発表すべきかどうか迷いました。というのは、「これはクリスチャンのおみくじか運勢占いように取られるのではないか」と危惧したからです。しかし、この一週間、私が車に乗るたびにベテル教会のCDでジョシュ・ボールドウィンの「The
War is Over (戦いは終った)」という歌が流れてくるのです。そのようにセットしたわけでもなく、CDを購入してからまだ一度も聞いたことがなかったのにもかかわらず、その歌が流れるのです。その歌の中でジョシュは、「今は戦いの武器を置く時だ、イエスが私たちのために戦いを戦ってくださったから」と歌っていました!
戦いが終り平和な時に入るとき、私たちは「真のアイデンティー、主の憐れみ、勝利」の中で新しいものを産み出す力が与えられるのです。私たちはイエスが与えてくださった光といのちの中を歩むのです。これが皆様への私の祈りです!(終り)
04 02月
最近のヘンリーグルーバー師についてのご報告
坂 達 也
ヘンリー師は、10日ほど前の、1月23日にサンフランシスコから韓国に向かって飛び立たちました。今頃は韓国から沖縄に向かい、沖縄でミニストリーをされているかと思います。韓国に真っ先に行かれたのは、昨年に続き医師(団)によるその後の状態の診察を受けるのが主目的ということでした。
私が最後に師とお話ししたのは、出発の数日前の1月18日頃でしたが、その前に話した時(多分昨年の年末ごろでした)とはうって変わって、師は喜びに満ちた溌剌とした声で、再びアジア各地にミニストリーに出ることを大変喜んでおられました。昨年韓国で手術を強く勧められたのを断り、今は日本のキノコの粉末とエキスを飲んでいて、値段は非常に高いが効果はあると言っておられ、私が驚いたのは、痛みが全くないことでした。ハレルヤ!通常であれば周りに転移状態の末期ガンは背骨等を冒し、かなりの痛みがあるはずと聞いていたからです。今回は沖縄の後、台湾に行き、確かその後に日本本土に戻ってくるとのことでした。ぜひお祈りください。
尚、昨年私たちが来日時に師への献金をお預かりして帰国しましたが、その分は師に郵送させていただきました。もしヘンリー師に献金をご希望される方は、ぜひ私たちのWWGMの方へその旨を書かれて御送金ください。それをまとめて、私たちの方から師にお送りさせていただきます。それではよろしくお願いします。
以下は英文の手紙で、ヘンリー師の家族が出したお礼を込めたニュースレターを訳したものですが、少々遅れて私たちのところにも送られて来たものです。どうぞご覧ください。あるいは既に森先生等から聞かれた方もおられるかと思います。
感謝のことば ヘンリー・グルーバー
主に愛されている皆様に、麗しく尊い主イエス・キリストの御名によってご挨拶申し上げます。
私と妻、そして家族にとって去年は非常に厳しい時でしたが、皆様が共に堅く立ち共に戦ってくださったことをまず心から感謝いたします。私の愛する妻が生死の戦いをしているときに、私自身も同じ戦いをすることになるとは思ってもいませんでした。私も妻もその戦いは非常に烈しいものでした。そして私の愛する妻ジュディスは、8月に天の家に召されて行きました。私の嘆願を主は受け入れてくださり、私はその時妻の傍らにいることができました。妻は私の腕の中で、2018年8月14日午前12時10分に、本当にやすらかに天に召されました。
皆様のお祈りととりなしは、私たちを高く引き揚げ、まるで天の翼に乗っているかのようであり、私たちはこよない平安と安らぎと愛で満たされましたことをお伝えいたします。その喜びと感謝は愛する者を失った痛みを凌駕し、毎日を勝利で進んで行く力を与えてくれています。皆様お一人お一人に心から感謝を申し上げます。
私たちの経済的必要にも豊かに答えてくださったことも感謝いたします。ジュディスの医療費、ホスピス代、葬儀のための費用と共に、私の医療費も多くかかりました。
病気のために私は4月から12月まで集会は2回しか持つことができなかったのですが、すべての必要は十二分に満たされました。皆様が喜んで愛をもって尊い献金や励ましの言葉を送ってくださり、私たちの心は感謝で一杯です。皆様に祝福がありますように!
2019年について主が私に語ってくださっていることを少しお分ちさせてください。私の家族がいろいろな困難に直面したように、皆様の多くもいろいろな試煉にあわれたことを私は知っております。
第一ペテロ5:9b−11「ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人人は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその栄光の中に招き入れてくださる神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」
今年も又、 予断を許さない混沌とした世界状勢に私たちは面しています。キリストのからだの中では、繁栄の預言や
地上で神の力ある御業が解き放たれるという多くの預言が
語られています。(そして私もまたそれを叫び求めていることを主はご存知です!)しかしながら、私はこのところ神の御ことば、特にエペソ人への手紙で使徒パウロが繰り返し言っている言葉を黙想するときに感動させられています。
エペソ1:5−6、8−9
「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。...神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって...」
ここに「ただみこころのままに according to His good pleasure ( 主のよき喜びに従って)」とあります。
どうかこの言葉に目を留めてください。今年はこの言葉を毎日黙想し、私たちの心と魂が再びはっきりとこの真理を理解するようにと祈ります。
今私たちはあまりにもメディアによって「自分に心地よいこと」を求めるようにと洗脳されてしまっています。
私たちは「自分が喜び楽しむために何を一番求めているだろうか? 私は日常生活や思いの中の何から喜びを得ているだろうか?何が私の気持を満足させるだろうか?」と自分に問うてみる必要があるのではないでしょうか。私たちはこのようなことから魂の糧と平安を得て、自分の価値を見出だすからです。
そして、私たちは今一度、父なる神のこころから流れる親しい交わりについて考えてみようではありませんか。御父の御こころが望まれ喜ばれることは何でしょうか。
次の箇所にそれが書かれていると思います。
第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
雅歌8:6「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強いからです。」
私の「天国の六時間」というあかしの中で、天国がどのようなところかを表した言葉を覚えておられるでしょうか。それは「天国では、すべてのものは仕えることを愛し、愛する故に仕えている。」です。神が最も喜ばれることは何でしょうか。それは「御こころが天で行われるように、地でも行われますように」です!
すべての国のクリスチャンはこの祈りを祈っています!
今年はこのことをしっかりと捉えましょう。それによって、神の御国が到来し、御心が天で行われるように地でも行われるようになるのです。
愛はすべてを覆うのです。
2019年が、 尊い救い主と天の御父に最大の喜びをもたらすことができますようにと祈ります。
イエスの御名において ヘンリー・グルーバー
30 04月
コイノニアの推進
リック・ジョイナー
イエスの大宣教命令について語る時、コイノニア(主にある交わり)が非常に重要である理由は何でしょうか? 私たちが大宣教命令をうまく遂行できていない理由の一つは、私たちが弟子を作らずに回心者だけを作るという傾向にあったからです。大宣教命令は弟子を作ることです。もし弟子が作られなければ、私たちはこの任務を果たせていないことになります。
「弟子とは何であるか」については、主がはっきりと定義しています。真の弟子は、今日のクリスチャンの中にはほとんど見つけることができません。その理由の一つは、真の弟子作りはコイノニアなしには不可能だからです。1ヨハネ1:7に「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わり(fellowship, koinonia)を保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。
この箇所からはっきりわかるように、コイノニアなしには私たちは絶対に光の中に留まることはできないのです。それは私たちがきよめられるためにも不可欠です。私はよく冗談のように言うのですが(しかしそれは真実なのですが)、教会生活上のフラストレーションや不愉快さ抜きで、私たちが召されているキリストにある成熟度に達することは絶対にできません。フラストレーション、不愉快さ、傷つくこと、失望は、コイノニアの小さな部分にすぎませんが、私たちの成長のためには不可欠です。コイノニアの経験は勿論ネガティブなことよりもずっとポジティブなことの方が多いのですが、様々な問題は私たちの成熟に役立ちます。
教会生活を理想化したり教会を否定したりすることは、私たちをいのちの道から遠ざけます。真の教会生活、コイノニア、は私たちが経験する最もすばらしいことの一つになる可能性があると同時に、もっとも困難なことにもなり得ます。それはすべての人間関係、たとえば結婚とか、においても同じです。主が種まきの喩えで教えられたように、試練のテストが来たときに多くのものは離れて行きます。多くの者が教会を離れて行きます。現代においては多くの者がテストがきたとき結婚生活からも離れて行きます。テストが来たときに止めてしまうのでは、決してテストに合格することはできません。
結婚の破綻は教会生活の破綻と関係していますし、その反対も言えます。一方を癒すものは他方をも同じように癒すのです。十字架の縦の棒は私たちと神との関係を示し、横の棒はお互い同士の関係を示しています。自分の十字架を負うということは、私たちの人生には両方が必要ということです。勿論神との関係は、人間同士の関係よりずっと重要であり、常にそれを第一とせねばなりません。しかし、それを守って第一としているならば、もう一方も持つことができるのです。ヨハネが書いています。「もし目に見える兄弟を愛していない者は目に見えない神を愛することは出来ません。(1ヨハネ4:20)」
それでは、教会生活の中でコイノニアを推進するために何ができるでしょうか? 第一に、私たちは何よりもまず主の臨在を追い求めねばなりません。すばらしい神殿でも、もしその中に神がおられなかったら何にもなりません。次に私たちは人間関係において、ただ追い求められるのを待っているのではなく、自分から追い求めねばなりません。バルナバはパウロを連れに自分から出かけて行きました。そして彼ら自身の究極的な召しへと解き放たれる前に、二人が 正しい関係に入る必要がありました。
当時これは非常な努力を必要としました。バルナバがタルソまで旅をし、またアンテオケまで戻るには数ヶ月かかったに違いありません。今は教会まで30分運転するのを厭わない人はなかなかいません。何かが「宝」になる要素は、それが非常に希有であるか、もしくは入手するのが非常に困難であるということです。コイノニアとは人生で手に入れることのできる最も偉大な宝の一つです。それは安価でもなく見つけるのも容易ではありませんが、あきらめないで探し続けるだけの価値をそれに認める人によってのみ見つけられるのです。神が建てられている町、すなわち、アブラハムを初めすべての真の信仰の旅人が探していた町は、イエスを土台としたコイノニアで建てられるのです。
主の臨在を求めるということは、主の祝福を求めること(現在の教会はこれを強調することが多いですが)よりずっと深いことです。 主は、ご自身が臨在されないときにも多くのことを祝福されます。主は「二人でも三人でもわたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)」と言われました。この「集まる gather」ということばは、単に同じ部屋にいるという意味ではありません。それは一つの自転車の部品が組み合わされているようにぴったりと組み立てられているという意味です。これが私たちが「いっしょに集まることをやめたりしないで(ヘブル10:25)」と言われている理由です。これは単に集会を休まないようにというのではなく、「しっかりと組み合わされなさい」という召しをおろそかにしないようにという勧告です。
実際に、教会のいのち(コイノニア)がある教会を建て上げるためには、会員同士の交わりを意図的に推進していかねばなりません。それにはスモール・グループ、食事会、ミッション・トリップのほか各種の活動が含まれます。しかしながら、本当にコイノニアとなるための集りは、常に主の臨在を中心とせねばなりません。 すべてのことはこの目的のための助けにはなりますが、活動のためにただ集まるだけでは、コイノニアにはなりません。
すべての霊的追求においては次の原則を忘れてはなりません。即ち、「神から約束を受けた場所と約束の地(約束の成就)との間には、必ずと言っていいほど荒野があり、それは約束されたものとは正反対のものである。」という原則です。この荒野は、私たちが約束の地に入る備えができるように意図されているのです。コイノニアを追い求め始めたとき、人間関係の問題があちこちで起り、コイノニアとは正反対のように思えても、動じないで下さい。それはあなたが確実に正しい道を歩いているというしるしなのですから。(終)
22 04月
鳩のような聖霊ーその2−
ビル・ジョンソン
福音のミニストリーとは、単に言葉だけでするものではなく、地上に主の臨在を解き放つことなのです。ある時イエスが道を歩いておられたとき、イエスのされた奇跡を見て興奮した群衆が回りに押し寄せてきました。するとイエスは立ち止まり「わたしにふれたのは誰か」と聞かれました。そして振り返って長血の女を見られました。病気を直すためにすべての財産を失った女でした。彼女はただイエスの衣のすそに触れただけでした。 聖霊の臨在は単なる論理とか教義ではなく、神というお方の実体なのです。聖霊はイエスの上にとどまっておられたので、女が衣のすそに触れたときに、イエスがもっておられた聖霊の実体が流れてきて彼女はそれを受けることが出来たのです。このように聖霊の臨在が自分の上にあることをはっきり自覚し、誰かがそれを求めた時にそれが流れていくことがわかるという敏感さをもって生きるとは、どのようなことでしょうか。神は御霊をイエスの上に無限に与えられていました。ですから誰かが持っていったのでイエスの上の聖霊の臨在がもうなくなった、ということではありません。イエスは常にご自分の上にある聖霊の臨在をはっきりと意識しておられました。イエスと御父との交わりを司るのが聖霊の役目だったからです。イエスは父のすることだけをし、話されることだけを話したのですから、聖霊につねに頼っておられたのです。
ペテロとヨハネは神殿に行くときに、生まれつき足のきかない男を見ました。ペテロは「私は金銀はないが、私にあるものをあげよう。」と言いました。これは非常に意味深い言葉です。ペテロは「あなたのために祈りましょう。」と言ったのではありません。「私はあなたに私が所有しているものをあげよう。」と言ったのです。私たちが、もし自分が所有しているものを自覚せずに生きるならば、神が下さっている銀行口座に見合った小切手を切ることはできません。わずかな金額の小切手というミニストリーをしてしまうのです。お金をことではありません。私たちは自分がどれほど大きなものを持っているかを自覚しないので、ミニストリーにおいて小さなリスクしかとれないのです。神の啓示が皆さんの上に注がれて、神が私たちにどれほど大きなものをすでに下さっているか、分与していてくださっているかを、もっと認識されることを願います。それによってすでに持っているものではなく、私たちにないもの、足らないものを祈り求めることができるようになります。
ペテロは「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って彼の右手を取って立たせました。何が起こったのでしょうか。イエスは神の御国はあなたがたのただ中にあると言われました。イエスは「わたしが話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。イエスは父の言われることだけを話されました。ですからイエスに端を発することばではないのです。ここで思い出していただきたいのですが、イエスはご自分を無にされたので、ご自分では何もできず、すべてを父から受けとらねばなりませんでした。人間イエスとしては何も与える力はなかったのです。主は私たちのためのモデルとなってくださったのです。
イエスは神のことばが肉体となった方であり、イエスが話されるときにはすべてのことばは霊となりました。ロマ書でパウロは、「神の国は飲み食いのことではなく、聖霊にある義と平和と喜び(righteousness , peace and joy in the Holy Spirit)である」と言っています。神の国は聖霊のうちにあるのです。ことばが霊になるとき、神の統治、支配の領域が人間の上に解き放たれるのです。父の言われていることを私たちが言う時に、私たちは神の臨在をこの世に解き放ち流しているのです。声が大きいとか内容がいいとかとは関係ありません。そのことばの源が鍵なのです。父の御心からのことばを私たちが話すときに、聖霊というお方が解き放たれます。聖霊の臨在の中には御国の統治、支配が含有されているのです。ですから「悔い改めなさい。神の御国が近づいた。」と主が言われるとき、主は「わたしが話すとき、そのことばが持つ実体があなたの上に解き放たれて、あなたの回りの環境が変えられ、あなたの祈りの答えは近づいた(at hand)」と言っておられるのです。
イエスに長血の女が触れたとき、力が主から出て女の身体を変えたのです。ペテロは自分の持っているものを知っていたので「私が持っているものを主イエスの名によってあなたにあげよう」と言ったのです。これは初代教会において非常に顕著なことであったので、民衆は弟子たちがどこに行くのかをいつも知ろうとしました。 ペテロが祈りに行く時に通る道に病人を連れてきて、ペテロの影がかかるようにしました。影そのものはなんの実体もないものです。影が癒したのではなく、影がかかるくらいにペテロのそばに近寄ることによって癒されたのです。民衆は教義を教えられなくても、神の人が歩くときには回りの環境、状況、空気が変るということを観察して知ったのです。
陰鬱なクリスチャンが部屋に入ってきても、その影で人が癒されることがないのを私たちは経験で知っています。それは落ち込んでいる人は自分の内側に向いているからです。内側を向いている人は死海になってしまうのです。水は死海に入ってきますが、死海から出て行くものは何もありません。そこにあるすべてのものは死んでしまいます。同じことが私たちにも起こるのです。自分の心配、失望、落胆等にずっと捕われ続け、聖書の真理や解決法を自分の人生に適用しないならば、自分のことだけしか考えない自己中心に陥るのです。あなたは自分を駄目な人間だと遜っているつもりかもしれませんが、自分のことだけを考えているという点で自己中心に変わりないのです。私は何時間も何時間も祈っていたことがありましたが、それはみんな自分のことを祈っていたのです。私は「神よ、私はなんと情けない人間なのでしょうか...」といつも告白していました。私は自分が~でない、ということに心を捕われていて、神がどういうお方であるかに心を向けていなかったのです。そのように自分に捕われていることは、自分がこの世で一番偉いのだと威張って歩く自己中心と実は同じなのです。一方の自己中心はすぐに目につきますが、もう一方は教会の中に知らないうちに毎日忍び込んでいるのです。偽りの遜りは決してあなたを目的地に導きはしません。私が恐れや心配とかで自分のことにだけ捕われている時、私は内に向かっていて、自分から放つべき聖霊の流れを止めているのです。聖霊の流れは愛によって流れ出るからです。
例えば、私が集会である人に預言のミニストリーするとします。私はその人に惹き付けられるような感覚を感じ始めます。それは神から出た愛情です。人間的なものではありません。もしその時私が自分の恐れや心配に心を捕われているとしたらどうでしょうか。私の中から神の臨在が流れ出して回りの環境を変えて行くべきであるのに、それはただ内側で自分を慰めるためにだけ使われてしまうのです。私は死海になってしまうのです。
イエスは3年半の間におびただしい数の人々を癒し解放されたので世界もそれを書かれた書物を入れることができないというのは、私たちには途方もないことのように思えます。イエスのインパクトはそれほどおびただしく、全部を詳細に記録することはできなかったのです。それは一人の人の中で3年半の間、聖霊が消されることがなかった結果なのです。神の臨在が一人の人の上に3年半とどまった結果なのです。
その事実の大切さをペテロはイエスから学び、彼も鳩のような聖霊を歓迎し自分の上にとどまっていただくようになったのです。クリスチャンの内には聖霊がいて下さり、決して離れないと約束してくださっています。しかしそれとは別に私たちの上にとどまる聖霊の臨在というものがあるのです。それは私たちがどれほど主と時間を過ごしているか、どれほど自分を召しのために明け渡しているかということによって決まるのです。ペテロやパウロがそのよい例です。
私は彼らに嫉妬をおぼえます。あなたはいかがでしょうか。このようなことが私にも可能であると知るとき、私の心はうめくのです。イエスは「わたしを信じる者は、わたしのわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」と言われました。それを聞いてあなたは「そんなことはあり得ない」と無視するか、それとも狂ったようにそれを求めるかのどちらかです。私は神に「どうかそのようにあなたの臨在を放ち流していく者にしてください」と気違いのように求めたいのです。(終)
10 04月
ボブ・ジョーンズ師の「シャロンのバラ」の預言
マイク・ビクル(2014年2月23日)
私がボブ・ジョーンズ師とはじめて会ったのは1983年で、今から30年前のことですが、私がカンサス市でまだ若い牧師だった時でした。その時ボブが私にした預言や話してくれたことは、当時の私にとってあまりに突拍子もないようなことで、全く理解ができませんでした。勿論、後になって彼の語ったことはすべて正確であり真理であったことがわかりました。
これは1983年にボブが話してくれたことですが、私はどう考えればよいのか全くわかりませんでした。彼は 「私は自分の死を見ました。自分の墓石を見ました。」と言いました。皆さん、自分の墓石を見るとは、どんな人なのでしょうね。(ジョーンズ師は2014年2月14日に亡くなりましたから)実際に死ぬ30年も前にそれを見たのです。
彼は続けて話しました。「墓石には『ボブ・ジョーンズ』と書いてありました。すると墓の中から美しい花が一つ咲き出てきました。非常に香りのよい美しい 花でした。そして主が『あなたの人生から美しいシャロンのバラが咲く』と言われたのです。」
皆さんは雅歌2:1にある「私はシャロンのバラ I am a rose of Sharon」という言葉をご存知だと思います。30年前私は雅歌についてあまり知識がありませんでしたが、このことは知っていました。そこで私は「ボブ、シャロンのバラというのはイエスのことですよね。」と言いますと、彼は「違います。あなたは間違っています。有名な歌の中に『イエスはシャロンのバラ』という歌詞があるのは私も知っていますが、それは間違いです。シャロンのバラと言うのは,キリストのからだの中で、 神の麗しさの香りが第一の戒めを通して溢れている姿なのです。」と答えました。
私は「本当に? 確かですか?」と半信半疑で聞くと、彼は「そうですよ。私はイエスご自身から直接聞いたんですから。」と答えました。私は「そうですか、私はあまり雅歌を知らないんですよ。そうなんですか。まあ、そういうことにしておきましょう。」という感じで会話を終らせました。
「主が再び来られるときの世代は、第一の戒めを回復させ、世界中のキリストのからだの中でそれは第一のこととなる。主は第一の戒めを第一のものとして確立される。」ということを、主はボブを通してはっきりと語られたのです。しかし、私は自分が死ぬ前に自分の墓石を見たり、シャロンのバラがそこから咲いたりという話はあまりピンと来なかったので、そのことはあまりその後考えないままでおりました。
それから5年後の1988年のある朝、私は教会のオフィスにおりました。そしてある結婚式のカードを読んでいたのですが、そこには雅歌8:6が書かれていました。カードには「私を封印のようにあなたの心臓の上につけてください。 set me as a seal upon your heart」とありました。その時、非常に尋常でないことが起りました。雅歌は当時そんなになじみがなかったのですが、何故か私はその時、その言葉を心の中で霊に動かされて祈ったのです。雅歌は愛の歌で、結婚の麗しさを歌っていますが、ご存知のように、それと同時に霊的な歌で、花婿なるイエスと花嫁なるキリストのからだとの愛の関係を歌っています。私が6節のことばを祈ったとき、神の御霊が非常に特別な形で私のうえに下り、私は泣き始めました。そんなことは私にはあまり起こらないことでした。 私は「イエス様、私の心の上の火の封印となってください。あなたを愛します.....」と言いながら泣いていました。2.3分経ちましたが、聖霊はまだ特別な形で私の上に下っていました。そこで私は内線電話で教会の受付に「非常に変ったことが私に起こったので、誰からの電話でもつながないでください。邪魔が入らないようにお願いします。」と頼みました。そんな願いをしたのは今までの40年間でその時だけです。
私は「イエス様、私の心をあなたの愛で封印してください...」と祈っていました。主への私の愛は、主から私へのギフトなのです。私たちが主を慕い求める願いは、主が私たちの心に入れくださったものなのです。すると電話が鳴ったのです! 「どんなことがあっても電話はつながないようにと言っておいたのに..」と思って、私の心は一瞬にして霊的な高みから肉的な思いになってしまいました。「信じられない! なんていうことだ!」という感じでした。霊と肉の間を 私たちは何と超スピードで移動することでしょう。私は電話を取って努めて優しく「なんですか?」というと、受付の人は「ボブ・ジョーンズ師からお電話なんですが、、彼はあなたへの神からのことばを耳ではっきり聞いたと言っておられます。ですから、あなたは多分お聞きになりたいと思ったのです。」と言いました。私は「勿論、勿論。ボブが神のことばを聞いたという電話ならいつでもつないでください。」と答えました。
私は床にひざまずいて雅歌8:6を見ながら泣いていたので、うまく声が出なかったのですが、「ハロー」と低い声で言いました。ボブは「たった今、神の声を耳ではっきり聞きました。主は雅歌8章6節を語ってくださいました。」と言うのです! 私は本当に驚きました! ボブは続けて「今私は1分しか時間がないのですが、主が今すぐあなたに電話をして伝えるようにと言われました。主は神の恵みを解き放ち、主が再び来られる日まで、雅歌8:6の油注ぎを世界中に与えます。キリストのからだ全体が 『Yes!』というほどの世界的な油注ぎ、恵みです。」と言うのです。
その時は60秒の会話でした。私は電話を切ってからも泣き続け、「主よ、どうか私にもそのようにしてください。」と祈りました。
2週間ほど経ってから、ボブと詳しく話すことができました。
彼は「この雅歌8:6こそが第一の戒めなのです。第一の戒めを実際に毎日生きるための油注ぎです。聖霊は第一の戒めを第一に回復させ確立する油注ぎを、世界中のキリストのからだに与えるのです。地球上の何百万人の人たち、人間的には弱く傷ついた人たちがこの油注ぎを求めるならば、主はそれを与えると言われているのです。」と説明してくれました。私はこの真理を知って大変興奮しました。皆さんもそうだと思いますが、私も神を愛したいと願います。しかし、神を愛するには神の力が必要なのです。それは私にもあなたにも出来ないことであり、神を愛そうと決心することは必要ではありますが、いくら決心したからといって出来ることではないのです。
ボブはこう言いました。「雅歌8:6の愛の炎、即ち第一の戒めのための油注ぎこそが、私が5年前の1983年にあなたに話した『シャロンのバラ』なのです。私の人生はその花が咲くようにキリストのからだを成長させることですが、花が咲くのは私が死んでからだということを私は知っています。しかし、私のミニストリーはそれを助けることであることを知っています。」
第一の戒めは、申命記6章にあるようにモーセが神から受けたもので、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」です。そしてマタイ22章でイエスは神がモーセに言われたことを引用していますが、主はそれに説明をつけ加えています。即ち「これがたいせつな第一の戒めです。This is the first and great commandment.」です。主は「first 」と「great」という形容詞を付け加えられたのです。それが意味するのは、この戒めが神にとって一番のプライオリティーであるということです。
人は私に「神は今何をしておられますか? 何を言っておられますか?」とよく聞いてきます。私は「神はいろんなことをされていますが、主が一番にしていることと最もしていることを私は知っていますよ。神は人々が第一の戒めを第一とするように働いておられるのです。」と答えるのです。
また、主はこの戒めは偉大であると言われました。私のところに若い人たちが来て、「私の召しを神様から受けたい!」というのです。私は「あなたの偉大な召しを知っていますよ。」というと、彼らは期待しながら「何ですか?」と聞きます。 「それは第一の戒めを守ることであり、それを生きるための油注ぎを受けることです。」と私は答えるのです。
ですから、私は神の恵みによりこの油注ぎが必ずくることを知っています。しかし今、ボブ・ジョーンズ師の死によって示されることがあるのです。彼はシャロンのバラが彼の死のあとに咲くのを見たのです。彼は、自分が40年間預言のミニストリーを通してしてきたことは、キリストのからだが神のこの召しに正しく応答するように私たちを強め養い育てることであったことを理解していました。
この油注ぎこそ、私が一番求めるものです。そして聖霊も人々にそのように召しておられると思います。もう一度言いますが、神を愛するためには 神の力が必要なのです。神からの力が私たちのうちで働くときに、私たちは神を愛することができるのです。
今60秒間、心を主に開いてみましょう。これは一回すれば主から油を注がれるというものではなく、少しずつ養っていくものです。
祈り
聖霊よ、来てください。あなたは私たちの心を火で封印してくださると言われました。御父よ、お願いいたします。人々のいのちの中にどんどんと燃える火をください。今、火で心に触れてください。夢や幻、御ことばの啓示で、第一の戒めを人々の心の中に強めてください。ミュージシャン、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師、すべての人がこの第一の戒めを守る油注ぎを受けることができますように。(終)
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